原田臧軒(種成)先生を偲ぶ〜大東漢学の継承に尽力〜

本ページは、大東文化大学『大東文化』第464号、(平成7年3月刊行)からの転載である。

 

   原田臧軒(種成)先生を偲ぶ〜大東漢学の継承に尽力〜
 小生が原田先生と巡り会ったのは、忘れもしない大学二年の春、昭和四十五年四月の中国哲学史概説の最初の授業であった。その時の原田先生の第一声は、「最近の大学生は大学が面白くないと言うが、それは勉強しないからだ。勉強して漢文が読めるようになれば、古典中国の世界が開けて非常に面白くなる。君達は一体幾らの授業料を払ったのだ。払った以上のものを会得して卒業しないと、無駄金を使ったことになる。聞きに来ない者には何も教えないが、聞きに来た者には私が持っているものを全て教えてやる。大学は黙っていたら何もしてくれない。自分の方から毟り取って行く所だ」と言うものであった。

 この一言は、当時横文字産業のアルバイトに精を出し、周囲の学生よりは優雅な生活を送っていた小生に、強烈なインパクトを与えた。爾来二十五年間、昨年の夏まで、大学から大学院へ、更には高島平の御自宅に毎月通って、ひたすら訓読技術の教えを受け続けて来た。その間、難解な文章が訓読出来て褒められたこともあれば、烈火の如きお叱りを賜ったこともあり、先生との思い出はあまりにも多くあり過ぎて、とても一々列挙することなどは出来そうもない。それらは全て小生の胸底にしまい込み、そのうち蓮華の上で先生と思い出話に花を咲かそうと思っている。
 所で原田先生は、大東の中国文学科にとって何が一番重要かということを熟知し、将にそれを実践されたその人であった。西に京都支那学があれば、東には大東漢学がある。ではその大東漢学とは何かと言えば、華々しい論理や目新しい新説を学会に提示することではなく、些か職人的且つ学僕的基礎作業に基づく地味な仕事と、漢字で書かれたものならば何でも読みこなすという訓読力の誇示とが、創立以来の伝統であり同時に他大学から絶大な評価を与えられている部分であった。
 この点に関して、戦後の大東の訓読力の低下に身を焦がすが如き危機感を抱かれ、その回復と後継者の養成に最大の情熱を注がれたのが、原田先生に他ならなかった。無論先生とて完全無欠の人格者ではありえるはずもなく、極めて直情にして頑固、思い込みと好き嫌いが激しく、その激烈なる御気性が誤解や意見対立を生じ、時には困難な事態を誘発することが無い訳ではなかったが、それを覆って余り有る熱意と愛情を注がれた訓読力の回復と後継者の養成とに対する先生の思いは、決して他者の追随を許すものではなかった。
 昭和五十二年から六十三年に至るほぼ十年間の本学の卒業生で、大学・短大の専任職を奉じる者は十五名、非常勤は四名にのぼる。彼等は本学の大学院に進んだり、国立大学の大学院に進んだりと、学部卒業後の道は各々異なっていても、全員に共通するのは、原田先生が始められて他の先生方も追随された、授業後に八時九時に及ぶまで毎週無給で行われた課外授業の出身者であるという点である。
 とすれば結果として、原田先生が注がれた情熱は実を結んだと言えよう。また無給の課外授業で後継者を養成するという良き伝統も、現在でも入れ替わり立ち替わり数人の先生方に依って営々として続けられているが、これも原田先生が撒かれた種が定着し、芽を出し枝葉を茂らせたものと言えるであろう。
 小生は、原田先生晩年の弟子である。師匠と弟子との関係は、師匠の人間性や性格などとは何等関係無く、師匠の持つ技(技術)をどれだけ受け継ぐかによって、その関係が成立するというのが小生の考えである。
 小生は、原田先生が持っておられた訓読と言う技の三割弱は学び取ったと自負している。故に小生は、弟子ではあるが三割弱であるが故に不肖の弟子である。しかしまた、不肖であっても弟子は弟子である。この不肖の弟子の暴言や如何。果たして黄泉の先生は「呵呵」と大笑されるであろうか、それとも「バカタレ」と叱責を被るであろうか、いずれ御聞きする日も来るであろう。その時まで、先生には蓮の半座を開けて待っていて頂きたい。
 唯、今の小生の感慨は、

 寂風巡躯四陲蒙 (寂風躯を巡りて四陲蒙く)
 涙滴満胸前途茫 (涙滴胸に満ちて前途茫たり)         合掌

          平成七年二月                                     於黄虎洞

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