『後漢紀』の解説

本ページは、明徳出版社『後漢紀』(平成11年4月出版)の解説部分を抄訳転載したものである。


     はじめに
   
1、東晉の学術に於ける史書の隆盛
   
2、作者袁宏の生涯
   
3、『後漢紀』の内容とその編纂意図
   
4、『後漢紀』の版本と研究書


        はじめに

 本解説文は、『大東文化大学漢学会誌』第32号(1993年3月)掲載の拙論「袁宏管見〜 政治的動静と『後漢紀』〜」を抄録し、更に若干の訂正及び加筆(『後漢紀』の版本と研究書)を加えたものである事を明記しておく。

   一、東晋の学術に於ける史書の隆盛

 『後漢紀』が書かれた東晋は、以後宋・斉・梁・陳と展開する漢人政権南渡後最初の王朝であるが、東晋の成立からほぼ二百五十年に及ぶ南朝全体の学術傾向を一見すると、修辞のテクニックを追求して華々しく展開した文学(詩文)とは裏腹に、伝統的な経書を中心とした学問は、後漢末荊州学の展開や鄭玄・王粛の論争等と比較するに、概して低調であったと言える。それは、ほぼ五十年から二十年と言う短い間隔で政権交替を繰り返すと言う、政治的不安定さと混乱が錯綜する激動の時代であり、同時にその様な政権に任官する士人は、家門の永続的優位性を維持せねばならぬと言う社会的価値観を担わされていた人々である。つまり彼等は、公的には非永続的現実社会に身を置きながら、私的にはそれとは逆に一族一家の安定的永続性に腐心せねばならなかったのである。とすれば、この様な生活態度は当然学術方面にも微妙な影響を与え、彼等の学問に対する思考は、その主体的意識を現実の政治的イデオロギーに対する直接的対応から遠ざけ、内省的な宗教や単なる歴史事実の記録、及び言語に因る言語自体の活動世界へと興味を向けさせ、結果として、仏典・歴史・詩文に関する著作の夥しい増加と言う南朝著述傾向の特徴を出現させたのである。

 では南渡後最初の王朝である東晋の学術傾向は何如であったろうか。南朝を覆う全体的風潮が見られなかったとは言えないが、それでも当時の著作を見る限りに於ては、未だ政治に対しての拘わりと情熱を失ってはいなかった様に見受けられる。それは、袁宏を代表として孫盛や習鑿齒等の著作にも窺える、歴史事実に対する論評の中で迂遠に当代的政治問題に言及すると言う傾向であり、劉宋以後の如き極端な政治的冷淡さは可成り少ない。恐らくそれは、何如に僅かであっても河北回復と言う政治的願望が、まだ夢として語られる時代であったが為に他ならない。東晋の学問は、魏晋以来の清談の流行に伴い老荘思想や仏教が盛行する一方で、彼等の行動規範となった礼教関係にも興味を示し(干宝の『周禮干氏音』・孔倫の『集注喪服経伝』・范寧の『礼雑問』等)てはいるが、概して経学は不振であり、狩野直喜氏が『魏晋学術考』(一九六八年、筑摩書房)の中の「晋の経学一般」で「ひろく学びそのよいものを採る風となり、よく云へば自由なり、悪く云へばずぼらの学風となるものなり」と看破されたが如く、文学の華々しさに比べて思想分野の雑白性は否めない。元帝は建武元(三一七)年に史官を置いて太学を建て、次いで太興二(三一九)年から三年にかけて周易以下九人の博士を、次年には儀礼・公羊の博士を各々一人増設してはいるが、これに因って経学が往時の隆盛を示すことはない。試みに当時の経書に関する代表的著述を列挙すれば、梅の『古文尚書』・范の『春秋穀梁伝集解』・郭璞の『爾雅注』ぐらいであり、東晋百年の間に在っては実に寥々たるものを覚える。

 これに比べると史書は著しい増加を示す。その中でも特に後漢時代と晋時代に関するものが多く、後漢については謝沈・袁山松・張瑩・袁宏・習鑿齒等のもの九種類、晋代については王隱・虞預・朱凰・干寶・ケ粲・孫盛等のもの十二種類が挙げられる。今「経」と「史」の作者を一瞥した時にあることに気が付く。則ちそれは、所謂東晋門閥社会に在って比較的名門に属する人々が、「史」では陳郡陽夏の袁氏、太原郡中都の孫氏を初めとして、江南土着豪族の習氏・謝氏等々がいるが、「経」では潁川郡臨潁の范氏に連なる范しか存在しないと言う点である。このことは、彼等門閥に属する人々の現実的興味が、「経」よりも「史」の方に在ったことを端的に示唆しているが、本より門閥自体が家門の歴史的継承であれば、彼等が歴史的変転の有り様をより強く意識したであろうことは当然の帰結であり、このことは、家系の歴史を叙述した『家譜』とか『家伝』とか称する書物が、突然多量に出現する事例からも窺える。『隋書』巻三十三経籍志二の史部には二十九種の『家譜』『家伝』を載せるが、それ以前の『世説新語』劉孝標注に引用される『家譜』『家伝』は三十五種に上り、将に南朝門閥を網羅した感が有るが、これは注に引用されている数であれば、実際に制作された数は遙かに多かったと想像される。

 とは言っても、東晋に於ける史書の増加が、当時の社会状況と彼等の興味の所在とに依拠した現象であるとは、必ずしも言い切れない。これら以外に、書籍の中に於ける史書自体の位置づけが魏晋の間に大きく変化した点が挙げられる。周知の如く中国に於ける書籍の整理校訂を最初に行ったのは、前漢末の劉向・劉?父子であり、彼等の『別録』『七略』に依拠して制作された現存最古の目録が、後漢の班固が著した『漢書芸文志』(本シリーズを参照)である。しかしこの『芸文志』には、「六芸略」「諸子略」「詩賦略」「兵書略」「数術略」「方伎略」の六類が有るだけで、史書に関する項目が見当たらない。これは『芸文志』に史書の記載が無かったことを意味するのではなく、この時点では「経」に属する「六芸略」春秋の項に十二編の史書が付載されており、未だ独立した一項目を立てるまでには至っていなかったと言うに過ぎないのである。この後ほぼ二百五十年後の魏末に至り、四部分類の出現に伴い「史」は独立した一項目を獲得し、次いでほぼ五十年後の東晋初期に至り、「史」は「経」に次ぐ位置を獲得し、以後今に至るまでそのポジションは変わることが無い。この間の経緯は『隋書』巻三十二経籍志一に、

  魏の秘書郎鄭黙、始めて中經を制し、秘書監荀勗、又た中經に因りて更め  て新簿を著し、分かちて四部と爲し群書を總括す。一を甲部と曰ひ六藝及  び小學等の書を紀す。二を乙部と曰ひ古の諸子家・近世の子家・兵書・兵  家・術數有り。三を丙部と曰ひ史記・舊事・皇覧簿・雜事有り。四を丁部  と曰ひ詩賦・圖讃・汲冢書有り。太凡四部、合して二萬九千九百四十五巻。  但だ題及び言を録し、盛るに縹嚢を以てし、書するに|素を用ふ。作者の  意に至りては、論辯する所無し。惠・懐の亂、京華蕩覆し、渠閣の文籍、  孑遺有る靡し。東晉の初、漸く更めて鳩聚す。著作郎李充、勗の舊簿を以  て之を校するに、其の見存せる者、但だ三千一十四巻有るのみ。充遂に衆  篇の名を總没し、但だ甲乙を以て次と爲す。自爾因循し變革する所無し。

と、記載されている。ここに登場する鄭黙・荀勗・李充の作業に関しては、ほぼ同様の内容が『晋書』の各本伝に記載されているが、李充の具体的内容が今一つ判然とせず、荀勗の段階で第三位の丙部に在った史書が第二位の乙部に移行した明証が見出せない。しかし、現行本『晋書』や『隋書』の成立よりも遙かに古い臧榮緒の『晋書』(『文選』巻四十六、王文憲集序李善注引)には、明らかに「五經を甲部と爲し、史記を乙部と爲し、諸子を丙部と爲し、詩賦を丁部と爲す」と記されており、東晋初期李充の段階で「史」が「経」に次ぐ地位を獲得したことが分かるのである。この「史」の地位向上が、東晋の中期から末期にかけて陸続と史書の編纂が行われている現実に、全く影響を与えなかったとは言えないであろう。

 則ち、東晋に見られる史書の盛行は、当時の社会体制状況・人々の興味の方向性・史書自体の地位向上と言う三つの要素が結合した結果、将来された現象であると理解され、その様な状況下で袁宏が『後漢紀』を著すのである。

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   二、作者袁宏の生涯

 袁宏は、字を彦伯(小字は虎)と言い、祖父の猷は侍中、父勗は臨汝令であったが、若くして父を失い家が貧しかったので、年貢の運搬に因って生計を図っていた(『晋書』巻九十二本伝)と伝え、何如にも貧困に喘いでいたが如きイメージを与えるが、唐の柳沖が南朝の北来名族として「王・謝・袁・蕭」を挙げるが如く、袁宏は南朝を代表する門閥である陳郡陽夏の名門袁氏一族の一員である。

 抑、袁氏の出自は秦末漢初にまで遡ることが出来、「国三老袁良碑」(『隷釈』巻六)に因れば、秦末の混乱を河洛に避けていた袁生が、天下平定後に陳郡扶楽に移り住んでから、陳郡袁氏としての行動が他の史料にも見られ出すようになり、例えば『史記』巻八の高祖本紀には、劉邦と項羽との対立の中で、困難に直面した劉邦に対して、危機打開の方策を袁生が劉邦に具申した話等を伝えている。この袁生の曽孫が黄門侍郎を拝して関内侯に封ぜられた袁幹で、その地位は子の袁經、孫の袁山へと受け継がれ、袁山の曽孫が後漢の梁相に就任した袁良である。この袁良の第三子が郎中謁者となった袁璋で、璋の長子が衛尉となった袁滂で、滂の長子が魏の郎中令となった袁渙で、渙の第二子袁寓の孫が袁宏の祖父である袁猷に当たる。袁氏の門閥化は袁渙の子供達つまり西晋時代から本格化するが、既に魏朝時代からその予兆が見られ、魏の郎中令袁渙の伯父袁弘の長子袁霸も魏の大司農となり、霸の長子袁亮及び亮の長子袁粲は、二代に渉って西晋の尚書となっている。一方袁渙の長子袁侃も西晋の尚書を拝し、第二子袁寓だけが不幸にも就官以前に死去しているが、第三子袁奥は光禄勲を拝し、第四子袁準も給事中を拝すと言うが如く、袁渙の四子中三人が全て西晋の高官に就任している。この様な傾向は東晋に至っても変化することは無く、東晋の衛尉を拝した袁猷の兄袁は大司農となり、このの曽孫が『袁氏後漢書』を撰した呉郡太守の袁山松である。更に袁準の子袁沖も光禄勲を拝し、沖より数えて六代後に、劉宋の末年に在ってその名を竹帛に輝かす宋の司空袁粲が登場し、以後初唐に至るまで袁準の命脈は跡づけることが可能であるが、袁宏の子孫に関しては、玄孫に当たる袁翻・袁躍・袁^・袁昇の四兄弟が北魏で活躍し、袁躍の孫である袁知禮が隋の太子中舎人を拝した以後は不明である(袁氏略系図を参照)。唐の林寶等が勅を奉じて撰した『元和姓纂』巻四には、

  袁氏は後漢・魏・晉より梁・陳に至るまで、正に世を傳ふること二十八人、三公令僕一十七人なり

と言うが、関係資料を博捜するに、後漢から陳までのほぼ五百五十年間に、陳郡の袁氏(汝南の袁氏は含まない)と判断される人士は八十一人、漢初から唐初までとなると実に百二十三人を列挙出来る。則ち、秦末から唐初に至るほぼ一千年間に渉り同族の命脈が跡づけられる、つまり家門の歴史的継承を資料上に於て系統立てることが可能であると言うこと自体が、門閥の門閥たる所以の一証拠であり、それが各朝に在って高位顕官の輩出となれば尚更である。因って、袁宏が「若い時家が貧しかった」との一言は、名門袁氏の族門的レベルに於て貧しかったと言うに過ぎないのであり、決して寒門貧素の立場に位置していた訳ではない。

 袁宏の名声が知られ出すのは、彼の詩才が同郡の名家謝氏の謝尚に認められたのに始まる。牛渚に治していた謝尚が秋の名月に誘われて部下達と平服で江に舟を浮かべていた所、偶々袁宏も年貢運搬船の上で詩を詠じていた。その声の清らかさと歌詞のみごとさに聞き惚れた謝尚が、部下をやって訊ねさせた所、「あれは袁臨汝(袁勗)の息子さんで、自詠の詩だそうです」との答えであった。そこで謝尚は袁宏を己の舟に迎え入れて朝まで語り合い、以後彼の名は日に日に高くなった、と『晋書』巻九十二の本伝は伝えている。これを契機として袁宏は、謝尚の安西将軍府の参軍に就任するが、これが彼の起家官である。次いで彼は大司馬桓温の記室参軍に転ずるが、この間の詳細は不明である。桓温が平蜀後に北伐を計画したのは穆帝の永和七(三五一)年で、洛陽の奪還に成功したのが永和十二(三五六)年である。この一連の行動に関連して豫州刺史の地位に在った謝尚が安西将軍を拝したのが永和八(三五二)年であれば、袁宏の安西将軍府参軍就任は永和八年以後のこととなる。彼は孝武帝の太元(三七六〜三九六)年間の初期に任地の東陽郡で四十九歳を以て死去していれば、彼の初出仕は二十四〜二十六歳頃のこととなる。謝尚は升平元(三五七)年に死去して、その豫州刺史・安西将軍の地位は、謝尚の従弟である謝奕へ、次いで謝萬へと受け継がれて行く。一方、桓温が大司馬を拝して再度北伐を敢行せんと計画したのが興寧元(三六三)年であり、更に袁宏が作った北征賦が、『世説新語』文学篇の注に引用されている『続晋陽秋』に、「宏、温の鮮卑を征するに從ふ。故に北征賦を作る。宏の文の高き者なり」と言うが如く、太和四(三六九)年に敢行された鮮卑討伐従軍時の作品であれば、彼の記室参軍への転任は興寧元年以後のこととなる。但し安西府参軍から直接記室参軍へ遷ったのでは無いことは、この転任を「累遷」と伝え、又た彼が謝奉の安南将軍府の司馬に在ったことを伝(『世説新語』言語篇)えていれば、袁宏は升平元年の謝尚死去に伴い、安南府司馬等を歴任した後に大司馬記室参軍に遷ったと考えられ、起家後ほぼ十年つまり三十五歳前後の時の転任である。

 袁宏と桓温の関係は、一代の文宗たる名声に因って、上司の桓温が些か袁宏に憚る所が有るのに対して、逆に袁宏は桓温に何等憚る所が無い態度を採っているが、当時の政治状況は、桓温に在っては政治の実権を握って朝権を左右し出す絶頂期であり、一方東晋朝廷に於ては禅譲の悪夢がちらつく危機的様相が漂っていた。桓温は平蜀の功績に因り位を征西大将軍に進め、以前より荊州刺史として己の軍事力を養って来た東晋の二大軍府である荊州の西府に盤踞して中央政府を睥睨し、次いで洛陽奪還の実行者たる武功を背景に、北来名族が歴代確保し続けた彼等の軍事的支柱でもある徐州の北府へも手を伸ばし、嘗ての清談仲間である会稽王司馬c(後の簡文帝)が撫軍大将軍・録尚書事として幼君哀帝を補任する建康の中央政府に対し、洛陽遷都の如き実行不可能な要求を突きつけて圧力を加え、これに対して会稽王司馬cは東晋清談界のパトロンたる令名こそ高いものの、長期の補任の地位に在ったわりには政治力も決断力も弱く、桓温の軍事力には何如ともし難く遂に彼に侍中・大司馬・都督中外諸軍事を加えて、一時的に事態の推移を声を顰めて窺うと言う状況であり、桓温は桓温で琅邪の王氏・陳郡の謝氏・太原の王氏・高平の?氏等北来の名族を次々と大司馬府の佐僚に取り込み、将に東晋の運命を左右せんとし出した時に在った。

 袁宏の記室参軍就任は、此の如き状況下で行われているが、彼の府僚時代の具体的な政治動向は何一つ伝わっていない。それは袁宏が政治能力ではなく本来文才を以て世に出た人物であり、桓温も「彼の文筆の能力を重視して書記を統べさせた」(『晋書』巻九十二本伝)と言うが如く、記室参軍就任の理由自体に彼の文才が求められている。但し、当時袁宏が作った「東征賦」の中には彼の桓温に対する認識や名徳に対する意識等を窺わせるものが有る。些か長文ではあるが本伝には、「東征賦」に纏わる逸話として、

  後に東征賦を作る。賦の末に江を過ぐるの諸名コを列稱するも、獨り桓彝を載せず。時に伏滔、先に温の府に在り、又た宏と善ければ之を苦だ諫む。宏、笑ひて答へず。温、之を知りて甚だ忿るも、宏は一時の文宗たるを憚り、人をして顯問せしむるを欲せず。後に青山に游びて飮し歸るに、宏に命じて同載せしむ。衆、之が爲に懼る。行くこと數里、宏に問ひて云ふ、聞くならく、君、東征賦を作り、多く先賢を稱すと、何の故に家君に及ばずと。宏、答へて曰く、尊公の稱謂は下官の敢て専にするところに非ず、?に未だ啓するに遑あらざれば、敢て之を顯かにせざるのみと。温、疑ひて實とせず、乃ち曰く、君、何の辭を爲さんと欲すと。宏、?ち答へて云ふ、風鑿散朗、或は捜り或は引く、身は亡ぶ可しと雖も、道は隕す可からず、宣城の節、信義もて允を爲すと。温、然として止む。宏の賦は又た陶侃にも及ばず。侃の子胡奴、嘗て曲室に於て刀を抽き宏に問ひて曰く、家君の勲跡此の如し、君の賦云何ぞ相忽にするやと。宏、窘急し答へて曰く、我已に尊公を盛述す、何ぞ乃ち無しと言ふやと。因りて曰く、精金百汰、割くに在りて能く斷つ、功は以て時を濟ひ、職は亂を靜めんことを思ふ、長沙の勲、史の贊する所と爲ると。胡奴乃ち止む。

と伝えている。この話は、一瞬の危機を己の文才に因って切り抜けた袁宏の、並外れた文才力の冴えを喧伝する資料として伝えられているが、それよりも興味を引かれるのは、何故袁宏は桓彝と陶侃を載せなかったのか、又た桓温と陶胡奴は何故袁宏を脅迫してまで載せることを求めたのか、と言う点である。現在「東征賦」は、その断片を数条類書に残すだけで、元来何如なる人士がその賦末に附載されていたのか全く不明であるが、只明白なのは桓彝と陶侃がその対象ではなかったと言うことであり、東晋初期の名徳としてこの二人を袁宏が認定していなかったことを示すことに他ならない。桓彝は今をときめく最高実力者桓温の父であり、陶侃は東晋成立期の元勲で江南土着豪族の雄である。袁宏がこの二人を嫌った理由は、一体何であったろうか。

 桓彝は、S国龍亢の人で漢の五更桓榮の九世の孫と伝え(『晋書』巻七十四桓彝伝)、確かに後漢初期に在っては三代に渉って天子に侍講するを得た名家であるが、後漢中期から西晋にかけては著名な人材を輩出せず、桓彝の時代には過去の名声は殆ど失われている。そのため桓彝は州職の主簿に起家し、東晋成立期に在ってこそ中書郎・吏部郎等を累遷するが、蘇峻の乱に当たっては義兵を糾合して朝廷に赴かんとし、賊将に包囲され周囲が偽降を勧めるが、拒否して戦い続け結局陣没している(『晋書』巻七十四桓彝伝)。この桓彝の生き様は、後漢以来の名門貴族と言うよりも将帥的要素の方が濃厚であり、この点に関しては子の桓温に対しても、嘗て桓温が我が子のために王文度の娘を求めた時に、文度の父王藍田が桓温を称して「兵なり、那ぞ女を嫁して之に與ふ可けんや」と言った言葉を『世説新語』の方正篇に載せていれば、太原の名族王氏の立場から見れば、桓温は所詮「兵」つまり武人でしかなかったことを示している。一方陶侃の方は、豫章郡陽の人で、呉の楊武将軍を父に持ち江南土着の将帥の家系に生まれた生粋の武人で、東晋元帝の江南平定の実質的な軍事力を担って勲功著しいものが有るが、結局彼の功績は節度権を以て臨んだ北来の王敦に利用され、王敦の死後に至ってやっと征西大将軍・荊州刺史として西府の主となるを得ている(『晋書』巻六十六陶侃伝)。この二人に共通するものは、何如に武勲や忠節の輝かしいものが有ろうとも、所詮彼等は「兵」の家柄であって、東晋貴族の間に在って「兵」は彼等の美意識と相容れないものである。例えば『世説新語』品藻篇に載せる、

  袁彦伯、吏部郎と爲るや、子敬、?嘉賓に書を與へて曰く、彦伯已に入り殊に興往の氣を頓するに足る、故より知る、捶撻は自ら人たり難きを、冀はくば小卻せば當に復た差ふべきのみと。

との逸話は、袁宏の中央官職である吏部郎就任でさえ、その職責内容が王献之や?超の如き人士の間では「雅趣」を欠くものと見なされていたことが窺える。「濁」であり「俗」であり「実務」であることを、「清」でなく「雅」でないとして嫌う彼等の意識内に在って、「兵」は「濁」であり「俗」であり「実務」であることの、最も具体的な存在である。殊更言うまでも無く袁宏は名門袁氏の出であれば、彼が敢えて桓彝と陶侃の二人に言及しなかったのは、将に桓氏にしろ陶氏にしろその実体が「兵」そのものであり、彼が意識した名徳の概念中に決して組み込まれることの無い存在だったからである。逆に桓温や陶胡奴が附載を迫った理由は、一代の文宗にして且つ名門袁氏の作った「東征賦」であったが為に他ならず、そこに先君の名が附載されるか否かは、当時の社会に於ける人物評価に大きな意味を持ち、且つ袁宏の文がそれなりの影響力を持っていたことを物語っている。

 更に言えば、敢えて二人を取り上げなかった所に、名門たる袁氏の矜持が窺えるのであり、この袁宏の名門たる矜持は、大司馬の府中に在って桓温から礼遇された参軍伏滔と、常に「袁・伏」と併称されたことを恥じた袁宏が、「公の厚恩も未だ國士を優せず、而るに滔と肩を比ぶるは、何の辱か之れ甚しからん」(『晋書』巻九十二本伝)と嘆息した意識に端的に現れている。この矜持が太和四(三六九)年の鮮卑討伐に従軍した時、桓温の感情を逆撫でして怒りを買い、府職を罷免されて吏部郎に転任することになる。この事件は、桓温が洛陽に入ろうとして淮水を過ぎ、僚屬と共に平乗楼に登って中原を眺望し、あまりに河北の荒廃せるを嘆いて、「遂に神州をして陸沈し百年丘墟たらしむるは、王夷甫の諸人、其の責に任ぜざるを得ず」と言ったのに対し、袁宏が直ぐさま「運自ら廃興有り、豈必ずしも諸人の過ならんや」と答えているが、この何如にも名門貴族らしい冷ややかなまでの答えが、遂に桓温をして、

  桓公懍然として色を作し、顧みて四坐に謂ひて曰く、諸君頗る劉景升を聞くや不や、大牛有り重さ千斤、芻豆をnふこと常の牛に十倍す、重きを負ひ遠きを致すは、曾て一羸に若かず、魏武荊州に入り、烹て以て士卒に饗し、時に快を稱せざるは莫しと。意は以て袁に況ふ。四坐?に駭き、袁も亦た色を失へり。

と言う言動を取らせたと『世説新語』軽詆篇に伝えている。性は「強正にして亮直、温に禮遇せらると雖も、辯論に至りては毎に阿屈せず」(『晋書』巻九十二本伝)と称された彼の性格と相表裏する矜持、及びその文才の過ぎたるが災いしての転任であるが、その後袁宏は東陽郡太守に転出し、任地で四十九歳を以て死去している。東陽転出に当たり冶亭で開かれた送別の宴で、袁宏の才を試さんと謝安が別れ際に一扇を送った所、声に応じて袁宏が「この扇子で貴兄の仁徳の風を扇ぎ送り、人々を慰撫致しましょう」(『晋書』巻九十二本伝)と瞬時に答え、一坐の人々を尽く感嘆させたと言う話は、将に一代の文宗袁宏の面目躍如たるものを彷彿とさせて余りが有る。

 袁宏の生涯を見ると、将に名門の出自と己の文才とを担って生き抜けたと言える。時には桓温に迫られて禅譲の文案を草したり、?超から移り気の有る点を注意されたりする様な、貴族一般の惰弱さと軽薄さが全く無い訳ではないが、それでも当代随一の政治的実力者桓温の執政期に官界へ登場し、しかも桓温の府僚の任に就きながら、殆ど桓温に憚ること無く対処出来たのは、将に彼の持つ名門ゆえの矜持の結果であったと言えるのである。

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   三、『後漢紀』の内容とその編纂意図

 東晋時代に陸続として編纂された後漢時代に関する史書が、その断片だけを『三国志』の裴松之注や各類書中に残す(それらを諸書から収録したものが、黄]輯『黄氏逸書考』・汪文臺輯『七家後漢書』・鈴木啓造輯『諸家後漢書列伝輯稿』・周天游輯『八家後漢書輯注』等である)と言う現状に在って、後漢時代を理解する上での基本的史書が『後漢書』と『後漢紀』であることは、既に唐の劉知幾が「世に漢の中興史を言ふ者、唯だ范・袁の二家のみ」(『史通』巻十二古今正史篇)と指摘しているが、現実には『後漢書』の使用頻度に比べて、『後漢紀』が省察されることは実に少ないと言っても大過ないであろう。このことは、一見『後漢紀』の内容的劣悪性を想起させ易いが、決してその様な劣ったもので無かったことは、宋の晁公武が「諸家に比して號して精密と爲す」(『郡斎読書志』第二上)と言い、更に『四庫全書總目提要』巻四十七編年類後漢紀の項では、袁宏自身が『後漢紀』編纂に於て最も重視した張[の『後漢書』の逸文との、内容の異同比較を行い、

  此の書は後に追敍し、亦た頗る移置する所有り。而れども其の文義を核するに、皆此の書を長と爲す。其の體例は、荀悦の書にふと雖も、悦の書は班固の舊文に因りて翦裁聯絡す。此の書は則ち抉擇去取自ら鑿裁に出づ。抑又た悦よりも難し。劉知幾の史通の正史篇に、世に漢の中興史を作る者は惟だ范袁二家のみと言ふと稱し、以て蔚宗に配するは、要は溢美に非ざるなり。

と述べるが如きである。とするならば、内容の優劣ではなく内容の多寡の差が大きな影響を与えていると言える。無論利用者にとっては、紀伝体(『後漢書』)と編年体(『後漢紀』)と言う形式上の相違も影響を与えるが、それ以前に百二十巻(『後漢書』、但し志三十巻は司馬彪の『続漢書』)と三十巻(『後漢紀』)と言う絶対的な量の差が存在し、しかも『後漢書』の方が『後漢紀』よりもほぼ五十年後の成立と言う点にも因り、結局清の王鳴盛の「此に據らば則ち宏の採る所の者、亦た博と云ふ。乃るに竟に范書の外に出づる者有ること少し、然らば則ち諸精書實の語、范氏の拾已に盡く」との意見が大勢を占めるに至り、遂に『後漢紀』に対する省察を少なからしめたと言える。

 しかし、逆に『後漢書』に先立つこと五十年と言うことは、『後漢書』以上に原資料に接する機会が多かったことを意味し、現に宋の王應麟が「魯丕の對策は、袁宏の紀に見ゆるも范史は載せず」(『困学紀聞』巻十三)と述べるが如く、安帝の永初三年三月の条に載せる魯丕の、「政は民の欲する所に從ひ、民の惡む所を除くより先なるは莫く、教を先にして刑を後にし、近きを先にして遠きを後にす。云々」とする対策文は、『後漢書』にも『資治通鑑』にも載せず、将に『後漢紀』有るが故に知り得る資料である。同様な例として、殤帝の延平元年六月の条の、「学校を広興して儒学を振興せよ」との尚敏の上疏、順帝の永建四年冬十一月の条の、潁川郡出身人士の優秀さを論じた朱寵と鄭凱との論争、同陽嘉二年五月の条の、京師に発生した地震に対する馬融と太史張衛との対策等が挙げられるのは、周天游氏の指摘の如きである。則ち、『後漢紀』は量的寡少性と言う欠点を持ってはいるものの、『後漢書』の錯誤や疑義を訂正する傍証材料としては、極めて貴重な資料であると言える。今試みに一例として尚敏の上疏を示せば

  尚敏上疏し學校を興廣せんことを陳べて曰く、「臣聞く、五經は學を治め人を爲むる所以と。五經修まらざれば世道陵遅し、學校弘まらざれば則ち人の名行廣まらず。故に秦は坑儒を以てして滅し、漢は嵩儒を以てして興る。天下を罔羅し陰陽を統理し、治道を彌綸して民に軌則を示す所以なり。光武中興し、太學を修繕し博士具ふるを得、五人五經各@其の義を敍す。故に能く化澤沾洽し天下和平す。頃より以來五經頗る廢れ、後進の士は文俗に趣き、宿儒舊學は業を傳ふるに與かること無し。是より俗吏繁熾し儒生寡少す。其の京師に在るものは經學に務めず、人事に競ひて貨賄を爭ふ。太學の中、談論の聲を聞かず、從横の下、講説の士を覩ず。臣は五經六藝浸く以て陵遅し、儒林學肆是に於て廢失するを恐る。四夷を制御する所以の者は、道コ仁義有るを以てなり。傳に曰く『王者の臣は其れ實に師なり』と。其の道コの師とす可きを言ふなり。今百官は伐閲し、皆通經を以て名と爲すも、一人の能く稱するもの無し。孔子曰く『無にして有と爲し、虚にして盈と爲す、恒有るに難し』と。今より官人は、宜しく經學を取る者、公府の孝廉をして皆應詔せしむべくんば、則ち人心専一にして風化淳くす可きなり」と。

と言う内容である。既に『後漢紀』の重要性に関しては福井重雅氏が看破され、氏は「言猶ほ史の闕文に及べり」(『史滴』第六号巻頭言)でその資料的価値に就いて言及されている。

 では『後漢紀』は、何如なる方法と意図とに因り編纂されたのかと言う問題であるが、それは袁宏の『後漢紀』自序に提示してある。先ず彼はその理由と方法に就いて、

  予嘗て後漢の書を讀むに、煩穢雜亂、睡りて竟る能はざるなり。聊か暇日を以て撰集し、後漢紀を爲る。其の綴る所は、漢紀・謝承の書・司馬彪の書・華の書・謝沈の書・漢山陽公記・漢靈獻帝起居注・漢名臣奏を會 し、旁ら諸郡の耆舊先賢傳に及ぶまで、凡そ數百巻。前史闕畧し多く次敍あらず。錯謬同異、誰か之を正さしめん。經營八年、疲れて定むる能はず。頗る傳ふる者有り、始めて張?の撰する所の書を見るに、其の漢末の事を言ふこと差詳らかなり。故に復た探りて之を益す。

と述べる。則ち彼は、今まで書かれた後漢に関する書籍が、あまりにも乱雑で甚だ読み難く、錯誤が多くて次序が無いため、誰かが正さねばならぬと考え、そこで多くの先行書を勘案し、八年を費やし異同を訂正して次序有る様にさせたと言うが、本書と他書を比較すると確かに異同を訂正してはいるが、むしろそれよりも後漢二百年の歴史をして前後次序有る様にさせることの方に重点が置かれていたと考えられる。つまり、荀悦の『前漢紀』に倣うとは言うものの、彼が採取した先行書の殆どが紀伝体形式であるにも拘わらず、敢えて編年体形式で著した所に次序有ることに対する拘りを感じる。次いで彼はその意図を、

  夫れ史傳の興るは、古今を通じて名教を篤くする所以なり。丘明の作は廣大にして悉備せり。史遷の六家を剖判して十書を建立するは、徒に事を記するのみに非ず。信に義教を扶明し治體を網羅するに足るも、然れども未だ之を盡さず。班固は源流周贍し通人の作に近し、然れども史遷に因藉して甄明する所無し。荀悦の才智經綸は嘉史と爲すに足り、述ぶる所は當世大いに治功を得たるのみ。然れども名教の本、帝王の高義は、yめて未だ敍せず。今前代の遺事に因り、義教の歸する所を畧擧し、以て王道を前史の闕に弘敷せんと庶ふ。古は方今同じからず、其の流も亦た異なり、言行趨舎は各@類を以て書す。故に其の名迹を觀ては其の人を見んことを想ふ。丘明の斟酌抑揚して其の高懐を寄する所以は、末吏區區注疏するのみ。其の稱美する所は事義に止まり、疏外の意は歿して傳はらず、其の遺風餘趣は蔑如たるなり。今の史書、古の人心に非ざる或り、恐るらくは千載の外、誣する所の者多からん。悵怏躊躇し筆を操りて然たる所以の者なり。

と言う。ここに至って彼の意図は明白になる。左丘明を揚言して春秋の微言大義に因り、毀誉褒貶の基づく言外の意を以て名教を篤くせんと言うのである。一体何が袁宏をして、古今を論じて名教の基づく所、義教の帰する所を弘敷せしめんとさせたのであろうか。単に先行書が乱雑で次序が無かったと言う書誌学的問題だけではなく、将に微言に隠れた具体的な大義が存在したはずであり、彼が寄せた高懐とは亦た何であったのか、この問題を考える上で重要なのが、『後漢紀』の構成である。

 『後漢紀』はその構成上に於て、際立った特徴を示している。則ち、全三十巻中光武紀が八巻、献帝紀が五巻、霊帝紀が三巻、明帝・章帝・和帝・安帝・順帝・桓帝が各々二巻、殤帝・質帝が各々一巻と言う構成で、後漢成立期の光武帝と滅亡期の霊帝・献帝とで十六巻、実に全体の半分以上を最初と終わりとで占めている。王朝の草創期に多くのスペースを割くと言うのは、何も『後漢紀』に限ったことではなく、先行書の荀悦の『前漢紀』からして、高祖皇帝紀に全三十巻中の四巻を当てている。しかし、滅亡期となると先行書は一巻を当てるに過ぎず、『後漢紀』が霊帝・献帝で八巻を占めると言うのは、やはり異常に多い感じを与える。「偶々その時期に集中的に多量の問題が発生したに過ぎない」と言ってしまえば、それまでのことに過ぎないが、しかし、二帝時代の様子特に曹操の権力確立の過程が、他書に比べて可成り克明に記述されていれば、そこに何か特別な思い入れ乃至は意図が有ったのではないのか、との思いを容易に想起せしめる。更に言えば、『後漢紀』の中には「袁宏曰」と称する彼の論評を四十九条(具体的内容は、人物に関するもの二十一条、制度に関するもの十二条、礼制に関するもの五条、政策に関するもの四条、歴史事案に関するもの二条、その他五条で、短いものは四十字前後、長いものは実に一千字を越えている)検索し得るが、この内十七条は光武紀に見え、残りの三十二条は明帝以下十一帝紀の中に散在するが、その約半分弱に当たる十四条が桓・霊・献の三帝(桓帝五条・霊帝四条・献帝五条)で占められている。このことは、袁宏が後漢滅亡期の部分により多くの見解を提示したと言うことであり、換言すれば漢魏禅譲革命に至る過程に於て彼が格段の興味を持っていたことを示唆するが、それは袁宏自身の歴史認識乃至は史観に関与する問題であり、具体的には王朝交替に於ける正閏論問題とも拘わってくる。

 「袁宏曰」は、個々の事案に対する袁宏の見解で、当然そこには彼の意図乃至史観が反映されてくる。試みに霊帝・献帝部分を一瞥すると、先ず霊帝の建寧二年九月の条では、司空王暢・太常趙典以下民望を担った名士十九人が獄誅に遭った事件に関して、名教の在るべき姿を強く前面に提示する。名教は聖人の定めたものであり存亡の由る所であり、乱世に至っても道が絶えないのは、名教に任ずる人が居るからだとし、誠に適い理を心として行動する者こそが、名教に誠情有る人々で、己の身を忘れること無くそれらしい行動を採る者は、名教を利用するに過ぎない人々であると規定し、因って王暢・趙典等は民望有る名士ではあっても、名教を利用した者であるが故に誅殺を被るに至ったのだと断ずる。論の当否は別として、彼の教条的なまでの名教論に因る党錮の人士への評価は、当然の結果として後漢末随一の名士で曹操に仕え、最後は「憂死」(『三国志』巻十荀ケ伝)とも「強要された自殺」(『三国志』巻十荀ケ伝注引『魏氏春秋』)とも伝える潁川出身の荀ケに対しても、彼の名声を惜しむことは有っても決して高い評価は与えない。献帝の建安十七年十月の条(本文参照)に於て袁宏は、荀ケが民政の安定に功績が有ったにしても、それは漢の為ではなく魏の為に謀ったものであり不義であるとし、名声は有っても行為が順道に合致していなかったが故に、憂死することになったのだと言い切る。党錮の人士にしろ荀ケにしろ後漢末を代表する名士ではあるが、袁宏にとっては彼等の行為やその終わり方が、決して本来的な名教の士として認定し得なかったと言うことである。

 『後漢紀』中に散在する「袁宏曰」は、全体的にこの様な名教論に依拠して論評されている。故に周天游氏が「迂腐陳舊の説多し、是れ魏晋士族の腐朽せる世界観の一個の縮影なり」(『後漢紀校注』前言三)と断ずるが如く、些か教条的で陳腐な感が無い訳では無い。しかし、将にこの陳腐さこそが袁宏が生きた時代相を端的に表出している。則ち、袁宏等当時の名族が制度的に名門であり得たのは、制度的には門地二品を与えられ理念的には郷党社会の輿論を担っているからに他ならない。実体はともかく、亦た彼等が輿論を獲得する行為こそ、先王の制度や礼制つまり名教に依拠した行為であったはずであり、名教に欠ける行為を採った者は、「清議」に付され「犯清議」として厳しい批判や指弾を浴びたのである。換言すれば、彼等は名門であるが故にこそ、名門を意識すればするほど、名教に基づく名教の徒であらねばならなかったと言えるのである。と同時に袁宏の周囲には、後漢末とは異なった生き方を示した名士が存在している。例えば同郡の謝安であるが、彼は桓温に因って次々と一族の者が失脚させられ、彼自身も既に不惑を越えてはいたが、意を決して政敵桓温の大将軍府の司馬に就任して甚だ礼遇されるが、一度吏部尚書に転ずるや桓温の強要に対して言を左右にし、遂に桓温の禅譲の野望を未然に防いでしまう(『晋書』巻七十九謝安伝)と言う強かな生き方は、同じ名士ではあっても直情的な行動を採ることの多い後漢末の人士とは極めて対照的である。この様な状況下を生きた袁宏であれば、彼の論評が些か教条的名教論に陥り、後漢末の名士を「真に名教の徒に非ず」と断ずるのは、必然的な帰結でもある。否、それどころか逆にこの名教に拘り過ぎる点にこそ、彼の『後漢紀』制作の意図が那辺に在ったのか、つまり彼に拘らせた具体的存在が何であったのか、容易に想起させてくれる。

 袁宏は、献帝の初平二年夏四月の条の宗廟制に拘わる論評に於て、極めて象徴的な書き方をする。本来宗廟問題は父子(親子)関係の問題であり君臣関係とは拘わり無いはずであるが、この僅か三百五十字程の論評は、「夫れ君臣父子は名教の本なり」で始まり、中間に「君臣の象、茲に以て器を成す」と言い、「君臣は父子に同じきを見る」と言い、最後に「君臣父子の道、焉んぞ忘る可けんや」で終わっている。この論評は、父子関係に依拠した宗廟制と言う極めて道筋の明白な問題を借りて、言外に正しき父子関係に準えた君臣関係の在り様を提示せんものと試みたと推測されるが、それは摘出した僅か四カ所の「君臣」の語が、極めて象徴的な文言の所に使用されている点からも傍証し得る。とするならば、当然袁宏に君臣関係の在り様を強く意識させた当代的問題の存在を示唆するが、それが桓温の存在であったことは多言を要さないであろう。臣下の身分でありながら、哀帝の後を嗣いで即位した琅邪王奕(廃帝海西公)を五年で廃して会稽王c(簡文帝)を登極させ、簡文帝自身も即位はしたものの常に桓温に因る廃黜を恐れ、その簡文帝が僅か二年で死去して孝武帝が即位すると、あから様に禅譲を求めて「君臣の跡有りと雖も、亦た覊縻するのみ、八州の士衆資調、殆ど國家の用を爲さず」(『晋書』巻九十八桓温伝)と伝えられる桓温の専権を、時には桓温の府僚として時には吏部郎として眼前に見た袁宏が、君臣関係の在り様を深く考えていたとしても不思議ではない。この桓温の存在を極めて強く意識していたと判断される論評の最たるものが、献帝の建安二十五年冬十月の条に載せる曹魏の受禅に関する見解で、袁宏は曹魏の受禅を奪い取ったものだとして明白に拒否するが、文中の劉氏を司馬氏に魏を桓温に置き換えれば、将に東晋中末期の状況そのものであると言える。魏朝の禅譲を受けた司馬氏の晋朝を推戴すると言う歴史的実態の中に身を置いた袁宏が、敢えて名教的理念上に於て曹魏の受禅を強固に拒否するこの一文は、当然の帰結として正閏論に於ても後漢を継ぐのは魏ではなく季漢(尚、一般的に蜀漢と称してはいるが、劉備政権は漢と号しても蜀漢などと言ったことは一度として無い)と言うことになり、このことを最も端的に且つ象徴的に示す事例が、『後漢紀』の本文の最後の「明年、劉備自立して天子と爲る」の九字である。

 袁宏の歴史認識は、現実の実態は実態として十分に理解しながらも、あくまで名教論に基づいて曹魏の受禅を否定し、理念的正閏論に於て後漢の継承を季漢の劉備に求め、その季漢を平定した司馬氏が晋朝を樹立すれば、晋は当然漢を受け継ぐものであると言う論理で、彼にその様な思いを持たせて『後漢紀』の編纂を意図せしめた具体的且つ直接的高懐、つまり彼にとっての当代的問題とは将に桓温の存在であった。この様な袁宏の名教論にこだわらざるを得なかった桓温に対する危機意識は、何も袁宏のみに限ったものでは無く、当時の名士にはまま見受けられる。例えば、太原の名士孫盛は『晋陽秋』を著して「正本定名」を重視して曹魏の受禅に否定的な見解を示し、亦た襄陽の名族習鑿齒は、「桓温の野望を正さんが為に『漢晋春秋』を書き、温の禅譲の意を防がんが為に蜀を正統として魏を簒逆とした」(『晋書』巻八十二習鑿齒伝)と明言している。彼等は共に桓温の府僚に就任しながらも、結局最後には去っていった点に於ても、袁宏と同様である。

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   四、『後漢紀』の版本と研究書

 『後漢紀』の版本に関しては、あまり数が多いとは言えず、且つ絶対的な善本が有る訳でも無い。ただ内容に大きな増減が無かったことは、『隋書』経籍志を初めとして宋の陳振孫の『直斎書録解題』等々、歴代の書目が三十巻で統一されていることから判断出来る。亦た『後漢紀』は単独で版が起こされることは少なく、荀悦の『前漢紀』と合わせ『両漢紀』として版行されるのが一般的である。『後漢紀』は夙に宋版の段階に於て、句読出来ない程の錯乱が有ったと言われているが、誤字や錯誤に関しては今もほぼ同じ様な状況であると言えよう。その宋版も既に散逸してしまっているが、幸いなことに宋の王の「重刻両漢紀後序」(黄本の末尾に附刻)が残っており、それに因れば北宋時代眞宗の大中祥符(一○○八〜一○一六)年間に錢塘で刻された錢塘刊本が有り、ほぼ百年後の南宋時代高宗の紹興十二(一一四二)年に浙東で刻された浙東刊本が有ったことが分かる。しかし現在我々が見ること可能な版本は明版からで、明版・清版それぞれ二種類づつが代表的なものとして挙げられる。

版本(含抄本)

嘉靖黄姫水本(明版)
  これは嘉靖年間に黄省曾が偶々宋版の旧本を雲間の朱氏より購入したと伝え、それを子の黄姫水が嘉靖二十七(一五四八)年に呉門で『前漢紀』と合わせて刊行した所謂黄本と称するもので、版式は十一行二十字で白口左右双辺白魚尾で、版心下部右側には金言・周言・章松・馮・楊・高・錦の七名の刻工名が見える。尚、この本はわりと各地の漢籍所蔵機関(京大人文研・東大東方研・静嘉堂文庫等)に収蔵されていて目覩し易く、且つ『四部叢刊』本は、この黄本の景印である。
万暦国子監本(明版)
  これは万暦二十六(一五九八)年に南京国子監で『前漢紀』と合わせて刊行した所謂南監本と称するもので、版式は十行二十字で細黒口左右双辺黒魚尾であるが、何を底本にしたのか今一つ明白ではない。尚、この本は現在景印されておらず、清末から民国初期にかけての蔵書家傅増湘の『藏園群書経眼録』に、「此の南監本最も佳きも、亦た最も得難し」と伝えるが如く極めて目覩し難く、我が国では内閣文庫にその収蔵(十冊本)が認められる。
康煕楽三堂本(清版)
  これは康煕三十五(一六九六)年に襄平の?國祚・?國祥兄弟が、明の黄本と南監本とを使用して互校し校訂を加えたもので、楽三堂から『前漢紀』と合わせて刊行され俗に?本と称し、誤字が全く無い訳ではないが現状では版本としては最も優れたもので、版式は十一行二十一字で細黒口左右双辺黒魚尾で、版心下部左側には子珍・志遠・甘明・士玉・王元などの刻工名が見える。更に?本には?氏の『両漢紀字句異同考』や?毓英の重刻前後漢紀序等が『前漢紀』の前に付けられており、現在一番流布している版本がこの?本である。尚、これを排印したものが台湾商務印書館の国学基本叢書本及び人人文庫本である。
嶺南学海堂本(清版)
  これは光緒二(一八七六)年に陳璞が、陳i黄本及び果親王手校本を入手し、それらと?本とを対校させて校訂を加えたもので、学海堂から『前漢紀』と合わせて刊行され、陳璞の「校記」二巻が付けられている。俗に陳本と称するがあまり流布せず、我が国では京大の図書館及び人文研が持っている。
三余書屋本(清版)
  これは光緒五(一八七九)年(後跋は光緒五年であるが、封面の刊記は光緒三年補刊となっている)に、南の蔡學蘇がその曽祖蔡金谷が所蔵していた五峰閣版の?本を刊行したもので、?氏の『両漢紀字句異同考』や康煕三十五年の日付を持つ?毓英・?景祁・毛奇齢・宋犖・邵長の序文、及び康煕五十年の郎廷極の叙文も付けられており、版式も十一行二十一字で細黒口左右双辺黒魚尾の八冊本である。その後跋に因れば、蝕損の甚だしきを憂え五年の歳月をかけて補版印行し、貲財五百緡を費やし家を傾けるに至った、と記している。俗に蔡本と称しているがこれもあまり流布してはおらず、我が国では東北大学の図書館に所蔵されている。
述古堂本(清版)
  『東観漢記校注』の著者呉樹平氏は、その校注の末尾の引用書目に於て、光緒刊述古堂刻本『後漢紀』を記されている。述古堂とは、善本を多く蔵したと言われている乾隆時代の錢曾の室名であり、確かに彼の『述古堂書目』には「『後漢紀』三十巻十本」と記されているが、錢曾が所蔵の『後漢紀』を刻したと言う話は聞いたことが無く、恐らく錢曾とは全く別の清末の述古堂であろうと推測される。清末には広東述古堂・嶺南述古堂・寧郡述古堂の三堂が認められ、この中では嶺南述古堂が光緒二年に荀悦の『前漢紀』を刊行していれば、呉氏の見た『後漢紀』は嶺南述古堂本ではないのかと想像されるが、何れにしても未見であるため、具体的内容や同年刊行の嶺南学海堂本との関係等々詳細は不明である。
龍溪精舎叢書本(民国版)
  これは民国六(一九一七)年に潮陽の鄭國勲が、襄平の?本(康煕刊本)を覆校したもので、当然のことながら『前漢紀』の前には?氏の『両漢紀字句異同考』が付けられており、俗に鄭本と称しており、版式は十行二十一字で白口四周単辺黒魚尾である。現在では一番入手し易く且つ版本としての校訂も一応整っているのが、本書の底本として使用した、この鄭本である。

抄本

清初抄本
  『藏園群書経眼録』には十一行二十字の清初抄本が有ったことを伝え、亦た『中国古籍善本書目』も清初抄本を記載してはいるが、未見のため具体的内容は不詳である。但し、現在一本が遼寧省図書館に収蔵されていることだけは分かっている。
四庫全書本
  四庫本は、八行二十一字の版式は同じであっても二種類存在する。一つは安徽巡撫採進本の文淵閣四庫全書で、俗に文淵閣本と称し、もう一つは、乾隆帝の御覧にのみ供することを目的として、四庫全書の中から特に重要だと考えられたものを選び出し、何等忌避する所無く抄写(『後漢紀』に関しては、だからと言って内容に文淵閣本と差異が有る訳ではない)して藻堂に納められた四庫全書薈要で、俗に薈要本と称している。ただ、安徽巡撫が何本を採進したのか不明であるため、四庫本の依拠する版本を軽々しく断定することは厳に戒むべきことであるが、字句の異同を他本と比較校合するに、巻三十の「筵朝」を黄本と同様に「延」に作っている点等々から、明版黄姫水本に基づくのではないのかと推測される。

研究書(含論文)

 一方研究書に関してであるが、版本同様実に寥々たるもので、周天游氏の校注本を除けば、数点の論文以外は全く見当たらない。逆にこのことは、今まで『後漢紀』が資料として殆ど重視されてこなかった、つまり研究材料として使用されることが少なかったことを物語るものである。今分かる範囲で『後漢紀』や袁宏に拘わるものを列挙しておく。

周天游『後漢紀校注』(天津古籍出版社、一九八七年)
  この本は諸々の版本や『後漢書』『三国志』等を駆使して、極めて詳細な校訂と注が加えられ、且つ脱字・脱文を補うこと多く、研究に裨益する点多々有り極めて有意義な本ではあるが、実に残念なことに厳密な校正を欠いた排印本であるため、「君」を「居」に、「延」を「廷」に、「古」を「右」に作る様な、魯魚の誤りがやたら目に付き、亦た句読点も意味上からすれば、必ずしも全てに納得出来るものでもない。そのため現状では『後漢紀』研究の最高水準を示しており、読書用としては甚だ便利ではあるが、研究の底本として使用するのに、何か抵抗を感ぜざるを得ないのは残念なことである。且つ本書は、出版部数も少なく増刷もされておらず、現在では殆ど入手不可能な本である。
衛広来「袁宏与『後漢紀』」(『山西大学学報』一九八五年三号)
陳長g「論《后漢紀》的史学価値」(『黄淮学刊』一九九〇年三期)
曹道衡「論袁宏的創作及其『後漢紀』」(『遼寧大学学報』一九九二年二号)
楼宇烈「袁宏与東晋玄学」(『国学研究』一、一九九三年)
松浦崇「袁宏『名士伝』と戴逵『竹林七賢論』」(『中国文学論集』六、一九七七年)
斉藤実郎「袁宏『後漢紀』序、引用の『漢名臣奏』について」(『史叢』三四、一九八五年)
中林史朗「袁宏管見〜政治的動静と『後漢紀』〜」(『大東文化大学漢学会 誌』第三十二号、一九九三年)

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       歳在戊寅孟夏                         識於黄虎洞


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