鬼神の性格に關する一考察

〜禮記を中心として〜

本ページは、大東文化大學『漢學會誌』第十五号、(昭和51年3月出版)からの転載である。


     初めに
   
1、鬼神に對する認識形態
   
2、鬼神の種類
   
3、鬼神と祭祀との關係
   
   終わりに

 

   初めに
 周知の如く鬼神とは、抽象的未確認な存在である。それ故に鬼神の種類も多く、性格も一定ではない。多様な性格を持つと言う事は、衆人の鬼神に対する認識態度が不特定で、実在性に関してすら疑問を有する為である。則ち鬼神の実体を見聞した人に於いて、その実在性はより具象的存在物となり、未見聞の人に於いては、あくまで抽象的存在物としての範囲内に於いてのみ認識出来るのである。それは、中国古代人の認識形態が、論理的ではなく経験的であり、個人的体験に基づく認識が、実際的存在物と為り易いと言う結果に因る。
 鬼神に関しては、『礼記』中にも記載が多く、その中でも特に、祭法・祭義・祭統の三篇に多く詳説されている。故に鬼神が祭祀と深い関係に在った事は確かである。しかし、この三篇中に於ける鬼神の説明は、極めて礼的洗練を受けて整理された、政治色の強い鬼神であって、鬼神の存在が発生した時点〜或いは存在が認識された時点〜、則ち原始鬼神の所有していた性格とは、社会的相違が有る。これは、鬼神の存在よりも存在自体を必要とした社会の、社会的要求に相違が有る為だとも言えよう。
 鬼神と言う言葉の概念も一定ではなく、人鬼を称して単に鬼・鬼神と呼ぶ時と、人鬼・天神とを併称して鬼神と呼ぶ時とが有る。一般的には鬼でも鬼神(注1)でも共に同義的に使用されている点から、互いに相通ずる性質(注2)を持っていたとも言えよう。
 以上鬼神に対する認識論・種類・祭祀との関係等に因り、鬼神の存在が如何なる社会的意味、如何なる社会的性格を持っていたか、と言う点に関して若干の考察を試みてみたい。


(1)人鬼の時と、天神と併称した時との、両方の場合を指しての鬼神である。
(2)共に祭祀の対象であると言う意味に於いての共通性。

トップへ

   1、鬼神に對する認識形態
 中国の古代人は如何鬼神の存在を認識したのであろうか。儒家中より孔子、諸家中より墨子、漢代より合理主義者の王充、この三者の認識形態を考えてみる。王充を取り上げたのは、鬼神の記述が尤も多い『礼記』が漢代に成立した書
(注1)であり、当然その中には当時の人々就中礼制の影響を受けた文化知識人の思考傾向を、含むと考えられるからである。
 孔子は、民の義を務めて鬼神は敬して遠ざく(注2)存在であるとし、鬼神に対しては尊敬の念を払う可きも、親狎す可きではないとの態度を採り、敢て理論的追求を行っていない。鬼神の存在が当時の人々に於いて、極めて切実な問題であるにも拘わらず、『論語』先進篇に

 「季路問事鬼神。子曰、未能事人、焉能事鬼。」

と言うが如く、あまり鬼神の対処には執着していない。則ち、形態を伴わない形而上的存在に執らわれる事は、現実に行う可き形而下的存在を軽視する結果にもなりかねない、との配慮に他ならない。孔子は、夏・殷・周の三代の鬼神に対する態度を説き、過親・不親・過尊・不尊、孰れの状態も良くなく、必ず何らかの弊を生じている(注3)とする。彼の鬼神に関する対処方法は、『礼記』檀弓上に

 「孔子曰、之死而致死之、不仁而不可爲也。之死而致生之、不知而不可爲也。」

とも言えば、極めて微妙な感覚であり、過不及無く敬を尽くすのが最良の手段となる。彼の鬼神に対する観念は、敬遠主義であり、その背景には、彼の基本的態度とでも言う可き現実主義、則ち、常に今を如何に生く可きかと言う現実重視の合理主義的思考に因って貫かれている。鬼神が祭祀の対象である以上、如何に祀るかが問題となる。孔子は「如在」(注4)と言う。この二字が持つ意味を考えてみるに、実際には存在しない事を認知してはいるが、反面実在を願望すると言う意味内容を持つと推測される。則ち孔子は、鬼神を心理的心霊現象としては認めても、物理的心霊現象としては否定している。孔子の鬼神に対する敬遠主義は、『論語』述而篇の、

 「子不語怪・力・乱・神。」

と言う一文が、端的に表現していると言えよう
 孔子以上に現実的立場を採るのが墨子である。彼は『墨子』明鬼篇の中で、

 「天下乱、何以然也、則皆以疑惑鬼神之有與之別、不明乎鬼神之能賞賢而罰暴也、今若使天下之人、偕若信鬼神之能賞賢而罰暴也、夫天下豈乱哉。」

と言い、天下の混乱は、人々が鬼神の実在と鬼神の持つ超自然的能力を信じない結果生じると論ずる。逆説的に言えば、鬼神が存在すれば天下の安静が保てると言う、政治顧問的要素を鬼神に与えている。鬼神の存在に有無が生じるのは、前述の如く個人的体験に因って確認される為で、鬼神の姿態を見聞したとする人に於いてのみ、その存在はより強く認知される。墨子は鬼神の実在を、古より以来の歴史事件に基づいて証明しようとしている。
○周の宣王が無罪の臣杜伯を殺し、鬼神の誅を受けた(注5)事件。
○鄭の穆公が宗廟で鬼神と会見した事件。
○燕の簡公が無罪の臣荘子儀を殺し、鬼神の誅を受けた(注6)事件。
○宋の詞の鬼神がコウ(示+后)観罪を誅した(注7)事件。
○斉の中里徼が鬼神に誅された事件。
以上の五例は全て罰暴であり、賞賢の例は絶無である。則ち、彼に於いては鬼神は降禍を主的行為とし、人間の反道徳的行為を阻止する事を目的とした存在として認識されている。その他『詩経』の文(注8)や、武王が殷を亡ぼし諸侯を親疏に分かち各々内外祀を受けさせた(注9)事実は、鬼神の存在を信じたからに他ならず、仮に不信ならば祭祀の必要も無い、故に聖王は建国に当たり必ず宗廟を建て鬼神を祀る(注10)のであると論じ、祭祀と言う儀式が存在するが故に鬼神も存在すると言う逆説的論法に因り、鬼神の存在を証明しようとしている。この点までは実証的論証であるが、一転して功利的論法となる。『墨子』明鬼篇に、

 「若使鬼神請有、是得其父母ジ(女+似)兄而飲食之也。豈厚利哉。若使鬼神請亡、乃費其所為酒醴粢盛之財、然非特棄之也。内者宗族、外者郷里、皆得如具飲食之、雖使鬼神請亡、此猶可以合驩聚衆、取親於郷里、此豈非天下利事哉。」

と言う。則ち、鬼神が存在すれば当然薦具物は鬼神が飲食する。存在しなければ無駄になる。だが代わって宗族や知己の人々が飲食し、親睦を図る上に於いて意義が有り、天下の利事であるとする。要するに、鬼神の存在自体には別に問題は無く、存在したと仮定した時、それに伴う行為に如何なる意義が有るかが問題となっている。ここに於いて、鬼神の存在の真偽の問題が、実際の効用性の問題に転換されている。既に鬼神の利用価値の有無に問題がある。天下の為に有利であれば存在し(存在しなくても)、無益であれば存在しなくなる(存在しても)、極端なまでの功利主義である。存在性を信することに因り賞賢罰暴を行い易く、それを国家万民に施行することの方が重要であり、実に治国済民を利する所以の道でもある。故に聖王は必ず鬼神の禍福を知り天下の利害を興除する(注11)のである。「利」と言う概念の前に於いては、超自然的世界の存在物と雖も、人間界と何ら変わること無く(注12)、如何に墨子が現実社会に於ける利害関係を重視したかが窺えよう。鬼神の存在は、真偽の如何に拘わらず政治機構保持も為の意図に因る点が大きい。人間行為に対する厳正な観察者として、社会組織統率の為の超自然的能力を持ったカリスマ的存在物として、政治的意図に因り政治的利用価値を持って存在させられている。
 漢代の王充に至っては、鬼神の存在を完全に否定する。彼は先の二者と異なり、鬼神の行為自体からその存在を否定する。彼は鬼神の行為と言われている例を五つ挙げ(注13)、全て人間の感情変化に因る虚想の存在物に過ぎない(注14)とする。則ち、鬼神の行為は人為的行為に他ならず、人間の行為の都合の悪い部分をカモフラージュする為に、単なる自然現象に対し特別な意味を附持させる為の存在であるとする。先の二者は共に、鬼神の行為を超自然的現象として神霊的絶対性を認めている(但し、認識方法には相違が有るが)。だが王充は、既に行為自体も自然現象に過ぎないことを認め、その存在及び行為の絶対性は、個人的立場に於いて変動し、普遍的必要性は無いとしている。明らかに彼は、鬼神の存在を政治上の虚構物であると認識している。
 以上、孔子は敬遠主義で、墨子は功利主義で、各々鬼神の存在を是認している。だが王充は、墨子以上の功利主義で鬼神の存在を否認している。別の意味では科学的否認でもある。それは、漢代が自然科学分野で些かでも進歩した時代であったことにも因る。


(1)『礼記』の成立過程及び成立時代に関しては、細部な面に於いては未だ色々問題も有るが、ほぼ漢代と考え  る。
(2)『論語』雍也篇に、「子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。」
(3)『礼記』表記篇に、「子曰、夏道事鬼敬神、其民之敝、惷而愚、喬而野、朴而不文。殷人尊神、先鬼而後礼、  其民之敝、蕩而不静、勝而無恥。周人事鬼、敬神而遠之、其民之敝、利而巧、文而慙、賊而蔽。」
(4)『論語』八イツ篇に、「子曰、祭如在、祭神如神在。」
(5)『史記』卷四周本紀正義引『周春秋』には、「宣王殺杜伯而無罪、後三年、杜伯射宣王」に作り、『國語』周語  上には、「杜伯射王於コウ」に作る。
(6)『論衡』卷二十一死偽篇に、「簡公将入於桓門、荘子儀斃於車下」に作る。
(7)『論衡』卷二十五祀義篇に同様の文有り、但し『春秋左氏伝』定公二年の「奪之杖以敲之」とは合致せず。
(8)『詩経』文王大雅の「文王陟降、在帝左右」の篇。
(9)『墨子』非攻下に、「武王已克殷、成帝之来、分主諸神。」
(10)『墨子』明鬼下に、「聖王其始建国営都、必択国之正壇、置以為宗廟。」
(11)『墨子』天志中に、「知天鬼之所福而辟天鬼之所憎、以求興天下之利而除天下之害。」
(12)『墨子』天志下に、「上利天、中利鬼、下利人、三利而無所不利。」
(13)『論衡』卷二十二訂鬼篇に、「一曰鬼者人所得見病之気也、一曰鬼者老物精也、一曰鬼者本生於人時不成   人、一曰鬼者甲乙之神也、一曰鬼者物也。」
(14)。『論衡』卷二十二訂鬼篇に、「皆存想虚、致未必有其実也、倶用精神畏懼也。」

トップへ

   2、鬼神の種類
 鬼神と言う言葉が表示する具体的対象物は一定ではなく、必然的に鬼神と言うものの種類も一定ではない。では基本的には大別すると何種類になるのか考えて見たい。

 古代に於いて尤も一般的なのが、霊魂を称しての鬼神である。「人死曰鬼」(注1)と言い、「人所帰為鬼」(注2)と言うが如く、人の死後に於ける存在を鬼・人鬼と呼んでいる。この鬼が更に細分化され、幽体(心理的心霊存在物のことを示す。以後便宜的に幽体と称す)と形体(物理的心霊存在物のことを示す。以後便宜的に形体と称す)とに為り、鬼神と呼ばれるに至る。孔穎達が「鬼謂形体、神謂精霊」(注3)と言うのはこのことである。この鬼神の発生形態については、『礼記』祭義篇に、

 「気也者、神之盛也。魄也者、鬼之盛也。合鬼與神、教之至也。衆生必死、死必帰土、此之謂鬼。骨肉斃於下、陰為野土、其気発揚于上、為昭明T蒿悽愴、此百物之精也。神之著也。」

と言う。死亡した形体が土に帰り、変化したものが鬼であり、鬼より天に発揚した幽体が神である。則ち、人は各々天地の持つ特性を受けて生じた存在で、万物の根幹は天地である。故に人と雖も死後は必ず鬼神となって天地に帰って行くと言う、霊魂不滅観に基づいた発想で、「復」の習俗は、その典型的な例である。鬼神の持つ超自然的能力は、「見怪物皆曰神」(注4)と言えば、幽体である神の所有する能力であって、基本的には形体である鬼は持ち得ない。則ち、行為自体は物理的現象ではあるが、その主体は心理的心霊現象の産物である。このことは、当時の人々に於いては、地よりも天の方が遙かに神秘的存在であったことを物語っている。孰にせよ、人の死後に於ける魂魄の存在が鬼神である。
 鬼神自体よりも、鬼神の持つ能力の方が重視され出すと、鬼神の表す意味も異なって来る。「鬼神害盈而福謙」(注5)と言い、「夫大人者、與鬼神合其吉凶、天且弗違、而況於鬼神乎」(注6)と言えば、鬼神は人間道徳の基本で、絶対違反すること無く、福善禍惡の力に因って、人間の行為を評価判断する正確な天神的存在となる。更に、「鬼神其依」(注7)、「鬼神饗徳」(注8)、「鬼神之為徳、其盛矣乎。質諸鬼神而無疑」(注9)と言えば、既に最高の徳を持った神明叡智な天地創造神的存在となる。則ち、鬼以上に神に重点を置いた結果で、必然的に鬼神の持つ能力も、天神・地祗と同様なまでに拡大されるに至る。だが如何に天地創造神的と為ると雖も、依然として天神と鬼神との間には、厳然たる格差が存在する。『礼記』郊特牲に、

 「帝牛不吉、以為稷牛、帝牛必在滌三月、稷牛唯具、所以別事天神與人鬼也。万物本乎天、人本乎祖。」

と言う。天神・鬼神共に創造の基ではあるが、階級的には天神の方が遙かに上位に存在する。この事は、『大戴礼記』の中で天下の大罪を五つ挙げ、天地に逆らう者を第一位に、鬼神を誣う者を第四位(注10)に位置させ、所謂実質的被害者を持たぬ道徳的犯罪としては、最下位に居るが、実質的犯罪の殺人よりも上位に位置する以上は、人間界を超越した存在として認識されていた事に違いは無い。
 以上の他に特殊な鬼神が有る。怪奇現象を生ずる鬼神で、「断而敢行、鬼神避之」(注11)とか、「国将亡妖見其亡、人将死鬼来其死」(注12)とか言われる怪鬼妖神である。人の精霊でもなければ天地創造神でもない。人間に害悪を及ぼす悪鬼的存在の鬼神である。先の創造神的鬼神が、神に重点を置いた結果発生したのとは反対に、鬼の方に重点を置いた為に生じた鬼神である。則ち、地鬼から天神へと移行融合する鬼神の成立過程が分離し、更に漢末の神仙思想が結合し、地界・人界・天界と言う世界観が成立し出す。同時に各界に人間界と同様な身分階級制が適用(注13)され、地界の存在物が鬼で天界の存在物が神となる。則ち、地界は人界よりも下位に位置する為に、必然的に地界の住人である鬼は、人間よりも卑陋低級な存在物となる。故に鬼は、機会有る毎に人間に対して害悪を及ぼすと言う思考が発生し、この鬼を称して鬼神と呼ぶようになる。漢代以前に於いては、殆どこの鬼神の存在例を見出せないが、漢末以後は、鬼神と言えばこの鬼神を指す様な感さえ有る。ただこの三界思想(地界・人界・天界)が、文献的顕著な例証こそ無いとは雖も、既に漢初に於いて萌芽を見、漢代知識人に或る程度浸透していたと思われる事は、近年発掘された漢代考古学的出土物(注14)が示しており、それに対する中国科学院考古研究所の統一見解も、三界を表した画図(注15)との発表をしている。この鬼神こそが、六朝時代を通じてより悪鬼的色彩を強める鬼神に他ならない。
 以上、中国古代に於ける鬼神の種類を大別すると、ほぼ次の三種類に分類出来るかと思う。
1、死者の霊魂である鬼神、則ち所謂鬼神。
2、絶対的創造神的鬼神、則ち神的鬼神。
3、実害を及ぼす妖怪的鬼神、則ち鬼的鬼神。
一般的には1、と2、とを併称して鬼神と呼ぶ。それは、天神・鬼神共に祭祀と言う儀式を媒体として、同一ブロック内に存在する為で、3、を称して鬼神と呼ぶようになるのは、専ら漢代以後である。


(1)『礼記』祭法篇。
(2)『説文解字』九篇上
(3)『礼記』礼運篇の「鬼神之会」の孔疏。
(4)『礼記』祭法篇。
(5)『易経』謙卦の彖伝。 
(6)『易経』乾卦の文言伝。
(7)『尚書』大禹謨。
(8)『礼記』礼器篇。
(9)『礼記』中庸篇。
(10)『大戴礼記』本命篇に、「大罪有五、逆天地者罪及五世、誣文武者罪及四世、逆人倫者罪及三世、誣鬼神   者罪及二世、殺人者罪止其身。」
(11)『史記』卷八十七李斯列伝。
(12)『論衡』卷二十二訂鬼篇。
(13)葛洪の『神仙伝』及び天界図を参照。
(14)1972年4月、長沙馬王堆一号墳墓出土の帛書。
(15)『長沙馬王堆一号漢墓発掘簡報』に、「上段は天上界、中段は人間界、下段は地下の世界を表す」と言う。   但し各段の細部な面に渉っては、例えば上段に於ける安志敏氏の山海経説(『考古』1973−1)、商志馥氏   の淮南子説(『文物』1972−9)、兪偉超氏の楚辞説(『考古』1972−5)等、その他呉作人・羅コン・孫作    雲等諸氏の異説が有る。

トップへ

   3、鬼神と祭祀との關係
 鬼神と祭祀とは如何なる関係にあるのか。「郊社之義、所以仁鬼神也」
(注1)と言う。郊社とは祭祀であり、祭祀を行う意義は、鬼神を仁くしみ大切にすることである。祭祀の方法は祭義に因れば、煩でも疏でも良くなく、煩であれば鬼神に対して不敬を致すことになり、疏であれば鬼神を忘れたことになる。故に祭祀は必ず天道に合致せねばならぬ(注2)と言う。天道は前述の如く万物の基幹で、創造神として絶対的存在である。この天道と合致することは、とりもなおさず鬼神に対する祭祀も絶対的行為となる。鄭玄が「鬼者、薦而不祭」(注3)と言い、何休が「無牲而祭、謂之薦」(注4)と言えば、犠牲を用いず単に四時の新物を以って鬼神を祭ったことになる。
 鬼神であれば、誰が祭っても良いのかと言えば、そうではない。「非其鬼而祭之、諂也」(注5)と言う如く、当然祭祀の対象は同族の祖先であり、自己の宗廟に於ける鬼神(注6)に限定される。同族以外の鬼神を祭ることが諂いとなるならば、鬼神も持つ禍福を降す能力は、当然同族に於いて使用されることになる。則ち、鬼神はその一族が祭ってこそ意義が有り、鬼神の加護も受けられるのである。この事は『春秋左氏伝』に多くその例を残している。
○「天禍許国、鬼神実不逞于許君。」(隱公十一年)
○「鬼神非人実親、惟徳是依。」(僖公五年)
○「我先王熊摯有病、鬼神弗赦。」(僖公二十六年)
○「鬼神非其族親、不饗其祀。」(僖公三十一年)
○「其先君鬼神、実嘉頼之。」(昭公七年)
○「鬼猶求食、若敖氏之鬼、不其餒。」(宣公四年)
以上の六例が示すが如く、鬼神は当然一族が祭る可きものなのである。そして、鬼神の禍福が如何に重要な問題であったかは、「若属有讒人交闘其間、鬼神而助之、以興其凶怒、悔之何及」(注7)と言う一文から、十分に窺える。且つ、同族内でも鬼神を祭る可き人は更に限定される。「支子不祭、祭必告宗子」(注8)とか、「庶子不祭祖者、明其宗也」(注9)とか言えば、宗子が祭るのである。同族内の宗子が祭ってこそ、初めて礼に適った祭祀と言えるのである。
 しかし一方では、儒教を国教とした漢代初期に於いて、「郡国廟」なる宗廟が全国各地に置かれている。(注10)この廟は郡主・国主が祭るのであるから、当然一族どころか宗子でもない、完全に祭祀の礼を破る行為である。それは天下の諸家を漢家(劉氏)の下に統合して一家となすピラミッド型の国家形態(Hun Family)を目的とした(注11)ためである。則ち、鬼神の具象的存在物である宗廟を、国家政策の道具として使用し、国家的結合の強化を図っている。(但し元帝時に反礼的存在として廃止されている)
 鬼神が祭祀と言う儀式の対象である以上、その行為自体も自ずから倫理的規範を伴う。「致孝乎鬼神」(注12)と言うが如く、孝道を尽くすのである。孝とは、親・子間の道徳倫理である。親の生存中には子供は当然孝を尽くす。だが、死亡すれば孝道を尽くす可き具体的対象が存在しなくなる。結果的に孝道中絶と言う状態に至りかねない。孝道存続のためには、親の死後に於いてもその対象が必要になる。則ち、親の死後に於ける孝道の対象が鬼神であり、尽孝を行う具体的場所が宗廟である。だが宗廟の祭祀である以上、鬼神の数は複数になる。元来孝の概念は父・子間が基本である。故に孝の対象が父以外に拡大した時、孝に代わる可き概念が必要となってくる。是に於いて敬の概念が適用される。「孝子之事親也、有二道焉。祭則観其敬」(注13)と言い、「宗廟致敬、鬼神著矣」(注14)と言う。則ち、孝の概念には、個人的・私的関係のニュアンスを多分に含んでいるが、敬の概念になると、より社会的・公的関係のニュアンスの方が強くなり、その言葉の使用範囲も孝以上に広範囲に及び、より広義な意味内容を具有し出すようになる。敬の概念が社会的であるが故に、元来父・子間と言う個人的身分関係が、社会的要素を伴い、社会的身分関係へと変化する。孝道から敬道へと移行した時点に於いて、鬼神及び宗廟も自ずから社会性を持ち、公的身分関係の色彩を表明し出すのである。
 周知の如く古代中国の社会組織は、宗法中心の家族制度を以って基本と為し、家族→宗族→邦国、の形成へと拡大する組織で、且つ五倫を中心とした社会道徳・礼的規範を基盤とした国家体系であり、その経路は所謂『大学』の、正心→修身→斉家→治国→平天下、であり、これを理想としている。斉家の中心道徳である孝道の興廃は、平天下の成否に重大な意味を有している。鄭玄が、「尊鬼神、重人事」(注15)と言うが如く、特に人事面に於ける国家体系保持のためには、鬼神の存在が不可欠であったことが分かる。
 更に鬼神が、宗廟と言う社会的場所に於ける祭祀の対象であったが故に、鬼神の成立に関してすら宗法の影響を受けることになる。例えば『礼記』祭法篇に、

 「王立七廟一壇一セン(土+單)、去セン為鬼、諸侯五廟一壇一セン、去セン為鬼、大夫三廟二壇、去壇為鬼、適士二廟一壇、去壇為鬼、官師一廟、去王考為鬼、庶士庶人無廟、死曰鬼」

と言う。天子は九代、諸侯は七代、大夫は五代、上士は三代、中士は二代、下士庶人は父より直ちに鬼と呼ぶことが出来る。仮に父・子間を約二十年と措定すれば、天子の場合約百六十年間常に交互に鬼神と呼べぬ幽体(心理的心霊物体)が存在することになる。鬼神でない以上基本的には禍福の能力も持ち得ない。ではこの幽体は一体何なのか、既に「人死曰鬼」と定義した以上、名目は何であれ実質は鬼神に他ならない。一方鄭玄は、「聖人之精気、謂之神、賢知之精気、謂之鬼」(注16)と言うが、それでは賢知以下の幽体を何と呼ぶ可きなのか。宗廟制度の確立と共に、鬼神の成立・名称に対してまでも、封建的階級身分制度を転用したが結果の矛盾である。本来人事を越えた超自然的存在である可きはずの鬼神に対して、封建制と言う人事に関する制度を適用したこと自体、既に鬼神は、人為に因って左右出来る人為的存在となっていたと言えよう。それは、当時の人々が意識したと否とに関わらず、現実としてその様な存在であったと言うことである。
 孰にせよ、鬼神は礼道徳の規範であり、よれ故にこそ、鬼神の祭祀は重要な行事となっている。「祭先所以報本也」(注17)とか、「天下之礼致反始也、致鬼神也、致鬼神以尊上也」(注18)とか言えば、国家を維持する礼道徳の尤も重要な行事が祭祀であり、鬼神を祭ることは、則ち上を尊ぶことになる。尊上とは、何も祖先だけとは限らない。所謂君臣・父子・長幼と言った身分の上下関係をも意味し、この関係こそが、天下を治める所以の規範でもある。要するに、祭祀と言う儀式的行為に因り、鬼神と言う心理心霊的存在を媒介として、宗廟と言う具体的対象に対し、厳然たる上下関係、身分制度の確立を図っている。
 古代社会に於いては、政治理念と祭祀観念とが相通じ、個人的日常生活の道徳行為が、政治的行為の道徳でもあり得る。故に、道徳中に於いて尤も価値有る至孝と言う概念を政治目的に利用し、「孝以事親、順以聽命、錯諸天下無所不行」(注19)と言えば、明らかに支配者の命令を天下万民に施行するための、政治的伝達経路の潤滑油として、孝と言う家族道徳を使用し、封建社会下に於ける基本的身分制度の徹底と、支配制度強化のために、鬼神を利用していたことが分かる。
 更に『礼記』祭義篇には、具体的説明がなされており、則ち、

 「因物之精、制為之極、明命鬼神以為黔首則、百衆以畏、万民以服、聖人以是為未足也、築為宮室、設為宗チョウ(示+兆)、教民反古復始、不忘其所由生也、衆之服自此、故聽且速也。」

と、既に祭祀が権力支配を目的とした行為であり、鬼神がその対象として存在したことは明白である。祖先の霊魂に対して孝敬を尽くして祭ると言う素朴な道徳的・宗教的意識ではなく、支配と服従と言う政治支配の理論形成に、鬼神が転用されている。本来は孝道の対象であった鬼神が、畏服の対象となり、人間行為に対して禍福を降すと言う観察者的存在が、民衆の絶対服従と言う法則的存在となっている。君命は則鬼神の命となり、支配者の行為は自ずから鬼神の行為となり得る。それ故に、君に反する態度は鬼神に対する大不敬として絶対赦されない。「祭者、忠信愛敬之至矣。其在百姓以為鬼事也」(注20)と、具体的に忠信と言う封建身分制度上の概念を使用するに至る。既に鬼神の存在は、支配体制確立以外の何物でもない。
 今や政治政策の道具となり、「聖人参於天地、並於鬼神、以治教、鬼神以為徒」(注21)と言う。明らかに天地・鬼神と言う絶対的存在物を、政治活動(済民政策)の道具と為している。換言すれば、絶対的存在を道具として成立した政治体制は、自ずから絶対的存在としての要素を持ち得ることになる。この様な鬼神を認めるか否かの問題は、支配者側・被支配者側の双方にそれぞれ大きな意味を持つことになる。
 鬼神が降す禍福の能力及びその内容も、既に大きくその性格を異にする。則ち、福とは、物欲的な鬼神の祐助ではなく、大順の名を受ける(注22)ことである。嘗って『春秋左氏伝』に例を見た鬼神の福とは様相が異なる。順とは従である。君に対する忠臣、親に対する孝子、二者は共に同一根(注23)である。則ち、理論的には、鬼神に孝を尽くすことは、とりもなおさず君に忠を尽くすことになる。大順の名とは、上は鬼神に、外は君長に、内は父母に順う(注24)と言う服従の念である。鬼神を祭ること自体が既に服従であり、その結果受ける福もまた服従の念である。如何に階級的封建支配体制を確立するために、鬼神の存在が重要であったかを物語っている。。
 鬼神と言う超自然的存在が、政治と言う尤も実用社会の場で使用されていたと言う現実は、存在自体が超自然的であるが故に、その政治的利用価値も極めて高かったことを示している。


(1)『礼記』仲尼燕居篇
(2)『礼記』祭義篇、「祭不欲数、煩則不敬、疏則怠、是故君子合諸天道。」
(3)『礼記』祭法篇、鄭玄注。
(4)『春秋公羊伝』桓公八年、何休注。
(5)『論語』為政篇。
(6)『儀禮』士虞礼篇、鄭玄注に、「鬼神所在、則曰廟。」
(7)『春秋左氏伝』昭公十六年。
(8)『礼記』曲礼篇。
(9)『礼記』喪服小記篇。
(10)『漢書』卷五景帝紀に、「郡国諸侯、宜各為孝文皇帝立太宗之廟。」
(11)板野長八著、『中国古代に於ける人間観の展開』第二十章第二節五四七頁参照。
(12)『論語』泰伯篇。
(13)『礼記』祭統篇。
(14)『孝經』感応章篇。
(15)『周禮』卷十八宗伯、鄭玄注。
(16)『礼記』楽記篇、鄭玄注。
(17)『礼記』祭義篇。
(18)『礼記』祭義篇。
(19)『礼記』祭義篇。
(20)『荀子』礼論篇。
(21)『礼記』礼運篇。
(22)『礼記』祭統篇に、「非世所謂福也、福者備也、備者百順之名也。」
(23)『礼記』祭統篇に、「忠臣以事其君、孝子以事其親、其本一也。」
(24)『礼記』祭統篇に、「上則順於鬼神、外則順於君長、内則以孝於親。」

トップへ

   終わりに
 鬼神の性格と言っても、鬼神自体不確定な存在であり、過惡福善以外は意志顕示を行わない。因って鬼神の行為より性格を分析することは困難と言える。故に鬼神の性格は、鬼神の存在が当時の人々に於いて、如何に認識されたか、則ち、鬼神の存在が如何なる社会的意義、及び役割を担っていたか等に因って、判断す可きであると思う。

 子供が親(父母)に対して尽孝を行うのは、自然の行為であり、親の永続を願うのも人情である。だが一方では、死も絶対避け難い自然の節理である。とは雖も、死後に於いても更に孝行の遂行を願うのは、人子として当然の感情でもあろう。この素朴な自然的感情の発露と、原始文化形態時に於いて各民族が持つ所の心理的生命の不滅性(霊魂不滅論)とに因って、捻出されたのが鬼神である。
 人の死後に於ける存在が鬼神である以上、基本的には、天子・庶人と言う階級的差別は有り得ない。孔子が鬼神に対して敬遠主義を採った如く、鬼神はあくまで幽遠な存在であり、死後に於ける孝道の対象としての存在が、鬼神の本質である可きである。そして、この性格は本質であるが故に、如何に鬼神に対する認識形態に変化が生じても、決して変質することは有り得ない(但し、別の性質を具有し出すが、それは後に付加された性質に過ぎない)。しかし、尽孝の行為が祭祀と言う社会政治的行事であるが故に、より以上に政治的色彩の強い性格、則ち社会性を持つに至り出す。墨子が、国家に於ける利用価値と言う功利主義に因って鬼神を認識したが如く、国家の為の鬼神、国家的シンボルとなり出す。道徳観と政治理念とが同一線上に在るが故に、鬼神は政治政策上の存在となり、国家の安泰、階級制の確立、権力支配の強化、と言う政治目的の為に利用され、国体保持の立場から支配者階層の政治的道具となるに至ったものと考えられる。
 社会構造が、家と言う宗法に基づく血族単位を基礎とした組織であり、鬼神が家族を中心にした家庭道徳より発生した存在であることとに因り、他の超自然的存在、則ち、天神・地祗以上に、鬼神は政治目的に使用し易く、その利用価値も高かったと言える。因って鬼神の性格は、次の様に規定することが出来よう。
○基本的性格・・肉親の死後に於ける孝道徳の対象、則ち、私的・宗教的・倫理的存在。
○社会的性格・・階級制度と権力支配の確立を目的とした政治政策上の道具、則ち、公的・社              会的・政治的存在
 古文献の中では、『論語』『春秋左氏伝』の中に、基本的性格として認知出来得る鬼神の姿をより多く残し、『墨子』『荀子』特に『礼記』は、既に社会的性格を持った鬼神となっている。『論語』も『礼記』も共に孔子の言を残すが、同一人物とは認め難い程の、中には相反する様な部分さえ有る。これは『礼記』が、政治目的を持って意図的に編纂された為であろう。故に同じ孔子の言とは雖も、『論語』の中にこそ、彼の認知した原始鬼神の姿、及び原始認識形態を残していると思われる。
 仮に当時の支配者層が、既に私的道徳観を政治上の公的機関運用の為に転用した時、基本的には私的関係であるが故に、公的機関に対する批判・怨嗟と言う反体制的現象の発生が、些かでも減少するであろうと言う高度な政治的配慮を持って、鬼神を利用したとするならば、彼等は所謂為政者として、偉大な政治家であったと言える。且つ中国に於ける為政者は、古より以来常に如何に民衆を従順に支配するかについて、日夜叡智を絞り努力を払っていた、と言っても過言ではあるまい。この様な現実状況こそが、かかる鬼神の性格を作り上げていったものと思われる。

     昭和四十九年八月                              於黄虎洞

 

*本拙論は、修士課程二年次(二十四歳)に於ける、栗原圭介教授の夏期休暇の課題(『礼記注疏』の授業)として制作したものであり、公刊された最初の論文らしきものである。

トップへ


[論文Aに戻る]