有了寶塔

〜中國雜感〜

本ページは、『文化・集団』第2号、(平成元年2月出版)からの転載である。


     初めに
   
1、上海
   
2、蘇州、寒山寺
   
3、四川、峨眉山
   
4、雲南、昆明
  
   終わりに

 

   初めに
 中国を学問研究の対象とし乍らも、かの地を訪問する機会を得なかった私であるが、昭和六十一年三月二十八日より四月四日までの一週間、ようやくにして訪れる機会を得た。訪問地は、上海・蘇州・成都・昆明の各地であったが、中心は成都・昆明の二地で、私自身の研究対象から言っても、やはりこの四川・雲南の両地が眼目であった。
 今回の旅は、決して中国の寺院を巡ることを目的とした旅行ではなかったが、たまたま訪れた寺院仏閣及び次の目的地までの車窓から目に入った村々の風景等について、感ずる所が有り不思議な想いを味わった。この想いは、結局私の新中国成立以来の政治的な激動に対し、知識としては理解していても、実態を私自身の耳目で見聞していなかった、則ち、経験的無知に起因するものではあるが、それでもやはり、何か割り切れない奇妙な感を持たざるを得なかった。この雑文は、その旅の徒然の雑感である。

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   1、上海
 先ず上海であるが、ここはかっての国際都市、映画『上海バンスキング』でおなじみの魔都、各国の租界が入り乱れ、洋傘をかざした貴婦人や、長袍を着た大人を乗せた馬車が、霧の四馬路を行き交い、喧騒たる響きを持つ街、上海、などと勝手な日本人的思い込みに基づくノスタルジアは、遙か彼方に飛び去り、道の両側に植えられている街路樹に、満艦飾にはためく洗濯物の旗、及び夕方になると天から降ったのか將亦地より湧いたのかと思える如く、何処からともなく出現する多量の人の波だけが、嘗ての喧騒さを偲ばせているが、斯様な事はどうでも良い事で、所詮野次馬的発想でしかない。

 私の興味は別の所に有った。則ち我々は、新中国の成立及びかの有名な文化大革命等々に因り、中国に於ける宗教は全く否定された事を知っている。しかし乍ら数年前より、経済的解放策に伴い、宗教も許可されて復活し出して来ている、と言う話を伝聞している。その復活した様子は、我らが有名な天下のNHKの報道で、聖夜に教会に集まる多数の人々や、天台山で修業する黄衣の僧侶達の姿を、我々の眼前に見せてくれた。それ故にこそ、私は上海と言う街の性格からして、寺観は無理にしても、教会はあちこちの街角に有るだろうと思っていた。
 所が殆ど目に付かない。やっと一つだけ高い天主堂を持つ建物を見つけた私は、「やっぱり復活したんですね」と中国側通訳に聞いて見た。所が彼は不思議そうな顔をして、「何がですか」と聞き返す。そこで私は天主堂を指さして「ほら、教会ですよ」と言ったのであるが、彼は見るなり「あれは倉庫です」と言う。天主堂を持った倉庫とは珍しい。なるほど今は倉庫代わりに使われているのか、「主」の元に人々は集まらなくても、代わりに老鼠がお参りしてくれるので、「主」もお寂しくはないだろう、と勝手な想像をしたのである。

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   2、蘇州、寒山寺
 次は蘇州、水の都蘇州であり、蘇州美人の産地でもある。かの地の女性が美人であるか否かは、個人の主観に係る問題であるから、私は何とも言えないが、「水の都」と言うイメージは残念乍ら持てなかった。確かに嘗ては美しい水をたたえたクリークの上を、蘇州美人の嬌声を乗せて画舫が行き交っていたのかも知れないが、今では全くの艶消しの「灰色の水の都」である。が、そんなことよりもこの地には、唐の詩人張継の『楓橋夜泊』で、「月落ち烏啼き、霜天に満つ。江楓の漁火、愁眠に対す。姑蘇城外、寒山寺。夜半の鐘声、客船に至る。」と詠まれ、また一世を風靡した『蘇州夜曲』で、「鐘が鳴ります寒山寺」と歌われた、有名な寒山寺が有る。

 この寺は、恐らく日本人に最もなじみ深い寺であると思われるが、現在では観光寺院として復活している。寺の内外では、やたらに『楓橋夜泊』の掛け軸を売っており、しかも決して安くはないが、それでもたいがいの日本人は買う。不思議な事にこの掛け軸は、碑文を拓本に採ったもので、何も寒山寺に限った事ではなく、あちこちで売っており、台湾でさえ売っている。にもかかわらず、寒山寺を訪れた日本人はだいたいが買って帰ると言う。通訳が我先に買う人々を見ながら、ここは「鐘が鳴るなり寒山寺ではなく、金が無くなる寒山寺です」と洒落ていたが、全くそうであろう。ただ寺の正面から左側へ十米程に渉っての小路は、清朝風のままに保存してあり、昔の風情を感じさせ、「これは良い」と思ったのもつかの間、両側の個人商店から次々と日本語で物を売りつけられようとは、いやはや全く、如何に日本人観光客が多数訪問するかの端的な左証であろう。
 所で今回は、特に寒山寺の老師にお会い出来る機会を得た。我々一行の中に、二松学舎大学の石川梅次郎先生がおられ、以前老師から頂いた「詩」の返礼の「詩」を持参して来ておられた。通訳の話では、今老師は御病気中で人に会えないとの事であったが、石川先生が「詩」を他の僧に託して帰ろうとなされた時、老師はこの遠来の詩友訪問の話を聞かれ、敢て病気をおして出ておいでになられ、我々も一緒に暫く歓談するを得たのは、全くもって望外の出来事であった。と同時に私は、将に「詩中薬有り、以て病を医す」であろうと思った。中国学を専攻する以上、斯様な文人的交際を可能とする程の学識を持ちたいものであると思い、更に先生に及ばざる事遙か三千里以上であることを、いやと言う程感じさせられた。
 ここで休題閑話を一つ。蘇州の街は典型的な地方観光都市である。故に街の中にはあちこちに観光客相手の個人商店がやたらと軒を並べて物を売っている。面白いから私も値切り乍ら、色々と見て歩いた。すると、日本でもよく見かける服装の若い男女が多数徘徊している。どうも高校生らしい。そこで聞いて見ると、彼等は修学旅行で九州から来たと言う。九州から見れば、汽車を使って遙か板東の東京方面へ北上するよりも、船で中国へ来る方が近くて安いのである。嘗て同じ事を台湾でも経験したが、その時の学生もやはり九州であった。中国も近くなったものである。彼等の中に背中に掛け軸を三本も背負っている学生がいた。そこで私が、「それ、どうしたの」と聞いた所、彼は、「父から頼まれたお土産です。そこの日本語が出来る店で、一本二百円のを三本四百円に負けてもらいました」とにこにこしている。「それは良かったね」とは言ったものの、私は正直心の中で、「高い買い物をさせられたなあ」と思ったのである。一本二百円の掛け軸、値切れば八十円ぐらいにはなる。三本ならばもっと値切って二百円とまで行くべきである。しかし、買った学生さんは負けてもらって大喜び、売った店主も大もうけで大喜び。どちらも儲かったと思っている以上、これはこれで幸福な出来事と言うべきでしょうか。かく言う私めも一本買って来た。私は「山水」などにはとても目利きが出来ず、私自身が至って俗物でもあるため、「柳に美人」と言う極めて俗っぽい美人画を一本買って帰り、今でも時々愚妻と見比べている。 

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   3、四川、峨眉山
 次いで成都、峨眉県に位置し、仏教の聖地として報国寺・蕃寿寺・伏虎寺・仙峰寺・白雲寺等々七十余寺を擁し、唐の詩人李白が、『峨眉山月歌』で「峨眉山月、半輪の秋。影は平羌江水に入りて流る。夜、清溪を発し、三峡に向かふ。君を思へども見えず、ユ州を下る。」と詠じた中国三大名山の一つでもある峨眉山を訪れた。

 標高3099米の高山で、しかも現在道路とロープウエーの設置工事を行っており、頂上往復には二日を要すとのことで、結局全山の三分の二の高さに位置する清音閣と、山下に有る報国寺及び伏虎寺を見学するに止まった。この峨眉山も、嘗ての如き仏教聖地と言うよりも、観光地として復活しており、成都から車で四時間弱もかかるため、むしろ国内の青年達の登山のメッカとしての様相を呈して来ている様に見受けられた。
 峨眉山に投宿した夜、山下の村に灯明がつき、殊更にぎやかなので、こっそり出かけて見た所、村人の話では「祭り」だと言う。これは感激ものである。将に宋の詩人陸游が『遊山西村』で、「笑ふ莫れ、農家臘酒の渾れるを。豊年客を留めて、鶏豚足る。山重なり水複し、路無きかと疑ふ。柳暗く花明らかに、又一村。簫鼓追随し、村社近し。衣冠簡朴にして、古風存す。今從り若し閑かに、月に乘ずるを許さば、杖を撞き時と無く、夜門を叩かん。」と詠じた風が有る。
 屋台や露天が出、夜遅くまで賑わい、「祭り」の風情は万国共通である。話す言葉も方言ならば、売っている酒も「百仙碑酒」と称する如何にも「祭り」らしい地ビールである。真に結構、しかし乍ら、私は酒はダメなので、パンを買った。このパンとて自家製であり、聞けば近くの農民で、二切れ二毛で良いと言う。二切れと言っても、日本の食パンの二斤分である。安い、とにかく安い、そして美味い。嘗て子供の頃、不味くて堅いコッペパンを食べていた。そのうち白いパンが出てきた。アンもクリームもジャムもチョコレートも、何も入っていないただの白いパンである。しかし、コッペパンを食いなれていた私には、その白い柔らかいパンを食べた時、「これがパンか」と言う一種のショックが有った。その感動を再び味あわわせてくれた「二毛」のパンであった。
 所が「祭り」とは言うものの、何処にも寺観の如き建物が存在しない。そこで「寺の祭り」か「村の祭り」か、一体何の「祭り」なのか聞いてみたが、ただ「祭り」だと答えるだけで判然としなかった。しかし何であれ、その夜は「祭り」であり、彼等はそれを十分に楽しんでいた。地酒を飲み、ぶっかけご飯の茶碗を持ち、鳥の丸焼きを囓りながら、彼等は話し合い、その間を、お菓子を握った子供達が飛び回っている。既に夜の九時は過ぎている。漆黒の闇に包まれた峨眉山の中で、ここだけが、ぼんやりと明かりをともした別天地である。私にとって、誠に楽しい二時間程であった。

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   4、雲南、昆明
 最後に昆明では、テン池に臨む西岸の絶壁に彫られている龍門を訪れた。清朝に作られたもので、千三百三十三の石段を登らねばならず、この中には、道教の「宮」も有れば仏教の「寺」も有り、更に儒教的科挙(官僚登用試験)の神様も祀ってあると言うが如く、将に儒・仏・道の三
教一体で、如何にも中国的であり且つ大衆的である。ただ文革時代の破壊の爪痕が未だ残っており、貴重な石に彫られた碑文が、石畳に使われていたりする。「何ともったいないことよ」と感慨に浸る私の側で、中国側通訳は「私は宗教を信じてはいないし、興味も無い」と、実に素っ気なかったが、エリートである彼等の返答としては、当然と言えば当然の答えである。無論、当方とて宗教を信じている訳ではないが、一度破壊した伝統文化遺産を復興させるのは大変なことだろう、との思いを禁じ得なかっただけのことである。
 中国に於ける現実の宗教の復活は、まだ先の事だろう等と思いながら、昆明から石林へのバスに揺られていた時、人の存在を拒否したような全く人家の無い、誰も訪れることの無いであろう荒野の高原の遙か先に、天に向かって雄々しく赤茶けた宝塔が建っていた。その無人の宝塔こそが、私に一番インパクトを与えた存在であった。一週間に及ぶ旅行の中で、各地の寺・観を数多く見てきたが、この宝塔が何か無言で語りかけているのではないのか、との思いを帰国後まで引きずっている。

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   終わりに
 以上、三地点の仏閣を偶々見てきたが、これらは宗教的に復活したと言う訳ではなく、観光地として開放されたに過ぎない。無論僧侶は存在する。僧侶の存在が認められる以上、宗教は復活したのだ、と言われればそれまでであるが、彼等は宗教従事者つまり宗教人であり、嘗ての如く一般老男女が多数日常的に参加していた宗教の様相とは異なる。換言すれば、非日常の宗教は確かに認知され存在している、だが日常的宗教は未だその姿を見かけなかった。峨眉山の麓の「祭り」とて、宗教的祭りと言うよりも村人の数少ない娯楽の一種と言う感じが強かった。確かに私の訪れた場所は僅かに三カ所だけであり、軽々しいことは言えず、結果として見なかったに過ぎないと言えなくもないが、それでも見つけられなかったのは事実である。私は、日本は言うに及ばず、東南亜細亜を含めた仏教圏の国々を旅したことが有るが、必ずと言って良い程に村々に仏閣や道観を発見出来た。奥深い山の中にも、緑成す田園の中にも、喧騒渦巻く町はずれの一角にも、誰が来るのだろうと思われる様な場所にさえ、寺廟は有った。港町ではあちこちに媽祖廟を見かけた。と同時に、その場所には必ず人々の姿が有った。一見誰もいない廃寺の様に見えても、よく見ると老人達が静かに世間話をしていたり、庭で子供達が遊んでいたりしたものである。私自身の勝手な思い込みであろうとも、東南亜細亜に於いては、斯様な風景は当然の如きものと思っていた。

 しかし、中国は異なっていた。上海から松江へ、同じく蘇州へ、成都から峨眉山へ、更に昆明から石林へは、全てバスで移動したため、数多くの村落を通過したが、その間一つとしてその様な風景には、お目にかかれなかった。これは私に、一種異様な想いをさせ、心安かならざるものを与えた。この様な不可思議な想いを持ち乍ら、昆明から石林へのバスに揺られていた時、ほんの一瞬、雲南高原の遠方に土で作った茶色の宝塔が、ポツンと立っているのが目に入った。恐らく人の訪れることとて無いであろうと思われる高原の大地に、将に天に向かって忽然と一つだけ立っていた。「あっ、有った」と思った瞬間、私を襲った精神的安堵感は、一体何と説明すべきであろうか。 

     昭和六十三年十一月                           於黄虎洞 

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