『華陽国志』に関する諸問題

本ページは、大東文化大学人文科学研究所『所報』NO2(平成7年3月)からの転載である。


     始めに(「『後漢書』国訳」に関する諸作業)
   
1、作者について
   
2、制作意図について
   
3、構成について
   
4、内容について
     
付記

 

   始めに(「『後漢書』国訳」に関する諸作業)
 本研究は、すでに9年ほど前から共同研究者である渡邉義浩氏(現、北海道教育大学助教授)と着手したものである。中国の歴史資料である正史の内でも、特に人々に親しまれた前四史中『史記』・『漢書』・『三国志』はすでに国訳が行われており、唯一残されていたのが『後漢書』であった。そこで30年を目途に無謀とも思える『後漢書』全130巻の国訳を気長に細々と続けようではないかとの意見が渡邉氏と一致し、次の如き長期計画が二人の問で策定された。
1、『後漢書』の成立は、後漢時代を下る事ほぼ220年後の劉宋の時代であり、その間に多数の後漢時代にかかわる資料(『後漢紀』・『華陽国志』・その他の散逸した『後漢書』など)が、先行資料として存在しており、それらを資料として『後漢書』が成立していれば、先ずそれらの先行資料の基礎的整理作業を7〜8年行い、その成果を参考にしながら『後漢書』国訳の具体的作業に着手し、その結果を順次発表して行く。
2、最初の10年は、『後漢書』国訳のための基礎作業として、お互いに後漢時代の研究や先行資料の調査及び整理作業を重点的に行う。
3、『後漢書』国訳の具体的作業は平成10年を目途に着手する。
 このような計画に基づき、本共同研究は開始されたのであるが、4年前に人文研の研究班に採取されて今日に至り、人文研の研究班としては本年度が最終年度であるものの、本共同研究自体は、上記の計画に基づき、今後も営々として継続されるものである。尚、本共同作業は、極めて地味な長期間に亘る作業であるため、目新しい特別な研究成果などは報告のしようも無いが、それでもこの4年間の具体的な成果の一端としては、既に2年前に中林が「衰宏管見〜政治的動静と『後漢紀』〜」(漢学会誌第32号)を報告し、 平成7年4月には『華陽国志』(明徳出版社)が報告され、渡邉は平成7年2月に『後漢国家の支配と儒教』(雄山閣出版社)を報告した。更に平成10年には中林・渡邉共著の『後漢紀』(明徳出版社)が報告される予定であり、その後順次『後漢書』国訳を報告する予定である。

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   1、作者について
 『華陽国志』(以下、本志と略称する)の作者は、常キョ、字は道将、蜀郡江原県(現、四川省崇慶県及び濯県)の人である。本志巻三の江原県の条に「常氏を大姓と為す」とあり、清末に編纂された『増修濯県志』に「常道将の廃宅は治の南三十里に在り」と有る如く、江原の名族常氏の一員であることは明白であるが、姓名・貫籍以外は全くと言ってよいほど不明であり、将に本志有るが故に後世に名が伝わったと言っても過言ではない。尚、現在では既に散逸してしまい、僅かに『藝文類聚』や『太平卸覧』に逸文教条を残すに過ぎないものの、本志以外の常キョの著作として『隋書経籍志』の覇史頚には『漢之書』十巻か記載されており、更に『旧唐書経籍志』の編年頚には『蜀李書』九巻が、『新唐書経籍志』の偽史頚には『漢之書』十巻と『蜀李書』九巻とが有り、恰も二種頚の別本が存在したが如き感を与える。しかし『顔氏家訓』巻六書證に「李蜀書一名漢之書」と言い、『史通』外篇古今正史の項に「蜀初め号して成と日ひ、後改めて漢と称す。李勢の散碕常侍常キョ、漢書十巻を撰し、後に晋の秘閣に入り、改めて蜀李書と為す」と言えば、この二書は古名の『漢之書』が『李蜀書』に改められたもので、明らかに異名同書の一本であった事になる。即ち常キョの著作としては、本志と『蜀李書』の二書が確認され得るに過ぎず、しかも現存書は本志のみと言えるのである。
 本志以外で、該当時期の史書に常キョの名が登場するのは、管見の及ぶ限り僅かに二箇所に過ぎず、一は『晋書』巻九十八桓温伝の「温、蜀に停まること三旬、賢を挙げ善を旋す。偽尚書僕射王誓・中書監王瑜・鎮東将軍ケ定・散碕常侍常キョら、皆蜀の良なり。並びに以て参軍と為す。百姓成悦ぶ」であり、一は同巻百二十一李勢載記の「温、城下に至り、火を縦ちて其の大城の諸門を焼く。勢の衆惶懼して復た志を固くすること無し。其の中書監王カ・散椅常侍常キョら、勢に降を勧む」であり、共に東晋の穆帝(司馬タンの永和三年(347)に於ける李氏政権崩壊時の記述である。
 この二つの文脈から理解され得るのは、常キョは李勢に仕えて散碕常侍の地位に在ったが、桓温の平定を受けると李勢に降伏を勧め、李勢の降伏後に桓温の安西将軍府の参軍に転じたと言うことであり、『四庫全書総目提要』が本志の条に於て「蓋し亦たショウ周の流なり」と断ずるのは、常キョとショウ周の著述傾向が類似していると言う点ではなく、「旧主に降伏を勧め新主の下で出世する」と言うその行動パターンを指してのものである。この前後の事跡及びその生卒が全く不明で在り、永和三年時に於ける常キョの年齢も明白でないため、軽々に結論は下せないが、李氏政権は、西晋の恵帝(司馬衷)の大安二年(303)に、李雄に因って成都に樹立された政権で、四十五年間に及ぶ治政を誇り、その内李雄の治政が三十一年で、残りの十四年間は、李氏一族間の虐殺粛正と政権抗争とを繰り返しながら、李班・李期・李壽・李勢へと政権が受け継がれて行き、東晋の永和三年に滅亡する。とすれば、唯一断定的に言える点は、常キョは、西晋末から東晋初期の間に生まれ東晋中期に死去した、つまり、彼の生存期間は西暦三〇〇年代であったと言うことである。
 では常キョの閏閥は如何であったろうか、本志には常キョとの族門的関係を窺わせる人物が数人登場するが、祖父とか兄弟とか直接的関係を示唆するが如き人物は、他史料を見ても一人も検索し得ない。ただ幸いな事にこの点に関しては、明の嘉靖二十九年(1550)の進士である四川鋼梁県出身の張佳胤が諸史料から回収編纂したと思われる「江原常氏士女志」を、張本・呉本・王本及び閣本の末に附載しており、男子十六人・女子三人が挙げられており、それに因れば、常氏の活躍は後漢末の常洽から始まり、洽は同じ蜀郡の名族で三代三公の名誉を獲得した成都県の趙謙に娘を嫁し、趙氏との姻戚関係を結ぶ事により、蜀郡内に於ける常氏の族門的勢力の拡大を図っている。しかし、常洽から常キョに至る間の繋りに不明な点があり、また「江原常氏士女志」と本志の内容との間にも一致しない点が見受けられる。

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   2、制作意図について
 常キョが如何なる意図に基づいて本志を制作したかについては、本志の巻十二に序志がありその中で常キョ自身が述べていれば、その記述を追いながら制作意図を窺ってみようと思うが、その前に先ず、東晋中期と言う時期に何故「華陽」と言う限定された一地方を対象とする歴史書が制作され得たのか、その社会的背景を考察しておきたい。
 華陽地方のみならず、限定された一地方を対象とする歴史書・風俗志・人物伝・地理志などが多数制作され出すのは、中央政府の混乱に因り公権力の全国的統治能力が衰退し、各地の群雄が勝手に自拠統治を始めた後漢末の頃から始まる。『隋書経籍志』を検索すると、地方を対象とした書籍と判断され得るものが、後漢の趙岐の著した『三輔決録』を嚆矢として八十種強挙げられ、これに晋の侯康が編した『補後漢書芸文志』及び挑振宗の撰した『三国芸文志』や文延式の撰した『補晋書芸文志』に記載されているものを加えると、その数は百種以上にのぽる。しかもこの内の九十種ほどが、後漢末から晋朝にかけて集中的に著述されている。この傾向が下火に向かう東晋からは、恰もそれまでの地方誌制作と入れ替わるが如く、個人の家系を記した『家譜』『家伝』が陸続として著述され、『世説新語』の劉考標注引用書だけでも三十五種が確認出来る。
 この様な著述傾向は、将に当時の社会状況の変化が如実に反映されたものと言えよう。何となれば、後漢末の混乱の中で地方の分権化や地方豪族・名士層の台頭が顕現化し、三国鼎立の時代に至ると魏朝では陳羣の発議に係る九品官人法が施行され出す。この官吏登用法は、運営の実態は別として施行理念自体は、地方の輿論に基づいた人材を登用して地方の意向を中央官界に反映させると言うものである。この様な政治状況が出現すれば、地方の知識人の目は、自ずと己の生活空間である地方の歴史文化の特異性・地理的状況・人材の有無・物産の多寡などに向く事になり、その結果として三国時代を中心とした前後の時期に、集中的に地方に関する書籍の大量出現と言う状況を将来せしめたと言える。次いで東晋に至ると、ほぼ家格が固定化され門閥化の傾向が顕著になりだす時期に当り、当然の事として人々の興味は、家門の優位性と永続性とに向き出すようになり、その志向が反映されたものが『家譜』『家伝』の制作であったと言っても大過ないであろう。とするならば、本志の出現は作者常キョの個人的意図とは別に、本人が意識したと否とに関わらず、結果として既述の如き社会状況の中で、歴史的産物としての時代性を具有していると言えるのである。
 では常キョ自身の音図は如何であったろうか。彼はその序志に於て、先ず最初に漢王朝成立に至るまでの古代社会に在って巴蜀地方が担った役割とその重要性を述べ、且つそれらは既に司馬相如らの先人に因ってその一班が書き記されており、また漢・晋時代の国家隆盛時には、地方からの報告書が中央に提出され、それに因って地方の優秀な人士の名が後世に伝わり、特に正規の歴史書に依拠せねばならない必然性は無かったと言う。所が次いで、社会状況の変化に伴い本志の制作に着手せねばならなかった動機と目的、及びその概略的内容を明示する。則ち、動機は永嘉の乱及び李氏政権の成立に伴う戦乱で蜀土が荒れ果て、人心が荒廃して先人の諸記録が灰燼に帰すのを見るに忍びず、それを思うと心を焼かれる思いに駆られ、そこで先人の諸記録を集め、更に己の見聞を加えて書き表したと言い、蜀土に関する諸記録喪失の危機感に基づいており、その目的は、古今を通じて道義と法戒を明白にして功勲と賢能を表旌する事であり、同時にそれが常キョの本志制作の基本的なスタンスでもある。
 またその内容は、巴蜀地方に関する開闢より東晋の永和三年(347)に至る間の歴史、及び諸人の伝記である。  次いで彼は、先人の記録中の荒唐無稽は話し(初代蜀王の時代が三千年もあったとか、荊人の死体が長江を遡行して蜀に至り王になったとか、人の血が数千里も離れた場所で互いに碧珠に変化したとか、杜宇王の魂が子鵑鳥に変化したとか、文翁が蜀人に初めて学問を知らしめたとか)を列挙し、これらは全て後漢末に於ける談調者流の話しであり、資料として提出はするが、その内容の是非は読者が弁別すればよいと言う。そして最後に、天命を受けた君こそが帝王であり、それは詐詭や僥倖で獲得出来るものではなく、地の利に因って一時的に国を樹てても、それを万世に伝えるものなど存在しないと断じ、その実例として前漢末の公孫述政権・後漢末の蜀漢政権・西晋末の李氏政権を挙げ、彼等の行為を永鑑となし京観となすべきだとし、同時にそれが春秋の道を崇び賢能を奨励する所以であると言い、実に伝統的な歴史観を提示している。ほぼ同時期の袁宏や習鑿歯が名教論的歴史観に基づく『後漢紀』や『漢晋春秋』を著し、政治的意図を以て曹魏の受禅を否定して蜀漢政権を正当化するのに比べれば、極めて対照的であり、そこには、蜀に於ける後漢末以来の伝統である古文学の『毛詩』・『三礼』・『春秋左氏伝』を習得した常キョ自身の学問観が濃厚に反映されているが、一方で李氏政権に仕えながらも桓温の参軍に転じたと言う彼の政治的ポジションが、地方政権の位置付けに影響を与えていた事は否定出来ない。
 以上を要約すれば、常キョの本志を制作した意図は、彼自身の学問観、特に春秋学をバックボーンとして、古記録散逸に対する危機感に基づさ、地方政権の興亡を通して世に範たる儒家的な鑑戒を明示し、同時に東晋政権下での巴蜀地方人士の奨勧を目的とした点に在ったと言えよう。

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   3、構成について
 『華陽国志』は、脱字・脱文が多く版本間に相違が有るため、一概には断定出来ないものの、総字数約九万字前後で構成されており、底本に使用した『題襟館本』の目次構成は全十二巻で、常キョ自身が列挙する本志巻十二序志中の次序と一致しており、何ら問題が無いように思えるが、歴代の目録類が全て十二巻で統一されていた訳ではない。『隋書経籍志』を初として、『日本国見在書目録』・「宋史芸文志』・『通志芸文略』・晁公武の『郡斎読書志』・高似孫の『史略』・『文献通考経籍考』・『国史経籍志』・陳第の『世善堂蔵書目録』・『四庫全書総目提要』・銭曾の『述古蔵書目』・陳揆の『稽瑞楼書目』・丁丙の『善本書室蔵書志』など大多数は十二巻であるが、例えば『旧唐書経籍志』は三巻、『新唐書芸文志』及び清の銭謙益の『降雲楼書目』は十三巻、「宋史芸文志』は別史類に十巻・覇史類に十二巻と二種類を挙げ、『崇文總目』は十五巻、宋の陳振孫の『直斎書録解題』は二十巻という具合であり、更に清の丁国鈎が編した『補晋書芸文志』は十二巻と記し、その自注に「隋志・新唐志は十三巻に作るを見る」と言うが、『新唐書芸文志』の方は確かに十三巻に作っているものの、現行の『隋書経籍志』の諸本は全て十二巻に作り、一体丁国鈎が如何なる『隋書経籍志』を見たのか甚だ不明である。三巻は十三の十の字が脱落したもの、十三巻及び十五巻は十二巻の誤写、二十巻は十二巻の誤倒と考えれば一応疑問は解決するが、問題なのは十巻である。宋志が十巻本だけを挙げていれば二の字が脱落したものと判断するのに吝かではないが、宋志は異なった類日の所にそれぞれ十巻本と十二巻本とを並挙していれば、十巻本が存在していたであろう事を軽々に否定する事は出来ない。
 何となれば、既述の如く常キョ自身が巻十二序志中で「凡て十篇、号して華陽国記と日ふ」と明言しており、更に北魏の崔鴻が編した『十六国春秋』蜀録の中には「常キョ、字は道将、蜀の成都の人、少くして学を好み、華陽国志十編を著す」と記されている。この十巻本採取の下限が宋志で、それ以後出現しない点から想像するに、確証が無く推測の域を出ないものの、巻子本から版本への移行期、つまり宋初あたりまでは巻子本形式の十巻本(内容から判断して述序志第十二は別枠として、述劉先主志第六と述劉後主志第七とを合わせたもの、或いは述大同志第八と述李特雄期壽勢志第九とを合わせたもの、または述先賢士女總讃論第十と述後賢志第十一とを合わせたもの)が伝承されていたのではないのかと考えられるが、孰れにしても現行の諸本は全て十二巻本であり、字句の異同は別として、版本問の大きな相違は巻十先賢士女總讃の内容の多寡だけである。ただ本志の巻数にこのような混乱が生じた最大の原因は、常キョ自身が序志中で「凡て十篇」と言いながら、同時にその内容を同じ序志中で前拳の如く述巴志第一から述序志第十二までに分類している点に存在する。
 本志は全十二巻の構成を採るものの、その内容的構成から言えば、大きく三部構成に分類出来る。第一部は巷一から巻四までで、専ら巴蜀地方(梁・益・寧の三州)の古代史及び地理の沿革・物産の状況を述へ、第二部は巻五から巻九までで、前漢末の公孫述政権から東晋初期李氏政権滅亡までに至る間の、巴蜀地方に成立した歴代地方政権の興亡を編年体形式で記し、第三部は巻十から巻十二までで、漢初から東晋初期にかけて活躍した著名な士女の伝記及びその目録を列挙している。別の見方をすれば、第一部が地理志で、第二部が本紀で、第三部が列伝であるとも言えよう。又、時間的構成から言えば、古代から西晋初期までの通史であり、空間的構成から言えば、益州を中心とした華陽地区だけを対象とする地方史である。そのため本志を目録中の何処に置くかで、歴代混乱が生じており、全体的内容を勘案して雑史類に置くのが陳振孫の『直斎書録解題』、別史類に置くのが『宋史芸文志』であるが、これらはむしろ少数派に属し、大多数は第二部の本紀部分を重視して、覇史類に置くのが『隋書経籍志』・『通志芸文略』・『文献通考経籍考』・『国史経籍志』など、偽史類に置くのが『旧唐書経籍志』・『新唐書芸文志』・『崇文總目』・晁公武の『郡斎読書志』などで、載記類に置くのが『四庫全書総日提要』である。
 しかしながら本志の資料的重要性が、校合すべき他資料の有無などから判断して、実に地理志たる第一部の巻一から巻四までに存在すること明白であるにも関わらず、これを地理類に位置什けるのが、僅かに清の孫星衍の『廉石居藏書記』であると言う状況は、将に歴代の人々が本志の価値を第二部の本紀部分に認め、同時に彼等の興味の重点が政治の興亡に在った事を端的に示唆している。
 この様に、本志のどの部分を評価するかに因って、その位置什けが各々異なってはいるが、内容に大きな差異は無く、要は地方を対象とした通史であり、三部十二巻で構成され ている。

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   4、内容について
 『華陽国志』は常キョの創作に懸かるものではなく、彼自身が述べるが如く先行の古記録を参考にし、それに彼が見聞し且つ収集した資料を加えて著述されたものである。彼の生存年代と本志の内容とから判断すれば、実際の見聞に基づくと類推される部分は巻九及び巻十一であり、その他の部分は恐らく諸々の古記録を参考にしたと思われる。序志中で彼が先行著作者として名を列挙している人々は、司馬相如・厳遵・揚雄・陽衡・鄭キン・尹貢・ショウ周・任煕・陳寿の九人であるが、この内、司馬相如・厳遵・陽衡・尹貢・任煕の五人に関しては、如何なる著作が有ったのか詳細は不明である。揚雄に関しては、『隋書経籍志』に『蜀王本紀』なる著作が記載されており、現在その輯本が伝わってはいるが、揚雄の名に仮託した晋代の偽作であるとする説が有力である。鄭キンについては、本志の巻十一後賢志に『巴蜀耆旧伝』を作った事が記されており、ショウ周については、『三国志』注に『蜀本紀』が、『続漢書郡国志』注に『三巴記』が、『文選』注に『益州志』及び『巴蜀異物志』か各々引用されており、陳寿に関しては、現在輯本で伝わる『益都耆旧伝』十篇を著した事が『晋書』本伝に明記されている。
 既述の如く、現在散逸してしまった多数の先行著作を利用して著述されたのが本志であるが、内容を吟味すると全巻が一時期に成立した訳ではなく、各巻毎に微妙な時間差が認められ、且つ現行本は本志の原形をそのまま伝えている訳では決して無く、既に版本制作時より脱文が認められ、それに対して後人の改竄や加筆の手が多く加えられている。今その一班を挙げれば、時間差に関しては、記載内容の期間を序志中に於て「開聞より肇め、永和三年(347)に終はる」と言いながらも、巻一巴志及び巻二漢中志の記載下限は西晋の太康中(280〜289)であり、巻三蜀志の記載下限は西晋の永嘉中(307〜313)、巻四南中志の記載下限は東晋の成和八年(333)と言う具合に一定していない。更に巻十先賢士女總讃の末には「別に目録を為り、晋の元康末(299)に至る」と言うが、巻十一後賢志に列挙されている二十人中十八人に讃が有り、讃の無いショウ登と侯フクの二人は、元康より十年ほど後の永嘉以後に死去した人々であり、明かにこの二人は稿成りて後に加えられたと考えられる。
 同様な例は、巻十二序志に附載されている益梁寧三州先漢以来士女目録の末に「三州の後賢五十一人、前賢を井せて三百九十一人」と明記するが、実際に列挙されている人数を計算すると四百一人であり、後に十人が加えられた事が分かる。又後人の加筆に関しては、巻九李特雄期壽勢志の末に識語が有り、本文の「晋康帝建元元年」以降の李勢に関わる、三百五十二字は、後人の加筆である事が明白であり、清の廖寅は南宋の李ボウの加筆であると断じているが、『華陽国志校補図註』の作者任乃強氏は、向覚明氏家臧本の清の何シャクが校録した刻本を観察し、それが北宋の元豊刻本に基づく校語であると理解し、そこにこの識語が存在する所から、北宋め呂大防の手に成るとの見解を提示している。識語中に司馬光の『資治通鑑』が登場し、呂大防の元豊刻本が『通鑑』の成立に後れることほぼ十年後である点を考えれば、任氏の判断は卓見と言えよう。
 この様に、細かく検証すれば種々の問題を含んではいるが、これらは使用者が個々に判断すべきものであり、それに因って本志の資料的価値が極端に減少すると言うものではない。そこで次に、各巻の内容の概観を簡単に紹介しておく。
巻一巴志は、最初に『史記』夏本紀に在る堯帝の時の洪水から説き起こし、次いで『書経』の禹貢に基づく巴地方の地理的特質を述ペ、以後周の武王の伐紂から後漢の献帝の興平元年に至るまでの古代史を記録する。その後に所属の五郡二十三県の名を列挙し、各県名下に物産や大姓名を記し、最後に撰語を附す。
巻二漢中志は、周の戦国時代から後漢の献帝の建安二十四年に至るまでの古代史を述べ、その後に所属の七郡四十県の名を列挙し、各県名下に物産や大姓名を記し、最後に撰語を附す。
巻三蜀志は、最初に蜀の分野を記し、次いで独自の古代蜀王伝説を述べ、以後周の顕王時代から後漢の献帝時代に至るまでの古代史を記録する。その後に所属の七郡(二郡闕)三十六県の名を列挙し、各県名下に物産や大姓名を記し、最後に撰語を附す。
巻四南中志は、周末から東晋成帝の咸和八年に至るまでの古代史と西南少数部族の動向を述べ、その後に所属の十四郡七十三県の名を列挙し、各県名下に物産や大姓名を記し、最後に交趾郡の西晋初期に於ける状況と撰語を附す。尚、この部分の校合すへき他資料としては、『史記』巻百十六西南夷列伝・『漢書』巻九十五西南夷両越朝鮮及び『後漢書』巻八十六南蛮西南夷列伝などが挙げられる。
巻五公孫述劉二牧志は、先ず前漢末から後漢の建武十八年にかけて成立した公孫述政権の興亡を述べ、次いで霊帝の中平五年から献帝の建安十九年に至る二十六年間に渉って、益州を支配し続けた劉焉・劉璋父子の治世状況を記し、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すへき他資料としては、前半は『後漢書』巻十三公孫述伝、後半は『後漢書』巻七十五劉焉伝及び『三国志』巻三十一劉焉伝などが挙げられる。
巻六劉先主志は、蜀漢政権を樹立した劉備の一生を書き記し、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すべき他資料としては、『三国志』巻三十二先主伝などが挙げられる。
巻七劉後主志は、蜀の建興元年の劉禅即位から炎興元年の蜀漢政権滅亡までを述へ、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すべき他資料としては、『三国志』巻三十三後主伝などが挙げられる。
巻八大同志は、蜀漢政権滅亡の次年、つまり魏の元帝の咸煕元年から、西晋のビン帝の建興元年に至る五十年問の、益州地方の政治的動向を述べるが、専ら太康元年の呉平定に至るまでの過程と、元康六年以後の李特らを盟主とした多数の流民流入に伴う混乱状況とが中心であり、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すべき他資料としては、『晋書』巻四十二王濬伝・同巻五十七羅尚伝及び同巻百二十李特・李流載記などが挙げられる。
巻九李特雄期壽勢志は、タイトルに李特を記すも李特の話は前の巻八大同志に詳しく、この巻は、専ら李雄に因る李氏政権樹立から李勢の桓温に対する降伏に至るまでの、李氏六世四十七年間の興亡を述へ、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すべき他資料としては、『晋書』巻百二十一李雄・李班・李期・李寿・李勢載記などが挙げられる。
十先賢士女總讃は、前漢初期から三国末までに至る間の、益州地方出身の士女百九十四人の略伝を記す。文頭に讃を記し、次いで伝記を述べる。本巻は上中下の三部に分かれ、上は、蜀郡の士女五十五(男四十三・女十二)人、中は広漢郡の士女五十七(男四十六・女十一)人とケン為郡の士女三十(男二十一・女九)人、下は漢中郡の士女三十四(男二十五・女九)人と梓潼郡の士女十八(男十五・女三)人を連ね、撰語は下の未だけに置かれている。撰語に総数二百四十八(男百九十七・女五十二)人と記すが、実数は百九十四(男百五十・女四十四)人で、五十四(男四十七・女七)人少ない。この五十四人は、上に於ける脱文部分の巴郡士女の人数に相当する。尚、この部分の校合すへき他資料としては、『漢書』『後漢書』『三国志』の各列伝部分などが挙げられる。
巻十一後賢志は、西晋時代の著名な益州人士二十人を挙げて最初に讃を一律(但し、ショウ登と侯フクの二人は讃を欠く)に列し、その後に各人の略伝を述へ、最後に撰語を附す。尚、この部分の校合すべき他資料としては、『晋書』の各列伝部分などが挙げられる。
巻十二序志は、常キョの序文を載せ、同様に最後に撰語を附し、更に益梁寧三州先漢以来士女目録及び益梁寧三州三国両晋以来人士目録を附載す。総数三百九十一人と記すが、実数は四百一人である。
 以上、本志の内容的概略略を述べたが、最後にその資料的価値と欠点とに就いて触れておく。先ず書誌学的観点から言えば、現存する最古の纏まったた地方志である点か評価される。内容的には、中国古代の西南地方に放ける地理の沿革・独特な神話伝説・文化風俗の様相・経済開発の実態・地方政治の興亡・人々の生活動向などに関する貴重な資料を多量に残しており、その中でも特に、西南諸部族の古代に於けるる活動状況に関する纏まった資料としては、本志に代わるべきものが存在しないと言う所にこそ価値があるのであり、大きく評価され得る点でもある。
 一方欠点は、記載内容の発生年代や時間的経過が他資料と異なる点である。小は数ケ月から大は数年に至るものを含み、正史などの他資料に絶対的信用を置き、異なる部分は全て本志の誤記と断定してしまえば事は簡単であるが、必ずしもそうはゆかない。何となれば、本志は各事件が発生した地方の出身居住者に因って書かれている点、事件の発生年月とそれが中央に報告された時との時間差が認められる点、当事者側の認識とそれを受け取る側との認識の差がある点などを考慮する必要がある。故にその時間的相違部分が、単なる情報伝達上の時間差なのか、或いは本志の完全なる誤記なのかの判断に関して、他資料との厳密な校合を必要とする事は、多言を要しない。

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   付記
 右報告書は、「『後漢書』国訳の為の周辺資料の基礎的整理作業」の4年間の研究期間に於ける研究成果の一端として、平成7年4月に刊行される予定の『華陽国志』(明徳出版社)の解説部分の一部である。これを以て『後漢書』国訳研究班の本年度の報告書としたい。尚、2年前の中間報告に関しては、「袁宏管見一政治的動静と『後漢紀』−」(平成5年3月 漢学会誌第32号)を参照されたい。

     平成七年一月末日                         識於黄虎洞 

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