完訳 華陽国志

 

【序文

 

 はてさて、一体『華陽国志』とは、如何なる文献であろうか。概略的内容を言えば、全十二巻で、最初の四巻が華陽地方の沿革・物産・地理で、次の五巻が該地を繞る興亡史で、最後の三巻が該地出身の人物志と言う様な構成である。要するに、古代から東晋初期(三六〇年前後)ぐらいまでの、華陽地方に関する総合的歴史書、所謂地方史の文献と言えるであろう。抑も華陽と言うのは、華山の南と言う意味で、極めてアバウトな表現であるが、大まかに言えば、現在の陝西省の南部から四川省・雲南省北部までを含む、可成り広大な地域である。また作者と伝える常キョ(手偏ではなく王偏の據)は、蜀郡江原県の人で、同県の大豪族の一氏に属し、東晋の桓温の安西将軍府参軍となっていれば、晋代に生存した人であることは分かるが、それ以外の具体的官歴や生卒などは殆ど不明な人物で、将に本書有るが故に名が後世に伝わった、と言っても過言では無いであろう。

 この本は、現在数種類の版本や抄本(明の嘉靖の張本と劉本・万暦の古今逸史本・広漢魏双書本、清の函海本・増訂魏双書本・題襟館本等や明の嘉靖銭穀手鈔本・四庫全書本等)が伝わっており、訓点を施した和抄本(楊守敬が日本で購入して持ち帰り、故宮博物院に収蔵されている観海堂本で、広漢魏双書本に返り点・送り仮名を附したもので、国内では殆ど見かけない)も有るには有るが、何しろ版本間での文字異同が激しく、誤字・脱字・脱文・衍文・重複などが多々有り、しかも未だ諸本を校合整理した様な定本など無く、読むのに極めて難渋する、有り体に言えば甚だ面倒くさい本である。一九八〇年代には、中国の研究者に因って数種類の校注本が公刊されたが、その校注本間に於いてすらも異同が有り、更に注を見ると、「意味不明」とか「未だ詳らかにせず」とか「恐らくは・・・であろう」とか、該地の研究者をしても解明出来ない部分が有るのである。

 この様な、話が良く通らず、意味不明な語句も多々含む本書を、成立から略二千年弱を隔て、しかも万里も離れて現地さえ良く理解せぬ異国の筆者如きが、完訳を試みようなど、蟷螂の斧どころか蟻の一穴さえにも及ばぬ、愚の骨頂以外の何物でも無く、単なる老人の冷や水でしかないことは、誰あろう筆者自身が一番良く承知している。

 がしかしである、某編集者の方からこの話を頂き、コロナに因る蟄居閉門の中で鬱々と逡巡を繰り返していると、已に漢籍を殆ど売却し斯界から引退した身とは雖も、六十年来漢文を読み続けている訓読屋としての血が騒ぎ出して来た。因みに筆者の血が騒ぐのは、人様が手を付けていない漢文を見た時と、刃物を持った時とである。故にこそ従心を過ぎても敢て印刀を振り回しているのであるが、それはそれとして、「本邦初完訳ねえ、まあ取り敢えずやってみるか、結果は見てのお楽しみか」等と言う悪魔の如き囁きが、遂に筆を執らせてしまったのである。

 などと格好を付けて見得を切った様な事を言ったが、実態は甚だ異なり、妻が諸般の事情で国に帰り、独り身となった筆者には、炊事・洗濯・掃除以外はする事とて無く、ほとほと困り果てていた。確かに週一の読書会や月一の研究会も有り、また日々ガリガリゴリゴリと石も彫ってはいたが、流石に二百個以上も彫り続けると、彫りたい言葉すら浮かんで来なくなる。と言うより、物事を深く思考する事が面倒になり億劫になり、時には食事さえ面倒だと思う事さえ有る。

 いかん、いかん、これは完全な老化現象だと思いつつも、結局はグダグダしたまま己自身も老いさらばえて行くんだろうなあ、等と暗澹たる海波の中で藻掻いている最中、忽然と今回の話が舞い込んで来たのである。因って、「これは旱天の慈雨ではないのか、将に渡りに舟だ」とばかりにお引き受けした感、無きにしも非ずではあるが、兎に角この一年、筆者の脳内は、完全に漢文の訓読モード一色に塗り変わった。それ故にこそ、筆者に斯様な機会を与えて頂いた編集者殿には、満腔の謝意を表させて頂くものである。

 処分したはずの漢籍ではあるが、不思議なことに、清朝の嘉慶十九年に四川の廖寅が南京で刻した題襟館本の原刊版本だけは、茅屋に残されていた。そこでそれを底本として、諸本や諸校注本を参照しながら翻訳を試みたが、版本を見比べて定本的なものを作り、厳密な校訂を加えた上での、研究書的翻訳などとは、決して努々思って頂いては困るのである。

 本書は、本文も無ければ訓読文も無く、更に語注さえ無い、ベタな日本語を並べただけの訳本である。筆者が最も意を濯いだのは、「兎に角日本語として意味の通る、話の通る文章に仕上げる」と言う一点だけであった。

 言うなれば本書は、人名・地名・官名・物産名等々、固有名詞の入り乱れた、筆者の日本語的『華陽国志』ワールドを提示しているに過ぎず、決して研究者の方々のお役に立つような訳書ではなく、将に冷汗浹背的な代物にしか過ぎないのである。

 故に、博雅の士の御指教・御斧正を、切に請う所以ではあるが、とは言え、古代の中国の華陽地方の歴史を一寸覘いてみたいと思われる奇特な方々には、些かなりとも道案内的役割は、果たせているのではないのか、とも愚考している。本書の如き、中国の地方に関する歴史書には、正史とも編年体歴史書とも異なった、何処か思い入れを含んだ様な「おらが故郷」的面白さが有る。好奇心に惹かれて手に取って頂けたならば、幸甚この上無きものである。

 

   歳は玄ヨク(K+弋)攝提格に在り、白藏相の下澣吉日  

                                                       扶桑の後学、雲伯の士雲散史、黄虎洞に識す

    

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