諸葛氏族はなぜ分かれたか

〜乱世が生み出した名族の秘密〜

本ページは、世界文化社編集部の許可を得て、『The Big Man』第3卷第8号、(平成5年8月出版)から転載するものである。


   諸葛氏族はなぜ分かれたか〜乱世が生み出した名族の秘密〜
 後漢末以前においては、徐州の琅邪を本籍地とする山東地方の一地方豪族に過ぎなかった諸葛氏族が、後漢末から三国時代にかけて魏・呉・蜀の三国に仕え、しかも各々が高位・高官に就任したため、一躍時代の寵児として全国的な名族となり、長く歴史に名を残すこととなる。すなわち、諸葛氏族は、まさに三国と言う乱世が生み出した名族であり、一種の徒花的存在でもある。魏・晋時代の著名人のエピソード集とでも言うべき『世説新語』の品藻篇に載せる、「蜀はその龍(諸葛亮)を得、呉はその虎(諸葛瑾)を得、魏はその狗(諸葛誕)を得たり」との当時の世評は、あまりにも有名である。この評価が当たっているか否かは別として、なぜ諸葛氏は、三国に分かれて仕えたのであろうか

 諸葛氏が、なぜ魏・呉・蜀に分かれて仕えたのかと言う問題は、換言すれば、諸葛兄弟はなぜ郷里を離れねばならなかったのか、と言うことであり、それは、両親の死に端を発する。彼等が母を、次いで父を失ったのは、孔明が十二〜三歳、兄瑾が二十歳前後の時である。この時点より長兄たる瑾の双肩には、家長として継母に孝養を尽くす責務と、早急に一家を構えて生活を安定させ、幼い弟たちを保護養育する責務とが、懸かってきた。そこで瑾は、継母を伴ってより安定した新天地である江南に移住して行くが、その江南地方を勢力基盤としていたのが呉の孫權であれば、瑾が呉に仕えたのは、必然的な成り行きである。
 残された孔明らは、從父諸葛玄に引き取られて、荊州に移住し後に劉備に仕えることになるが、なぜ彼は、曹操や孫權ではなく劉備に仕えたのであろうか。孔明が、心密かに己の能力に対し絶大な自信を持っていたことは、その言動の端々に良く現れており、彼は、それを自由に発揮させてくれる主君を探していたと言えよう。
 魏には古参の名士が多く、己の活躍の場は甚だ少ない。呉には兄が先に仕えており、兄を差し置いてまでの行動は取り難い。とすれば残るは劉備である。幸いにも劉備の周囲には、名士と言える程の人物は存在せず、劉備の方でも名士の獲得に躍起になっていた。則ち、「三顧の礼」などと喧伝される綺麗事ではなく、互いの腹に収めた二人の複雑な利害関係が、一致したが結果、孔明は劉備に仕えたのであり、彼は、最も自分を高く売れる相手として、劉備を選んだのである。
 一方、郷里を離れなかった族弟の諸葛誕は、華北を勢力範囲とした曹操に仕えているが、それは、己の生活範囲である郷里に成立した政権に仕えると言う、極めて本来的な出仕のパターンを取っている。
 所で、諸葛氏族中における三人の立場であるが、我々は、孔明の華々しい活躍に因って、あたかも彼が、諸葛氏族中の中心人物であったかの如き錯覚に陥りやすい。しかし、孔明兄弟は、一族を挙げて郷里を離れ、各々新天地で活躍した人々である。同族の繁栄と永続的継承を願い、家廟を守り続けると言う彼等の一般的性癖からすれば、あくまで郷里に残って曹操に仕え、魏の司空(三公の一つ)にまで上り詰めた力量を持つ諸葛誕の方こそが、諸葛氏族の中では本家筋に近い存在であり、孔明兄弟の方は、むしろ傍系に属する一族ではなかったのかと推測される。
 真に皮肉なことではあるが、あれだけ活躍の跡を残した孔明兄弟の子孫は、僅か数代で歴史の中に消えて行き、逆に低い世評を得てあまり目立たぬ諸葛誕の子孫の方が、史書に名を残している。それは諸葛誕が、三国抗争の勝利者である魏に仕えた結果であり、同時に、多士済々たる魏であるが故に高い評価を得られなかったに過ぎず、決して諸葛誕の力量が劣っていた訳ではない。最後には司馬氏の専権に対する不安から、反旗を翻して戦死する諸葛誕ではあるが、曹氏四代に渉って権謀渦巻く魏朝廷、高位高官を歴任する能力は、孔明兄弟以上のものが認められる。
 スケールの大きい行動と、颯爽たる生き様で、孔明兄弟は一瞬の勝利者に持ち上げられるが、歴史の変転の中での実質的な勝利者は、地味な生き方をした諸葛誕の方であったと言えよう。

     平成五年六月                             於黄虎洞

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