後漢末に於ける益州人士の動向と蜀漢政権の對應

本ページは、新人物往来社編集部の許可を得て、『歴史読本スペシャル』46号、(平成6年4月出版)から転載するものである。


   1、蜀土の特殊性
   
2、劉焉・劉璋時代
   
3、蜀漢政権時代
   
4、諸葛亮没後の蜀漢政権
     
終わりに

 

       1、蜀土の特殊性
 蜀漢政権内部に於ける益州土着人士と荊州人士との抗争は、政権内の主要ポストを巡る権力闘争と言うような、単純に図式化されるものではない。後漢末から劉備の入蜀までの間に於ける益州人士の動向も、外部勢力を利用して己の権益を拡大しようとする豪族や、それと対抗する人士及び政争から離れて保守的な態度を示す人士など多様であり、それらが劉備入蜀に対する対応にも影響を与え、更に言えば、蜀漢政権成立から崩壊に至る間の政権自体の変質に伴う、政権サイドからの益州土着人士に対するアプローチの変化などが微妙に絡み合うと言う状況を示している。無論総体的には狩野直禎氏の「蜀漢国前史」(東方学十六)・「蜀漢政権の構造」(史林四二ー四)や渡邉義浩氏の「蜀漢政権の成立と荊州人士」(東洋史論六)・「蜀漢政権の支配と益州人士」(史境十八)の分析に示される如く荊州人士の主導に因って蜀漢政権は運営され、益州人士は州郡の属官に甘んじねばならぬ状況ーこれとやや異なる意見を提示するのが榊原文彦氏の「蜀漢政権と豪族」(鎌田博士還暦記念歴史学論集)ーに在ったのであるが、細部に亘って見ると、益州人士の中にあっても彼等の繋りは一枚岩ではなく、彼等の出身基盤つまり既得権益を持つ豪族層出身なのか、寒門貧素の出身なのか或は知識人・学者層の出身なのかに因って、各々蜀漢政権に対する対応が微妙に異なり、一方荊州人士にあっても、劉備入蜀以前から流入していた旧荊州人士なのか、それとも劉備と共に入蜀した新荊州人士なのかに因って政権へのアプローチに差異が生じ、更にこれに益州・荊州以外の出身者が参画すると言う複雑な構図がそこには存在する。
 そもそも劉備が政権を樹立した巴蜀地方は、地理的に言えば西南僻壌の地に過ぎないが、古代に在っては蜀国と巴子国の部族国家が存在し、文化的にも中原地方と異なった独自の伝統文化を持ち、自然条件も豊饒な四川盆地を擁し、その外郭の山間部からは鉄・銅・金などの鉱山物質を、長江沿いからは塩を産出すると言う具合に自給自足が可能なため、古来「沃野千里、天府の土」と称されている。晋の詩人左思は『蜀都賦』の中で、蜀土の悠久性を「夫れ蜀都は基を上世に兆し、国を中古に開く」と歌い上げ、唐の李白も『蜀道難』の中で「開国何ぞ茫然たる、爾来四万八千歳」と言う。一九八六年に四川省廣漢市三星堆遺跡から発見された眼球が前面に飛び出した人面を含む青銅器の一群は、まさに『華陽國志』の中に述べられている蜀の古代帝王伝説の形態的特徴である「其の目は縱」を証明するものであった。
 漢民族によるこの地方の開発は、戦国時代の秦の惠文王十二年(BC三一三)から始まり、孝文王元年(BC二五〇)には蜀郡太守の冰が灌漑工事に因る農業振興に着手し、文教政策も漢の武帝が国学博士を置き各地に学校を設立するより一足早く、景帝の末年には蜀郡太守文翁に因って学校が立てられ、俗に「漢朝が人士を徴した時には、四人は蜀から輩出する」と言う状況を呈するようになり、後漢時代には、漢中郡の李氏・蜀郡の張氏・巴郡の陳氏・ケン爲郡の張氏などが中央政界で活躍する。巴蜀地方が持つ地域経済力の強さと人的資源の豊富さと言う傾向は、後世に至るほど顕著になるが、宋代に於ける巴蜀地方での中国最初の紙幣(交子)の発行や、科挙の試験での特別な類省試の施行などはその一例である。しかしこの地方が華々しいスポットを浴びるのは、中央が混乱した時に限られ、例えば前漢末、三国時代、西晋末、唐末五代、日中戦争時などがそれで、平和時には単なる西南の一地方に逆戻りをしてしまう。このような文化的・経済的・地理的条件が益州人士の気風形成に微妙な影響を与え、彼等が持つ巴蜀人士としてのプライドの高さは、中央に対するコンプレックスと将に表裏一体の関係をなしていると言えよう。故に彼等は統一政権に対してはかなり積極的にアプローチするが、地方政権に対しては必ずしも積極的ではなく、むしろどちらかと言えば概して消極的な態度の方が多い。このような傾向は、何も蜀漢政権に対する対応にだけ見られるものではなく、前漢末の公孫述政権に対しても、又西晋末の李氏政権に対しても同様に見られるものである。  では当時の益州人士は劉備の入蜀に如何に対応したのであろうか。先ず劉備の入蜀以前の益州の状況を概観しておく。

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   2、劉焉・劉璋時代
 中平元年(一八四)太常の地位に在った劉焉は、黄巾の乱や宦官の専権に因って混乱した中央を離れ、地方に転出して世難を避けるべく州牧の設置を建議するが、彼の意見は直ぐには施行されず四年後の中平五年(一八八)に益州牧として入蜀を果たしている。元来劉焉は中央から遠く離れた交阯の牧となる事を希望していたが、その劉焉に益州へ目を向けさせたのは、他ならぬ益州廣漢郡出身の董扶である。董扶は若くして太学に游び更に同郡の楊厚から図讖を学び、同門の任安と共に子弟を教授してその名声は四方に鳴り響いていた。当時彼は大将軍何進の辟徴に応じて侍中の職に就任しており、その董扶が劉焉に「都はまさに乱れようとしており、益州の分野には天子の気がございます」と囁き、入蜀を勧めたのである。劉焉の益州牧が決定すると、董扶は蜀郡西部属国都尉に転じて行を共にし、巴西郡の大族で太倉令の地位に在った趙イも、官を棄てて劉焉に従っている。又当時益州は黄巾賊の一派馬相が荒らし回っていたが、己の家兵を率いて馬相を討伐し劉焉を迎え入れたのが、州従事の職に在った土着豪族の賈龍である。則ち劉焉の入蜀は、外部勢力に因って益州の安定と己の既得権益を維持せんと考えた益州の名士や土着豪族の推戴に基ずくものであった。故にこそ劉焉も、直接的支持者である南陽太守時代の故吏の呂常や、父親の代から親交を持つ陳留の呉懿らを伴っての入蜀ではあったが、その初期に於ては賈龍ら土着豪族の既得権益を容認して郡職や県職に任用し、彼等の持つ郷里社会への影響力や規制力を通しての二元的な益州支配に甘んじねばならなかった。

 しかし三年後の初平二年(一九一)劉焉の態度は一変し、己の益州に於ける支配権の貫徹を図るべく、強引な武力行使を以て益州人士に臨み出す。先ず彼は、祖父陵の代より蜀に居住し五斗米道なる宗教教団を率い、一定の社会勢力を持っていた沛国出身の張魯を督義司馬に任じて漢中に派遣し、太守の蘇固を攻撃させて中原との要路である閣道を焼き払い、漢朝の使者を殺害させると、自らは「米賊が道路を遮断したため都への連絡は不可能となりました」と上奏して漢朝からの半独立的体制を取り、一方では威刑を立てると称して他事に託つけ、州内の土着豪族である巴郡太守の王咸や、梓潼郡の大姓で臨キョウ長の李権ら十数人を殺害した。これに対しケン爲郡太守の任岐や劉焉の入蜀を手助けした賈龍ら土着豪族が反劉焉の兵を挙げるが、逆に劉焉の家兵集団である東州兵に制圧され、ここに劉焉の益州支配が確立した。
 この劉焉の強権発動を可能にしたのが、当時益州に流入していた南陽・三輔地方からの流民数万戸や、馬相の賊の残党を糾合して養成された東州兵である。僅か一〜二年で土着豪族の勢力を圧倒する軍事力が確保出来た背景は、己の益州支配を可能とする直属軍団の早急なる確保を希求した劉焉と、益州に於ては何ら勢力も基盤も無く圧迫の対象にしかなりえぬ流民の立場を脱却し、早く世俗的な地位を獲得せんと願った流民との利害が一致した点に認められ、そこには恐らく劉焉がかつて南陽郡太守であった事も有利に作用したであろう。いずれにしても益州人士にとっては、劉焉を推戴した時の腹の内とは逆の結果で決して彼等の意に副うものではなかったが、現状では敢えて容認せざるをえず劉焉に対する対応は極めて流動的であった。
 興平元年(一九四)劉焉が死去すると、巴西郡の大族趙イや廣漢郡の大姓王商らは、劉焉の子劉璋の性格が甚だ温厚なのに付込み、それを利用して己の権益を図るべく劉璋を益州牧に推戴した。この劉璋政権の官僚は、益州人士を中心に荊州出身の許靖・董和・李厳・王連・費觀や右扶風の名族法正・孟達・射堅、河南のホウ羲・郤揖、陳留の呉懿らに因って構成されている。これに対し巴郡の豪族甘寧(後に呉の猛将となる)は、劉璋の武将沈弥・婁発らと反劉氏の兵を挙げるが、逆に趙イらに撃破されて荊州に敗退し、劉璋の益州支配が継続されるが、その温厚にして威略なき性格なるが故に、自己の権力基盤である東州兵の暴虐驕恣を規制する事が出来ず、遂に益州人士の反感と怨望を買う事になる。建安五年(二〇〇)、征東中郎将として巴中に鎮していた趙イは、蜀人怨嗟の心を掴んで人情を集め、更に州中の大姓と密かに手を結び、自ら擁立した劉璋に反旗を翻すが、劉氏の存在に因って身分保障を得ている東州兵の奮戦に因って敗死させられ、劉璋の益州支配は辛うじて保たれたが、実態はこの機に乗じて巴漢を占有自拠した張魯を討伐する事も出来ず、反復常無き土着豪族や不満分子を政権内に取り込み、それを東州兵の軍事力で押さえ込んでいると言う、極めて微妙な勢力バランスの上に不安定な支配権を維持していたに過ぎない。この様な状況の中で、不満分子に因る劉備の入蜀が画策されるのである。

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   3、蜀漢政権時代
 曹操や張魯の動向に対し何ら有効な手段を構じきれぬまま逡巡する劉璋に、劉備の入蜀を説得したのが蜀郡の大姓で益州別駕従事の職に在った張松で、彼は後漢末の混乱を避けて同郡(扶風郡)の孟達と入蜀したが劉璋に重用されず不遇をかこっていた軍議校尉の法正と親交を結んでいた。彼等は劉璋の器量に見切りをつけ、益州の新たな支配者として劉備の担ぎ出しを画策し、張松が劉璋を説得し法正が張松の推薦を受けて劉璋から劉備の下へ派遣されると言う役回りを演じたのである。

 この劉備入蜀案に対し、反対の具体的リアクションを起こした益州人士は数人である。張松の策謀を察知すると己の身の安全を確保すべく劉璋に密告する挙に出た兄の廣漢郡太守張粛は論外として、州従事の職に在った王累は自らを州門に逆さ吊りにして諫言し、同じく州従事であった鄭度は清野の計を以て劉備に対抗すべく進言し、州の主簿職に在った黄権は劉備の危険性を説いて最後まで反対し、州従事の張任は「老臣は二主に仕えず」と言って劉備軍と戦い戦死を遂げると言う具合であるが、張任の家系に「家は世々寒門」と記されるが如く、彼等は郷里社会にあまり規制力を持たぬ貧しい家柄の人士で、豪族層に属するのは巴西の大姓黄権だけである。無論最も激しく抵抗したのは、自らの生存が一に劉璋の存在に懸かっている東州兵の部将高沛・楊懐・扶禁・冷苞・向存・ケ賢らであるが、劉璋政権を構成する大多数の土着豪族層や荊州人士にとっては、益州の支配者が誰であれ張粛の例に見られるが如く、自らのポジションと既得権益の確保が第一義であり、劉備入蜀に対し積極的に反対も賛成もしないと言う態度で、劉璋政権の崩壊を内部から消極的に促したと言えよう。故に城門を乗り越えて投降しようと試みた蜀郡太守許靖の如く、彼等は劉備の平蜀以前より陸続として降伏し、敢えて劉備に仕えようとしなかったのは「聾」と称して門を閉じた杜微ぐらいである。
 荊州から入蜀を果たした劉備は、法正の意見に従い旧政権の官僚を己の政権に取り込み、新たな支配地である益州の人士を慰撫するが、元来劉備にとって益州確保は本来の目的である天下統一の一過程に過ぎず、長期に亘って益州に腰を落ち着ける意思は無く、益州人士を特別優遇する必要も無かった。故に入蜀時に登用された法正・呉懿・馬超以外の許靖・董和・李厳・費觀・劉巴は荊州人士で、益州人士は黄権と彭様だけである。一方蜀人の方も未だ劉備に全幅の信頼を寄せてはおらず、儒林校尉に登用された周羣や州の後部司馬を拝した張裕は、蜀学伝統の図讖の学に基づき劉備の漢中出兵に反対している。この様な蜀人を重用しない傾向は、章武元年(二二一)に蜀漢政権が成立し官僚組織が整備されても変わらず、表面的には王謀は少府に、黄権は光禄勲に、何宗は大鴻臚に就任するが、これらは実権のない名誉職的な九卿で、政権の実務を担当した枢要官の尚書系・侍中系には尚書郎に馬齊が任用されているだけで、地方官も蜀郡太守に楊洪とライ降都督に李恢とを見るに過ぎず、大多数の益州人士は州や郡県の属官(期間は不明であるが州従事の職に三十七名程が資料中より検索出来、その中の大半が徐々に中央の枢要官に進出して来る)にしか就任出来ず、荊州人士の下に二級市民的立場に位置させられている。
 しかし、蜀漢政権が支配区域の一部であった荊州を失い、劉備が夷陵の戦いで呉に大敗して多大な兵力を失い、後事を諸葛亮に遺詔して白帝城で死去し、建興元年(二二三)に劉禪が即位して諸葛亮の丞相府が開府されると、荊州人士の絶対的優位性の傾向にも徐々に変化が現れ出す。当時の諸葛亮は丞相であるが、使持節として軍事指揮権を持ち、録尚書事を加えられて政権の政務を総覧し、更に司隷校尉と益州牧を兼領して成都の治安と益州の行政権をも合せ持ち、将に政権の全ての権能が彼の下に一元的に集約されている。実質的支配区域が益州だけとなりながらも政権の成立理念である北伐を敢行しようとする諸葛亮にとっては、益州の安定的支配が必要不可欠となり、そのためには益州人士の既得権益を犯さずに北伐の元資を確保し、同時に益州人士を官僚機構の中枢に取り込んで行く作業が要求されて来る。そこで諸葛亮は、建興三年(二二五)に南征を敢行して平定させた南中地方からの物的・人的資源を北伐の費用や人員に充当させ、又益州名士で与論の形成に影響力の有る蜀学グループの杜微を諫議大夫に、ショウ周を勧学従事に任用し、建興五年 (二二七)の北伐開始以降、漢中に置かれた丞相府の属官で成都に在って留守を統括する留府長史に張裔・馬忠を、軍師祭酒に尹黙を、參軍に王平・姚ユウ・李バク・爨習を登用し、他には蜀郡太守に楊洪を、廣漢郡太守に何祗を、ケン爲郡太守に王士を、ライ降都督に張翼を採用すると言う具合に、益州人士を優遇し出すが、尚書系統は尚書僕射の李福と尚書郎の馬齊だけで、尚書の長官たる尚書令には依然として荊州人士の李嚴・陳震が就任している。又李嚴を弾劾するために諸葛亮が奏した上表文には、北伐に参加している将軍二十二人を連ねるが、その中で益州人士は偏将軍の爨習一人に過ぎない。

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   4、諸葛亮没後の蜀漢政権
 建興十二年(二三四)に諸葛亮が五丈原に陣没してより以後の十八年間は、政権の性質が徐々に変質して土着化傾向を示し出した時期で、政権の方向性も対外(魏)重視から内政(蜀)重視へと転換するが、それは自ら仕掛ける様な北伐、つまり対外(魏)的な攻撃を継続する事に因って己の政権を維持すると言う積極的デフエンスから、守備に徹底すると言う消極的デフエンスに終始し、更に諸葛亮生存中は劉備と劉禪の即位の時の二回しか行われなかった大赦が、以後十回にも及びほぼ三年に一度実施されると言う施政方針自体が端的に示している。

 先ず蒋エンが大将軍となり録尚書事を加えられ益州牧を兼領して国政を統べ、次いで費偉が同様に大将軍録尚書事兼益州牧となり、政権の最高位には荊州人士が就任するが、土着化傾向の内政重視型治世のため、益州人士の大幅な進出が認められる。則ち費偉が漢中に屯した時、録尚書事に匹敵する平尚書事に馬忠が就任して政務を統べ、尚書僕射には姚ユウが、尚書に張翼・衛継・文立が、尚書右選郎中に楊戯・王祐が、尚書度支郎中に柳伸が、尚書郎に李驤・李密・黄崇が登用され、尚書系官僚及び郡太守や都督職の約半数近くに益州人士が進出し、これに他の官職を加えると人数的には荊州人士の優位性を凌駕する様になる。この様な状況は、絶対的指導力を発揮した諸葛亮を失い、残された荊州人士が集団指導体制で政権運営に当たり、政権の土着化傾向と相待って最枢要官こそ独占するものの、他の枢要官には益州人士の登用を認めざるを得ず、一方益州人士の側からすれば、諸葛亮以来の荊州人士主導を容認しつつ、自らの能力と名声に因り政権内部に食い込んで行く時期であったと言えよう。
 延熈十六年(二五三)に費偉が魏の降人に殺され、同十九年(二五六)に姜維が位を大将軍に進めて録尚書事を加えられて国政の最高位に就任し、北伐を再開して対外積極策を遂行し出すと、政権の様相が一変する。彼は魏から蜀に降伏し諸葛亮にその才能を認定され、諸葛亮のバックアップを背景として地位を確保した人物で、涼州出身の彼には政権内部に益州人士の如き土着勢力も、荊州人士の如き同郷的勢力も持ち合わせてはおらず、又卓絶した能力と人望が有った訳でもなく、自ら率いる中央軍の軍事的功績に因ってのみ権力の維持が可能であった。故に彼は敢えて北伐を敢行するのであるが、蒋エン・費偉以来二十年に亘る平和政策に慣れ親しみ、成都で政務を統べる平尚書事の諸葛瞻・董厥、尚書令の樊建ら荊州人士は、姜維の政策に反目して彼の兵権を奪おうと画策し、益州人士も国力の衰退を無視した北伐が自らの既得権益に影響を与え出すと、明白な反対意見を提出する様になる。中央軍で左車騎将軍の地位に登った益州人士の張翼は、「国が小さく人民が疲弊していれば、武を黷すべきではない」と廷争し、光禄大夫のショウ周は「北伐を敢行して民衆を疲弊させるべきではなく、民心を養って内政の安定と充実を計る事こそ肝要である」とする『仇国論』なる意見書を奉って北伐を批判し、その中止を訴えている。この様な姜維・荊州人士・益州人士の三者三様の思いを含んだトライアングル状況の中で、その間隙を突いて皇帝劉禪の寵愛を獲得した豫州の出身で侍中兼尚書令の陳祗や宦官の黄皓が台頭し、皇帝権力を背景に政治を壟断して専権を振るう様になり、蜀漢政権は内部崩壊の様相を呈して行く。
 炎興元年(二六三)冬、魏の征蜀軍の侵攻を受けた蜀漢政権は、剣閣に拠った姜維が鍾會軍を防いで一人孤軍奮闘するが、緜竹で諸葛瞻を打ち破ったケ艾軍が成都に急迫すると、紛糾する朝議の中で益州人士である光禄大夫ショウ周の降伏論が大勢を決し、劉禪が降伏して蜀漢政権は二主四十三年で滅亡する。蜀漢政権滅亡後最も栄達したのは、皮肉にも降伏論を主張した益州人士のショウ周である。彼は晋朝に至ると散騎常侍を拝し、彼の弟子である益州人士の文立も衛尉となり、同じく陳寿は治書侍御史から太子中庶子に至り、李密は太子洗馬から漢中太守などを歴任し、杜軫は尚書郎を拝すると言う具合である。

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   終わりに
 後漢末の混乱以来益州人士は、全体の政局を勘案して自己のポジションを想定するという大局的判断を下す事無く、土着勢力としての己の既得権益を如何に保持するかという発想で、自ら益州の支配者を劉焉・劉璋・劉備とすげ替えていった。蜀漢政権成立後は荊州人士の主導を容認しながら、既得権益を保持したまま彼等が形成する官僚組織内に食い込んで行き、徐々に枢要官に就任しだして行く。枢要官の多数確保に因り政権内での発言が認められ出した時、皮肉にも自らの発言に因る官僚間の意見対立が、結果として政権の内部崩壊を誘発するのである。再び彼等が統一王朝の下で中央政界に復帰した時には、「全蜀の功」に因ってそれなりの地位は与えられたが、魏朝より始まった九品官人法に基づく一流貴族への道は、既に閉ざされていた。故にその後の益州人士は「西土の名士」として一地方名士の地位に甘んじねばならなかったのである。

     平成六年一月                             於黄虎洞

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