諸葛孔明の兵法

〜その虚像と實像〜

本ページは、大修館書店編集部の許可を得て、『月刊しにか』第10号、(平成11年2月刊行)から転載するものである。


     始めに
   
1、虚像の成立過程
   
2、傳諸葛亮作兵法書
   
3、軍師諸葛亮の實像
     
終わりに

 

   始めに
 諸葛亮(一八一〜二三四)、字は孔明、琅邪陽都の人で劉備に仕え、中国の西南に位置する蜀の地に政権(漢)を樹立せしめて三国時代を唱導し、江東地方に蟠踞する呉の孫権と結び、三国中最も国力の劣る蜀の軍隊を率い、河北に覇を称える強国魏の曹氏に北伐を敢行し、壮途空しく五丈原に陣没した悲運の名将として、その名は広く世上に喧伝されている。
 しかし、これは陣没と言う悲壮感漂う彼の最後が、人々の琴線を揺さぶり、それが過大にオーバーラップして作り上げられたイメージにしか過ぎず、決して彼は三国時代を代表するが如き名将でもなければ、稀代の天才軍師などでもない。彼が蜀軍を統率したのは、単に彼に代わるべき適任者が存在しなかったと言う、蜀漢政権に於ける人材不足と言う問題に基づくものであり、数度に渉る無謀とも思える北伐敢行も、蜀漢政権が北伐の遂行を政権の国是、つまり政権存在の基本的理念として成立した政権であったがために他ならない。
 要は結果として彼が軍を統率せねばならなかったと言うに過ぎず、その軍事的指揮能力の卓絶さに因って軍を統率した訳ではない。無論、彼の能力のどの部分にウエイトを置くかに因って、その評価に差は生じるであろうが、大概を言えば、行政能力は高く評価出来ても、軍事能力は必ずしも卓絶しているとは言い難い。何となれば、軍事は何よりも結果(勝利)が求められるが、残念ながら彼の北伐は、一度として真に勝利と呼べるような結果を得ていない。則ち、この実態こそが端的にその能力を示唆している。この様な点で、『三国志』の撰者陳寿が与えた、「識治の良才は管(仲)・蕭(何)の亜匹と謂ふ可し。然れども連 年衆を動かし、未だ成功すること能はず。蓋し応変の将略は長とする所に非ざるか。」 との評価は、当に正鵠を射たものである。

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   1、虚像の成立過程
 天才軍師諸葛亮と言うのは、虚構世界における彼に与えられたイメージでしかない。そこで先ず、明初の羅貫中編『三国志演義』に於いて一つの結実を見た「稀代の兵法家・天才軍師諸葛亮」と言う虚像が、如何にして形成されて来たかを考えてみることにする。

 彼の兵法家・軍師としての虚像化は、彼の死後略百年弱の東晋時代に至ると早くも現れ出す。その嚆矢とすべきものが、『三国志』巻三十五諸葛亮伝の裴松之注引『漢晋春秋』(東晋の習鑿歯)に伝える、有名な「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」の故事である。これは諸葛亮が、己の死後に於ける周囲の行動を既に予測し、それに対する手だてを生前に講じていた逸話であり、そこには大衆が希求する、彼に対する虚像化の早さを読み取ることが出来る。
 次いで、『太平御覽』巻二百九十一に引用する『漢表伝』(東晋の袁希之)には、「丞相亮、軍を出して祁連山を囲み、始めて木牛を以て糧を運ぶ。魏の司馬宣王・張コウ祁連山を救ふ。夏六月、亮、糧尽き、軍還りて青封の木門に至る。コウ之を追ふ。亮、軍を駐して大樹の皮を削り、題して曰く、張コウ此の樹の下に死すと。予め兵をして道を夾み数千の強弩を以て之に備へしむ。コウ果たして自ら見るに、千弩倶に発し、コウを射て死す。」 と伝えている。この話は、諸葛亮の逸話でも何でもない。元ネタは『史記』巻六十五孫ピン伝に伝える、孫ピンがホウ涓を射殺した故事であり、古の兵法家の話を剽窃して作り上げた全くのパクリ話である。
 また梁の元帝に仕えて侯景と戦った武将陸法和の如きは、白帝城付近で蜀軍仕様と思われる鏃 を発見するや、「諸葛孔明は名将と謂ふ可し、吾自ら之を見る」(『北斉書』巻三十二陸法和伝)と嗟嘆し、唐に至って詩聖杜甫が「出師未だ捷たざるに身先ず死し、長く英雄をして涙襟に満たしむ」(蜀相)と、その悲運性を強調する。
 この様な過程を経て元代に至り、『三国志平話』が出現すると、「風を呼び雨を喚び、豆を撤きて兵と成し、剣を揮ひて河と成す」(『至治新刊全相平話三国志』巻中)と言う、虚像化よりもむしろ神格化に近い荒唐無稽な兵法家となるが、小説としてより昇華し整備された明代の『三国志演義』では、非合理的な部分が削り落とされ、「奇策に因って曹操軍から箭を奪い取る」(第四十六回)とか、「七星壇を築いて天に祈り東南の風を呼び起こす」(第四十九回)とか、「空城の計に因って粛々と琴を弾き押し寄せる司馬懿の大軍を退かせる」(第九十五回)とか、将に天才軍師諸葛亮の面目躍如たる活躍が提示され、ここに大衆社会における稀代の兵法家・天才軍師諸葛亮の虚像は、確立したと見てよいであろう。

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   2、傳諸葛亮作兵法書
 この様な大衆に虚像化された諸葛亮に、より信憑性を与えたのが、諸葛亮作と伝えられる兵法書の数々である。結論から言えば、それらは全て諸葛亮に仮託した宋代以後の偽作であるが、一般的には諸葛亮の著作物として伝わっている。それが『便宜十六策』『心書』『将苑』『新書』の四書である。以下順次内容を検討する。

『便宜十六策』一巻。この書は宋代になってから現れ、北宋の王堯臣等が撰した『崇文総目』に初めて著録され、南宋の鄭樵が撰した『通志』芸文略にも採録されている。しかし、晁公武の『郡斎読書志』には既に「疑ふらくは依託せしものならん」と疑問を提示し、清の『四庫全書総目提要』も「皆究詰するに足らず」と断じている。内容は、第一の治国から第十六の陰察に至まで、治 世の要諦を述べたもので、兵法書と言うよりはむしろ政治指南書に近い。この書自体が後人の偽作である点に関しては疑問の余地も無いが、内容に関しては必ずしも全てが偽作であると断定し難い部分が有る。則ち、『太平御覽』巻二百九十六に「武侯兵法」として引用する長文は、多少の字句の異同は認められるものの、『便宜十六策』第十四斬断の全文と一致を示し、同じく巻三百十三に「諸葛亮兵法」として載せる短文は、第九治軍の一節と一致している。更に諸葛亮の遺文集である『諸葛氏集』とは別に、彼の兵法関係の書が古くより伝世していたことは、『隋書』経籍志に「梁に諸葛亮兵法五巻あり」と言い、『宋史』芸文志にも「諸葛亮行兵法五巻」を記載している。これらの点を勘案するに、『便宜十六策』自体は偽作であるが、その内容の中には、本来の諸葛亮兵法を部分的に伝えていると考えられる。
『心書』一巻。五十篇の内容は全て用兵を述べ、約半分が指揮官の有り様を説き、残り半分が所謂兵法論を述べ、将に兵法書と呼ぶに相応しいものではあるが、その字句は概ね『孫子』より窃取して組み立てられており、後世兵家の書が多く諸葛亮に依託するのと同類の書であり、後人の偽作たることは明白である。
『将苑』一巻。『通志』芸文略及び尤袤の『遂書堂書目』には著録されているが、その内容五十篇は『心書』と全く同一であり、『将苑』と『心書』とは、異名同書であったと考えられる。
『新書』一巻。十二篇の内容は、指揮官の心得・用兵の方法・行軍や布陣の仕方等を述べているが、これも諸葛亮に仮託した後人の偽作である。
 以上が伝諸葛亮作兵法書であるが、各々が単独で流布している訳ではなく、これらを一冊に纏めた兵法書としてか、或いは後世編纂の『諸葛亮集』の中に取り込まれるかして伝わっている。
 先ず兵法書としてであるが、明の王士騏編・章嬰注に因る万暦二十六年序刊本の『諸葛孔明異伝兵法註解』が有る。この本は全七巻で構成され、諸葛亮の伝記部分である第七巻以外、つまり第一巻から第六巻までが兵法に関するもので、第一・二巻が『心書』五十篇、第四巻が『便宜十六策』十六篇、第五巻が『新書』十二篇、第六巻が八陣図関係と言う具合である。ただ第三巻だけが他書には全く採取されていない武徳・武備・探誠・詢謀・密機・軍政・強兵・命将・任賢・兵戒の十篇で構成されており、これが一体何に依拠するのか全く不明である。尚、この本は我が国でも江戸時代の万治四年に和刻本が出されている。
 次に『諸葛亮集』であるが、明代では張溥編『諸葛丞相集』不分巻(収『漢魏六朝一百三家集』)・王士騏編『武侯全書』十六巻・楊時偉編『諸葛忠武全書』十巻・諸葛羲編『漢丞相諸葛忠武侯集』二十一巻の四本、清代では朱リン編『諸葛丞相集』四巻(この本は、明治初年に巻一・巻二が和刻本として出されている)・張ジュ編『諸葛忠武侯集』十一巻・厳可均編『諸葛亮集』二巻(収『全上古三代秦漢三国六朝文』)・趙承恩編『武侯全書』二十巻の四本が代表的なものである。これらの中で、より学術的な編書である明の張溥と清の厳可均のものには、当然のことながら兵法書関係は一切含まず、また明の王士騏及び楊時偉のものにも含まれていない。兵法書を採取し出すのは諸葛羲からで、彼は『便宜十六策』及び『将苑』を採取し、朱リンは『心書』を採取し、張ジュは『便宜十六策』及び『将苑』を採取し、趙承恩は『心書』及び『新書』を採取すると言う具合であり、これらの『諸葛亮集』が流布するに合わせて、彼の兵法も流布したと考えられる。尚、近年中国の斉魯書社から出版された王瑞功編『諸葛亮研究集成』にも『便宜十六策』と『将苑』が採取されているが、その真偽に問題が有るため付録として載せられているに過ぎない。

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   3、軍師諸葛亮の實像
 では信用するに足る資料から窺える軍師諸葛亮の姿とは、一体如何なるものであったろうか。『三国志』の撰者陳寿が編集した『諸葛氏集』の中には、兵法に関わる項目として「兵要」「軍令」の二つが認められる。しかし、これらは既に散逸し、僅かに『北堂書鈔』や『太平御覽』等の類書の中に断片を残すだけであり、それらを回収すると、兵要十則・軍令十三則が集められる。

 先ず「兵要」から見てみると、その内容は主に指揮官の心得が説明され、一例を挙げれば「良将の政を為すや、人をして之を択ばしめ自らは挙げず。法をして功を量らしめ自らは度らず。故に能者は蔽ふ可からず、不能者は飾る可からず。妄りに誉むる者は進むること能はざるなり。」(『太平御覽』巻二百七十三将帥) と言う具合で、「良将」なる言葉が使われてはいるものの、何も軍の指揮官だけに限った内容ではなく、むしろ人の上に立つ者の心得と理解しても十分に通用する内容である。
 「軍令」の方は、戦闘時の号令や合図の規定・戦闘の型及びその方法・行軍の方法及び規定・軍営及び宿営の規定・陣形の型とその展開・戦時戦場での祭祀等、具体的な様子が極めて分かり易く述べられ、例えば、「若し賊騎左右より来り至りしとき、徒の従行し以て戦ふ者、嶺に陟りて便ならざれば、宜しく車を以て陳を蒙くして之を待つべし。地狹き者は、宜しく鋸歯を以て之を待つべし。」(『北堂書鈔』巻 百十七陣)の如きで、極めて穏当な内容で何処にも奇策らしいものは認められない。
 一方、かの有名な八陣図に関しては、『三国志』諸葛亮伝の中で「兵法を推演して八陣図を作る」と伝え、その遺跡も『水経注』江水の項に「石磧平曠、川陸を望兼す。亮の造る所の八陣図有り」と言っていれば、諸葛亮が八陣図を考案したことは確かであろう。想像を逞しくすれば、恐らく易の八卦に依拠したものではないかと思われるが、その具体相は残念ながら不明である。 明代以後諸葛羲編『漢丞相諸葛忠武侯集』を始めとして、朱リン編『諸葛丞相集』・趙承恩編『武侯全書』等に、所謂八陣図(それぞれ微妙に異なる)なるものが多く記載されているが、それらが信用するに足るものではないことだけは確かである。

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   終わりに
 軍師諸葛亮の実際の姿は、甚だ平凡である。彼が述べる「兵要」にしろ「軍令」にしろ、その内容は実行し易い常識的なものに過ぎず、むしろ行政運営上の要諦を軍務に転用したと考えるべきであろう。一方虚構世界に在っては、大衆に因って虚像化された稀代の兵法家・天才軍師諸葛亮が、一人歩きし活躍している。好き嫌いが相半ばする程の強烈な個性を持った人物でないにも関わらず、実像と虚像とにこれ程の落差を持つ人物も珍しいと言えよう。しかし、例えそれが虚像にしか過ぎなくても、将にそれは後世の人々が諸葛亮に託した夢とロマンの結果であり、それこそが大衆が受け入れた諸葛亮の姿なのである。江戸幕府の御用金が幕末に赤城山中に隠され、しかもそれが諸葛亮の兵法に基づいて埋蔵されているとの風聞は、大衆の夢を端的に示唆する証左であり、諸葛亮に託したロマン以外の何者でもない。

     平成十年十月                             於黄虎洞

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