『藝文類聚』讀書箚記

〜巻一から巻五までを中心にして〜

本ページは、文部省科研成果報告書NO、06301002『類書の総合的研究(代表、加地伸行)』
(平成8年3月)からの抄訳転載である。


      はじめに
   
1、奉勅編集者に関わる問題
   
2、引用傾向と抄撮形式に関わる問題
   
3、書誌学に関わる問題
   
4、竄入と脱文に関わる問題
   
5、古典籍と詩賦類保存に関わる問題
     
おわりに

   はじめに
 二十数年来筆者は、己の研究の必要性に応じて各種の類書を摘読使用しては来たが、類書自体を研究の対象にしようなどとは全く考えもせず、今に於てすら基本的にその思考に変化は無い。それは、現在既に散逸した古文献を多量に止めていると言う資料的価値や、資料集としての使用上の簡便性を類書に対して認めても、所詮類書は断片を集めた百科全書であり道具に過ぎないとの意識が払拭されないためである。しかし、十年程前より類書の一つである『藝文類聚』を解読する作業に参加する事となり、改めて『藝文類聚』を最初から精読する機会が筆者に与えられた。既にその成果は、第六巻までが『藝文類聚訓読付索引』として大東文化大学東洋研究所から公刊され、現在第八巻が解読中であるが、読み進めるにつれて、類書自体に種々の問題が包含されている事が判明して来た。無論『藝文類聚』全体を左右するが如き問題は、百巻全てを解読した上でなければ軽々しく論評出来ない事は他言を要すまでも無い事であり、同時にそれを可能とするだけの準備も筆者には未だなされていない。
 そこで、全巻を解読しなくても類推や判断が可能な問題、及び既に解読済みの自然現象である天部(巻一・二)と、四季及び年中行事である歳時部(巻三・四・五)とから導き出される疑問点等々を提示して、今後の類書研究の参考に供したいと思考したものが本拙稿であり、百巻中の僅か五巻部分だけを対象とするにも関わらず、敢て読書箚記と称する所以もそこに在る。無論中には既に公刊した『藝文類聚訓読付索引』中の解説部分で極めて概略的に論及したものもあるが、今改めてそれらをも含んで詳細に論じてみたいと思う。
 『藝文類聚』とは、唐初に僅か三年弱の年月を費やしただけで成立した、全百巻に及ぶ現存最古の完本類書である。抑々その内容・形式及び目的たるや、『藝文類聚』の序文に、

  「夫れ九流百氏は、説を爲すこと同じからず。延閣・石渠は、架藏繁積す。周流して源を極むるも、頗る尋究し難く、條を披き貫を索むるも、日用弘く多し。卒に其の菁華を摘み、其の指要を採らんと欲す。・・・其の事且つ文を撰し、其の浮雑を棄て、 其の冗長を刪り、金箱玉印、比類して相從はしめ、號して藝文 類聚と曰ふ。凡て一百巻、其の事の文より出づる者有れば、便ち之を破りて事と爲さず。故に事は其の前に居き、文は後に列す。夫の覽る者をして功を爲し易く、作る者をして其の用に資せしめ、以て今古を折衷して、墳典を憲章すべし、と爾か云ふ。」 (夫九流百氏、爲説不同、延閣石渠、架藏繁積、周流極源、頗 難尋究、披條索貫、日用弘多、卒欲摘其菁華、採其指要、・・ ・撰其事且文、棄其浮雑、刪其冗長、金箱玉印、比類相從、號 曰藝文類聚、凡一百巻、其有事出於文者、便不破之爲事、故事居其前、文列于後、俾夫覽者易爲功、作者資其用、可以折衷今古、憲章墳典、云爾)

と記すが如く、経・史・子・集の書籍は言うまでもなく仏典や道典に及ぶまで、あらゆる文献から各類目に関連した名言・名句を網羅的に採取し、それを抄撮して配列した一種の百科事典である、と言うのがその内容・形式であり、またその目的として、当時の中央官庁に於てその職務遂行上主に天子の詔勅や批答の草稿及び上奏文等々の公文書を書かねばならなかった中書省や翰林院の官僚群にとって、参考利用に資すべき「古典的知識と典故が集積された簡便な書」と言う実用乃至は有効性が強く意識されている。しかし、同時に多人数を動員したこの抄撮と言う形式が、採取文献の引用形態の不統一性を生じさせ、また実用性に基づく短期間に於ける成立と言う点が、先行類書からの安易な孫引きを誘発させているのではないのかと推測されるが、これらの点に関しては、後で事例を挙げて卑見を述べたいと思う。
 一体「類書」なる言葉が何時頃から一般化するかと言えば、さほど古くは無く北宋中期の十一世紀初頭であったと推測される。則ち、唐初に成立した『隋書経籍志』では類書を子部雑家の末に入れ、五代後晋の劉クの手に成る『旧唐書経籍志』でも未だ子部類事部に入れている。所が北宋の歐陽脩・王堯臣等が編集した『崇文總目』に至ると子部に「類書類」の名が出現し、『崇文總目』より遅れる事二十年後に制作される『新唐書藝文志』にも「類書類」が立てられていれば、『藝文類聚』の出現より遅れる事ほぼ四百年後の北宋仁宗朝の康定・嘉祐年間に於いて、「類書」なる言葉が一般的に認知且つ使用され出して来た事を示唆していると言えるのである。しかし、名称の定着化こそ遅いものの、実際の類書出現は可成り古くその淵源たるや実に先秦時代にまで溯る。張ジョウ華の『類書流別』に因れば、 『史記』巻十四の十二諸侯年表に、

  「鐸椒、楚の威王の傅と爲る。王、盡くは春秋を觀る能はざるが爲に、成敗を采取し、四十章を卒へ、鐸氏微を爲る。」 (鐸椒爲 楚威王傅、爲王不能盡觀春秋、采取成敗、卒四十章、爲鐸氏微)

と有るに基づき、「春秋の成敗を采取して先王の言行を威王に見せんとした抄撮の学に始まり、更に『爾雅』が事物を各々分目類別した形式に依拠している」と言うが、本格的類書として最古に位置するのが、『四庫全書総目提要』巻百三十五の子部四十五類書類一に、

  「類事の書は、四部を兼収し、而も経に非ず史に非ず、子に非ず集に非ず。四部の内、乃ち類の帰す可き無し。皇覽は魏の文に始まり、晋の荀勗の中経は、部分何門に隷するか、今考ふる所無し。」(類事之書、兼収四部、而非経非史、非子非集、四部之内、乃無類可帰、皇覽始於魏文、晋荀勗中経、部分隷何門、今無所考)

と記すが如く、魏の文帝の詔勅を奉じて劉ショウ等が編集した『皇覽』一千餘篇である事は、他言を要しない。以後唐初に至るまでのほぼ四百年間に陸続として類書は制作され、『隋書経籍志』には十五種の類書が記載され、張滌華は『類書流別』に於いて『華林遍略』『修文殿御覽』『北堂書鈔』等々二十三種を挙げているが、現在では虞世南が撰した『北堂書鈔』以外は全て散逸してしまい、更に現存する『北堂書鈔』でさえも本来は百七十四巻と伝えるが、現行本は十四巻を欠く百六十巻本で成立時そのままの完本ではない。
 因って、茲に歐陽詢等が詔勅を奉じて編集した『藝文類聚』百巻が、結果として現存最古の完本類書と言う事になり、同時にその中には、現在散逸滅亡してしまった南北朝時代の膨大な文献が採取されていると言う内容的貴重性からも、『藝文類聚』は類書史研究上の重要資料と言う事に止まらず、書誌学上からも極めて貴重な資料であるとの位置付けが可能となって来るのである。

トップへ

   1、奉勅編集者に関わる問題
 一般的に『藝文類聚』は、歐陽詢等奉勅撰と言われているが、『旧唐書』趙弘智伝に因れば、勅を奉じて編修の任に当たった人は十数人であったと伝えている。しかし、資料上から奉勅者であると認定可能な人物は、僅か六人を数え上げるに過ぎず、他の人々に関しては全く不明である。抑々それは、『藝文類聚』編修に関わる資料が極めて過少である事に起因しており、実際僅か四点の関係部分を検索し得るに過ぎない。以下それらを列挙すると、

『旧唐書』巻七十三令狐徳芬伝・・・「五年、秘書丞に遷り、侍中陳叔達等と、詔を受けて藝文類聚を撰す。」(五年、遷秘書丞、與侍中陳叔達等、受詔撰藝文類聚)

『旧唐書』巻百八十八趙弘智伝・・・「初め秘書丞令狐徳芬・斉王文学袁朗等十数人と、同に藝文類聚を修め、太子舎人に転ず。」(初與秘書丞令狐徳芬斉王文学袁朗 等十数人、同修藝文類聚、転太子舎人)

『旧唐書』巻百八十九上歐陽詢伝・・・「武徳七年、詔もて裴矩・陳叔達と藝文類聚一百巻を撰し、之を奏し、帛二百段を賜ふ。」(武徳七年、詔與裴矩陳叔達撰藝文類 聚一百巻、奏之、賜帛二百段)

『唐會要』巻三十六修撰・・・「武徳七年九月十七日、給事中歐陽詢、勅を奉じて藝文類聚を撰 し成り、之を上る。」(武徳七年九月十七日、給事中歐陽詢、奉勅撰藝文類聚成、上之)

の如きである。これに因って何とか奉勅者として令狐徳芬・陳叔達・趙弘智・袁朗・歐陽詢・裴矩の六人が確認出来、同時に武徳五年に勅を奉ずるや僅か二年半後にはその完成が奏上されていた事が分かるのである。
 彼等六人は『藝文類聚』の編修作業だけに関与していた訳ではなく、裴矩は虞世南と共に『吉凶書儀』を撰定し、中止されたとは言え令狐徳芬の建議に懸かる前六代史の編修には陳叔達・裴矩・歐陽詢が参画しており、彼等は唐初に於いて高祖が施行する文化事業を兼任担当した人々であり、誰が『藝文類聚』の代表者になっても不思議ではない。所が何故か『旧唐書経籍志』は他の五人を注記するものの歐陽詢を代表者と見なして彼一人の名を冠し、以後の書目は全て『旧唐書』の表記を踏襲して歐陽詢一人の名を記すが、『旧唐書』自体が唐代の『古今書録』四十巻に依拠しており、更に『古今書録』が玄宗の開元九年(七二一)九月に作られた『開元群書四部録』二百巻を要略したものであれば、『藝文類聚』が奏上された武徳七年(六二四)からほぼ百年後には、既に「歐陽詢等」なる表記が成立していた事になる。しかし、問題は「歐陽詢等」となって他の五人が「等」の一字で括られてしまった理由である。この点に就いては、どの書目にも確たる理由など明示されていないが、さすがに『四庫全書総目提要』だけは疑問を感じたらしく、

  「殆ど詢の其の成を董せるを以ての故に、相伝ふるに但だ詢の名を署せるか。」(殆以詢董其成故、相伝但署詢名歟)

と一応それらしい理由を提示してはいるが、残念ながらこの見解には首肯し難いものがある。何となれば、資料が示す彼等六人の武徳七年時の職位や年齢を考えるに、官品の尤も高いのは從一品の江国公にして正三品の侍中職に在る陳叔達で、歐陽詢は第三位の正五品上の給事中でしかない。また年齢では七十七歳の裴矩が第一等で、家格でも陳の宣帝の第十六子である陳叔達や河東の名族である裴矩及び南朝の冠族である袁朗らの方が遥かに上であり、客観的に歐陽詢が編修作業を監督領導して「其の成を董した」とするが如き資料は見当らないのである。とすれば、歐陽詢を代表者と見なす理由は他に求めるべきであり、それは『藝文類聚』の序文の末に「太子率更令弘文館学士渤海男歐陽詢序」(尚、ここに記されている詢の官位は武徳七年時のものではなく、太子率更令・弘文館学士・渤海男いずれも十年程後の太宗の貞觀年間の官位である)と有り、詢の本伝に「奏之、賜帛二百段」と有るが如く、歐陽詢が『藝文類聚』の序文を草してその完成を奏上した点にこそ懸かっているのではないのかと考えられるが、そうすると今度は、何故六人の中から歐陽詢が序文を草する事となったのかと言う問題が生じて来るのである。
 歐陽詢が「草序奏之」を担当した明確な理由は、彼を代表者と見なす理由則ち「草序奏之」の担当者であったと言う事以上に確証が無い。当時は諸々の編修作業が行われており、それぞれに「草序奏之」を担当した人々がいるが、彼等の間に「草序奏之」を担当するに当たっての統一された明確な規定のようなものが有ったとする資料は検索し得ず、恐らくは各作業に付随する個々の理由に因って決定されていたと推測される。では『藝文類聚』に於ける個々の理由とは何であったろうか。当時中央官庁の職に在ったのは、侍中の陳叔達と秘書丞の令狐徳芬及び給事中の歐陽詢だけで他の三人は王府職及び東宮職である。唐代に在っては中央官庁の中でも国政全般に関する最高機関が門下省であり、各種の公文書に対する審査や副署に関与するのが侍中・門下侍郎・給事中の三職で、この地位に居るのが侍中の陳叔達と給事中の歐陽詢である。官品だけを考えれば侍中の陳叔達が上であるが、年齢は逆に歐陽詢の方が十歳前後上である。且つ歐陽詢は『旧唐書』巻百八十九上本伝に、

  「詢初め王羲之の書を学び、後更に漸く其の体を変じ、筆力険勁、 一時の絶と爲る。人其の尺牘文字を得ては、咸以て楷範と爲す。 高麗甚だ其の書を重じ、嘗て使を遣はして之を求めしむ。高祖 嘆じて曰く、意はざりき、詢の書名、遠く夷狄に播し、彼其の跡を觀て、固く其の形の魁梧なるを謂ふとはと。」(詢初学王羲 之書、後更漸変其体、筆力険勁、爲一時絶、人得其尺牘文字、 咸以爲楷範焉、高麗甚重其書、嘗遣使求之、高祖嘆曰、不意詢之書名、遠播夷狄、彼觀其跡、固謂其形魁梧耶)

と記すが如く、当時第一級の能書家である。そこで敢て「草序奏之」の理由付けをすれば、中央の枢要官に位置して年齢が尤も高く同時に能書家としての令名が響き渡っていた事などが総合的に作用して、「草序奏之」の実務を歐陽詢が担当したのではないのかと判断される。しかし、この結論も明確且つ客観的な資料に基づくものではなく、あくまで当時の歐陽詢を取り巻く環境的諸条件から帰納的に導き出したものに過ぎず、基本的には推論の域を脱するものではない。

トップへ

   2、引用傾向と抄撮形式に関わる問題
 先ず『藝文類聚』全体に関わる引用文献の数値的傾向であるが、引用頻度数の高いもので、「事」に関する上位三位までと「文」に関する上位五位までを示すと、「事」に属する経では、『詩経』が三三四回・『礼記』が二七五回・『春秋左氏伝』が二六七回、史では、『漢書』が五九七回・『東観漢記』が二八六回・『史記』が二七五回、子では、『淮南子』が一六三回・『荘子』が一六二回・『山海経』が一二四回、その他では、『楚辞』が一六八回・『説文解字』が一〇八回、「文」に属するものとしては、梁の簡文帝が三〇三回・曹植が一九九回・沈約が一九七回・梁の元帝が一五四回と言う具合で、引用古典籍約九百種強、詩賦類約五千種強と言う全体像の中で、如上に挙げた書籍の引用頻度は他を圧倒しているが、その中に在って特に突出しているのが梁代の詩賦類の多さである。
 この様な傾向は、巻一から巻五に於いても若干の増減は有るが相対的に変化する事はなく、例えば、『毛詩』は二十三回・『礼記』は十七回・『春秋左氏伝』は十三回・『漢書』は二十四回・『東観漢記』は六回・『史記』は四回・『淮南子』は二十四回・『荘子』は十回・『山海経』は十回・『楚辞』は三十三回・『説文解字』六回と言う具合で、総延べ引用数七百八回中の約二割五分に当たる百七十回をこれらの文献で占めており、梁代の詩賦類に至っては引用数四百十九種中の実に四割弱に当たる百六十一種が挙げられる。古典籍に関しては両漢時代以前のものが六割以上を占め、約四割弱に当たる両晋南北朝時代の古典籍は、その殆どが現在散逸した佚書で占められている。また詩賦類に関しては、その半数以上が晋と梁の詩賦から引用されているが、これは各時代に於ける詩人数の増減と比例するものであり、該当時期の文学的隆盛を引用詩賦の数量が示唆しているとも言えよう。
 更に各巻毎に引用文献数を古典籍と詩賦類とで比較してみると、ほぼ近似した数値で且つ延べ引用数では古典籍の方が多い傾向を示しているが、ただ巻三と巻四とだけが古典籍の二倍強の詩賦類を引用している。それは、巻三の項目が春夏秋冬の四時で巻四の項目が正月・三月三日等の節句と言う具合に、どちらかと言えば詩賦の対象になり易い項目で構成されている事に起因するが、延べ引用数ではやはり全体的傾向との一致性を示唆している。
 次に、抄撮の形式に関わる傾向であるが、抄撮であるが故に必ずしも一様ではなく数種類に分類出来る。尤も一般的なのが、項目に該当する字句を含む一文をそのまま抜き出して来る形式で、これが抄撮の基本であれば殊更論ずるまでもないが、中には極めて特種な抄撮形式を採るものが存在する。
 一は、必要箇所が数次に亘るため無関係な部分を適宜省略して抄撮したものである。例えば、巻一天部上の風の項に引用される『尚書』の、

  「曰休徴、曰聖時風若。」

は、『尚書』巻七洪範の、

  「曰休徴、曰肅時雨若、曰乂時暘若、曰ル時燠若、曰謀時寒若、 曰聖時風若。」

から「風」に関係の無い中間の二十字を省略したものである。同様に巻一天部上の日の項に引用される『白虎通』の

  「日行遅、月行疾者何、君舒臣勞也、(A)日月所以懸著何、助天行化、昭明下地也、(B)日月径千里。」

は、(A)の部分に三十二字、(B)の部分に百二十七字が各々省略されている。また巻三歳時上の春の項に引用される『礼記』の、

  「孟春之月、(A)東風解凍、蟄虫始振、魚上冰、獺祭魚、鴻鴈来、(B)乃択元辰、天子、(C)躬耕帝籍、(D)是月也、 天気下降、地気上騰、天地和同、草木萌動。」

は、四箇所に亘る二百五十九字の省略で、(A)に四十六字、(B)に百五十八字、(C)に二十二字、(D)に三十三字となっている。この様な抄撮形式は、まだ理解し易く省略の意図が那辺に在ったか容易に想像出来る。また時には数百字から数千字の省略が行われるものもあり、例えば巻二天部下の雷の項に引用される『礼記』の、

  「仲春之月、(A)日夜分、雷乃発声。」

は、(A)の部分に百七十二字の省略が有るが、この様な長文の省略が行われるものは、主に『礼記』の月令篇及び正史の列伝が抄撮された時に多々見受けられる傾向であり、恐らくは、該当部分だけを引用した場合には「誰」の話しか或いは「何時」の話しか不明となる可能性が有るため、先ず文頭に「誰」や「何時」を明示する言葉を置き、その後に該当部分を抄撮したがために、長文の省略を余儀なくされたのではないのかと推測される。しかし、中には理解に苦しむ様な例が無い訳ではなく、巻二天部下の雷の項に引用される『周易』がそれで、

  「震爲雷、動万物者、莫疾於雷。」

なる説卦伝の一文は、本来「震爲雷」の三字は「莫疾於雷」の二百七十九字後に位置する一句で、単なる省略字数の多さのみならず何故句順を転倒させたのか意図が不明であり、或いは抄撮者の単純なる誤写に過ぎないのではないのかとも想像される。しかし、いずれにしても省略に就いては、字数の多寡や形式に関わらずその意図を理解出来るものが大半を占めていると言えよう。
 一は、全く異なる二箇所の字句を採取し合わせて一文としたものである。例えば、巻一天部上の天の項に引用される『春秋繁露』であるが、

  「天有十端、天地陰陽水土金木火人、凡十端、天亦喜怒之気、哀楽之心、與人相副、以類合之、天人一也。」

右の一文は、『春秋繁露』巻七官制象天第二十四の、

  「天有十端、十端而止矣、天爲一端、地爲一端、陰爲一端、陽爲 一端、火爲一端、金爲一端、木爲一端、水爲一端、土爲一端、 人爲一端、凡十端而畢天之数也。」

を省略採取して、更に同巻十二陰陽義第四十九の、

  「天亦有喜怒之気、哀楽之心、與人相副、以類合之、天人一也。」

とを合したものに他ならない。同様に巻一天部上の風の項に引用する『爾雅』の、

  「四気和爲通正、謂之景風、南風謂之凱風、東風謂之谷風、北風謂之涼風、西風謂之泰風。」

なる一文は、『爾雅』巻中釈天第八四時の、

  「四時和爲通正、謂之景風。」

と、同巻中釈天第八月名の、

  「南風謂之凱風、東風謂之谷風、北風謂之涼風、西風謂之泰風。」

とを合したものであり、また巻二天部下の雨の項に引用される『楚辞』も同様な形式で、

  「雷填填兮雨冥冥、令飄風兮先駆、使凍雨兮灑塵。」

なる一文は、『楚辞』九歌章句山鬼の、

  「雷填填兮雨冥冥。」

と同九歌章句大司命の、

  「令飄風兮先駆、使凍雨兮灑塵。」

とを合したもので、同じく巻二天部下の雨の項に引用される『山海経』の、

  「羽山其上多雨、而符陽之山、多怪雨、雲風之所出也。」

なる一文は、『山海経』巻一南山経の、

  「羽山其下多水、其上多雨。」

を省略採取し、且つ『山海経』巻二西山経の、

  「符タ之山、其上多椶、ダン下多金玉、神江疑居之是山也、多怪雨、 風雲之所出也。」

をも省略して合したものである。本来『藝文類聚』は、同一出典で場所の異なる字句を引用する時には、短文長文に関わらず数次に亘り「又曰」として改文引用する傾向が強いが、中には右の様例の如く意図不明のまま合文抄撮するものが、まま見受けられる。
 以上抄撮形式に関しては、今後解読が進めば進む程諸々の問題が発生するであろうと想像されるが、少なくとも現状では省略と合文の二つの問題が提示出来、省略に就いては、それなりの理解が可能であるが、合文に就いては、何か意図が有ったのか或いは抄撮者の単なる誤写であったのかさえ不明であり、以後の解読を待って解決したいと思う。

トップへ

   3、書誌学に関わる問題
 『藝文類聚』は唐以前の巻子本を底本として編修されており、今の現行諸文献は宋版以後の冊子本に依拠していると言う点、及び唐宋変革期に於ける書籍改編の可能性と言う点等々から、当然の如く書誌学に纏わる疑義が提示されて来る。
 一は、巻子本時代に在っては、今の版本の如く本文と注文とが判然と区別され、別文との意識が持たれていたか否かと言う事である。何となれば、『藝文類聚』に引用される諸文献の中には、本文と注文とが渾然一体となって抄撮されているものが多々見受けられるからに他ならない。例えば、巻一天部上の月の項に『淮南子』として引用されている、

  「ゲイ請不死之薬於西王母、コウ娥竊之奔月宮、コウ娥ゲイ妻也、服薬得仙、奔入月中爲月精。」

なる一文は、『淮南子』覽冥訓の本文である、

  「譬若ゲイ請不死之薬於西王母、恒娥竊以奔月。」

と、その許慎の注である、

  「恒娥ゲイ妻、ゲイ請不死之薬於西王母、未及服之、恒娥盗食之、得仙奔入月中爲月精也。」

とを合成したものであり、同じく巻二天部下の雷の項に『山海経』巻二西山経を引き、

  「翔次之山、有鳥名トヒ 、服其毛羽、令人不畏雷也。」

と言うが、「服其毛羽、令人不畏雷也」の十字は郭璞の注文である。更に巻四歳時部中の寒食の項に引く『周礼』巻十秋官司寇下の、

  「司ケン氏、仲春以木鐸脩火禁于国中、爲季春将出火也。」

なる一文の「爲季春将出火也」の七字も、明かに鄭玄の注文である。これらの事例は本文と注文との混用を示しており、両方の部分から抄撮するが故に敢て混用したとも考えられるが、一方では巻二天部下の虹の項に引用する『尚書考霊曜鄭玄注』の如く、明白に「鄭玄注」と表記するものも有れば、或いは巻子本の形態が現行冊子本とは異なり、本文と注文とが同一の字体で連続して書かれていたのではないのかとの推測をも想起せしめる。所が同じ本文と注文との混用でも、これらとは若干傾向を異にしているのが『荊楚歳時記』の場合である。
 今では一般的に『荊楚歳時記』と言って一書の如く扱うが、厳密に言えば本来は各々別人の手に成る二つの本、つまり『荊楚記』と『歳時記』とが一体化したものに過ぎない。故に唐初に在っては、『荊楚記』と『歳時記』と『荊楚歳時記』との三種類の書が存在している。この事は『藝文類聚』の中でも、巻四歳時部中の五月五日の項に『荊楚記』を、巻八十六菓部上の桃の項に『歳時記』を、巻四歳時部中の月晦や寒食の項に『荊楚歳時記』をと言う具合に三様の引用形態を採っている事からも明白であるが、問題なのは必ずしも内容が統一されていない点である。例えば、巻四歳時部中の人日の項に『荊楚歳時記』と称して引用する、

  「正月七日爲人日、以七種菜爲羮、翦綵爲人、或鏤金薄帖屏風上、 忽戴之、像人入新年、形容改新。」

なる一文の「像人入新年、形容改新」の九字、及び同じく月晦の項に引用する、

  「元日至月晦、並爲ホ聚飲食、毎月皆有晦朔、正月初年、時俗重以爲節。」

なる一文の「正月初年、時俗重以爲節」の十字は、共に『荊楚歳時記』の注文つまり『歳時記』の部分である。或いは、『荊楚記』と『歳時記』の両方の部分を抄撮していれば、『荊楚歳時記』の表記で問題は無いとも言えるが、しかし、『荊楚記』と称して引用する巻四歳時部中の五月五日の項の一文、則ち、

  「又(荊楚記)曰、屈源以是日死於汨羅、人傷其死、所以並将舟 楫以拯之、今之競渡、是其遺跡。」

は、『荊楚記』ではなく『歳時記』の部分から省略抄撮されたものであり、折角三様の引用形態を示しながらも、引用部分の実態に混乱を生じ三様通りの統一性を示せていない。

 一は、巻子本と冊子本との編集表記上の相違に関する疑義である。則ち巻五歳時下の社の項に引用する『春秋左氏伝』の表記が「左伝昭上曰」となっている点である。因みに現行本(四部叢刊本)の『春秋左氏伝』を一見すると、その分類表記は必ずしも統一されてはおらず、単巻のものが隠公・桓公・荘公・閔公の四人で、上下分類が文公・宣公・成公・定公・哀公の五人で、上中下分類が僖公、元〜五分類が襄公、元〜七分類が昭公と言う具合である。所が『藝文類聚』所引の『春秋左氏伝』は、昭公の所が現行本の「元〜七」表記と異なり「上」となっている。抄撮するに当たり、「左伝昭元」とか「左伝昭七」とかなっている表記を「左伝昭」と省略表記する事はあっても、逆に「左伝昭」と表記されているものにわざわざ 「上」の字を加えたり、「左伝昭二」の「二」を「上」に改筆したりするとは考えられない。とすれば、もともと「春秋左氏伝昭公上」と表記されている書から「左伝昭上」と省略表記したと考える方が蓋然性が高い。
 これに因って以下の事が想定されるのである。則ち、唐初伝来の巻子本『春秋左氏伝』は、昭公の部分が「元〜七」表記ではなく「上中下」表記の三巻分類になっていたと言う事である。「上」と表記されている以上その分類は「上下」か「上中下」しか想定出来ず、昭公の分量や成公・僖公等の状況から判断すれば上下分類は考えられず、結果上中下分類が妥当性を持つ事になる。更に言えば、確証こそ無いものの襄公の部分も上下の二巻分類になっていた可能性が高い。要するに、巻子本に在っては全てが単巻か上下の二巻分類乃至は上中下の三巻分類で表記されていたものが、宋代に至って冊子本に改編されるに当たり、その時の混乱が現行本の如き表記の不統一性を将来せしめてしまったと判断されるのである。
 この他にも、書誌学に関わる諸々の疑義が多々有り、異体字や脱字・加字・誤字及び語句の転倒なども重要な問題ではあるが、これらはあまりにも量が多くて軽々しく断を下し難いため、今後蓋然性乃至は妥当性が持てるだけの比較対象資料が集積されてから論及する事として、今ここでは触れないでおく事としたい。

トップへ

   4、竄入と脱文に関わる問題
 『藝文類聚』に於ける抄撮文献の下限はほぼ隋代であり、巻一から巻五までの間には年代不詳の文献が三十六種挙げられるが、それは魏晋南北朝時代の何時か不明なだけに過ぎず、基本的に隋代以前である事に変わりはない。所が現行本『藝文類聚』には唐代詩人の詩文が何編か採取されているのである。これは早く北宋時代に於いて『藝文類聚』に残缺が生じ、その部分に後人が竄入を加えたためで、この事は、既に南宋の葉大慶が『考古質疑』巻一の中で、

  「藝文類聚は、唐の太宗の時、歐陽詢の編する所なり。而るに蘇 ・李・沈・宋の詩有り。是れ皆後人の加ふる所、人をして疑類無き能はざらしむること此の如し、觀る者知らざる可からず。 」 (藝文類聚、唐太宗時、歐陽詢所編也、而有蘇李沈宋之詩、是皆後人所加、使人不能無疑類如此、觀者不可不知)

と指摘しており、蘇味道(六四八〜七〇五)も李キョウ(六四四〜七一三)も沈セン期(?〜七二九)も宋之問(?〜七一二)も全て武徳七年(六二四)以後の人々であれば、物理的に彼等の詩が『藝文類聚』に採取される事は有り得ず、後人の竄入に因る結果である事は明白である。しかし、後人の竄入はこれだけに止まるものではなく、『藝文類聚』の校訂を行った汪紹楹は「校藝文類聚序」の中で、

  「実際上はこの四人に止まるものではない。正月十五日篇の崔液 ・月晦篇と洛水篇の唐の太宗李世民・寒食篇の李崇嗣・七月十 五日篇の楊烱の如き人々は、全て唐人である。」(実際上還不止 四人、如正月十五日篇中的崔液・月晦篇和洛水篇中的唐太宗李世民・寒食篇中的李崇嗣・七月十五日篇中的楊烱、都是唐人)

と述べて、崔液(中宗・玄宗時代)・李世民・李崇嗣・楊烱(六五〇〜?)の四人を列挙しているが、実は更にこの他にも牛鳳及(太宗・高宗時代)・董思恭(太宗・高宗時代)の二人が挙げられ、結果十人十六種の詩が竄入させられており、しかもそれらは、巻二の天部・巻四の歳時部及び巻八・九の水部のみに集中して加えられている。具体的に言えば、蘇味道は巻二天部下の虹の項に詩一首・巻四歳時部中の正月十五日の項に詩一首・巻八水部上の洛水の項に詩一首の合計三首、李キョウは巻八水部上の洛水の項に詩一首、沈セン期は巻四歳時部中の寒食の項に詩一首、宋之問も巻四歳時部中の寒食の項に詩一首、崔液は巻四歳時部中の正月十五日の項に詩三首、李世民は巻四歳時部中の月晦の項に詩一首・巻八水部上の洛水の項に詩一首・巻九水部下の橋の項に詩一首の合計三首、李崇嗣は巻四歳時部中の寒食の項に詩一首、楊烱は巻四歳時部中の七月十五日の項に賦一首、牛鳳及は巻八水部上の洛水の項に詩一首、董思恭は巻二天部下の虹の項に詩一首と言う具合である。
 では、これらの竄入は一体何に依拠して行われたのかと言う事になるが、結論を言えば、『初学記』以外には考えられない。『藝文類聚』に於ける竄入箇所を『初学記』の該当箇所と比較してみると、例えば、虹の項に於ける『初學記』の董思恭・蘇味道と『藝文類聚』の董思恭・蘇味道、正月の項に於ける『初學記』の蘇味道・崔液・崔液・崔液と『藝文類聚』の蘇味道・崔液・崔液・崔液、月晦の項に於ける『初學記』の李世民・盧元明・魏収と『藝文類聚』の李世民・魏収・盧元明の如く、詩題は言うに及ばず配列順序さえも、符号を合わせたが如く類似し、唐人に関しては、その順序が完全な一致を示している。故に、竄入が『初学記』に基づいて加えられたものであるとする判断は、可成り蓋然性の高い結論であると言えよう。この事は、脱文の問題からも傍証出来る。
 脱文に関しては、巻五歳時下の寒の項に詩の脱文が有ったと判断される。元来巻五は、その構成項目が社・伏・熱・寒・臘・律・暦となっており、もともと詩に馴染まないものが多いが、それでも全体では二十一篇の詩が引用されている。しかし問題なのは、熱の項に十五篇の詩が引用されているにも関わらず、熱と対をなす寒の項には一篇の詩も引用されていないと言う事である。この事は、「寒」を詩題に含む詩が無かったとか、「寒」のつく詩語が極めて過少であったとかを意味するものでは決してない。むしろ実態としては、詩語は言うに及ばず詩自体も「寒」に関わるものの方が多いと言えよう。
 因みに思い付くまま唐以前の詩を列挙すれば、陶潛が「夕に向ひて長風起こり、寒雲西山に没す」と詠じた『歳暮和張常侍詩』とか、張協が「寒花黄采を発し、秋草緑滋を含む」と詠じた『雑詩』とか、或いは阮籍の『詠懐詩』の「廻風四壁を吹き、寒鳥相因り依る」とか、ユ信の『上益州上柱国趙王詩』の「寒沙両岸白く、獵火一燈紅し」とかが、容易に想起されるはずである。にも関わらず、寒の項には一篇の詩も採取されていないのである。寒の項に於けるこの様な傾向は、『藝文類聚』だけに限った特種な状況なのか、或いはそれとも前後の類書も同様なのか、元来類書は、先行類書からの孫引きに因って編集される傾向が甚だ強く、『藝文類聚』は『北堂書鈔』から孫引きし、更に『太平御覧』は『藝文類聚』から孫引きして各々編集されている事は、南宋の陳振孫が『書録解題』巻十四『太平御覧』の項で、

  「前代の修文御覧・藝文類聚・文思博要及び諸書を以て参詳し、 條次修纂す。・・・或いは言う、国初は古書多く未だ亡びずと、 御覧の引用する所の書名を以ての故なり。其の実は然らず、特だ前の諸家の類書の旧に因るのみ。」(以前代修文御覧・藝文類 聚・文思博要、及諸書参詳、條次修纂、・・・或言、国初古書多未亡、以御覧所引用書名故也、其実不然、特因前諸家類書之 旧爾)

と示唆するが如くである。そこで、先行の『北堂書鈔』と後発の『太平御覧』とを見てみると、『北堂書鈔』には、傅玄の詩二篇・袁淑の詩二篇・応キョの詩一篇・任豫の詩一篇・曹ヒの詩一篇の合計七篇の詩が採取されている。一方『太平御覧』にも、傅玄・袁淑・応キョの詩が各々一篇づつ計三篇の詩が採取されている。『北堂書鈔』から『藝文類聚』へ、『藝文類聚』から『太平御覧』へと言う状況の中に在って、先行の『北堂書鈔』と後発の『太平御覧』とに採取されているにも関わらず、中間の『藝文類聚』だけが一篇も詩を採取していないと言う事が、一体何を意味しているのであろうか。脱文以外には考えられないであろう。
 本来『藝文類聚』成立時には寒の項に詩が採取されていたであろうが、恐らく宋代に於ける冊子本改編時当たりに詩の部分が脱落したと判断されるのである。では脱落したのであれば、何故先の竄入の如く『初学記』に依拠して加えなかったのであろうか。答えは極めて明白である。残念ながら『初学記』には寒の項が設定されていないのである。則ち、『藝文類聚』に於ける脱文に関しては、『初学記』に有るものに就いてはそれに依拠して竄入が加えられ、無いものに就いては脱落したまま現在に至っていると考えられるのである。

トップへ

   5、古典籍と詩賦類保存に関わる問題
 『藝文類聚』が唐以前の古典籍に関して、例え断片とは言え既に散逸して失われた文献を多量に保持している事は、『四庫全書総目提要』が巻百五十三の『藝文類聚』の項で、

  「然れども隋以前の遺文秘籍、今に迄るまで十に九は存せず。此の一書を得て、尚ほ略考證に資す。」 (然隋以前遺文秘籍、迄今十九不存、得此一書、尚略資考證)

と言うが如く、引用文献の九割弱が現在既に散逸してしまい、その原貌を伺う事すら不可能な書籍が極めて多い。例えば、崔霊恩の『三礼義宗』とか謝承の『後漢書』とか司馬彪の『九州春秋』等々がその代表的なものとして挙げられるが、その中でも特に重要だと思われるのが、盛弘之の『荊州記』や王韶の『始興記』及び『鄭玄別伝』や『張華別伝』などに代表される、当時の各地方の状況や個人の歴史を記した資料であろう。これらは全く『藝文類聚』を待って初めてその一斑が窺われるのである。そのため清朝に至り考証学の高揚と共に亡佚書収集の機運が高まると、『藝文類聚』に資を仰いだ輯佚書が陸続として制作され出し、黄ソウの『漢学堂叢書』・王謨の『漢魏遺書鈔』・馬国翰の『玉函山房輯佚書』及び洪頤センの『経典集林』や湯球の『三十国春秋輯本』等がそれである。
 無論量的多さから言えば千巻に及ぶ『太平御覧』の方が便利ではあるが、既述の如く『太平御覧』自体が『修文御覧』・『藝文類聚』・『文思博要』などに原資を求めており、しかも『修文御覧』と『文思博要』とが既に亡佚して伝わらぬ現状に於いては、『藝文類聚』の重要性たるや他言を要しないであろう。ただ問題なのは、これらの輯佚書に引用されている『藝文類聚』の文が、現行本『藝文類聚』に存在しなかったり或いは有っても文章が異なっていたりする場合が多々見受けられる事である。この点に関しては、輯佚者の単純なる誤引なのか、或いは彼等の使用した『藝文類聚』の版本が異なっているのか、いずれにしても今後の『藝文類聚』自体の版本研究の結果を待って判断せねばならない。
 所で『藝文類聚』に在って、亡佚古典籍以上に貴重だと思われるものが、南北朝時代の詩賦類であろう。唐宋変革期に於いて多量の文献が失われた事は言を待たず、現に『隋書経籍志』には唐以前の個人詩文集として四百五十人の別集を記載しているが、ほぼ六百年後の成立である『宋史芸文志』には僅か五十三人の別集を止めるだけである。況や現在一般的に使用する四部叢刊には十二人の別集を採録するに過ぎず、せいぜいこれに『文選』と『玉台新詠』が加わる程度である。陳振孫が『直齋書録解題』巻十四で、

  「其の載する所の詩・文・賦・頌の属、多く今世無き所の文集な り。」(其所載詩文賦頌之属、多今世所無之文集)

と言うが如く、将に魏晋南北朝の詩文は『藝文類聚』有るが故に泯没を免れたと言えよう。今その状況を巻一から巻五にかけて具体的に見てみると、唐人の詩文を除く採取詩文数は四百二十七種であるが、その中の八割弱に当たる三百三十九種が唐末に滅んだ別集の詩文に他ならない。明の張溥の『漢魏六朝一百三家集』や清の嚴可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』は言うまでもなく、宋の周必大校訂の『文苑英華』でさえ、『藝文類聚』中の詩文を資料として使用していれば、先の古典籍と同様にこれらの資料を使用する時には、やはり『藝文類聚』との慎重な校合が必要であろう事は、巻五までの解読中に提示された詩題や詩語の相違や異同が端的に示唆していると言えるのである。

トップへ

   おわりに
 以上五点に亘り、『藝文類聚』に関する疑義と価値とを提示して来た。無論それは、巻一から巻五までと言う極めて少ない範囲を中心としたものに過ぎず、或いは木を見て森を見ない錯誤を犯しているやもしれない。今後解読が進めば進む程、新たな疑義が生じまた今回の問題を訂正しなければならない状況が将来される事は他言を要しない。ただ、現状で一つだけ明言出来る事は、抄撮傾向であれ表記形式であれ、あまりにも統一性に欠けると言う事である。この統一性の欠如と言う点に関して、最後に一つだけ事例を挙げておこう。それは、巻五に於ける『春秋左氏伝』の表記形式である。社の項に引用する昭公七年の文に就いては「左伝昭上」と言い、寒の項に引用する宣公十一年の文に関しては「左伝」と表記し、更に律の項に引く昭公二十年の文では「左氏伝」と言っている。この同じ巻中に在っての三様の表記の仕方こそ、統一性の欠如を端的に示していると言えるのではないだろうか。
 この様な、『藝文類聚』に見られる表記の不統一性は、将に多人数を動員して短時間に編集した事に起因するものであろう。現状では、歐陽詢を初として奉勅編修の任に当たった人々が、具体的に如何なる作業に参与したのか判然としない。否、むしろ実務には何も携わっていなかったのではないのかと想像される。この表記の不統一性は、実働部隊に因って編修された生原稿を、改めて校訂整理を加える事無く、編修されるや否や序文を草して奏上されたのではないのかと推測される。或いは、全百巻と言う数量の多さに比して僅か二年半と言う短過ぎる制作期間自体が、その事を暗々裏に物語っているように思えてならない。だからと言って『藝文類聚』が、現存最古の完本類書たる価値を失うものでは決してない。ただ、我々が『藝文類聚』を資料として使用する時、他の文献以上に慎重な内容吟味が要求されると言う事であろう。

      歳在乙亥年底                             識於黄虎洞

トップへ


[論文Aに戻る]