日本に於ける中國文化受容の一形態

〜文獻・文物・映像、その現状と未来〜

本ページは、大東文化大・北京外大交流協定締結二十周年記念文集(平成14年12月『外語教学与研究出版社』出版)からの転載である。


   始めに
   
1、文獻(『三國志』と『三國志演義』)
   
2、文物(官窯と地方窯)
   
3、映像(テレビドラマの流入)
   
終わりに

   始めに
 中國の學問や文化は、古くから人の往來・書籍や文物の舶來・映像の放映など、諸々の交流形式を通して我が國にもたらされており、それが日本文化の一斑を形成して來た事は、多言を要すまでもない。しかし、それらが我が國に受け入れられて一般化する場合、その内容や受け入れ側の知的レベルに應じて、種々の差違が生じ、學問的なものが必ずしも大衆化するとは限らず、逆に大衆的文化が必ずしも學問的レベルに昇華するとは限らない。そこに、所謂研究者と一般大衆との、中國的文化に對する認識乃至は嗜好のギャップが生じて來るのである。所が、そこに如何なる差違が存在しようとも、受け入れ側の個々に於いては、それは必ず中國文化乃至はその影響を受けたものとして認識され、中國的様相の一斑を表出しているのである。それを言下に「低俗だ」とか「學問でない」とか、或いは「私は嫌いだ」とか「趣味に過ぎない」とか言い、切り捨ててしまい相手にしない事は簡單な事である。しかし、社會の現状や昨今の高等學校教育現場に於ける漢文輕視の状況を勘案した時、果たしてその様な對應だけで良いのであろうか。
 また中國古典を標榜する大學に在って、必ずしも中國的知的興味だけに依據して入學して來る譯ではない學生に對し、本來はそうである可きであるが、初手から「大學は學問の場だ」と言う態度だけで對應出來るのであろうか。それどころか現實には、實際の社會的ニーズに應じて大學に於ける中國學のカリキュラム自體の改變を餘儀なくされ、奈良朝以來の傳統的中國學(漢文訓讀)と實社會が求める中國學(中國語)との狭間の中で、一體何が大學に於ける中國學なのかと、自問自答せざるを得ない状況に追い込まれている。
 今、中國學そのものの有り様が、就中中國古典學の有り様が、學生の中國的興味の多岐性から如何に學問的多様性へと昇華させて行く可きかと言う、一種の過渡期にさしかかっているように思えてならない。同時にこの事は、中國研究者として教壇に立つ教員に對して向けられた課題でもある。
 因って、過去の事例を分析しながら同時に將來的展望をも考えるべく、以下、その代表的具體例である文獻(『三國志』)・文物(陶磁器)・映像(テレビドラマ)の一端を取り上げ、その様相の概略を述べると共に、中國研究者としてその様な現状に對して如何に對應す可きかを考えてみたい。

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   1、文獻(『三國志』と『三國志演義』)
 先ず文獻に關する事例であるが、日本に於いて尤も知られている中國の文獻は、『論語』を除けば『三國志』であろう、否、一般大衆の世界に在っては、むしろ『三國志』の方が有名であると言える。しかし、この廣く知れ渡った『三國志』の世界とは、所謂西晉の陳壽が編纂した『三國志』の世界ではなく、明の羅貫中が著した『三國志演義』の世界なのである。無論『三國志』は、宇多天皇の寛平年間(889〜897)に藤原佐世が編した『日本國見在書目録』に記載されているが如く、既に平安朝時代には我が國に舶來されており、その内容が古くから知識人の間で知られていた事は明白な事実であるが、一般大衆の人口に三國時代の話や當時の人々の名が膾炙され出すのは、專ら江戸時代行以降であり、その知識は大半が『三國志演義』に依據したものであると言えよう。

 所で、現在我が國に於いて、『三國志』乃至は三國時代を專門に扱う歴史研究者が存在するのかと言えば、答えは否である。文學や思想研究者に在っては、建安文學をメインに扱う鈴木修次(『漢魏詩の研究』)や松本幸男(『魏晉詩壇の研究』)、漢魏晉の思想を中心とした加賀榮治(『中國古典解釋史』)や堀池信夫(『漢魏思想史研究』)が存在する。しかし、翻って歴史研究者を見回すと、政治史や制度史乃至は地方史や後漢末史・西晉史との絡みの中で考究することは有っても、『三國志』乃至は三國時代を主要研究對象とする研究者は皆無に等しい。今世紀つまり1900年以後今に至るまで、歴史研究の分野に於いて、三國或いは魏・呉・蜀、或いは該當時期の具體的人物名を冠したような著作や論文は二百點彊(この數が客観的に多いか少ないかは、軽々しく言うべきではないが、唯だ『三國志』と言うものの知名度の広さを考えた時、やはり些か少ないように思われる)を數えるに過ぎず、原典資料である『三國志』の翻譯(小南一郎・今鷹真・井波律子)は1989年に至ってやっと公刊され、また研究の基本的工具書たる三國時代の文・史・哲を中心にした論著目録でさえ、初出は1996年の『三國志研究要覧』(中林史朗・渡邉義浩編)と言うが如きである。
 だからと言って、三國時代に關する研究が決して低調な譯ではない。原典に關しては、『三國志』のみならず『後漢書』や『晉書』も、既に江戸時代には訓點を施した和刻本が版刊されており、關連資料である『華陽國志』や『後漢紀』も抄譯紹介されている。また政治・制度史の分野では、後漢末から六朝時代にかけて多數の論文が發表され、既にその成果としては、豪族共同體の指導者として清流豪族を設定する川勝義雄(『六朝貴族制社會の研究』)、獨自な社會像を描いて寄生官僚論を展開する矢野主税(『門閥社會成立史』)、後漢末に於けるオピニオンリーダーとしての名士層を措定する渡邉義浩(『後漢國家の支配と儒教』)、魏・呉の屯田制の實態を解明する藤家禮之介(『漢三國兩晉南朝の田制と税制』)、九品中正制度の具體的機能面を主張する中村圭爾(『六朝貴族制研究』)、江南豪族の様相を分析する大川富士夫(『六朝江南の豪族社會』)等の他に、『後漢政治史の研究』(狩野直禎)・『後漢時代の政治と社會』(東晉次)・『魏晉南朝の貴族制』(越智重明)・『六朝史研究』(宮川尚志)等が公刊され、更に具體的には、曹操政權の性格を分析する好並隆司や、曹爽政權を司馬氏との關連で名望家政權と考える葭森健介、蜀漢政權の流寓政權としての軍事政權性を重視する中林史朗、初期蜀漢政權に於ける東州兵の出自や君臣關係の任侠的結合を論じる福井重雅、孫呉政權の山越問題を論じる關尾史郎、軍事制度や軍府の分析を通して孫呉政權に新たな視點を提示する石井仁など、個々の問題に關してはそれぞれに活發な論議が展開されてはいるが、この研究者間に於ける學門的成果が、一般大衆の「三國志的世界」の理解に十分に反映されているとは、必ずしも言える現状ではないのである。
 この様な状況の中で、比較的出版され易い傾向に在るのが、該當時期の人物を對象とした評傳的研究であるが、これとても特定人物に集中すると言う、極めて特殊な傾向を示している。その對象が誰かと言えば、言うまでも無く諸葛亮である。しかも江戸時代の文政十年(1827)に版行された浅田寛(『諸葛孔明傳』)は別として、明治以後の書き手の中心は、内藤湖南(『諸葛武侯』)を初めとして、宮川尚志(『諸葛孔明』)・植村清二(『諸葛孔明』)・狩野直禎(『諸葛孔明』)、更に新しくは、諸葛亮の遺言・遺文を讀解した中林史朗(『諸葛孔明語録』)や、諸葛亮像の變遷を通じてその虚像と實像を分析した渡邉義浩(『諸葛亮、孔明』)に至るまで、中國史専攻者で占められている。では諸葛亮以外の人物評傳は有るのかと言えば、かろうじて建安詩壇の中心人物たる曹操に關して、中國文學専攻者である竹田晃(『曹操』)・川合康三(『曹操』)などがいる程度で、中國史専攻者に因る本格的評傳研究は、『三國志』が舶來されてより千年以上を經過した今世紀末の本年一月に出版された、石井仁の『曹操』が嚆矢なのである。
 歴史部門に於けるこの様な研究状況とは裏腹に、一般大衆社會に在って『三國志』の名は廣く浸透し、書籍としての知名度は抜羣で、大概の書店で所謂「三國志もの」と稱する書籍が必ずと言って良い程竝べられ、時には「三國志フエアー」なるものまで開かれ、社會現象的には過去に數度に渉る「三國志ブーム」を惹起すると言う具合であるが、その大半は『三國志演義』の世界に依據したものであり、その廣がりに更に拍車をかけたのが、漫畫の『三國志』(横山光輝)であり、ゲームソフトの『三國志』であり、NHKで放送された人形劇『三國志』であり、衛星放送で放映された中國中央電視臺制作の『三國志』である。この様に『三國志演義』に依據した「三國志的世界」は、書籍の力のみならずマスメデイアの力と相俟って、その名は老若男女誰一人知らない者はいない、と言う状況を呈しているのである。
 では、文學部門に於ける活發な『三國志演義』の研究が、現在の如き廣汎な「三國志的世界」を惹起させたのかと言えば、例えそれが『三國志演義』に依據したものであったにしても、答えは明らかに異なるのである。そこで先ず具體的な研究状況を見ると、最近でこそ研究自體は文學専攻者間で活發に行われているが、全體的に見れば發表された著作や論文數は、歴史部門よりも少なくこの百年の中で百點彊を數える過ぎない。しかもその大半は、版本乃至は登場人物論に關わる研究が中心で、著作を公刊した代表的研究者も金文京(『三國志演義の世界』)・井波律子(『三國志演義』)・井上泰山等(『花関索傳の研究』)・中川諭(『三國志演義版本の研究』)等を數えるに過ぎないのである。
 所が、この様な研究状況に比べて原典の翻譯状況は如何と言えば、これは明らかに歴史部門の『三國志』と異なり、既に江戸時代から翻譯され出しており、その名が廣く知れ渡っていたことは、江戸後期に洒落本『讃極史』が作られていることからも、十分に推測される。我が國に於ける『三國志演義』翻譯の嚆矢たるものが、江戸時代の元禄二〜五年(1689〜1692)に版行された、明末の『李卓吾先生批評三國志』に依據(尚、中國では清初に毛氏が改編した毛宗崗批評本が、略市場を獨占している)したと言われている湖南文山の『通俗三國志』であり、以後代表的なものを列擧すれば、永井コ麟(『通俗演義三國志』)・弓館芳夫(『三國志』)・伊藤銀月(『三國志物語』)・三浦理(『通俗三國志』)・明治の文豪幸田露伴(『通俗三國志』)・ 早稲田大學出版部(『三國志』)・岡本成二(『新訳三國志』)・柴田天馬(『定本三國志』)・村上知行(『完訳三國志』)・蘆田孝昭(『物語三國志』)・小川環樹等(『三國志』)・丹波隼兵等(『三國志』)・立間祥介(『三國志演義』)へと連なって行く。一般大衆は、これらの歴代の翻譯書を通して所謂「三國志的世界」を理解し、中國的世界に浸って行くのであるが、實際はこれらよりも更に影響を與えたと思われる書籍が存在する。
 ここに提示した十四篇の翻譯書は、比較的原典の『三國志演義』に忠實な譯書であるが、これらと異なり作家に因って翻譯されたものが有る。これは譯者である作家の感性や文才が色濃く反映し、更に作家自身の脚色を加えた獨特な世界を構築しているため、所謂翻譯書とは一線を畫するが、それが吉川英治の『三國志』(『通俗三國志』を種本にしたと言われている)所謂「吉川三國志」であり、新しくは北方謙三の『三國志』所謂「北方三國志」である。恐らく尤も大衆に讀み親しまれ絶大な影響を與えたのが、この「吉川三國志」であろうと判斷される。
 敢て誤解を恐れずに言えば、一般大衆の「三國志的世界」を形成させたものは、決して學問レベルでの『三國志』乃至は『三國志演義』研究の成果ではなく、年齢層に因って個々に影響度の差違が認められるものの、今世紀に就いて概略を見るに、先ず「吉川三國志」から漫畫『三國志』へ、次いで人形劇『三國志』からゲーム『三國志』への流れであると言えよう。更に言えば、専門家が公刊する書籍に在っても、往々にして『三國志演義』のことを『三國志』と表記するが、これも一般大衆社會に於ける『三國志』と『三國志演義』との混同に、拍車をかける一要因となっているのである。

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   2、文物(官窯と地方窯)
 次ぎに文物に關する事例であるが、古來中國からは書・畫・陶磁器など種々の文物が舶來されている。その中で、專門的能力と非日常的と言う點から、一部の人々にはもてはやされても大衆化までには至らなかったのが畫であり、手習いとして尤も大衆化し、我が國の學校教育の場にまで浸透したのが書(現在の書道人口の多さを見れば、一目瞭然である)である。また所謂大衆化とは異なるものの、我が國の地方産業に大きく影響を與えたものが陶磁器であり、中國の青花磁器を模倣した有田(伊万里)磁器や、五彩の影響が窺える九谷や、朝鮮半島を經由しての薩摩青磁や、宜興の茶器と類似する常滑焼きなど、その作風・釉調の類例は容易に列擧する事が出來る。だが、この産業化と言うこと自體が、陶磁器世界を構成する最大公約數は日用雜器に他ならず、所謂美術工藝品に屬するものは、單にその一部分に過ぎない事を端的に示している。同時に、我が國がその美術工藝品なるものを如何に受け入れたのか、つまり産業化とは別に中國陶磁器の受容形態自體を見た時、そこには極めて日本的文化趣味が色濃く反映された嗜好が見受けられるのである。

 元來陶磁器は實用品である。今世紀に入り一躍脚光を浴びた唐三彩にしても、基本的には墓の副葬品たる明器が中心である。その陶磁器が、所謂美術工藝品的要素を持ち出すのは、銀器の代用品としての白磁、青銅器の代用品としての青磁が焼かれ出す宋代に入ってからである。銀器・青銅器の代用品と言う事になれば、基本的に一般大衆とは無縁の代物で、それを必要とするのは当然國家レベルの事となり、ここに國家の管理下で特別なものを焼き上げる官窯が出現する事になる。河南省寶豊県清涼寺窯跡の發見に因り、形式・釉調の洗練された美しさから北宋官窯であろうと措定されているのが汝官窯であり、文獻や窯跡・陶片の發見からほぼ決定付けられたのが、南宋郊壇官窯である。以後元代の官窯は今一つ明確ではないが、明・清の官窯作品は、高臺内に「大明宣徳年製」とか「大清乾隆年製」とかの銘を入れるのが通例となっている。
 では、これらの官窯作品が如何に我が國に受け入れられたかであるが、現在我が國に於ける量的な面で、中國陶磁器の收藏機關として名を馳せている代表的な所は、東京國立博物館・大阪府立東洋陶磁美術館・出光美術館・松岡美術館・根津美術館・靜嘉堂文庫美術館・白鶴美術館等である。この内例えば明・清陶磁を中心とする松岡美術館の如く、企業(個人)美術館は創立者乃至は經營者の嗜好が、その收藏傾向にわりと反映され易い。一方、公立美術館は、特定の地域や時代を限定してそれを冠しない限りは、予算の關係も有るであろうが基本的には古代から近代までがその守備範囲である。そこで、ナショナルミュージアムである東京國立博物館の收藏内容を見てみると、その陶磁器數は古代から清朝までの二千數百點に及ぶ。しかし、その約半數近くが個人コレクターからの寄贈品に因って構成されている。則ち、約九百點にも及ぶ戰前の横河民輔氏寄贈品、及び戰後の三百點近い広田松繁氏寄贈品である。この傾向は、大阪府立東洋陶磁美術館もほぼ同様で、安宅コレクションを中心に入江正信氏寄贈品等で構成されている。
 今、これらの收藏品を一見すると、ある特徴に氣づかされる。それは、全體の総數に比して所謂官窯作品なるものが、概して少ないのである。例えば、南宋官窯作品の場合、東京國立博物館の青磁輪花鉢(横河民輔氏寄贈)・青磁j形瓶(広田松繁氏寄贈)・青磁盤(武吉道一氏寄贈)、出光美術館の青磁下蕪瓶(鹿島家傳來)、梅澤記念館の青磁砧形瓶、MOA美術館の青磁壺、靜嘉堂文庫美術館の青磁耳付三足香爐など、公的・私的を問わず國内に收藏されている南宋官窯の総數は、恐らく二十點前後であろうと推測される。この數は、我が國に現存する所謂宋代青磁(耀州窯・龍泉窯・越窯など)の數に比べて、誠に寥々たるものである。 同様に、東京國立博物館所藏の明・清官窯作品の大半も、横河・広田兩氏の寄贈品で占められている。更に言えば南宋官窯青磁の大半が近年集められたものであり、寄贈者自身も今世紀の人々である。このことは、日本各地の遺跡から唐三彩や青磁・白磁の遺物・陶片が發見される事例が示すが如く、中國陶磁器の舶來に長い歴史を持ちながらも、意識的に中國陶磁器を蒐集する所謂コレクターなるものの出現以前、つまり明治以前に在っては、官窯作品の流入が極めて寡少であったこと、則ち貿易商品には基本的に官窯陶磁器が含まれなかったことを、暗々裏に示唆している。
 では、明治以前に在って如何なるものが舶來されていたのかと言えば、それは民窯作品であり、その最たるものが浙江省龍泉窯の青磁・福建省建窯の天目茶碗・江西省景コ鎭の青花磁器である。これらの民窯作品は、その大半が日本の茶の湯の文化と結びつき、當時の趣味人にいたく珍重されている。我が國現存の龍泉窯青磁を一見するに、無論天龍寺青磁と俗稱される元代の大型青磁も舶來されてはいるが、その優品は、平重盛から足利義政に傳わったとされる馬蝗絆銘の輪花碗(東京國立博物館藏、重文指定)にしろ、後西天皇が「萬聲」と命名されたと傳える鳳凰耳瓶(和泉市久保惣記念美術館藏、國寶指定)にしろ、コ川將軍家から堀田家に傳わった筍花瓶・東山御物から大内家に傳わった筒花瓶(共に根津美術館藏、重文指定)にしろ、どちらかと言えば茶席に於いて使用される器物が多い。また茶人珠光が愛用して一躍有名になった珠光青磁などは、所謂宋代青磁の中に在って、三流に屬する福建省南部の同安窯で作られた雜器に過ぎない。
 このことは天目茶碗にも言えることであり、喫茶の流行と共に南北朝時代から室町時代にかけて、黒釉系茶碗に對する關心が高まった事は、室町後期の『君臺觀左右帳記』中に「建盞」「曜變」「油滴」「烏盞」「天目」「鼈盞」「灰被」等の項目が有る事からも明白で、事實コ川將軍家から稲葉家に傳わったとされる靜嘉堂文庫美術館藏の曜變天目は、昭和二十六年に國寶指定を受けてはいるが、それは黒色中に於ける青色斑文の美しさと絶對的な量的寡少性とに依據した結果論でしかなく、いみじくも「曜變」の名が示すが如く「窯變」ものであり、本來的にそれを意圖して製作されたものではなく、黒釉茶碗としては失敗作であると言えよう。本來黒釉茶碗は、茶の湯の美しさを映えさせるための茶碗であれば、顔が映る程の真っ黒な茶碗こそ最上級であるはずである。臺灣の故宮博物院には烏黒釉と稱する朝顔口の黒茶碗が所藏されている。更に1935年のプラマーの發掘例及びその後の調査から、北宋晩期に製作され宮廷專用品として皇室に提供されたであろう、と言われている天目茶碗には、高臺内に「供御」「進盞」などの銘が有ったことが知られている。しかし、日本の天目茶碗は南宋時代のものが中心で、在銘の供御天目が舶來された形跡は見當たらない。南宋の程大昌が「按ずるに今御前の賜茶には、皆建盞を用ひず」(『演繁露』巻十一銅葉盞)と記すが如く、「曜變」は中國の宮廷で天目茶碗を必要としなくなった時期のものであったが故に、日本に舶來されたとも言えるのであり、日本の茶の湯の世界でこそ珍重されるが、建窯天目にしろ河南天目にしろ當時の黒釉系茶碗は、基本的に日用雜器であったと言えるのである。
 一方青花磁器は、中國に於ける青花ものの定着とその生産量の増加とに伴い、多種多様な器物が舶來されているが、特に日本人が好んだものは、茶の湯の水差しや菓子鉢に使用出來る形態のもの、呉須手と俗稱される福建省最南部のショウ州窯で焼かれた赤絵もの、及び明末の「祥瑞」とか「古染」とか俗稱される景コ鎭民窯の小型の青花磁器である。特に「古染」は、その大半が「ほつ」や「ひっつき」や「釉剥」が認められる不良品であるが、お茶の世界ではそこに獨自な価値を與え、逆にそれを「虫喰い」と稱して重寶がっている。しかし、陶磁器自體の商品レベルとしては、明白な失敗作であると言っても過言ではない。
 この様に過去に於ける我が國の中國陶磁器の受容は、茶の湯の文化と密接な關係を持つ茶陶としての要素が極めて強い。黒色を基調とした天目茶碗の嗜好は、黒樂茶碗を好んだ千利休の「わび」「さび」の文化と關わりを持つであろうし、青花磁器に於ける「虫喰い」の嗜好は、明らかに「見立て」乃至は「景色」の文化である。この「わび」や「さび」や「見立て」や「景色」の文化が、傳統的な日本文化の一斑を形成し、獨自な美的世界を構築している事は、それなりに価値有る事ではあるが、敢て誤解を恐れずに言えば、所詮それは數寄者的美意識の世界である。
 この様な意味に於いて、粉彩を中心とする清朝彩色官窯磁器はあまり舶來されず、我が國に現存する清朝官窯の大半が今世紀以後に蒐集されたものである。特にその中でも、寡聞にして我が國での所藏を聞き及ばないものが壁瓶である。これは本來筒形である瓶を中心線で半分に裁ち切って左右對象のものを作り、一對の瓶として壁に掛けるものである。この様な形の器物は、その家屋形態に大きく影響され、障子と襖を基調とする日本家屋には不向きであった事が、舶來されなかった原因の一つであろうと推測される。また清朝官窯は初期三代(康煕・雍正・乾隆)で終わり、その後は單に模倣に過ぎないとの評價に因り、今まであまり顧みられなかった清朝中・晩期の官窯作品に對し、漸く最近我が國でもその蒐集の必要性が言われ出す様になって來ている。
 特殊な世界で獨自なカテゴリーを構築して評價することは、その評價がそのもの自體、この場合は陶磁器自體の美的評價と一致していれば何ら問題は無いが、それが特殊な世界でのみ通用する獨自な評價であるならば、結果として陶磁器自體の美的評價としては普遍性を持ち得なくなる。我が國に舶來された中國陶磁器を、日本的文化の視點から、日本的價値基準で論議するのは、一向に問題は無いが、中國陶磁器研究者を標榜して、純粋に中國陶磁としての位置づけ自體を措定しようとするならば、やはり世界市場に通用する普遍的評價基準で論議する必要性が有ると言えよう。

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   3、映像(テレビドラマの流入)
 この十年に於ける映像或いは情報メデイアの發達は、コンピュータ・衛星放送・ケーブルテレビなど、目まぐるしいまでの多様な展開を示し、それに伴い中國語圏の情報特に娯樂情報が、數年乃至は數ヶ月のタイムラグで、日本でも視ることが可能となった。今これらの映像或いは情報メデイアを通じて中國に興味を持ち、そこで入手した知識を元に大學の中國學に進學すると言う學生が、現實に登場し出して來ている。無論昔から中國・香港・臺灣映畫は、單發的に日本の劇場で上映され、更には時たまテレビの深夜放送などで放映され、人々の興味を誘ってはいたが、それがより日常的となるきっかけの一つを爲したのが、日本に於ける香港タレントのコンサートや、その彼らが出演する古装片ドラマ(鄭少秋・周潤發・劉コ華・梁朝偉・張國榮・張學友・郭富城・劉嘉玲・温兆倫・鄭伊健・甄子丹等が出演)の放映であろうと思われる。その大衆的人氣の高まりは、インターネットのウエッブ上に彼らに關わるサイトが五百弱も作られ、日々増加傾向に在る現状からも十分に窺われる。この古装片の原作となっているのが、清末以來の大衆小説である所謂武侠小説なのである。

 現在スカイパーヘエクトTVの「大富」を通じて、中國中央電視臺の放送をリアルタイムで視る事が出來、同様に「樂樂チャイナ」を通じて中國・香港・臺灣地区の各種娯樂作品を視る事が出來るし、更には中華系ビデオ屋を通じて中國語系(廣東語・臺灣語を含む)のエンターテーメントを視る事も出來る(既に本年春節から放映された新作の映画「決戦紫禁之巓」や、テレビドラマ「笑傲江湖」「包公出巡」「迷侠」等が、レンタルされている)ようになっているが、この武侠小説の映像化と言う問題の中で、特筆すべき存在が金庸である。中國研究者であれ一般大衆であれ、今まで殆ど日本で知られる事無く、論議の對象にさえ登らなかった武侠小説と言うものが、一躍脚光を浴び出して来たのは近々五年以内の事で、研究者よりもむしろ一般大衆に受け入れられ、深く認知され出して來ているが、その中心に位置するのが、新聞記者出身で香港文化界の重鎮となっている金庸である。
 武侠小説とは、日本で謂う所の時代劇小説であり、その作家數は、1950年以降でさえ中國・香港・臺灣を合わせるとゆうに百五十人を越え、それを題材とした漫畫家も二十人を越えるが、その作品内容及び人氣の高さでトップレベルに位置するのが、御三家と稱される香港の梁羽生(現在も活動中)・臺灣の古龍(十六年前に死去)・香港の金庸(既に斷筆)である。彼らの作品は繰り返し映像化されているが、その中でも特に際だっているのが金庸で、映畫・テレビを合わせると七十回近くにもなる。無論古装片全體となれば、1950年以降だけで映畫・テレビ共に各々百五十本以上の作品が制作されていると推測される。これらの作品が諸々のメデイアを通じて、日本國内で放映されており、その浸透に拍車をかけたのが、1996年から岡崎由美監修で公刊され出したコ間書店の「金庸武侠小説集」(現在既に『書劍恩仇録』『碧血劍』『侠客行』『笑傲江湖』『雪山飛狐』『射G英雄傳』『連城訣』『神G侠侶』の八種類が刊行)であり、學習研究社(『歡樂英雄』)や小學館(『楚留香・蝙蝠傳奇』『陸小鳳傳奇』『邊城浪子』)やエニックス社(『聖白虎傳』)から公刊された一連の古龍作品である。これらの翻譯作品群に因って、日本人は日本語で武侠小説に浸り愛讀することが可能となったが、この様な武侠人氣に軌を合わせるが如く、本年初頭には、金庸原作の『射G英雄傳』に依據した黄日華主演の1983年版香港テレビドラマ、『鐵血丹心』『東邪西毒』『華山論劍』の三部作が、「樂樂チャイナ」よりリバイバル連續放映されている。
 この様に映像を通して入手された中國的知識或いは話題と言うものは、特に若年層を中心に現代のコンピュータ社會を反映して、話題や嗜好の共有を目指して一氣に擴大して行く。その最たる例が、昨年に中國・香港・臺灣を卷き込んで社會現象化を起こし、最近では日本にまでその餘波が及びそうな傾向を示している「格格ブーム」である。「格格」とは、北京電影學院の現役學生であった趙薇(飾小燕子第十七回金鷹賞の最優秀主演女優賞を受賞)と言う女性タレントを使用して臺灣で製作された、瓊瑤作品の古装片テレビドラマ『還珠格格』(孫樹培の導演で林心如・趙薇等の主演)の題名の一部である。この作品は、ドラマとして特に内容的に優れていると言う譯ではなく、乾隆帝の江南行幸時期の御落胤である女の子が、母の死後父である乾隆帝を尋ねてはるばる北京まで上京し、苦難の末に目出度く再會出來ると言う話で、そこに女盗賊の趙薇が絡み、ドタバタの事件が起きると言うストーリーで、一種の「父戀しもの」の單純な娯樂作品であるが、女盗賊の趙薇が間違われて「公主」にされる點などは、「チャイニーズサクセスストーリー」的要素が無い譯でもない。この作品が放映されるや否や、中國・香港・臺灣を卷き込んだ一大「格格ブーム」が起こり、格格グッズは言うに及ばず、中國では「子供が格格を見るために勉彊しなくなるから、放送を中止してほしい」との投書が保護者から放送局に寄せられ、出演者の一人が廣州で交通事故死すると、新聞が一面トップで報じてその死を悲しむと言う具合に、ある種の社會現象化を惹起させているのである。
 1992年の鞏俐主演映畫「畫魂」に於いて、僅か十六歳で銀幕デビューして以後、「東宮西宮」や「女兒谷」等に出演しながら、基本的には學校で演技の勉學に励んでいた趙薇は、この作品で主役(話の筋からすれば、彼女の役は脇役であり、本来の主役は林心如のはずであるが、ストーリー展開に乗じて何時の間にか彼女が主役に躍り出た、所謂脇が主を喰ったと言う現象である)を演じた事に因り一躍トップアイドルに躍り出、テレビ・映畫・音楽・コマーシャルにとあらゆる分野である種のブレイク現象(既に日本でも熱烈な趙薇迷に因る趙薇のためのホームページサイトが立ち上げられている)を呈し、中國では趙薇のためのドラマ(人気男優呉奇隆との共演に因る武侠ドラマ「侠女闖天關」の放映)や映畫(本年の春節公開用劇場作品として作られたのが、香港のトップスター劉コ華との共演に因る古装片「決戦紫禁之巓」である)を作ろうと言う動きが現れ始めている。無論今までにも中國には、鞏俐を始めとして有名女優は數多くいたが、その本人の爲の作品を制作しようとする動きは、趙薇が初めてである。この事は、中國に於いて初めて本格的に通用する商品価値を伴ったアイドルスター或いはアイドルタレントが登場したと言う事であり、その様な意味に於いて、『還珠格格』は重要な作品なのであり、聞く所に因ると昨年の正編・續編に續き、今更にその人気を利用して柳の下の泥鰌を狙うべく、同じく瓊瑤の作品である『情深深 雨濛濛』(舊題は確か『新煙雨濛濛』と発表)を、これまた略同メンバーの趙薇・林心如・蘇有朋等を使い撮影の準備が進められているようである。同時に、この様な中國語圏に於ける現象は、瞬く間にインターネットを通じて日本にももたらされ、更に亦た日本での話題が瞬時に向こうのサイトで紹介されると言う具合に、双方向の關係で中國的話題の共有部分がボーダレスに擴大する傾向を示している。
 外國のテレビドラマが日本で放映される場合、過去の事例(西部劇から現代劇へ)から判斷すれば、先ずオールドコスチュームつまり時代劇ものから流入し、次いでトレンデイードラマ則ち現代劇がやって來る。これは文化が異なった外國のものを理解する上で、時代劇の方が話が單純でメリハリが有り、セリフ回しもやや定型的でゆっくりしており、早わかりし易いためである。とすれば、今後日本で放映されそうな感じがするのが、一昨年下半期から中國で放送され、長篇電視連続劇部門で第十七回「金鷹賞(視聽者投票)」(尚、この賞は同時に古装劇の『還珠格格』と、胡バイの導演で唐國強・李潁等が主演した『雍正王朝』も獲得しており、既にこの二本は昨年末より日本でレンタル放映されている)と、「飛天賞(政府批評)」とをダブル受賞した、北京廣播學院出身の若手女性監督楊陽(日常の中に潜む社会的問題を、庶民の目線でヒューマンに描く事を、わりと得意とする監督の様である)の導演で上海東方電視臺が制作した、呉若甫・蒋ブン(雨+文)麗等主演の『牽手(その手を引いて)』である。この作品は、一度離婚した夫婦が諸々の困難を乘り越え、再び一緒になり幸せになると言う話で、本年一月から臺灣でも放送されているが、この事は中國制作トレンデイードラマの臺灣放映第一號と言う記念すべき事態である。要するに、政治体制は異なっていても現代社会に於ける生活文化的現象面乃至は社会文化的価値観が、大陸と臺灣とでリアルタイムの等価現象を示し出した、と言う事を端的に意味しており、既にこの情報もネットや雑誌を通じて日本に傳わっている。
 この様に現在では、中國系映畫にしろテレビドラマにしろ或いはポップスにしろ、放送メデイアやインターネットを通じて、その映像や情報が陸續として日本に流入している。同時に、これらを受容する人々の量的底邊は、若年層を中心に年々擴大しており、現實にこれらの映像から中國に興味を持った若者が、大學に入學し出して來ているが、それに對應する中國學専攻の教員サイドに在っては、逆に極一部の數寄者的教員を除いては、殆どこれらの情報や知識を持ち合わせていない、と言うのが現状である。

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   終わりに
 以上、文獻(三國志)・文物(陶磁器)・映像(テレビドラマ)の三點に關して、それぞれ代表的な具體的事例を擧げて、日本に於けるその現状を概觀して來たが、そこから提出された問題は、

(一)文獻部門に在っては、廣く行き渡っている大衆的知識と、專門家的知識との間には、レベル上    の問題ではなく、内容的な乖離が認められる點。
(二)文物部門に在っては、文物自體の世界的廣がりが、既に傳統的な日本文化に依據した判斷基   準だけでは、普遍性を持ち得ず對應が困難になって來ている點。
(三)映像部門に在っては、その若年層に對する浸透度とは裏腹に、それに對應する教員サイドがそ   れらの知識や情報を持ち得ていない點。
等々である。
 では、假にこれらの問題が現實の課題として存在するとしたならば、我々中國古典學専攻者は今後如何に對應すべきであろうか。(一)の知識の乖離の問題に關しては、より正しい知識に依據した積極的な大衆への啓蒙活動が必要であろう。(二)の普遍性の問題に關しては、中國學専攻者自身が、特定のカテゴリーの評價にとらわれる事無く、世界市場で通用する普遍的判斷基準を身につけるべく努力する事であろう。(三)の知識の欠落に關しては、それこそある種の危機感を抱かせるが、それは教員サイドの専門性と年齢的な意味での現代中国社会文化に対する無頓着性とに因るものであり、一種のゼネレイションギャップであるとも言える。このギャップを縮小させる爲には、教員自身が己の專門をより深化させると同時に、學生が示す多種多様な話題を共有出來るレベル程度の知識や情報を、早急に獲得する手段や方法を考え、それを可能な限り實行する事であろう。
 曾て中國の文獻を理解する手段の一つである訓讀技術の修得方法に就いて、「多讀と精讀の竝立が重要である」と言われたものであるが、これは、己の専門分野の文獻をじっくりと精確に讀み深めて行く(精讀)と同時に、ありとあらゆる中國の文獻を讀み飛ばす(多讀)事に因り、幅廣い中國の多様な知識を修得せんがためであった。しかし、學門の發展とその質的内容の專門化に伴い、より細分化され且つより深化された專門性が追求され、その爲には己が專門とする特定分野以外に就いては、例え同じ中國を對象にしていても、各々の專門家に任せれば良いと言う傾向が將來されていた。研究職と言う點から言えばそれは將に正統な方向性であり、研究者たる者はかく在らねばならないが、同時に教育職をも兼ねる立場から見れば、果たしてそれだけで十分であろうか。
 今再び中國に關しては、嘗てと同じ事が求められている様に思えてならない。多種多様な知識と情報を持ち、尚且つそのレベルが必ずしも一定でない多數の學生に、ほぼ同時並行的に對應せざるを得ない現状に在っては、己の專門を深化させる事は言うまでも無く、同時にあらゆる機會を見つけて中國に關する雜多な知識を修得する努力が、要求されて來ているのではなかろうか。つまり、二十一世紀に向けての中國學は、教員サイドに於いて、その學門を講じる對象の構造的且つ質的變化に適應すべく、中國學自體に對する「多讀と精讀」が再び要求される時代に突入したのではないのか、との危惧が生じて來るのを禁じ得ないのである。

      平成十二年五月末日                           識於黄虎洞 

*尚、本原稿は、2000年5月1日に北京外國語大學に於いて擧行された、「北外・大東交流協定締結二十周年記念シンポジウム」での口頭發表原稿に、加筆修正を加えたものである。

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