通稱「『藝文類聚』班」始末記

〜「まさか」の坂(百年坂)に登らされた不幸な研究員達〜

本ページは、『藝文類聚卷四十八 訓讀付索引』の「あとがき」からの転載である。

 

通稱「『藝文類聚』班」始末記「まさか」の坂(百年坂)に登らされた不幸な研究員達

 これは、本人達の意志とは無關係に、「漢文訓讀の蟻地獄」に嵌ってしまった人々の、悲しくも可笑しい悲喜譚である。

 『藝文類聚(歐陽詢等奉勅撰)』百卷は、唐の高祖の武徳五年(622)に作られた現存最古の完本類書で、天部以下災異部に至る四十八部門に分け、更にそれが七百二十七目に細分され、先ず事實(経・史・子に属する文獻)を引用し、次いで詩文(集に属する文獻)を採取している。

 引用古典籍は九百種以上、引用詩文は五千種以上で、隋唐變革期や唐宋變革期に、膨大な書籍が散逸した事例から考えるに、この『藝文類聚』が、現在亡逸している六朝時代の詩文を多く殘している點は、縦え斷片的とは雖も、書誌學的に貴重な部分であると言えよう。

 この書の引用文獻の下限は隋朝までで、唐朝人の作品を採取することは、本來的に有り得ないが、現行本の『藝文類聚』には、唐朝人の詩文十六種を含んでいる。それは、蘇味道・李嶠・沈佺期・宋之問・崔液・楊炯・李崇嗣・牛鳳及・董思恭・太宗の十人で、彼等は武徳五年以後に活躍する人々であれば、その詩文は後人の手に因る竄入であり、採録部門や採取内容の一致等から類推するに、恐らく唐代中期(玄宗時代・713〜755)の後發類書である『初學記(徐堅等奉勅撰)』から、取り込んだのであろうと思われる。亦た、完成奏上時に付せられた歐陽詢の敍文中には、太宗の諱(世民)を避けた言葉(「命世」→「命代」)が有り、更に彼自身の官名も全て太宗の貞觀年間のものである點等、明らかに後人改筆の跡を暗示している。

 この事は、現存宋版の版本化される以前に、既に『藝文類聚』には欠損部分が存在し、縦え百卷を殘す完本とは雖も、必ずしも武徳五年の成立時そのままの完本ではない、と言う事である。

 この書が、夙に日本に傳わっていた事は、寛平年間(889〜897)に勅を奉じて藤原佐世が編した『日本国見在書目録』雜家の部に、「藝文類聚百卷」と言う記載が見られるが如きであり、それが日本の古典文學や日本の類書に多大な影響を与え、特に王朝文學作品や律令關係史書等に、『藝文類聚』からの引用と類推される文章が、多々散見する。更に『日本書紀』編纂時の工具書として使用されている、とも言われている。

 その様な意味で、この『藝文類聚』は、日中双方の文學的作品を研究する上で、貴重な資料を提供している書籍、と言えるであろう。この『藝文類聚』讀解に關する研究班が、その標題を「日中文學の比較文學的研究班」とした由因は、將にこの點にこそ存するのである。

 所で、昭和60年に東洋研究所教授遠藤光正氏を中心に、同好の士に因りこの『藝文類聚』讀解の試みが着手され、61年に正式な研究班として東洋研究所内に「日中文學の比較文學的研究班」所謂「藝文類聚班」が設立された。

 その後、研究員間で「ただ讀解しっぱなしでは意味がないから、公刊しようではないか」、との具體的な後先を考えぬ無謀な機運が大いに盛り上がり、平成2年から随時刊行され出したのである。

 筆者は、昭和62年(37歳時)に遠藤光正氏の招聘を受けて以來、今に至るまで三十數年この作業に關わっているのであるが、正直な事を言えば當初筆者は、「何を無茶苦茶な、正氣の沙汰ではない、世迷い言の行爲だ」と思っていた。

 何故なら、『藝文類聚』は類書であり、一種の百科事典である。しかもその採用文獻は全文ではなく、單に項目に擧げられた語句を含む文章を斷片的に集めたものであり、且つ原文の文意を勘案しての採取ではなく、單にその語句が有ると言うだけのアトランダムな採取(事實に關しては殆どがそうであり、詩文に關しても必ずしも全文とは限らない)である。更に言えば、採取人のスタンスの違いに因り、同一文獻であっても、項目の違いに因りその表記も一様ではない。將に同類の語句を集めただけの所謂「類書」に過ぎないのである。

 どだい昨今の如き、授業以外の諸業務で忙殺され、本來的研究活動さえも儘ならぬ日々に、追い回されている大學教員で、縦え毎月一回の研究會とは雖も、十全の豫習をして百科事典を讀解し様等と考える者が居るであろうか。常識的な思考に基づけば、百科事典は、必要に應じて必要な箇所を檢索する工具書であり、要するに「道具」以外の何物でも無いのである。

 それでも敢えて類書採取の文獻を讀みたいと思うなら、清朝以來多くの輯集書が作られており、それを讀めば大概事足りる。例えば、『黄氏逸書考』『漢魏遺書鈔』等であり、斷片的で好ければ『説郛』や『玉函山房輯佚書』等も有る。史であれば『八家後漢書輯注』『九家旧晋書輯本』等、地理であれば『漢唐地理書鈔』『漢唐方志輯佚』等、雜説であれば『五朝小説大觀』『説庫』等、文章であれば『全上古三代秦漢三國六朝文』『漢魏六朝百三名家集』等、詩であれば『先秦漢魏晉南北朝詩』等々である。

 當初は「道具の解説ならともかく、工具書自體の讀解など、何と愚かで馬鹿げた事か」との思いが彊く、書誌學的にも疑問に感ぜざるを得ない様な作業等も有ったが、「五十、六十まだヒヨコ」と喧傳される斯界で、ヒヨコにも到達していない若造否餓鬼の意見など、聞き入れられ様も無く、何か言い様も無い實に複雜且つ暗澹たる氣持ちで參加していた。

 しかし一方で、「漢文の讀み屋・訓讀屋」としては、「世界初の訓讀・六朝の詩文」と言う點に、心が疼いて血が騒ぎ、訓讀屋としての更なる技を磨きたい、未知の漢文との七転八倒の苦闘を樂しみたい、と言うわくわく感當時は職を奉じて略十年程で、専ら意を論文らしきものを書くのに傾注し、恒常的な漢文讀解から離れており、讀み屋としての飢餓感が有ったが爲)が若干有ったのも事實である。

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 平成2年、四年間の準備作業を經て『藝文類聚卷一 訓讀付索引』が、公刊された。その時、主任研究員であった遠藤光正氏が、如何様な装丁に仕上げれば研究員一同の共著になるのか、諸々熟慮を巡らし關係諸士と協議を重ねられた結果、現在の如き形式になったのであるが、その苦勞を垣間見られていた研究所の課長であった松田氏が、當時の文部省の擔當者に、「今後、全百卷を毎年一卷づつ公刊する豫定ではあるが、この書は如何なる位置づけの出版物になるのか」と問い合わされた所、「學術刊行定期著作物」である、との回答を得た。

 「瓢箪から駒」とはこの事であろう。當初の研究員達が本當に全百卷の完讀を期していたか否か、今となっては不明(恐らくは取り敢えずの作業であったと、勝手に想像している)であるが、兎にも角にも文部省の豫期せぬ回答を得て、「毎年一卷づつの公刊」つまり「百年計画の完遂」と言う行爲、有り體に言えば冗談も過ぎるぞと愚痴も言いたく成る様な、想定外の「まさか」の坂(百年坂)の登坂が、研究班繼續の大命題となり、結果として不幸にも研究員は、將來にまで渉っての無謀で苛酷な責務を背負わされ、この『藝文類聚』讀解の作業に參畫せねばならなくなったのである。

 確かに當初は周圍の同學の方々からの白眼視や批判も多々有った。「事典など解讀して何の意味が有るのだ」「類書を讀解するなど氣違い沙汰だ」等々、實に嚴しい言葉を浴びせられること雨霰の如きであったが、一度背負った責務を今更放り出す譯にも行かず、「これこそが、學院創設以來の傳統的作業の一つだ」と己が心に言い聞かせ、引くに引けぬままひたすら堪え忍んで突き進んで來た、と言うのが偽らざる心境であった。とは言え流石に三十年も續けている爲であろうか、幸いにも現在では、一部の研究者や中國關係の學會誌等でも取り上げて頂ける様にもなった。

 爾来三十數年、研究員の顔ぶれは多く變わったが、一貫して變らぬ人々は、當初大學院生であった芦川俊彦氏、學部教員であった成田守・日吉盛幸・浜口俊裕・中林史朗の諸氏である。既に成田・日吉は大學を定年(70歳)退職し、浜口・中林も今年度限り、芦川も早六十前である。互いに頭が薄くなり老境となった顔を見合わせると、實に歳月の長さをひしひしと感じざるを得ない。

 亦た一際氣苦勞の絶えないのが、この研究班を率い纏める代表者たる主任研究員であるが、初代主任研究員遠藤光正(第11代東洋研究所所長)から二代主任研究員福田俊昭(第13代東洋研究所所長)・三代主任研究員中林史朗(第15代東洋研究所所長)と受け繼がれ、令和2年4月からは四代主任研究員田中良明(東洋研究所准教授)氏が、苦勞を重ねながらも鋭意運營を主催される事になるのである。

 現在公刊されているのは、卷一から卷十六までの十六冊、卷四十五から卷四十八までの四冊、卷八十から卷八十九までの十冊、合計三十冊(何故飛び飛びであるかと言えば、好き勝手をほざく研究員達を纏め上げ、時間に追われて胃が痛くなる様な激務の主任の、本來的研究専門分野を少しでも活かしたい、と言うささやかな我が儘を、研究班が受け入れた結果)であり、平成2年以後欠年を作る事無く、順調に(研究員の獻身的努力の結果)毎年必ず一卷づつを公刊し續けている。

 全百卷からすれば、殘り七十年の大仕事となり、氣の遠く成る様な作業ではあるが、一方では、既に略三分の一は終了した事にもなる。「石の上にも三年、繼續こそ力なり」と思えば、樂天的に過ぎるとの御叱りを受ける事は、重々承知してはいるが、とは言え彊固な意志さえ持ち續ければ、「訓讀百年」は決して夢物語の作業ではない、と敢えて固く信じて疑わない。何故なら、あの徳川光圀に因って開始された『大日本史』の編纂期間の長さ(二百五十年弱)に比べれば、本班の作業期間は、其の半分以下にも至らないからである。

 因みに、敢えて申し添えておけば、本研究班の研究員達は、初代主任研究員遠藤光正氏が、日本の類書に於ける引用漢籍の傾向を、主的研究對象とされていた以外は、誰一人類書の専門家など居ないのである。現在のメンバーは、中國の思想・文學・歴史・書學に日本の文學・歴史を専門とする方々で、己の本來的専門研究分野を考究する以外に、全く異なった作業に多大な時間と勞力を費やさねばならぬ行爲であれば、各研究員達の苦勞も竝大抵ではない。

 故に本作業は、『藝文類聚』採取文獻の文意や現行本との異動等々を勘案しながら、ひたすら漢文訓讀に邁進すると言う、極めて陰々滅々たる勞苦(僅かな言葉の意味と讀みに、一時間近くも激論を交わす)と、惻々隱々たる忍耐(互いの意見を尊重し認め合って妥協點を捜す)との、繰り返しの日々であったと言える。それでも研究員達の間に在った唯一の共通認識は、何はともあれ「漢文訓讀は面白い」と言う意識の共有で、結束している點であろう。この唯一の共通認識だけを頼りとして、三十數年來繼續運營されて來た研究班であれば、その結束點(漢文訓讀は面白い)を失わない限りは、各自の専門が何であれ、本班は將來的にも運營され續けるであろう。

 因って、元來漢文訓讀があまり好きではない人々、或いは訓讀自體を否定される識者にとっては、單なる愚かな難行苦行、或いは馬鹿げた自虐的行爲以外の何物でもない、と感得されるであろう。故に本作業は、中國學の表の顔として光り輝く様な仕事(學界の將來に影響を與へるが如き華々しい研究成果)では決してなく、其れを裏で支える地味な職人的仕事(基本的且つ基礎的作業)の一つにしか過ぎないのである。則ち、其の成果を決して聲高に誇る事はしないが、然りと雖も、同時に自ら徒に卑下する事もしない。

 斯く雖も、この地味な作業が、恒に十名前後の研究員達に因って運營繼續されている現状こそが、「大東文化學院」開校(大正13年)の既に一年程前に、漢学振興の推進を目的として開設された、「大東文化協會」の研究部門(東洋・比較兩研究部)の流れを汲む「大東文化研究所」(昭和29年研究所設立時に、協會出版部の尾張真之介が研究所所長に、協會幹事の土屋竹雨が研究所理事に、協會教化部の鵜澤総明が研究所教授に、各々就任している)を繼承した「東洋研究所」(昭和36年大學付属)の、將に研究所たる所以でもある。

 本作業は、平成2年に當時の文部省から「學術刊行定期著作物」との認定を受けたのみならず、本年平成31年2月には、大學が文部科學省に申請していた「私立大學研究ブランデイング事業」が選定され、本研究班は、その選定ブランデイング事業の一班を擔うことにも成った。因って、本當の意味で本作業は、研究員達の勝手な都合で止めるとは、言いたくても言え無く爲ったのである。大仰な言い方をすれば、「勝手な中止は國家に對する背信」と言え無くもない。此れは研究員にとって、喜ぶ可き事か、將又悲しむ可き事か、悲喜交々の感情が千々に亂れて渦卷いているが、一つだけ明白な事は、「殘り七十冊、石に齧り付いても出し續ける」と言うことである。

 筆者は、令和2年3月を以て大學を退任し、本研究班の讀解作業からも隱退する豫定であったが、圖らずも引き續き東洋研究所兼任研究員を拜し、今後もこの作業に參加し續ける恩寵を賜った。因って、現職の「漢文の讀み屋・訓讀屋」として一生を終える機會を賜った關係諸士には、満腔の謝意を表させて頂く。

 とは言え、筆者の生存中に百卷の完結を見る事は決して無い。恐らく、棺を蓋いて後數十年後に、その日はやって來るであろう。「讀み屋」として見果てぬ夢を追い續け、最後は彼岸の彼方から、それを眺める事になるのである。 

 今、退任に當り、學生時代に於ける二人の恩師の言葉が、筆者の脳裏を走馬燈の如く駆けめぐっている。「原田先生曰く、中林、漢字で書いてあるものは何でも讀め、多讀と精讀だぞ、讀んだ數だけお前の知識が増えると思へ」、「影山先生曰く、中林君、文獻に額ずき學僕になりなさい、學僕ですよ、學問の下僕たる事を心懸けなさい」。果たして己は本當に「何でも讀んで來たのであろうか」、將又「學僕たり得たのであろうか」。悔悟と自責の念しか持ち得ぬ現状ではあるが、この答えも何れ彼岸で直接お聞きする事になるであろう。

 辛也・苦也の讀み屋の一生、然りと雖も茲れも亦た善哉・樂哉。

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 以下、冷汗浹背是萬斗の極ではあるが、瑕疵と悔恨塗れの訓讀屋人生五十數年來の所感の拙文を、一言付記させて頂く。

 

【惜 別 辭(退泮宮表謝辭)

 

我駑才駄馬、縦令喰萬里糧而不能行一里也。猥以庸薄凡劣、深汚學徒末席。

迄今五十餘年、束脩無稱、卓鑒不内朗。統御無績、風任不外舒。加之幽根未蟠結、孤株將危絶。

固知才弱不可自彊、力微難以企及。如才行過汚文質無廉何。

嗟夫、才力是匱、何コ何能之有。

 

自非器揚同輩以抽榮於岱嶽、用同先人而振潁於荊峯、何以延足於儒林、挿手乎文苑。

是以雖纔冀垂冬日之温盡秋霜之戒、而此亦遂不能果矣。然則唯有耕山釣川之志耳。

 

俚諺云、巍巍焉秀峰棲一枝蜉蝣、洋洋乎大川浮一葦螘蟻。先期則風和雨暖、臨時而日朗月耀。

善哉、善哉。蜉蝣又一生、螘蟻又一生。風雨日月下、吾生亦一生。

若逢陽春至、秋葉再吐緑。況天地四海、無何處非我屋乎。

 

不自意、今一日垂乾坤之仁輒被信璽、茲二日降雲雨之潤廼賜殊寵。

タタ惶惶、日夜來襲我、戰戰慄慄、心氣無攸綏。就中存亡日鑒、成敗月陳。

故雖心有慟天哭地之恐懼、而尚身存鞭驢叱狗之答酬矣。

 

人咸知鏡其貌而莫能照其身。既軼從心、未不踰矩。顧影慙形、流汗反側。

進匪顧己身、止無悟我才、不遜莫大於是矣。

 

雖然潛氣於洞庭而標一善足以驗風流、擬心乎泰山而存小讓足以弘進止。

聞道、身與煙消、名與風興、形可以暴、志不可凌。

今以鄙陋草身、將詠狂骨孑歩。故敢言、遠愧南董、邇謝馬班。

夜カ自大之言、欲嘲嗤則嘲嗤、欲罵詈則罵詈、云爾。

 

辭曰、

眼中無人胸底有矜、脳奧無耻姿態有俠

白首浪虎喚風嘯月、高踏獨歩横行天下。

嗚呼、大東漢學邪、琢玉成器、亦勿違於昔談。

嗟夫、大東訓讀歟、振條響樹、將無絶乎千載。

勿兮勿兮、勿違乎、當勿違焉。

無兮無兮、無絶乎、應無絶焉。

    令和元年仲夏之月                                         於黄虎洞

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