臺湾故宮博物院蔵『古京遺文』管見

本ページは、大東文化大学『漢學會誌』第35号(平成8年3月)からの抄訳転載である。


     はじめに
   
1、稿本と抄本
   
2、静嘉堂文庫所蔵稿本と東京国立博物館蔵稿本
   
3、故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本
   
4、抄本七種
     
おわりに

   はじめに
 本拙稿は、湖北省宜都縣の出身である清末の大学者楊守敬(一八三九〜一九一五)が、光緒十年(一八八四)に日本で購入して中国に持ち帰り、その後台湾の故宮博物院に収蔵されている、澀江抽齋舊蔵狩谷ヤ(木+夜)齋自筆草稿本『古京遺文』の内容及び形態を中心として、それに関する若干の書誌学的知見を提示するものに過ぎない。
 筆者は、現昭和学院短期大学助教授鈴木晴彦氏の「書道史的観点から江戸期に於ける金石学の認識傾向とヤ齋の学問傾向の一端を解明しようではないか」との提案に基づき、ヤ齋自筆稿本と目されている東京国立博物館蔵『古京遺文』を底本として諸本に因って誤脱を補訂した、と言われている山田孝雄・香取秀眞増補『古京遺文』(勉誠社文庫本)を使用して、藪田嘉一郎著『日本上代金石叢考』等を参考にしながら、昭和五十九年より『古京遺文』譯注の共同作業(碑文自体の解明ではなく、碑文に対するヤ齋の解釈の解明を主目的とする)を開始し、同六十年より平成元年までの間、鈴木氏の名で氏の大学の紀要に九篇(ほぼ全体の三割弱)の譯注を公表して来たが、その後二人共校務や諸事に時間を取られて多忙を極め、昨年まで中断せざるを得ない状況に在った。その間、平成元年には碑文・銘文自体の解明を試みた『古京遺文注釈』(上代文献を読む会編、桜楓社刊)が公表され、同六年にはヤ齋に関する総合的人物伝である『狩谷ヤ齋』(梅谷文夫著、吉川弘文館刊)が出版されるに至った。そこで、鈴木氏と協議の結果、時間的余裕の生じた本年から譯注の継続を再開する事となったが、再開に当たり、現在唯一の見解として流布している、故宮博物院蔵狩谷ヤ自筆草稿本に関する書誌学的誤りを、訂正しておく必要が有ろうと考えた次第である。
 結論的に言えば、阿部隆一氏が『増訂中国訪書志』(昭和五十八年、汲古書院刊)の中で調査の結果として提示された、故宮博物院蔵『古京遺文』は極めて初期、つまり「この本には文政元年(一八一八)の自序がなく、それ以前の自筆草稿本であろう」との見解は、誤りと言えるのである。則ち、『古京遺文』は文政元年以後陸續としてヤ齋自身に因る増補改定が繰り返されており、故宮博物院蔵草稿本は、ほぼ十五年後の天保三年(一八三二)以後の自筆草稿本である事は明白であり、現在?齋自身に因る最終的な自筆稿本ではなかろうかと目されている、東京国立博物館所蔵狩谷ヤ齋自筆稿本『古京遺文』の基になったか、或はそれに極めて近い時期の「自筆草稿本」である、と言えるのである。
 以下、この点に関して些か鄙見を述べてみたいと思う。

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   1、稿本と抄本
 現在我国に伝世している『古京遺文』は、ヤ齋の自筆稿本と目されているものと、それを筆写した抄本だけで、所謂整版は制作されていない。個人所蔵の諸本に関しては、その全てを明らかにしようもないが、公的機関に所蔵されているものに関しては、『国書総目録』などの記載に基づくに、自筆稿本は、静嘉堂文庫に一本、穂久邇文庫に一本、そして山田孝雄・香取秀眞が明治四十五年に翻刻補訂(これを後年排印したものが勉誠社文庫本である)するに当たり底本として使用した東京国立博物館蔵一本の三本に過ぎないのである。しかもこの三本は同時期成立の稿本ではなく、ヤ齋自身の自筆校訂が何回と無く繰り返されている結果、それぞれの間には、最長で文政元年(一八一八)から天保三年(一八三二)以後に至る、ほぼ十五年間に及ぶ時間差が存在する。抄本に関しては、各稿本に基づくと判断される写本が、国立国会図書館・宮内庁書陵部・神宮文庫・無窮会神習文庫・大東急記念文庫・東大・京大・阪大・早大・慶応大学斯道文庫(斯道文庫本は題箋に「狩谷ヤ齋稿本」とあるものの、字態から判断して明らかに稿本ではなく抄本である)など十四カ所に二十一本が所蔵されている。
 以上の他に、本拙稿が対象とする台湾故宮博物院蔵自筆草稿本が存在する。故宮博物院には、『古京遺文』二本が所蔵されているが、一本は明らかにヤ齋の文字とは字態の異なる抄本であり、もう一本の二冊装丁本が自筆草稿本と目される。この二冊装丁本は、静嘉堂文庫所蔵自筆稿本や国立公文書館に所蔵されているヤ齋自筆稿本『和名類聚抄箋注』と比較して見るに、字態や改訂の様式が明らかに同一人の手に成る特徴を有しており、更にその内容からもヤ齋の自筆草稿と十分に判断される。そこで問題になるのが、この故宮博物院蔵自筆草稿本の成立が何時頃かと言う事であるが、阿部隆一氏の指摘の如き、現存稿本の中では最も古いと目されている静嘉堂文庫所蔵稿本よりも古い初期草稿本である、などとは決して言えず、むしろ可成り後期の草稿本と判断した方が蓋然性が高いのである。
 本来ならば、既述の如き判断を下すに当たっては、所在の明白な全ての稿本及び抄本を精査した上で述べるべき事は多言を要すまでもなく、その慎重性を欠いてはならない事も十分に承知しているが、現状では筆者にその時間的余裕が無く、また十全なる能力も持っていない。しかし、本拙稿での論証(時代設定)を可能とするであろうだけの資料は、一応手元に存在すれば、諸本全ての位置付けは後日の調査結果を待つ事として、今は取り敢えず手元の資料を使用して、それらの内容から分かる範囲以内で具体的な様相を窺ってみたい。尚、以下本拙稿に使用する諸本は、

 ○静嘉堂文庫所蔵稿本(A)
 ○故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本(B)
 ○東京国立博物館蔵稿本(C)
 ○静嘉堂文庫所蔵山田以文旧蔵抄本(D)
 ○慶応大学斯道文庫蔵抄本(E)
 ○無窮会神習文庫蔵抄本(F)
 ○故宮博物院蔵抄本(G)
 ○川上新一郎氏所蔵二冊装丁抄本(H)
 ○静嘉堂文庫所蔵抄本二種(I)

の稿本三種と抄本七種とである。

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   2、静嘉堂文庫所蔵稿本と東京国立博物館蔵稿本
 先ず、論証を便宜的に進めるために、最も後期(天保三年以後)の自筆稿本と目されている、東京国立博物館蔵稿本を底本として排印された勉誠社文庫本の、序文と目録を提示しておく。尚、本稿本が後期の成立と目されている理由は、その中に天保二年(一八三一)九月に大和の国宇陀郡八瀧村の農夫の畑中から発見された「文忌寸禰麻呂墓版」を含んでいるからに他ならない。

   序 文(C)

  「余性苦暑、毎至夏月、身心倦罷、況又炎熱異常、如此安能讀 書究義哉、頃日所爲不過暴書拂蠧耳、仍取所輯金石文、掲之 壁間坐臥其下、以自娯、乃操南都以前之文、作釋文及題跋、 名曰古京遺文、凡二卷、傳紀訛闕、可據以補正、則反復攷論、 以歸於是、當其異體文字於西土古碑間有所見、則擧之示、雖 俗譌字亦有淵源、望之雖學績セン陋、不能發其蘊奧、然自顧鉤沈證古、或可以充學者之一助、則亦勝夫終日鼾々而睡矣。 文政元年七夕後一日」

となっており、序文の内容は初期から後期まで何回と無く校訂が繰り返されているが、日付の「文政元年」だけは、一貫して不変であれば、将にこの事が、最初の序文制作時期が「文政元年」であった事を物語っているのである。次に目録であるが、全二十九篇と附録三篇とで構成されており、

   目 録(C)、丸数字は便宜上筆者が附したもの。
 @如意輪觀音菩薩造像記(續補)
 A藥師佛造像記
 B釋迦佛造像記
 C宇治橋斷碑
 D二天造像記
 E船首王後墓版
 F小野朝臣毛人墓版
 G山名村碑
 H采女氏塋域碑
 I妙心寺鐘
 J那須直韋提碑
 K藥師寺東塔サツ(木+察)銘
 L文忌寸禰麻呂墓版(續補)
 M威奈眞人大村墓志
 N伊福部臣徳足比賣墓誌
 O建多胡郡辨官符碑
 P粟原寺鑪盤銘
 Q結知識碑
 R觀禪堂鐘
 S楊貴氏墓志
 S+@S+A佛足石記并歌碑
 S+BS+C聖武皇帝銅版詔書二通
 S+D石川朝臣年足墓志(續補)
 S+E修多賀城碑
 S+F高屋連枚人墓志
 S+G涅槃經碑
 S+H紀朝臣吉繼墓志
   附 録
 @興福寺銅燈臺銘
 A神護寺鐘銘
 B道澄寺鐘銘

の如きである。では逆に序文の日付である「文政元年」に最も近い、つまり現状では最古と目されている静嘉堂文庫所蔵稿本の序文は如何がであったろうか。次にその原文を提示するが、その内容は既述の東京国立博物館蔵稿本と甚だ異なっている。

   序 文(A)、〔〕はヤ齋自筆の訂正、()は書き入れを示す。

  「余性苦暑、(毎至夏月 )身心倦疲、況今〔夏〕(年)炎熱殊甚、如何能讀書究義、頃日事業、不過曝書拂蠧、又時取所輯金石文、番次掲之壁間、 坐臥其下、以自娯而已、遂採録南都以前之文、〔得二十五種目、〕 作之釋文及題跋、不思而成卷、於是額曰古京遺文、余學セン陋、 紕繆固多、然證古鉤沈、可以充史學之一助、則亦勝終日鼾々而睡、庶幾免飽食無用心之誚矣。 文政元年七夕後一日」

 序文(A)から序文(C)への間に於いて、文章が推敲整理された事は明白であるが、重要なのは序文(C)に存在する「凡二卷」なる文言が、序文(A)の段階では存在せず、「凡二卷」なる一文は、既に梅谷文夫氏が『狩谷ヤ齋』 (吉川弘文館刊)の中で指摘しておられるが如く、明らかに文政四年以後の繰り返される改定作業の中で組み込まれた文言である。その時期に関しては、後で推論を述べる。更に目録内容に関しては、繁雑な重複を避けるため一々列挙はしないが、問題部分を前掲目録と比べると、Cの宇治橋斷碑とDの二天造像記の順序が逆になっており、Gの山名村碑を佐野碑に作り、Hの采女氏塋域碑を形浦山碑に作っている。更に改定段階では削除されるものの、Dの二天造像記の後には法隆寺銅斗銘が、S+Eの修多賀城碑の後には剣御子寺鐘(但し本文は題名のみで内容は無い)が付けられており、附録の@の興福寺銅燈臺銘の後にも同様に削除される比叡山寳幢院鐘(但し本文には無い)が付けられている。また発見年代から考えて当然の事ながら、@の如意輪觀音菩薩造像記・Lの文忌寸禰麻呂墓版・S+Dの石川朝臣年足墓志の三篇は無く、Fの小野朝臣毛人墓版も本来位置すべき場所ではなく、本文の附録の後に付け足し的に附載されており、更に目録自体にも未記載である。

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   3、故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本
 では次に、本拙稿の本題である故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本について見てみる。最初に阿部隆一氏が「文政元年以前の自筆草稿本であろう」と判断された理由であるが、阿部氏は、本草稿本に文政元年の序文が存在しない点を根拠として挙げられている。しかし、残念ながら本草稿本には文政元年の序文が存在するのである。では阿部氏は何故「ない」と判断されたのであろうか。それは、本草稿本が、一見した限りでは「序文が存在しない」との誤認を犯し易いだけの確たる書式形態を伴っているのである。
 先ず、本草稿本の書式形態に就いて見てみると、他の稿本が一冊装丁であるのと異なり二冊装丁であり、一冊目の内表紙には「古京遺文上」と墨書され、その下に二行毎行五字で「弘前醫官澀/江氏蔵書記」の長方印が押されている。次葉は、序文も目録も無くいきなり本文が登場し、しかもその本文は静嘉堂文庫所蔵稿本と同様にAの藥師佛造像記から始まっており、更にその葉には、楊守敬の蔵書印三顆が押されている。この印は全て陰刻篆文で、一は三行の「宜都/楊氏蔵/書記」、一は二行回印の「楊印/守敬」、一は三行の「飛青/閣蔵/書印」である。また版式は、半葉有界九行・四周単辺・版心白口上黒魚尾で、その用紙に毎行二十字の本文で、注は細字双注の形式で書かれている。以降はBの釋迦佛造像記・Dの二天造像記・法隆寺銅斗銘・Cの宇治橋斷碑・Eの船首王後墓版と並ぶ様は、静嘉堂蔵稿本と同じであり、看る者をして容易に「静嘉堂蔵稿本以前の草稿本であろう」との思いを抱かせるのである。
 しかし、その後にFの小野朝臣毛人墓版が置かれており、この事は静嘉堂蔵稿本では本文の附録の後に附載されていたものが、本来在るべき位置に置き直されている事を示すものである。既にこの一事を以て、本草稿本が静嘉堂蔵稿本以後の成立である事を窺わせるが、更に言えば、釋迦佛造像記の末文に

  「右二像、並在大和國法隆寺金堂、余於上宮法皇帝説鐙注詳言之、云々」

なる一文が有るが、この文は静嘉堂蔵稿本では「法皇帝説鐙注」の所が「法皇帝説中」に作られ「説」と「中」の間に字間補入の丸印を付して行の右側に「考鐙」と墨書され、更にそれが「鐙注」と朱墨で訂正されている。とすれば本草稿本のこの一文は、将に静嘉堂蔵稿本の訂正書き入れに従って書かれている事になり、この点も本草稿本が静嘉堂蔵稿本以後のものである事を示す証左の一つとなる。
 またFの後にはG山名村碑が置かれているが、問題なのはその後に突然Lの文忌寸禰麻呂墓版が登場する事である。既述の如く文忌寸禰麻呂墓版は、天保二年九月に発見された墓版であれば、文政元年(一八一八)前後の草稿本に天保二年(一八三一)発見の墓版の解説が記載される事は、物理的に有りようはずがない。これに因って、本草稿本が天保三年以後の成立である事は明白になったのである。
 成立年代に関しては、以上の証拠で十分と思われるが、本草稿本の問題点はこれのみに止まらない。今まで述べた事は、本草稿本の最初から十葉目までの内容で、実は本草稿本の実際は、十一葉目から始まるのである。つまり本草稿本は、本来の草稿本の前に極めて初期の稿本の一部を載せて装丁した形態になっているのである。則ち十一葉目に序文、十二葉から十四葉にかけて目録、そして十五葉目から本文となっている。版式は十葉目までと同様であるが、毎行の字数が一定せず、十五字から二十字の間で移動が有り、ヤ齋の字態に因る多数の訂正書き入れが所々に見受けらるれば、本書が定稿以前の草稿本であった事は、疑いようも無いであろう。そこで本草稿本の序文であるが、

   序 文(B)、括弧はヤ齋自筆の訂正書き入れを示す。

  「余性苦暑、毎至夏月、身心倦罷、況又今年炎熱異常、(如此)如何(安)能讀書究義哉、頃日事業(所爲)不過暴書拂 蠧耳、間(仍)取所輯金石文、掲之壁間坐臥其下、以自娯、 遂(乃)採録南都以前之文、作釋文及題跋、(名曰古京遺文、 凡二卷、傳紀訛闕、可據以補正、則反復攷論、以歸於是、) 當其異體文字於西土古碑(間)有所見、則擧之示、雖俗譌 字亦有淵源、額曰古京遺文、望之雖學績セン陋、(不)能發其蘊奧、然(自顧)鉤沈證古、(或)可以充史學(者)之一助、 則亦勝(夫)終日鼾々而睡焉(矣)。 文政元年七夕後一日 」

となっている。この序文を東京国立博物館蔵稿本の序文(C)及び静嘉堂文庫所蔵稿本の序文(A)と比較するに、内容的には明らかに序文(C)に近い。また序文(C)に本文として書かれている「凡二卷」なる語は、この序文(B)にも有るが、ここでは本文ではなく訂正書き入れとして登場している。因って序文(C)は、序文(B)の訂正書き入れに従って書かれている事、及びこの一語は、天保三年以後の序文改定時に加筆された事が分かるのである。
 次に、本草稿本の目録を見てみると、Cの宇治橋斷碑とDの二天造像記の順序が逆になっている点、及びFの小野朝臣毛人墓版とLの文忌寸禰麻呂墓版が欠落している点などは、どちらかと言えば静嘉堂文庫所蔵稿本に近いと言えなくもないが、二天造像記の框枠上に「下」の字が、同様に宇治橋斷碑の框枠上に「上」の字が各々書き加えられており、その順序の入れ替えを示唆している(本文は、この指示通り宇治橋斷碑・二天造像記と並んでおり、東京国立博物館蔵稿本と一致している)。また欠落の二版も各々の場所、つまりEの船首王後墓版の後とKの藥師寺東塔?銘の後に訂正書き入れが行われており、実際の本文内容もその書き入れに従った配列になっていれば、全体的にはやはり東京国立博物館蔵稿本に極めて近似していると言えるのである。
 更に本文の具体的内容を比較検討するに、静嘉堂蔵稿本よりは繁雑であるが東京国立博物館蔵稿本よりは簡略で、訂正書き入れ部分は甚だ多く、東京国立博物館蔵稿本は、この書き入れに従って稿を成した事を窺わせている。例えばその具体的な部分としては、東京国立博物館蔵稿本では、S+Dの石川朝臣年足墓志の考証の末尾の「本誌跋尾」の語の後に、改行して四百四十字弱の再考証の一文が付けられているが、本草稿本では「本誌跋尾」で終わっており、その後に框枠も界線も無い用紙に行書体で書きなぐられた加筆の再考証の一文が、三葉に亘って綴じ込まれている。
 また勉誠社文庫本の末には、山田孝雄氏の「古京遺文の価値」なる一文が付載されているが、その中で山田氏が「然れども、博物館本にてもなほヤ齋の自足れりとせるものにあらざりしことを想像するに足るものあり。即その上卷にあたる卷に、各章の末に異字を標出して、憑據を注記せんと企てたる景迹あり。而るにその注記は、干禄字書のみにして、その注記なきものも頗る多ければ、この点は成稿とはいふこと能はざるなり」と指摘されているが如く、本草稿本も同様に上卷のみに異体字が標出してあり、その数は七十三字にも及ぶ。
 尚、本草稿本は二冊装丁であるが、我が国に流伝しているものは、稿本・抄本を問わず全て一冊装丁である。この点に関しては、既に梅谷文夫氏が、静嘉堂文庫所蔵山田以文旧蔵写本『古京遺文』合綴ヤ齋自筆稿『年足卿墓誌』の「僕往年古京遺文二卷を輯録せり」の一文、及びその注記である「小治田朝已下藤原朝已上を上卷とし平安朝を下卷とせり」の一文を根拠として、「上卷は威奈眞人大村墓志までの十四章、下卷は伊福部臣徳足比賣墓誌以下の十五章」と喝破されたが如く、本草稿本は、将に威奈眞人大村墓志までの十四章を上卷とし、伊福部臣徳足比賣墓誌以下の十五章を下卷として、二冊に装丁されている。この二冊装丁が後人の手による意図的な改編ではなく、当初より二冊装丁であった事は、下卷も上卷と同様に、内表紙に「古京遺文下」と墨書されてその下に「弘前醫官澀/江氏蔵書記」の長方印が押されており、次葉にも楊守敬の蔵書印三顆が押されている。

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   4、抄本七種
 最後に前掲の抄本七種に関して、その前後及び稿本との関係について、序文や目録の内容を参考にしながら、分かる範囲で些か述べておきたい。
 先ず、静嘉堂文庫所蔵山田以文旧蔵抄本(D)であるが、序文は静嘉堂文庫所蔵稿本(A)の訂正書き入れに従い、「暑」の下に「毎至夏月」の四字を加え、「夏」を「年」に改め、「得二十五種目」の六字を削除している。参考のために序文を提示すると、

   序 文(D)

  「余性苦暑、毎至夏月、身心倦疲、況今年炎熱殊甚、如何能讀書究義、頃日事業、不過曝書拂蠧、又時取所輯金石文、番次掲之壁間、坐臥其下、以自娯而已、遂採録南都以前之文、作之釋文及題跋、不思而成卷、於是額曰古京遺文、余學セン陋、 紕繆固多、然證古鉤沈、可以充史學之一助、則亦勝終日鼾々而睡、庶幾免飽食無用心之誚矣。 文政元年七夕後一日」

の如くなっている。目録も(A)稿本と同様で@の如意輪觀音菩薩造像記・Fの小野朝臣毛人墓版・Lの文忌寸禰麻呂墓版・S+Dの石川朝臣年足墓志は無いが、本文に関しては、Fの小野朝臣毛人墓版が本来在るべき場所であるEの船首王後墓版の後に位置させられている。更にAの釋迦佛造像記の末文も(A)稿本の訂正に従って「法皇帝説鐙注」に改まっている。則ち本抄本は、(A)稿本に基づいた極めて初期の時期、恐らく文政二年乃至は三年頃に書写された抄本ではないのかと推測される。
 次に慶応大学斯道文庫蔵抄本(E)に就いてであるが、この本は、桃澤如水の旧蔵本であるが、そのもとは小島成齋の旧蔵抄本である。小島成齋は、最初市河米庵に学び次いで狩谷ヤ齋に学んだ人物で、文久二年(一八六二)十月に六十七歳を以て死去している。その成齋の跋文が付載されており、そこには、

  「右、古京遺文者、ヤ齋先生所著也、未脱草稿、不敢以示人、 予竊乞謄冩曰、爲帳中之秘耳、時己卯孟秋、云々」

なる一文が識るされている。「己卯孟秋」とは、文政二年(一八一九)七月に該当する。本抄本は目録を欠くが、本文の記載順序及び内容(但し解説のみにて碑文は無い)は(D)抄本と一致し、成齋の跋文の日付などから判断して、一見(D)抄本と同様に(A)稿本に基づく初期の抄本のように思われるが、(D)抄本とは序文が甚だ異なる。本抄本の序文は、(D)抄本の序文を更に改訂したもので、その内容は、次の(F)抄本と完全な一致を示し、丁度(A)稿本から(B)稿本へ改訂される途中のような文章である。参考のために、それを提示すると、

   序 文(E・F)

  「余性苦暑、毎至夏月、身心倦疲、今年況又炎熱異常、如何能讀書究義哉、頃日事業、不過曝書拂蠧耳、間取所輯金石文、 掲之壁間、坐臥其下、以自娯、遂採録南都以前之文、作釋文及題跋、額曰古京遺文、望之學績セン陋、紕繆固多、然鉤沈證古、可以充史學之一助、則亦勝終日鼾々而睡焉。 文政元年七夕後一日」

の如きである。とすれば、序文の改定は既に文政二年より始まっていた事になろう。則ち、本抄本は、(A)稿本に基づく極めて初期の抄本ではあるが、(D)抄本よりは後の成立であると判断しても良いであろう。
 次に、井上頼圀旧蔵の無窮会神習文庫蔵抄本(F)であるが、序文に関する限りは全く(E)抄本と同一である。但し本文の内容に関しては、(E)抄本で欠落していた三種中の@の如意輪觀音菩薩造像記一篇だけが最初に加えられ、逆にDの二天造像記の後の法隆寺銅斗銘・S+Eの修多賀城碑の後の剣御子寺鐘、及び附録の@の興福寺銅燈臺銘の後の比叡山寳幢院鐘が削除されている。更に碑文自体の形式つまり大きさ・行数・字数などが、附録の本文の末に一括して書き足してある点は、(E)抄本と大きく異なる部分である。更に増補された如意輪觀音菩薩造像記の文末には、

  「余、客歳西遊、始得遇之、亦何幸耶 」

なる語が有る。ヤ齋が如意輪觀音菩薩造像記を発見したのは、松崎慊堂らと法隆寺を訪れた文政二年の西遊の時である。則ちこの一文は、「客歳」の語を含む以上文政三年に書かれた事になり、また実地調査に基づくであろうと推測される碑文自体の形式が加えられている点等々を勘案するに、本抄本は、文政三年以後に成立し(A)稿本の改定稿本に基づく抄本であろうと判断される。
 次に、故宮博物院蔵抄本(G)に就いてであるが、内容的には、国立東京博物館蔵稿本と同様な二十九篇全てを収録していれば、当然天保三年以後成立の稿本に基づく抄本と言う事になるが、天保三年以後と言っても、故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本(B)と東京国立博物館蔵稿本(C)の二種の稿本とは微妙に異なる部分が見受けられる。それは、(B)稿本に於ては、目録の順序がDの二天造像記・Cの宇治橋斷碑となっているが、実際の本文内容順序はCの宇治橋斷碑・Dの二天造像記となっている。また(C)稿本の方は目録順序も本文内容順序も共にCの宇治橋斷碑・Dの二天造像記となっている。ところが本抄本は、目録順序も本文内容順序も共にDの二天造像記・Cの宇治橋斷碑の順になっており、この点はむしろ静嘉堂文庫所蔵稿本(A)と一致する。更に序文内容を見る(E)抄本及び(F)抄本の序文と完全な一致(所蔵者に因る諸本との校合に基づく書き込みは有るが)を示しており、丁度序文は文政年間の文章で本文内容は天保三年以後と言う形態になっている。これらの事は、共に天保三年以後成立の稿本ではあっても、(B)稿本及び(C)稿本よりも古い時期の別の稿本が存在した事、及び序文の内容は文政四〜五年以後より天保三年以前の間はあまり改訂を加えられていなかった事を示唆しており、将に本抄本は、その別稿本に基づく抄本であったと言えるのである。尚、内容的な特徴としては、恐らく書写した人物の文であろうと推測されるが、目録と本文との間に半葉分の書き入れが有る。それは、法隆寺金銅佛の観音像の座床銘一点・釈迦佛の光背銘二点、及び

  「按、望之僅認高屋大先之記而以爲金石原始焉、然尚先是者在同寺、鳴呼卒忽乎。 源正宣録」

なる一文である。
 次に、川上新一郎氏所蔵二冊装丁抄本(H)であるが、これは、序文の内容・目録の順序・本文の順序、及び上巻に該当する部分のみに異体字を標出している点等々、全てが東京国立博物館蔵(C)と一致を示していれば、(C)稿本を基にして書写された抄本であった事が分かる。但し、(C)稿本と事なる点は、その内容ではなく装丁形態である。(C)稿本が一冊装丁であるのに対して、本抄本は二冊装丁である。この事は、先に述べた「我が国に流伝しているものは、稿本・抄本を問わず全て一冊装丁である」との文言に抵触しそうであるが、実はそうではない。二冊装丁であるならば、故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本の如く、「上卷は威奈眞人大村墓志までの十四章、下卷は伊福部臣徳足比賣墓誌以下の十五章」となるはずである。所が本抄本は、上卷は建多胡郡辨官符碑までの十六章で、下卷は粟原寺鑪盤銘以下の十三章となっている。これでは、ヤ齋自身が二巻に分ける意図を明示した「小治田朝已下藤原朝已上を上卷とし平安朝を下卷とせり」の文言に符合しない事になる。則ち、本抄本は二冊装丁になってはいるものの、本来の分巻意図とは異なり、明確な理由も無いまま無作為に分巻装丁された形跡が濃厚なのである。この事は、一冊装丁の稿本を書写した人物が、たまたま序文に「凡二卷」なる語が有ったがために、作者の分巻意図などは考えもせず、分量的に適当な場所(下卷の十三章に附録の三章を加えれば上卷と同じ十六章になる)で分けて、上・下の二冊装丁に仕立てた結果であろうと推測され、因って本抄本は、本来は一冊装丁となるべきものであったと判断されるのである。
 最後に静嘉堂文庫所蔵抄本二種(I)に就いてであるが、これは二種とも同内容で、先の(H)抄本と同様に序文・目録・内容共に(C)稿本と一致(誤写と思われる部分を除いて)を示せば、明らかに(C)稿本を基にして書写された天保三年以後の抄本である。ただ(H)抄本と異なるのは、他の諸本の如く一冊装丁となっている点である。

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   おわりに
 以上、故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本に纏わる書誌学的問題を中心として、縷々述べてきたが、誤解を恐れず敢えて再度結論を言えば、「故宮博物院蔵二冊装丁自筆草稿本は、阿部隆一氏が指摘されるが如き文政元年以前の草稿本などではなく、天保三年以後の成立にして且つ東京国立博物館蔵稿本以前の草稿本である」と言う事である。本拙稿で扱った稿本だけを年代順に並べると、 静嘉堂文庫所蔵稿本→故宮博物院所蔵二冊装丁自筆草稿本→東京 国立博物館所蔵稿本 となり、これに七種の抄本を加えれば、 静嘉堂文庫所蔵稿本→静嘉堂文庫所蔵山田以文旧蔵抄本→慶応大 学斯道文庫所蔵抄本→無窮会神習文庫所蔵抄本→故宮博物院所蔵 抄本→故宮博物院所蔵二冊装丁自筆草稿本→東京国立博物館所蔵 稿本→川上新一郎氏所蔵二冊装丁抄本・静嘉堂文庫所蔵二種抄本 となる。
 尚、筆者自身は現在の所まだ未見であるが、既に所在の明白な各地の諸本が、これらの矢印のどの部分に該当するのかについては、以後の調査に基づく今後の課題として、訪書の継続を図ると共に、残りの碑文つまり妙心寺鐘以下の二十篇の碑文譯注作業の成果も、鋭意公表して行く所存である。  

       歳在乙亥菊月                         識於黄虎洞

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