諸葛亮の生き方に見るリーダー像

本ページは、日本実業出版社編集部の許可を得て、『経営者会報』九月号・NO589(平成15年9月出版)から転載するものである。


   〜二代に仕えた大番頭〜
   
〜戦略と戦術〜
   
〜責任は我が身に、評価は死して後〜
   
〜法は厳しく平等に、されど情は厚く〜
   
〜孔明に見るリーダー像〜

            

   〜二代に仕えた大番頭〜
 諸葛亮、字は孔明 、中国の古典世界に在って、この人ほど日本人に名を知られた人物も、数少ないであろう。中国の古典的名著『論語』の孔子も有名ではあるが、一般大衆におしなべて知られていると言う意味では、やはり諸葛亮にトップの座を譲らざるを得ない。
 日本人が持つ孔明のイメージは、明代の長編小説『三国志演義』に登場する彼の姿がオーバーラップされたもので、「有能なる為政者にして忠誠なる臣下」(実像)と、「稀代の軍師」(虚像)、さらには「悲運の名称」(日本人的判官贔屓)が混ざり合った、独特のものである。
 今、虚像や日本人的嗜好はさておき、孔明の実際の生き方、つまり彼自身の言行を通して、そこに組織のトップとしての様相を窺ってみたい。彼の上には、彼自身が絶対的忠誠を尽くす天子が存在しており、彼は、その天子から全権を委ねられて組織の万端を取り仕切った人物である。言い換えれば、会長の下で実権を与えられた社長、或いは社長の下の筆頭専務とでも言うべき立場で、蜀漢政権の創業者である初代天子劉備と、二代天子劉禅とに仕え、その政権の屋台骨を支え続けた大番頭なのである。
 官僚組織の頂点に立ち、宰相として組織を率いた彼の言行の中には、トップとしてのある種のカリスマ性が有り、それが周囲や後世の人々に、絶大な影響を与えるのである。
 例えば、三国時代の一方の雄であった孫氏の呉が滅びる時、呉軍総崩れの中で呉の丞相の張悌は、三万の軍勢を率いて長江を渡り、乾坤一擲の戦いを西晋軍に仕掛けたが大敗し、退却を促す副将の諸葛セイに対し、
  「私は子供の頃、貴君の家の丞相(諸葛亮)殿に大変目を掛けて頂いた。以来賢者の知遇に違背するのではないかと恐れていたが、今日こそ私が国家に殉ずる日なのです。」
と言い残すや、粛然と戦塵の中に消えて行ったと伝える。これは、孔明の言動が、組織のトップ(丞相)たる一人の人間の死に様にまで、影響を与えた例である。
 また後世の官僚にとって、彼が一種の理想像であったことは、自身が名宰相との評価を得た唐の憲宗朝の裴度が、孔明の祠堂建立に当たり碑文を選して、
  「君に仕える節義、国を開く才能、立身の方法、人を治める技術、この四条件を全て具備して実践したのは、孔明その人である。」
と絶賛している。これを現代の会社組織に置き換えれば、「創業者に仕える節義、会社を発展させる才能、組織で出世する方法、部下を十分に使いこなす技術」と言うことになるであろう。

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   〜戦略と戦術〜
 孔明は、その戦略と戦術を徹底して劉備に説き聞かせる。それが有名な隆中対談で示された「天下三分策」と称されているものである。劉備から集団の進むべき方向を訊ねられた孔明は、先ず当時の客観的社会情勢を分析した後、
  「荊・益二州を領有して益州を根拠地とし、呉と友好関係を維持しつつ、社会に変化が生じたとき、荊・益の二方面から魏に攻め入れば、漢室を復興させることが出来ます。」
と言う。戦略は「漢室復興」、その為の戦術が「荊・益の領有と呉との外向的友好関係」である。以後劉備集団は、この戦略を国是として政権を益州にうち立てることになる。
 この対談以後、劉備と孔明との間は「水魚の交わり」と称される親密にして且つ信頼の厚い関係となり、孔明自身も劉備集団の中枢に位置し、この方向性に従って政権運営を行うことになる。つまり、トップとして組織を率いる者は、客観的な状況分析に基づく戦略と戦術を、権力者にも部下にも示して理解させ、その方向に絶大な信頼性を獲得せねばならず、その信頼性こそが、強力なリーダーシップとなりうるのである。
 以後この戦略は一貫して変わることは無い。劉備の死後に政権が動揺した時、孔明はすかさず「正義」なる文章を発布して、
  「正しい道(漢室復興)に準拠して悪行を正すのは、人数の多寡には関係ない。正しい道に準拠することこそが重要である。」
と言い、人々に国是と方向性を再確認させ、組織の結束を図っている。また、同盟関係に在った呉の孫權が帝位に就き、使者を派遣して自立の承認を蜀に求めた時、 蜀では同盟破棄の議論が沸騰するが、それに対して孔明は、
  「孫權が黙ってじっとしていない男であることは、初手から分かっていた。しかし、同盟関係を維持する以上、我々が魏を伐つ(国是)時に、呉に心配りする必要は無くなる。我が国にとっては、孫權の僭称問題など小さいことで、同盟維持の利益の方が遙かに大きい。」
と言い、孫權の帝位就任を承認するのである。
 このことは、自分たちの戦略(国是)は「漢室復興(伐魏)」であって、呉との問題は戦術に過ぎず、戦術の誤りは戦略でカバーできるが、戦略の誤りは戦術ではカバー出来ない。因って、戦略は終始一貫揺るぎなく、逆に戦術は臨機応変に運用すると言うことである。

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   〜責任は我が身に、評価は死して後〜
 孔明が国是である北伐を遂行するに当たり、後主劉禅に奉ったのが、古今の名文と称される「出師の表」である。その中で彼は、現在蜀漢を取り巻く厳しい状況を懇切丁寧に述べ、己が軍務に出かけた後の行政を委任すべき人材を推薦し、何故今国是遂行が必要なのかを分析し、
  「自分が国是を遂行することこそが、先帝(劉備)のご恩に報いて陛下(劉禅)に忠義を尽くす職分であり、もし北伐の効果が挙がらなかったならば、私の罪を正して先帝の御霊にご報告願いたい。」
と言う。つまり、もし失敗したならそれは全て己の責任であるから、自分を処罰して責任を明白にして頂きたいと言っている。
 更に「後出師の表」では、
  「そもそも物事は、なかなか思い通りに行くものではなく、最初から完全に予見することなど困難であります。しかし私は、ひたすら死力を尽くして国是を遂行するだけであり、成功するか否かは不明です。」
と言う。原文は「鞠躬尽力し、死して後已まん」である。結果の如何に関わらず、自分は己に課せられた職務と責任を遂行し続けるだけであると言い切り、将にこの言葉通り、孔明は北伐遂行中に五丈原で陣没するのである。
 また、部下の馬謖の命令違反に因って、第一次の北伐が失敗した時には、指揮官としての責任を明白にすべく、
  「自分の地位を三等下して、私の罪を責めて頂きたい。」
との上表文を奉っている。
 この様に孔明は、自分が監督指揮する組織に在っては、そこで生じたミスは、例え部下のミスであっても畢竟己のミスである。故に、己のミスを誰にでも分かる形で正して、己自身の責任を明白に追及する。と同時に、己の行為に対する評価は、己の死後に下されれば十分であり、自分は職務を遂行する事こそが使命であると考えている。

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   〜法は厳しく平等に、されど情は厚く〜
 組織のトップたる孔明は、組織維持の為に法の厳正にして且つ平等なる運営を行っている。 例えば、孔明と共に劉備の遺詔を受けた権力者の李厳に対しては、彼の職務怠慢に因り北伐が頓挫した時、文武官二十三名の連名で、李厳の罪を正して庶人に下すべく、
  「李厳は大臣でありながら、些か身勝手な我が儘が過ぎます。国家の政治と言うものは、内部の和睦協調に努めて勝利を得るべきであり、正も不正も何でも包み込んでしまっては、国家の遠大なる事業を危うく致します。」
と、意見具申している。
 また、地位に対して不平不満を鳴らした廖立に対しても、
  「彼は、何もしないくせに尊大に構え、多くの同僚や大臣達を誹っております。これは組織の人々を不安に陥れ害を与える行為です。」
と言い、やはり庶人に下している。
 更に、孔明が特段の信頼を寄せていた馬謖に対してさえも、軍令違反に因り死罪を与えている。馬謖の才能を惜しんだ人々からの助命嘆願に対して孔明は、
  「孫武が天下を制圧できたのは、法の執行が明確だったからです。今軍法を廃止などしてしまったなら、一体どうして魏を伐つことなど出来ましょうや」
と言い、厳然と処罰している。これが有名な「泣いて馬謖を斬る」である。
 しかし孔明は、同時に処罰した彼等に対して厚い情をかけてもいる。李厳に対しては、彼の子の李豊に手紙を送り、
  「どうか君は、お父上をお慰めし、過去の過失を追い払うよう努力されんことを、お勧め願いたい。そうすれば、過ぎ去った過去を引き戻すことができましょう」
と言っている。そのため李厳は孔明の死を聞きつけるや、己の復職の望みが絶たれたとして病を発して死んでいる。同様に廖立も、孔明の死を聞くと、私の人生もこれで終わったと嘆き悲しんでいる。
 一方馬謖に対しては、馬謖自身が、
  「己の処罰には一切不満は無く、むしろ平生のご厚情に謝意を表します。」
と言い、孔明も従前通り彼の遺児達を優遇養育している。
 この様に孔明は、例え相手が権力者であれ近親者であれ、法の適用は厳正にして公平であり、決して感情に左右されたり恣意的な運用は行わないが、同時に処罰対象者の周囲に対して、友誼と厚情をかけ続けているのである。

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   〜孔明に見るリーダー像〜
 孔明の生き方から窺えるリーダーとは、まず組織を率いる者として、その明確な方向性を示し、具体的な戦略と戦術を呈示すると言うことである。しかもそれは恣意的な或いは思いつき的な方向性ではなく、状況分析に基づく客観的な方向性である。そして、責任の所在を明確にすると同時に全ての責任を一身に背負うと言うことである。更に組織運営においては、ルールを厳正に施行する一方で、常に情誼をかけ続けるのである。
 この様な生き方がカリスマ性を帯びるのは、彼の死後その家には、桑八百株・薄田十五頃・子弟の衣食だけが残されていたと伝える、彼自身の清廉潔白な普段の生活も、大いに影響を与えていると言えるのである。
 リーダーとして人の上に立つ者は、先ず己の責任を明確にして、部下より先に憂へ、逆に部下より遅れて楽しむのである。これが所謂「先憂後楽」で、「誠」有る生き方と称されるものである。生き方に「誠」が有るからこそ、そこに「信」が生じるのである。孔明は、天子からも信頼され、部下からも信頼されていた。故にこそ、孔明は専権的な権力を自由に振るい、組織を己が意のままに動かせたのである。一見独断的とも見える権力行使に批判が生じ無いのは、「信」に因って結びついた組織であり、その「信」を保証しているのが、孔明の「誠」有る態度なのである。
 リーダーとして孔明が示した生き方は、彼が特別な才能を持っていたから可能であったと言う訳ではなく、このような考えは、本来儒教の考え方の中にある。『論語』の中で孔子は、「民信無くんば立たず」(顏淵篇)とか、「其の身正しければ令せずして行はれ、其の身正しからざれば令すと雖も従はれず」(子路篇)とか、「寡きを患へず、均しからざるを患ふ、貧しきを患へず、安からざるを患ふ」(季氏篇)とか述べている。
 則ち、組織を率いる者にとって、「誠」「信」が必要不可欠のものであることは、既に古代より言われ続けて来たことであるが、問題は、それが実行出来るか否かである。将に「言うは易く行うは難し」である。特に「誠」と「信」の根底をなす責任の明確化とルールの公平な適用は、大変である。組織の人間関係に於いて、状況や感情に左右されずルールを公平に施行するのは、人間が感情の動物であることからすれば、極めて難しい。だが孔明は、これを決然と実行したのである。孔明が人より優れている点は、将にこの「誠」と「信」を実行した意志力にこそ在る。
 要するに、リーダーたる者は、強固な意志力に因って「誠」と「信」を実行することが重要であり、且つそれを実行出来る者こそが、真のリーダーと言えるのであろう。

     平成十五年三月                          於黄虎洞

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