江戸人の書
日本に於ける漢文学の歴史を一瞥した時、詩文や経書解釈などの量的多さに圧倒されるのが、江戸時代である。 儒者と称する人々の活躍には、目を見張らせられるが、彼等は同時に多芸であり、書も実に善くこなしている。その活動の一端を窺い知るべき資料の一班として、彼等の遺墨を集め出し、ようやく二百点ほど集まった。
今、これらの書を一同に展示して眺めると、隷書・楷書・行書・草書有り、漢詩・和歌・尺牘有りと言う具合で、多種多様な文字と文章が自由に紙上を飛び回り、見る者をして心を和ませるのである。
無論今の芸術書道の如き、格調高い立派な書などは無いが、誠に自由闊達である。字の上手い下手は関係無い。なぜなら、彼等は書き表す文字自体には殆ど拘泥せず、書き連ねる言葉に意を払っているのである。換言すれば、言葉が作品であって、それを表現する文字は単なる手段に過ぎないのである。己の言葉を、己の心情を、ほぼ即興で書く達意の字であると言えよう。この即興にして達意の字と言う点が、実に面白いのである。
儒者であれ、国学者であれ、文人であれ、自由に自作の漢詩や和歌を筆に載せて書き付ける、と言う教養の深さには、ただただ脱帽である。
筆が自由に扱える人を羨ましく感じると同時に、一応漢学の世界に身を置きながらも、漢詩どころか対句さえも自由に作れない己の教養の無さに、打ちのめされている。しかし、最近では、打ちのめされる快感に身を捩る己の存在に気づきはじめ、この快感を持続すべく、せっせと遺墨集めに邁進する今日この頃である。
平成十七年六月 於黄虎洞
トップへ
|