先學を語る

〜臧軒原田種成博士との思い出〜

本ページは、大東文化大學『漢學會誌』第43号、(平成16年3月刊行)からの転載である。


   先學を語る〜臧軒原田種成博士との思い出〜
 臧軒原田種成博士が平成七年二月にお亡くなりになって、はや九年の歳月が過ぎた。葬儀の時は、奇しくも大學入試の時期に重なり、校務のため親しく葬儀に參加することも出来ず、忸怩たる思いを抱きながらも、弔電と生花をお送りして弔意を表し、己の研究室に先生から生前賜った直筆の書を懸け、香を焚いて喪に服させて頂いた。幸いにもその前年の末に、進藤英幸先生と共に、群馬縣前橋市の御自宅に御見舞いに伺い、親しく音容に接することが出來たのが、せめてもの慰めであった。

 その時先生が、枕元に坐った私に向かい「誰かこの『皇清経解』を貰ってくれないかな、お前要らないか」と仰った、何故だか分からないが、この一言を聞いたとき、非常に悲しく寂しい思いをし、「然る可く手配させて頂きますから」と答えるのが、精一杯であった事だけは、今でも明白に覺えている。幸いにも先生の御蔵書は、御遺族(令夫人雅子氏と御令嬢逹)の御高配に因り、御寄贈を受けた大東文化大學中國文學科が所藏し、「原田文庫」として學生諸君の便宜に供されている。
 一昨年の平成十四年は、先生の七回忌であった。葬儀の時の無禮を謝す意味も有って、原田家の菩提寺である茨城縣土浦市の名刹浄真寺に、線香と生前お好きであった鼈甲飴を供えさせて頂いた。それから僅か二年に過ぎないが、何か遙か遠くの事となってしまったような氣のする今日この頃である。將に「去る者は日々に疎し」とは、この事であろうか。
 原田先生が、漢文訓讀の大家にして『貞觀政要』の研究者であり、且つまた諸橋轍次博士畢生の大著である『大漢和辞典』の、語彙や用例の整理収集の擔當者で、その大半を擔われた事等、先生の學問的・教育的業績に就いては、衆人熟知の事であれば、今更私如きが縷々贅言を費やす可き話ではない。ここでは、私が實際關わり合った先生との思い出の中で、忘れようとしても忘れられない事柄を、二〜三語らせて頂く事とする。
 私が初めて原田先生の音容に接したのは、昭和四十五年の春の事であった。それは、大東文化大學での授業と同時に、無窮會での講義であった。以來棄館せられる前年の九月まで、訓讀を御教授賜り續けて來た。その間實に二十五年の長きに亘るが、實は甚だ短かかったような氣がしてならない。最近讀めない漢文に出會うと、「先生ならどう讀まれたのであろうか」と、常に自問自答を繰り返すが、この様な思いを抱くたび毎に、「もっと教わっていたかった、教わる時間が短か過ぎた」との思いを彊くし、「訓讀は技術、だから日々是精進だよ」と仰りながら、床に就かれる直前まで板橋區高島平の自室で、我々に訓讀を教えておられた御姿が、今でも脳裏に浮かぶのである。
 二十五年間に及ぶ先生との交流の中で、私的な交わりは、唯一共に中國の四川・雲南地方を旅した一回限りであり、この時とて、「もうみんな俺と一緒に中國に行ったぞ、まだ行かないのはお前だけだ、でも今回は四川で三國志の地だから、今度はお前も行くだろう」とのお誘いに因り、同行したのである。他は全て訓讀の教授者と受講者と言う公的な交わり(教える者と教わる者)に過ぎなかった。しかし、現在の己を大學教員として存在ならしめている大半の要素は、原田先生との接触、と言うより訓讀を通しての先生との格闘無くしては語り得ないのである。
 私が大學二年次生となった昭和四十五年の春に、先生は大東文化大學に着任されたが、最初の授業で始めてその音容に接した時、可成り彊烈なインパクトを與えられた。開口一番先生は、「漢文が面白くないというやつは、勉彊しないからだ、勉彊して讀めるようになったら、漢文は實に面白い、面白くないと言うのは、讀めないやつの戯言だ、俺がお前達を讀めるようにしてやる」と仰ったのである。この一言に私は感動したかと言えば、答えは否である。それどころか逆にある種の反感を抱いたのである。口に出すのが怖いから敢て言わなかっただけで、腹の中では「何をほざくか、この糞爺、そんなことが出來たらみんな讀めるようになるわい、なれないから苦勞しているんだよ、偉そうなことを言いやがって、何様のつもりだ」と思ったものである。と同時に「そこまで言うなら、讀めりゃあいいんだろう、讀めりゃ、見とれや、讀んでやるわい」と言う、身の程知らずの田舎育ちの名門没落神主の倅としての意地と反骨、と言うより大學入學前後に經験した無頼の生活の突っ張りが頭を擡げたのである。
 將にこれが若氣の至の運の盡きである。今に及ぶ漢文との格闘が、茲から始まろうとは、當時は夢にも思わなかったのである。しかし、この反發のエネルギーは、半年もたたない内に超腹立たしい屈辱と共に、漢文訓讀への執着エネルギーへと變わって行った。このエネルギー變換の最大要素が原田先生の存在であった事は、多言を要すまでも無いが、同時にその讀書會の構成メンバーであった濱口富士男・中山至の兩學兄の存在も、極めて大きな意味を持っていた。この二兄の存在(嚴しい指摘を含んだ意見の應酬)が無かったならば、決して今の己が存在しなかった事は、明確に斷言出來るのである。
 以來延々と先生主催の課外漢文讀書會に參加させて頂いたが、最初の大學二年の時は、確か王先謙の『荀子集解』であった。三年次は『尚書今古文注疏』であったと記憶している。四年次が『春秋繁露義證』であったろうか、その後『二十二史剳記』など何種類か讀み替えて、昭和五十年から『ガイ餘叢考』の讀解が始まった(尚、この『ガイ餘叢考』の讀書會は延々として讀み繼がれ、縁有って私が大東に職を奉じた後に、當時の東洋研究所教授遠藤光正先生の部屋で、「俺はもう疲れたから残りをお前が續けてやってくれ」との、有り難くも嬉しくもない先生からの下命に因り、不承不承引き受けさせて頂き今に至っているが、今では先生の衣鉢を繼ぐ思いで、よたよたと駄馬の歩みそのままに、參加している學生諸君に尻を蹴飛ばされながら讀み進めている)のである。一方、無窮會での先生の讀書會にも昭和四十五年から會員として參加させて頂き、『孟子正義』『毛詩傳疏』『四庫提要』『十駕齋養新録』などを讀まさせて頂いた。
 先生は、「漢字で書かれたものならば何でも讀む」と言う、訓讀に對する彊烈な矜持と、「俺が讀み屋の後繼者を作り上げるんだ」と言う不屈の情熱とを持っておられた。この矜持と情熱とは、私如きが逆立ちしても決してかなうものではないが、それ故にこそ、その情熱が時には苛烈な指導となって現れ、「馬鹿・間抜け・アホ・もう二度と教えてやらない」等々、罵倒されたことは數數え切れない程有る。今でも覺えているのは「不受」と言う言葉が讀めなかった時のことである。情けないことに當時の私は、「受とは紂(受辛・受コ)のことである」などとは露知らず、訓讀技術のみならず漢文に關する知識も中途半端な學生で、「受けず」などと字面を一生懸命讀んでいたのである。この時の先生の怒りは凄まじかった。「何で讀めんのだ、こんな事も知らんのか、字面を讀むな、文を讀めと言っているだろうが、お前が讀めんとは何事だ」と叱責されたのである。當時は大學院生で、回りには學部生もいた。情けない、辛い、悲しい、恥ずかしい、顔を上げることさえ出來ない、テキストに涙が落ちるのが分かる、零れる涙を我慢してじっと目をつぶっていたのが、今でも脳裏に焼き付いている。この矜持と情熱の裏返しであろうか、先生は時として頑固で我が儘で、思いこみが激しく、また無邪氣な一面も持っておられ、己のミスをミスと認められる事はなかなか無かったが、誤りと氣付かれると素知らぬ顔をして黙って直して次ぎに進まれ、人に對しても同様で、烈火の如く怒られても、それが勘違いだったと分かると何も言わずさっと態度が變わるのである。失禮ながらそこには、子供の如き單純さが見られて微笑ましかった。例えば、私が短大に職を奉じた前後であったが、一寸したことが原因で先生の逆鱗に触れ、「中林の顔などもう見たくない」と破門を言い渡されたが、敢て反論もせず謹慎していたら、三年程後の年賀状で「讀書會のメンバーも少なくなって寂しくなった、どうだまた出てこないか、どうせお前も暇だろう」と、お誘いを受けると言う具合であった。
 私が三年次生であった昭和四十六年五月から、原田先生を中心として、大東文化大學で『宋史』本紀の訓讀會が開始された。この會の發足當時のメンバーは、將に無窮會を代表するが如き原田種成・石川梅次郎・戸村朋敏・山田勝美・栗原圭介の諸先生及び小岩井弘光(國士舘大學、宋代史の専門家)先生と、お茶汲み要員としての學生である林田剛・濱口富士男・中林史朗とであった。八年の歳月をかけて昭和五十三年十月に讀了したこの會は、途中に諸先生の移動は有るものの、最初から最後まで讀み續けたのは、原田種成・石川梅次郎・小岩井弘光の諸先生と私だけであった。
 當時私は、學生として先生各位の訓讀技術を目前で見聞することさえだけでも望外の喜びであったが、北宋部分の終わりに近づいたある日、突然原田先生が「聞いていても面白くないだろう。中林お前も讀んでみるか」と仰っり、石川梅次郎先生が「それもいいな」と相づちを打たれた。想像だにしないあまりにも突然の事とて、咄嗟に「分かりました」と答えたものの、實際の所は途方に暮れた。當時は今の様な校點本など無く、手元に有ったのは殿本の影印本だけであった。私にとっては、貴重な勉彊の機會であっても、實際この『宋史訓讀會』は勉彊會などではなく、文部省から科研費を取っての先生方の研究会である。その研究會で、學生風情が讀ませて頂くことなど、例え原田先生のお声掛かりとは雖も、無謀であり不遜の極みであった。以後五年間、諸先生方に迷惑をお掛けしない事だけを念頭に置いて、南宋部分を最後まで讀ませて頂いたが、私にとっては、勉彊どころか極度の緊張感に包まれた、地獄の如き針の筵の日々であった。しかし、あの日々が有ればこそ、今の己が有る事を思うにつけ、あの貴重な機會をお與え下さった原田先生の學恩を、思い出さない譯にはゆかない。今でも當時の朱墨を入れた殿版の『宋史』は、「初心を忘れぬ」ために、研究室の書架に常置してある。
 私は、大學院單位修得満期退學と同時に短大の漢文擔當専任職を奉じ、短大で十年を過ごした後に故有って母校に職を奉じた。母校の話が私にもたらされた時、正直に言って私自身に忸怩たる思いが有り、親しい先生などに相談をし、御意見を賜わったりした。それは、私の如き學力の者が、大東文化大學の中國文學科の教壇に立って果たして良いものであろうか、と言う疑念に苛まれ續けていたのである。と言うのは、私が學生時代から原田先生に聞かされ續けて來た言葉に、「大東の中文の教員と言うのは、己の専門が何であれ、教養課程で開講されている専門科目に關しては、文學であれ哲學であれ將亦歴史であれ、初見で讀みこなせる力量の無い者は、教壇に立ってはいかんのだ」と言うのが有った。言葉こそ異なってはいたが、同じ内容の事を池田末利博士からも聞かされていたし、亦た斯文會での事であったと記憶しているが、同様な話が出た時、宇野精一博士が「その通りですよ。今では想像もつかんでしょうが、私だって最初の講義は唐詩選だったんですよ」と仰っておらてた。この様な、諸先生の漢文教員としての基本的資質に關する三者三様の言葉が私の頭から離れず、大東に職を奉じてからも、忸怩たる思いと自信の無さが、常に私の心を悩ませ續けていた。と言うのも、當時先生は非常勤で在職しておられ、板橋校舎で良く合う機會が多かった。先生は私の顔を見るたびに、「もっとしっかり松山で教えんか、お前の教え方が悪いから、學生がこっちに來ても讀めんのだ、ちゃんと教えろ」と小言を言われた。「分かりました」と口では答えたが、腹の中では、「何で俺が言われなければいけないのだ、俺が全クラス教えている譯ではないんだから、そんなこと言われてもなあ、何時まで怒られ續けなければいけないのか、イヤになるなあ」と言うのが本音であった。
 奉職して二〜三年後のある時、東松山での『十八史略』の授業中に、ある學生が質問に來た。彼は私に「先生は先ほどこの様に讀まれましたが、參考書にはあの様に書いてあります。どちらが正しいのですか」と詰問したのである。私は「意味に違いが無い以上、どちらの讀みでも良いが、參考書の讀みはゴロが悪く耳障りなので、あまり好きにはなれない。私は、やはり私の讀みの方が良いように思うよ」と答えた。學生は納得出来ない怪訝な顔をして「そうですか」と言って歸って行ったが、やはり納得していなかったようである。後日その學生が再び私の所に來て「先生の讀みで良いそうです」と言うのである。私が「どういう意味だ」と聞き返すと、學生が「原田先生に聞いた所、『どっちでも良いよ。中林には中林の讀み癖が有るからなあ』と仰っていました」と言う事であった。この原田先生の「中林には中林の讀み癖が有るからなあ」と言う一言を學生傳えに聞いた時、今まで私の心を悩ませ續けていた楔が、非常に微量ではあるが一寸だけ緩んで來た様に感じられた。この時私は、既に四十半ばの年齢にさしかかっていた。振り返れば、無窮會の讀書會でも、「先生、そこはこっちの讀みが良いではありませんか、その使役はもう少し先までかかっていると思いますよ」等と、先生に對してタメ口がたたけるようになったのも、四十を過ぎてからのことである。昔の先生方によく言われたものであるが、「この世界は、五十・六十はまだひよこ」だと。そうだとすれば、四十半ばにしてやっと「たまご(ひよこに孵化する直前)」だと、先生に認めてもらえたのであろうか。今や「どうだったんですか」と聞く事さえ叶わなくなって久しい。誠に寂しい限りである。
 この様に、原田先生は、私を教導して頂いたと同時に、常に私を苦しませ悩ませ續けて來た人でもある。この苦悩は私が再び蓮華の上で原田先生にお目にかかる時まで、續くであろう。否、持ち續けて行かねばならない苦悩であろう。晩年に先生が仰った一言、「讀めると思うな、思ったら讀めなくなる。讀めないと思うから讀めるのだ、訓讀は一生だぞ、俺だって己の勘を落とさないために、お前達と讀み續けているのだから」。私は、この言葉を先生の遺言だと思っている。「讀めると思うな、思ったら讀めなくなる、讀めないと思うから讀めるのだ」。今、私の心の中には、何れお目にかかった時に言う言葉が決まっている。「先生、やっぱり讀めません、漢文は難しいです」と。

  平成十六年正月吉日                              記於黄虎洞

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