北辺の虎公孫サン(王+贊) 江東の龍孫策

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第1巻、(平成10年3月出版)から転載するものである。


   1、公孫サン(王+贊)〜北辺に覇を求めて〜
   
2、抗争の果てに
   3、孫策〜我江東を切り開かん〜
   
4、宿願を求めて

 

   一、公孫サン(王+贊)〜北辺に覇を求めて〜
 公孫サンは字を伯珪と言い、幽州遼西郡令支県の出身である。「家は代々二千石」と伝えるから、本来は郡太守の家柄であるが、母の出自が卑しかったため、役人としては遼西郡の小役人である門下書佐から出発する事になる。しかし公孫サンは、なかなかの美男子で頭の切れも素早く、音声朗々たるものが有り、郡太守は、その才能に惚れ込み己の娘を嫁にやり、当時の名儒であったタク郡の盧植の所に游学させている。つまり公孫サンは、若き日の劉備とは同門であった事になり、その後高唐県令であった劉備が賊に破られ、中郎将の地位に在った公孫サンに身を寄せ、彼の別部司馬となって袁紹と戦っている事等を見ると、公孫サンと劉備との間には、因縁浅からぬものが感じられる。
 游学後再び郡職に就くが、郡太守の劉基が法に触れて廷尉に連行される事件が発生する。法律上は下役人が罪人に接近する事は許されていなかったが、公孫サンは衣服を変えて囚人車の御者となり、劉基の側で雑役を行った。劉基が日南郡に流される事になると、公孫サンは北芒山の上で祖先を祭り「昔は人の子でしたが、今は人の臣下でありますれば、日南に行かねばなりません。瘴気の多い南方であれば或いは二度と帰って来られないかもしれません。ここでご先祖様のお墓にお別れ申し上げます」と言い、感極まって涙を流し、再拝して立ち去ったが、それを見ていた人々で嘆息しない者はいなかったと言う。この劉基への忠義立てを、単なる強固な門生故吏関係と言えばそれまでであるが、後年彼の集団を形成する人々の結合関係から判断すれば、公孫サンが本来的に持っていたと思われる、義侠心の厚い任侠的性格に基づく行為であった事が分かる。幸いこの事件は日南への途上で赦免に遭い、公孫サンも無事帰郷する事が出来、郡から孝廉に推挙されて郎を拝し、遼東属国長史に任命される。公孫サンの武人としての活躍はこの時点から開始されるが、時に霊帝の光和年間(一七八〜一八四)の事である。
 ある時公孫サンは、数十騎ばかりの部下を連れて辺境の巡視に出かけたが、途中で数百騎の鮮卑族と遭遇した。彼は部下に「今これを突き破らねば、我々は皆殺しにされてしまうぞ」と言い、真っ先に出撃して鮮卑族数十人を刺し殺し中央突破を計ったが、同時に彼の部下も半数近くが戦死した。しかし、この事件こそが鮮卑族の中に公孫サンの勇猛さを知らしめる事となり、彼はタク県の県令に栄転した。中平三年(一八六)に至ると涼州の賊徒邊章等が蜂起し、大尉を拝して討伐の責任者となった車騎将軍の張温は、幽州の突撃騎兵隊三千人を出動させ、都督行事の割り符を公孫サンに与えて指揮官に任命した。中平四年(一八七)に公孫サンが軍を率いて薊中までやって来た時、漁陽の人である張純が、同郡の張挙や遼西郡の烏丸族である丘力居等を味方に付け、自ら弥天将軍・安定王と称して朝廷に反旗を翻し、遼西属国の諸城を攻略して幽州・冀州地方を荒し回ると言う事件が発生した。これに対して公孫サンは、配下を率いてすぐさま張純等を打ち破り、位を都騎尉に進めて丘力居等と死闘を繰り返していたが、烏丸族の貪至王が部族を引き連れて公孫サンに降伏帰順したため、彼は中郎将に昇進して都亭侯に封ぜられ、引き続き遼東属国長史を兼ねて属国に駐屯し戎馬を統率した。その後烏丸と数年に亘って戦い続け、こちらで勝てばあちらが破られると言う状況で、一進一退の膠着状態であった。
 これに対して朝廷では、嘗て幽州牧として徳義を布き、恩信を立てて戎狄を手懐けていた皇帝の遠縁に当たる宗正の劉虞を、再び幽州牧に任命した。劉虞は着任するや否や、早速丘力居等に使者を送り、反乱の得失利害と帰順を説き張純の首を差し出すように説得した。しかし、この劉虞の異民族に対する優遇宥和策は、現実に日夜戦陣に立って烏丸と死闘を繰り返していた公孫サンの討伐強硬策とは、決して相入れないものであった。公孫サンは、劉虞へ派遣された烏丸の使者を途中で切り殺したりして、ことごとく劉虞の方針に反対したが、中平六年(一八九)に丘力居等は劉虞に帰順し、妻子を捨てて鮮卑族中に逃げ込んだ張純も食客の王政に殺され、その首が劉虞に送り届けられた。一方、劉虞と対立した公孫サンは、献帝の初平二年(一九一)に、勃海に侵入して黒山賊と合流した黄巾の残党三十余万を撃破し、死者数万斬首三万余級、その血が丹水を赤く染めると言う大勝利を挙げ、七万余人を捕虜にして財物をことごとく収奪し、その威名を震わすと共に奮武将軍・薊侯となり、北辺に己の軍団を確立させた。
 元来公孫サンは、出自は別として性格的には戦いの好きな武人であった。烏丸との戦闘を通して彼が烏丸を憎み嫌う事は、あたかも親の敵を憎むが如く、辺寇有ると聞くや凄まじい憤怒の形相をし、砂漠に突撃してその戦いは日夜に及ぶと言う状況で、烏丸の方では彼の声を聞き覚え敢えて逆らう者はいなかったと言い、更に公孫サンは、弓の上手い兵士数十人を選抜し、全員を白馬に載せて己の左右に従はせ、「白馬義従」と称する親衛部隊を作り上げ、烏丸では「白馬を見たら隠れろ」と言い合ったとも伝えている。公孫サンは、打ち破った敵の兵卒や黄巾の残党等を自己の軍団に組み入れ、軍事力の強化と幽州での支配権を図って行くが、この様な行為は、黄巾の残党である青州兵を編入した軍事力で君主権の強化を図った曹操や、益州への流入人士を中心とした東州兵を政権の軍事基盤とした劉焉等と同質の対応であると言えよう。
 この様にして軍団の強化こそ図ったものの、折角の支配地域を実際に運営する行政職には、全く人を得ていなかった。公孫サンは、役人の子弟で優秀な者を見掛けると、必ず圧迫して彼等を困窮な状態に陥れた。ある人が訳を尋ねると、彼は「彼等を取り立てて富貴にしてやっても、彼等は自分の社会的立場から当然就くべき地位に就いたまでだと考え、私の優遇に対して決して感謝などしないだろう」と答えたと言う。この様な考えは、当時社会的評価に基づいてそれなりの社会的発言力を持っていた名士を認めず拒否する事を意味し、それはそれで独断的な君主権の確立には役立つが、逆にその集団存在の社会性が極めて危弱になる。当時の有力群雄が如何に名士層を己の集団に取り込むかは、まさに両刃の剣であった。例えば隣の冀州を支配した袁紹は多数の名士を抱え込んではいるが、袁紹自身が「四世三公」と言われる名門袁氏出身の名士であったため、幕僚を構成した名士間の意見対立と反目を強力な君主権力で指揮統一する事が出来ず、結局曹操に破られている。共に敗北を辿る公孫サンと袁紹ではあるが、彼等の名士に対するスタンスの相違には、極めて明白なコントラストが存在する。この点から見れば、公孫サン集団はまさに戦う武闘集団にしか過ぎなかったのである。
 では公孫サンは如何なる人士を優遇したのかと言えば、社会的には低位に位置づけられる人々で、その中でも特に元占師の劉緯壱・絹商人の李移子・商人の楽何当の三人とは、義兄弟の関係を結んでいる。この様な任侠的結合関係は何も公孫サン集団だけに限ったものでは無く、初期劉備集団が劉備・関羽・張飛の義兄弟関係に依拠し、同時に大商人の麋竺と婚姻関係を結んでいたのと同様であり、混乱する社会に在って経済力を伴った独自の強固な軍事集団を形成維持する方途としては、それなりに有効な手段ではあった。
 当時長安にいて洛陽への帰還を願っていた献帝は、劉虞の息子である侍中の劉和を派遣して劉虞に迎えに来させようとした。しかし劉和は幽州への途中で袁術に足留めされ、献帝の意向だけが袁術の下から劉虞に伝えられた。劉虞は数千の騎兵を袁術の所に居る劉和に派遣しようとし、袁術の二心を疑った公孫サンは強諫して派遣に反対したが引き止める事が出来ず、袁術の恨みを恐れた公孫サンも従弟の公孫越に千騎を率いて袁術の下に派遣した。所が初平三年(一九二)にたまたま袁術と袁紹との間に戦闘が発生し、袁術の指揮を受けいた公孫越は流れ矢に当たって戦死してしまい、これに激怒した公孫サンは、「越を殺したのは袁紹だ」と言い、冀州の袁紹に報復戦を仕掛けたのである。

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   2、抗争の果てに
 公孫サンの勇猛を恐れた袁紹は、サンの従弟である公孫範に勃海太守の印綬を与え、何とか和睦を結ぼうとしたが、逆に公孫範は勃海郡の軍兵を率いて公孫サンに味方し、公孫サンは己の配下である厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経をエン州刺史に任命し、界橋まで進撃した。これに対し袁紹は、広川に布陣して対戦したが、厳綱が袁紹に生け捕りにされた事に因り、公孫サンは敗退して公孫範と共に薊に帰還し、そこに城を構築して陣取った。常々公孫サンの勝手な行動を危惧していた幽州牧の劉虞は、この機をとらえて公孫サンを攻め立てた。しかし、徳義に富む文儒の士劉虞の指揮する軍隊と、歴戦をくぐり抜けてきた公孫サンの精鋭部隊とでは話しにならず、劉虞は敗北して居庸に逃走したが、初平四年(一九三)に生け捕りにされ、市場で家族共々殺害された。
 公孫サンは、たまたま長安から天子の使者として来ていた段訓を強引に幽州刺史に任じ、当時流行していた童謡に基づいて易に土山を築き、そこを易京として固守し、一応形式的には幽州に於ける霸権を確立させた。これに対して劉虞の従事であった鮮于輔・斉周・騎都尉の鮮于銀等は、公孫サンに復讐すべく幽州内の反公孫サン人士を率い、更に烏丸族・鮮卑族を味方に付け、数万の軍勢で公孫?を攻め立てた。これに冀州の袁紹が劉和に軍を率いて合流させたため、公孫サンは敗北を重ねて易京に逃げ帰り、以後公孫サンと袁紹との戦闘が展開される。
 易京に帰還した公孫サンは極度の人間不信に陥り、易京を固守するために周囲に十重の塹壕を掘り巡らして鉄の門を付け、その内側に五〜六丈の土山を築いて物見櫓を設置し、中央の塹壕の土山は特別に十丈の高さを持ち、三百万石の穀物をその中に蓄えて立て籠もった。男子で七歳以上の者は易の門内に入る事を認めず、己の周囲から妻子と姫妾以外は全てを遠ざけ、命令や伝達は姫妾を以て大声で外部に伝えさせると言う徹底ぶりであった。その結果、四散や離反する部下も現れて孤立化を深める公孫サンに対し、建安三年(一九八)袁紹は大軍を以て易京を包囲し、公孫サンは息子の公孫續を黒山賊に派遣して援軍を求めた。翌四年(一九九)春、黒山の賊帥張燕と公孫續が十万の軍を率いて救援に駆け付けたが、救援の到着を狼煙で知らせるとの密書が袁紹の手に落ち、狼煙を見て出撃した公孫サンは袁紹の罠に嵌まり大敗した。敗北を悟った公孫サンは、妻子や姉妹を全て己の手で絞め殺し、中央の土山に火を放つと紅蓮の炎の中に消えて言った。
 北辺の軍事活動から頭角を現し、白馬将軍との威名を戎狄に打ち立て、幽州に霸を唱えた一代の英雄、猛将公孫サンの幕引には相応しい、その生き様にも似た壮烈な最後であった。

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   3、孫 策〜我江東を切り開かん〜
 孫策は字を伯苻と言い、揚州呉郡富春県の出身で、破虜将軍・豫州刺史・烏程侯であった孫堅の長子である。僅か二十六年の生涯でしかなかった青年将軍孫策の活動は、父孫堅が荊州の劉表を攻め、勝ちに乗じて単騎で行動中、敵の軍卒が放った矢に当たって死去した献帝の初平二年(一九一)から、彼自身も父と同様に、単騎行動中に嘗て自分が殺した許貢の食客に手傷をおわされ、それが元で不慮の死を遂げた建安五年(二〇〇)までの、十年間に過ぎないのである。しかし孫策は、この僅か十年の間に怒濤の如く江南を駆け巡り、文武の賢能を招致して孫呉政権の基礎を固めると、壮図途上の無念を噛み締めつつも、後事を次弟孫権に委ねて波乱に富んだ人生を終えたのである。
 孫策の江東攻略を可能としたのは、彼自身の能力に負う所が大きいが、同時に尚書令・大尉など三公クラスの人材を輩出した揚州の名族周氏、則ち周瑜との友情関係が大きく作用している。そもそも孫策と周瑜との邂逅は、父孫堅が反董卓の義兵を挙げ、孫策が母と共に廬江郡の舒県に居住していた、初平元年(一九〇)孫策十六歳の時の事である。孫策と周瑜とは同年齢であったため特別親しく交際し、周瑜は道の南側に有った己の屋敷を孫策に譲って住まわせ、必要な物は互いに融通し合い、更に孫策を奥座敷に通して己の母を礼拝させている。つまりこの二人の間柄には、一人の母を共に拝すと言う行為を通じて、義兄弟的関係が認められるのである。余談ではあるが、『呉書』を読むと『魏書』『蜀書』以上に「母」の力が目に付く。友誼を結ぶに当たって「母を拝す」とか「母を礼拝」すとかの記述が散見するし、合浦郡太守の王晟や功曹の魏騰が一命を取り止めたのは、孫策の母である呉夫人の助命説得に因るものである。何か江南地方に在っては河北地方に比べて、「母」の地位乃至は権力が社会的に強かったように感じられる。
 孫堅が死去すると、その軍勢を率いて堅の遺骸を送り届けて来たのが、孫堅の甥に当たる孫賁であった。孫策は、父の遺体を母方の叔父呉景が太守をしていた丹陽郡の曲阿に葬ると、父の爵位を末弟の孫匡に譲り、江都に居を定めた。しかし、徐州牧の陶謙が孫策を忌み嫌ったため、孫策は難を避けるべく母を擁して呂範・孫河等と曲阿に移住すると、つてを頼って数百人の軍勢を確保して旗揚げし、興平元年(一九四)寿春の袁術に身を寄せた。この初平二年から興平元年までの数年間に在って、孫策は自ら出向いて説得する事に因り、その後の孫呉政権の重鎮となる北来名士と土着名士を、夫々幕僚に取り込む事に成功した。それが呉の二張と呼ばれた徐州彭城国出身の張昭と徐州広陵郡出身の張紘とである。
 孫策は張昭の家に赴き己の大意を述べて出蘆を要請すると、彼の母を礼拝して親を通じ、師友の礼を以て遇し、校尉に任じて文武の諸事は全てを張昭に委ねた。一方張紘に対しては、彼が母親の喪に服していたにも拘らず、度々彼の蘆を訪問し、目下の急務を尋ねて「今や漢王朝の運命も先が見え、天下は混乱して英雄達は各地に割拠し、夫々己の利害を計っていますが、未だ混乱を平定すべき人物が現れません。亡父は袁氏と協力して董卓を打ち破りましたが、功業半ばにして無念にも不慮の死を遂げました。私は頭の悪い若造ではありますが、志だけは持っております。何とか袁術殿から亡父の余兵を譲り受けて丹陽の舅氏の下に身を寄せ、離散した兵士を掻き集めて東の呉会を足場にし、父の恥を雪ぎ朝廷の守りとならんと願っております。先生のお考えは如何がでしょうか」と言った。張紘は「私は元来何の才能も無く且つ喪中であれば、あなたの立派なお考えに何もお力添え出来ません」と答えたが、孫策はなおも諦めず「先生のご高名は広く伝わり、遠近の者は挙って先生に心を寄せております。今私の取るべき道は先生の一言に係っております。なぜお心の内を告げて頂けないのでしょうか。私の細やかな志を遂げて父の仇が討てましたならば、とりもなおさずそれは先生のお力に因るものであり、それこそが私の心からの願いでもありますのに」と言い、顔色一つ変えず涙を流し続けた。張紘は孫策の心に深く感じ入り「今あなたはご尊父の後を継がれ勇名もお有りです。丹陽に身を寄せて兵を募れば、荊州・揚州を一つにしてご尊父の仇を報ずる事が出来ましょう。長江地帯を根拠地として威望仁徳をお立てになり、功業の成った暁には同志の人々と江南に移られるのが良いでしょう」と答えた。
 この会談以後張紘は孫策に臣従し、孫策は老母や幼弟を張紘に預けると言う信頼関係が二人の間に成立し、結果張紘と同群の秦松・陳端等も孫策に臣属する事になる。この孫氏版草蘆三顧とでも言うべき孫策・張紘会談は、劉備・諸葛亮会談にも匹敵するもので、当時の群雄達が如何に名士層を自己の集団に取り込もうと腐心していたかを、明白に示すものである。
 袁術は父に次いで再び己に身を寄せた孫策を奇特なものとは思ったが、直ぐには父の部下を返してはくれなかった。これに対し孫策は、己の部下が罪を犯して袁術の部隊の厩に逃げ込んだ時、部下を派遣して切り殺させ、自らは袁術の所に出向いて説明謝罪をするなどし、筋を通した行動で信頼を得て遂に千余名の部下の奪回に成功した。だが袁術は、必ずしも孫策を信用している訳ではなく、以後暫くの間孫策は袁術の手先として使われる事になる。
 袁術の空手形に振り回され、彼の勢力拡大の先兵として活動する中で、孫策が江東土着名士と抜き差し成らぬ状況に陥ったのが、廬江太守の陸康に対する攻略であった。陸氏は呉郡の四姓(顧・陸・朱・張)と呼ばれた江東の名家であったが、孫策の二年近くに及ぶ廬江攻略の過程で、陸氏は宗族の約半数に当たる五十人前後の死者を出した。この事件は、孫策に対する江東名士間の不信を生み、その後陸康の子である陸績が孫策に仕えて張昭・張紘等と同席出来るような地位になってはいるが、孫氏と陸氏との本格的和睦は、孫権時代に至って陸遜が孫策の娘を妻に娶った事を以て完了する。

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   4、宿願を求めて
 袁術は、曲阿に役所を設置している揚州刺史の劉ヨウを攻略すべく、歴陽に駐屯していた丹陽太守の呉景と丹陽都尉の孫賁に攻撃を仕掛けさせていたが、なかなか埒があかなかった。袁術の下から離れる機会を狙っていた孫策は、この機を捕え「舅(呉景)と従兄(孫賁)を助けて江東を平定したい」と申し出たのである。袁術は孫策が自分を恨んでいる事はうすうす知ってはいたが、孫策如きに江東は平定出来まいと考え、孫策の要求を受入れて殄冦将軍・折衝校尉に任じ、千余人の兵士を与えて歴陽に派遣した。
 時に興平二年(一九五)、孫策に因る本格的な江東攻略が開始された。寿春を出発した時には僅か千名余りの軍勢であったが、歴陽に到着した時には五〜六千の軍勢に膨れ上がり、孫策出陣の報を受けた周瑜も手勢を引き連れて歴陽に駆け付けて来た。長江を渡った孫策は、初戦で牛渚を占領して武器や食料を獲得すると、一気に秣陵のサク融を撃破し、次いで劉ヨウを追い払って遂に曲阿の奪還に成功した。勝ち戦ではあったが孫策は気を緩める事をせず、兵士にも略奪や農民からの搾取の厳禁を徹底させたため、人々は喜んで自ら軍中に酒や肉を届けた。又た降伏した兵士に対しては、従軍を願う者はその家の賦役を免除し、願わぬ者は自由に除隊を許したため、僅かの間に二万余の兵士・千余頭の軍馬を確保するに至った。その後江東に勢力を持つ土着豪族を打ち破り、会稽郡太守の王朗を降伏させ呉郡太守の許貢を殺すと、孫策自ら会稽郡太守を兼任し、配下の呉景を丹陽郡太守・孫賁を豫章郡太守・孫輔を廬陵郡太守・朱治を呉郡太守に任命した。ここに孫策の江東支配が、略二年を費やして確立したのである。孫策に付き従う武将は、一騎当千の猛将程普・周瑜・韓当・呂範・朱治等であり、文官は張昭・張紘・虞翻・秦松・陳端等であった。
 建安二年(一九七)、袁術が帝位を僣称すると、孫策は書面を以てその行為を批判すると共に、袁術との絶縁を通告した。これに対し、袁術討伐を計画していた曹操は、上表して孫策を明漢将軍・騎都尉・兼会稽郡太守に任じ、王ヲを使者として「呂布及び安東将軍陳ウらと共に袁術を討て」との詔を下して来た。そこで孫策は銭塘まで軍を進めたが、陳ウの裏切りを察知した孫策は陳ウを逆襲して四千人を捕虜にした。翌建安三年(一九八)、使者を派遣して江東の物産を天子に献上した孫策は、改めて討逆将軍・呉侯に封ぜられた。建安四年(一九九)曹操に破れた袁術が寿春で死去すると、孫策はいよいよ荊州奪取の計画を実行に移した。
 周瑜を中護軍・江夏郡太守に任ずると、袁術の配下で皖城に駐屯する廬江郡太守の劉勲に猛攻を仕掛けた。破れた劉勲は劉表に急を知らせ黄祖に援軍を求めると、北に敗走して曹操に身を寄せた。孫策は劉勲の残した兵卒二千余人と船千艘を手に入れると、一気に夏口まで攻め上ぼって黄祖を攻撃し、三万余の大軍を殲滅して十年来一時も忘れる事の無かった父孫堅の仇を晴らしたのである。この大勝利で孫策は、船六千余艘と山の如き財宝を獲得が、同時に二橋と称されていた絶世の美女である橋公の二女も手に入れた。姉の大橋は孫策の妻となり、妹の小橋は周瑜の妻となっている。
 当時曹操は袁紹と敵対中であったため、孫策の江南平定を指を銜えて見ているより方法は無く、取り敢えず孫策を手なずけるために、自分の弟の娘を孫匡に嫁しづけ逆に息子曹章のために孫賁の娘を娶り、更に孫権や孫翊を手厚くもてなし官職に就けている。
 所が建安五年(二〇〇)、好事魔多しと言うべきか、好漢惜むべしと言うべきか、狩りの途中で単騎になった所を許貢の食客に襲われた孫策は、その傷が元で二十六歳の生涯を終えるのである。死に当たり、軍事の全ては周瑜に、文事の全ては張昭に、それぞれ委ねられた。次弟の孫権を枕元に呼び寄せると、孫策は「江東の軍勢を挙げて天下の雌雄を決するような事は私が上だが、賢者・能者を取り立ててそれぞれ任用し、江東を保持して行く事に関してはお前の方が上手である」と伝えた。又た張昭に対しては「もし孫権に能力が無いと判断するならば、君自身が政権を取って運営してほしい」と言ったと言うが、この言葉は白帝城に於ける劉備と諸葛亮との会話を彷彿とさせるものが有る。
 則ち、孫呉政権の版図を切り開き、それを支える幕僚達を養成して行ったのは、まさに孫策自身であり、彼の十年は孫呉政権の基礎作りに、ひたすら邁進し続けた十年であったと言えよう。 

     平成九年十二月                           於黄虎洞 

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