孔明の歴史的評価

本ページは、KTC中央出版編集部の許可を得て、『三国志英雄伝』その時歴史が動いた別巻(平成14年9月出版)から転載するものである。

            

             〜孔明の歴史的評価〜
 孔明に対する評価つまりイメージと言うものは、大概「有能なる為政者」「忠誠なる臣下」「稀代の軍師」と言う三点に集約されるが、この内「忠誠なる臣下」「稀代の軍師」の二点は、歴史の変転の中で後世付け加えられたものに過ぎず、孔明の生存中から一貫して変わらないのが、「有能なる為政者」と言う評価である。この点では、『三国志』の著者である西晋の陳寿が諸葛亮伝で、「政治の要諦を熟知した優秀な才能を持ち、古の管仲や蕭何に匹敵する為政者と言えるが、長年兵を動かしながらも成功しなかった点から言えば、多分軍事戦略的方面は不得手であったろう」と評しているのは、まさに正鵠を射た意見である。

 孔明の言動を現実に目視した同時代人である丞相府参軍(中央政府の幕僚)の張裔は、「丞相の行う刑罰・賞与は、貴貧親疎の別なく甚だ公平無私であった」と言い、射声校尉(射撃隊の指揮官)の楊戲も「文武を整えて徳教を広め、物事を正しく治め風俗を美化し、賢愚ともに心を競わせた」と言う。要するに孔明は公平無私の優秀な行政官であり、まさに「有能なる為政者」としての評価が与えられている。しかし一方で、彼が生死を賭けた北伐と言う軍事行動に対しては、呉の大鴻臚(外交長官)であった張儼から、「連年兵を動かしながら何の効果も無く、逆に国土と人民を疲弊させただけである」と、厳しく批判されているのである。
 ところが、時代が西晋に移り、孔明自身が過去の人物として歴史的存在となると、彼への評価も多様化して賞賛の程度を強め出して行くのである。先ず同時代には見られなかった「忠誠なる臣下」と言う評価が登場するが、その先鞭を付けたのはやはり『三国志』の著者陳寿である。
 彼は「忠誠なる臣下」との具体的評価こそ言わないものの、それを強く感じさせる言辞で諸葛亮伝の本文自体を構成している。例えば、劉備が死去に当たり後事を託す一段では、劉備の「劉禅が補佐するに値する人物ならば、補佐してやってくれ、能力がないと見たならば、お前自身がその地位に就き中原を恢復しろ」との遺詔に対して、「臣は股肱の力を尽くし、忠貞の節を致し、死を以てお仕え致します」と、孔明自身に語らせている。更に北伐に当たり劉禅に奏した有名な『出師の表』を引用し、その中でも「これこそが、私が先帝(劉備)のご恩に報じて、陛下(劉禅)に忠義を尽くす職分であります」と言っている。
 この陳寿によって呈示された「忠誠なる臣下」と言うイメージは、更に強まり、西晋末の桓玄は、「古来乱世の君臣で、互いに信じ合っていた者は、燕の昭公と楽毅、劉備と孔明だけである」と、その忠義を評価している。また同時代人に否定された軍事能力も、西晋の名将羊コと対峙した呉の将軍陸抗は、その羊コを評して「楽毅・孔明であっても、とても及ばない」と言い、同様に西晋の張補は「名士優劣論」なる文章を表し、「孔明の奇策は泉の水が湧き出るようであり、智謀は縦横無尽である」と評している。
 ここにいたって、孔明の歴史的評価は、ほぼ形作られたと言えよう。つまり、三国時代の人々によって、「有能なる為政者」との評価が与えられ、次いで西晋の陳寿によって「忠誠なる臣下」なるイメージが構築され、更に西晋人によって「稀代の軍師」と言う評価が付加されたのである。こうなると、後はこの評価を如何に高めて行くかである。
 隋朝第一の儒者王通は、その著『文中子』の中で、「孔明が死ななかったならば、更に礼楽が隆興したであろう」と、その全人格を肯定賛美し、唐の憲宗朝の名宰相裴度は、孔明の祠堂建立に当たり碑文を選して、「君に仕える節義、国を開く才能、立身の方法、人を治める技術、この四条件をすべて具備して実践したのは、孔明その人である」と絶賛し、詩聖と称された大詩人杜甫は七言律詩『蜀相』で、「孔明の心とその行動は、英雄たちに長く涙を垂れさせる」と詠い上げるのである。次いで宋にいたると、宋学の大義名分論から程頤や蘇軾などが、孔明の益州奪取の行動を「私心有る不義」として批判するが、南宋の朱熹が『通鑑綱目』を著して蜀漢を正統王朝として記述し、更に『朱子語類』で「夏・殷・周以来、義によって国家形成を図った者は、ただ孔明一人だけである」と断じ、ここに「忠義の人」たる評価が確立するのである。
 この様な歴史過程の中で、先ず唐の肅宗の上元元年(七六〇)に、武神として武成王(呂尚)の侍神に加えられ、次いで清の雍正二年(一七二四)には、儒神として文宣王(孔子)の侍神に加えられ、孔明は文・武の神として国家祭祀の対象となるのである。
 古代の思想家である老子の言に、「大道廃れて仁義有り、国家昏乱して忠臣有り」と有るが、この言や善しである。とすれば、「忠臣廃れて孔明有り、軍師廃れて孔明有り」と言うことであろうか。 

     平成十四年六月                          於黄虎洞

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