簡介、中國書籍文化の一端

〜目録と目録學〜

本ページは、『文化・集団』創刊号、(昭和63年5月出版)からの転載である。


     初めに
   
1、目録とは
   
2、『漢書藝文志』について
   
3、六朝時代の目録
   
4、唐以後の目録
  
   終わりに

   初めに
 今日の如く多量の出版物が出現する状況に於いて、一体どの本を読むべきか、或いは如何なる本を必要とするのか、等々其の取捨選択に関しては、個人の能力に非常な困難が伴い、同時に見識が問われる部分でもあり、其れ故にこそ、先達の『書評』とか『書目索引』等々を使うのが、常となって来だしている。現在では、各種の書目が出版され、日本の代表的なものとしては、『国書総目録』が有り、亦た各研究所・図書館等の蔵書目録も多数存在する。
 漢籍に関しては、旧く藤原佐世の編した『日本国見在書目録』が現存し、東洋学の部分では、各年度中の文献を集成した『東洋学文献類目』が、京都大学人文科学研究所より数年遅れ乍ら、毎年度出版されて学界に裨益すること大である。中国に於いても現在では、各分野別の書目が陸続と出版され、詳細を知らぬので軽々な事は言えないが、欧米でもほぼ同様のように見受けられる。
 しかし乍ら、これ等は全て簿録であり、中国に於ける伝統的な意味での目録とは異なる。紀元前五五〇年頃より展開して来た古典的学問と、多量の文献と言う歴史的背景の中で、一つの研究対象学問分野として「目録学」を確立させ、其れを学問研究の基礎とし、且つ其の実作が「目録」であると認識していたのは、中国だけである。斯様な「目録学」は、古代中国で出現し、以後連綿と発展して来た。ではこの中国で言う所の「目録」或いは「目録学」とは、一体如何なるものであったのか、以下其の歴史的推移を概観して見る。

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   1、目録とは
 そもそも「文献」なる言葉が初めて書籍に登場するのは、『論語』の八イツ篇で、

 「子曰く、夏の礼、吾能く之を言ふ。杞は徴するに足らざるなり。殷の礼、吾能く之を言ふ。宋は徴するに足らざるなり。文献足らざるが故なり。」

と言う。この部分に関する後漢の鄭玄の注は、「献は猶ほ賢のごときなり」と言い、清の劉寶楠は『論語正義』で、「文は典冊を謂ひ、献は礼を秉るの賢士大夫を謂ふ」と注している。則ち、「文」は「文章」を指し、「献」は「儀礼」を指す事が分かり、文字化された資料及び文字化されない制度文化等々、全ての歴史的材料を「文献」なる言葉で表していた事になる。しかし、一般的には文字化された全ての資料を「文献」と称し、この言葉が書籍の題名に使われたのは、南宋の馬端臨の『文献通考』が最初である。
 この文字化された資料自体を研究対象とする学問が、文献学であり、更に其れは1、目録学、2、版本学、3、校讎学の三分野に細分され、1で材料の源流と内容を弁別し、2で依拠すべき材料を選び(日本では書誌学と言う)、3で材料を整理確定し(日本では校勘学と言う)、総合的に研究を行う。この中で1の目録学こそが、中国独自の伝統的学問であると言える。近人汪国垣は、其の著『目録学研究』の中で、現在の目録学を定義付け、
1、群籍を綱紀して甲乙を簿属する学(目録家の目録)
2、学術を弁章して源流を剖析する学(歴史家の目録)
3、宋版を鑑別して異同を校讎する学(蔵書家の目録)
4、鈎玄を提要し学を治めて渉径する学(読書家の目録)
 の四種に分類するが、1は所謂現在一般的に行われている目録で、2と4が中国的目録学の内容に該当する。この内容を分かり易く簡単に言えば、「著述の流別を明らかにして文献の内容を批判する学」と言う事になる。この様な意味で最初に目録学の重要性を明確に提唱したのは、清の学者王鳴盛で、彼は『十七史商カク』卷一に於いて、

 「目録の学は、学中第一の緊要事なり。必ず此れより塗を問ひ、方に能く真の門を得て入る。然れども此の事、苦学精究し、之を良師に質すに非ざれば、未だ明らかにし易からざるなり。」

と述べて其の重要性を提示し、次いで、

 「宋の晁公武より、下は明の焦弱侯に迄るまで、一輩人、皆学識未だ高からず。未だ古書の真偽是非を剖断し、其の本の佳徳を弁じ、其の譌謬を校するに足らざるなり。」

と言って書籍の高等批判と其の校讎方法を研究する学問が、目録学であると定義付け、更に同卷二十二には、

 「金修撰、予に語りて曰く、『漢の藝文志に通ぜざれば、以て天下の書を読む可からず。藝文志は、学問の眉目、著述の門戸なり』と。修撰は経術甚だ深し。故に能く此の言を爲す。予、深く嘆服す。」

と嘆息している。「学問第一の緊要事」と言い、「学問の眉目、著述の門戸」と言い、要は現在の如き、何かの学問をする時の工具書的存在ではなく、本格的な基礎学問であった事が分かる。
 ではこの中国的目録学を行う事に因り、一体如何なる学問的効果が得られるのかと言えば、余嘉錫の『目録学発微』には、
1、目録の有無に基づいて書籍の真偽を断定する。
2、目録に因って古書の分合を考える。
3、目録の部次に因って古書の性質を考える。
4、目録に因って欠書を求める。
5、目録に因って亡佚の書を考える。
6、目録記載の姓名巻数に因って古書の真偽を考える。
の六点が挙げられている。前述の如き内容と、そこから波及して上記の如き効果を持つとされる目録学は、漢代より始まり、以後綿々たる流れは、二種類の系統を持って今に伝わる。
 一つは、解題(内容分析)を付した目録で、劉向の『別録』に始まり、陳振孫の『書録解題』・晁公武の『郡齋讀書志』・馬端臨の『文献通考』、そして清朝の『四庫全書総目提要』が代表的なものである。
 二つは、純然たる目録(とは言っても、総序や各部序の如き簡略な叙文は付いている)で、劉キンの『七略』に始まり、『漢書藝文志』 ・『隋書經籍志』等々の、歴代正史の藝文志が、その代表的なものである。
 そこで先ず、『別録』と『七略』とから見て行く事とする。

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   2、『漢書藝文志』について
 現在我々が完全な形で見る事が可能な最も古い目録は、後漢の班固が編した『漢書藝文志』 であるが、この『藝文志』は、前漢末劉キンの奏した『七略』に殆ど基づき、更に『七略』は父劉向の編した『別録』に依拠していれば、中国の目録及び目録学は、前漢の劉向・劉キン父子に始まると言える。では劉氏の目録は如何なるものであったのか、残念乍ら『七略』にしろ『別録』にしろ完本は残存せず、僅かに断片を残すに過ぎないが、それでも其の大概は窺い知る事が出来る。

 其の製作過程は、『漢書藝文志』 の序文に、。

 「成帝の時に至り、書頗る散亡せるを以て、謁者陳農をして遺書を天下に求めしむ。光禄大夫劉向に詔して経伝諸子詩賦を校せしめ、・・・・・中略・・・・・一書已る毎に、向輒ち其の篇目を條し、其の指意を撮り、録して之を奏す。偶々向卒し、哀帝復た向の子侍中奉車都尉キンをして、父の業を卒へしむ。キン、是に於いて群書を総べ、其の七略を奏す。云々。

と言う。上記の内容を勘案すれば、大概的に見て、劉向は校讎解題に重点を置き、劉キンは其れを元にして目録に重きを置いたと言えるが、これは共に目録学の相表裏をなすものである。劉向が録して奏したものが、『書録』或いは『叙録』と称されるもので、其れを集めたものが『別録』と称する一種の解題書であり、更に其れを簡明な目録に仕立てたものが、劉キンの『七略』であると考えられる。『別録』の一部と思われる『書録』は、『戦国策』『管子』等々数点残存しており、其れに因れば、最初に如何なる本を集めて定本を作ったかを述べ、次いで作者の伝記や学問の源流を記し、最後にの書の得失を論じており、要は、目録学と称するに値する内容のものが、劉向に因って総合的に完成させられた、と言っても大過無いであろう。
 劉向が死去したため、子のキンが跡を継いで作業を進め、『七略』を奏しているが、キンの主な仕事は、父向が校定した書籍を分類別に排列することであり、其れを纏めたものが『七略』で、更に其れに依拠して要を撮ったものが、班固の編した『漢書藝文志』 である。『七略』は既に滅んでいるが、『漢書藝文志』 の中で『七略』と異なる部分には、班固が必ず「出」「入」「省」「加」「続」等の自注を付しており、其れを参考にして逆に『七略』の原貌を測知する事は、十分に可能である。いずれにせよ『漢書藝文志』は、以後の正史の藝文志関係の例を開いたものであり、更に其の中の各序には、学問の源流が述べられており、古代中国の学問を考える上で、甚だ価値の高い資料である。
 では劉氏の仕事に基づいて成立した『藝文志』から、書籍に関して具体的に如何なる事が知り得るのであろうか、二〜三の例を見てみたい。例えば、司馬遷の『史記』孫子呉起列伝には、「孫武の書、十三篇」と記すが、『藝文志』の方には、「呉の孫子、兵法八十二篇、図九卷」と載せ、更に梁の阮孝緒の『七録』には、「孫子、兵法三卷、案ずるに十三篇を上卷と爲し、又た中下二卷」と言う。則ち、『孫子』八十二篇は、旧本十三篇を上巻とし、残り六十九篇を中下二卷に分かち、上巻と合わせて三卷としたもので、司馬遷が見た『孫子』は、劉氏校定以前の旧本であった事が判明する。亦た『史記』老荘申韓列伝には、「申子、二卷」と言い、『藝文志』には、「申子、今民間の有る所、上下二篇、中書六篇」と載せれば、司馬遷は民間流布の通行本に因って二篇とし、劉向は宮中の中秘の書に基づいて六篇と定めた事が分かる。今、二例に過ぎないが、斯様な例は多々有る。
 次に、何故に漢末に過去の学問が総括されたのかと言う点であるが、劉氏の仕事は、春秋戦国時代に始まった中国の学術が、前漢に於いて古代的発達を一応遂げたと言う社会性を暗示している。『藝文志』の序文は、学問の源流を孔子より書き始めるが、このことは、漢代知識人の頭脳の中に、孔子以前の人で具体的且つ主体的に学問に従事していた人物を、認知していなかった事を物語り、同時に孔子の出現自体が、紀元前に於ける中国古代文化の水準を示す一左証ともなる。孔子以後戦国時代に至ると、既に多数の学問の分派が生じ、僅か十五年程の秦朝を承けて立った漢朝は、未だ戦国の遺風を色濃く残し、郡県制度に基づく中央集権体制の本格的統一王朝ではあっても、内実は完全なる国家体制を構築させるまでには至っていなかった。実体は、特に理念上から言えば、漢王朝とは如何なるものか、国家とは如何在る可きか、国家的行動を律する儀礼とは如何なるものか、等々を模索し確定させようとしていた時代である。『漢書』の郊祀志を見れば、国家の体現者たる天子が行う最も重要な儀礼の一つである郊祀さえ、未だ完全には確立されていなかった。況や他の儀礼をやである。しかもこの郊祀の議論には劉氏父子が参画している。彼等は次の如く言う。

 「劉氏父子以爲へらく、帝は震に出づ。故に包羲氏始めて木徳を受け、其の後母を以て子に伝へ、終わりて復た始む。神農・黄帝より下は唐虞三代を歴し、而して漢は火を得たり。云々。

と。『藝文志』の中で「六芸」の順序が其れまでの先行文献(例えば、『荘子』天下篇では、詩・書・礼・楽・易・春秋の順になっており、『礼記』経解篇でも同じである)と異なり、本来五番目に位置した易が第一番目に置かれている。これは班固の考えと言うよりも、彼が依拠した劉氏の意志と見る可きで、単純に考えれば、易は包羲氏に始まり、書は堯舜、詩は周を中心とするので、古い順に並び替えたと言う事が出来、この推論は決して否定される可きものではないが、これ以外にも、先の郊祀志の論議に見られるが如く、劉氏は漢王朝の正統性の源流を包羲氏に求め、故に漢は火徳であると言う。自らが奉戴する天子の正統性を包羲氏に求めて理論づけた劉氏が、其の天子より詔を奉じて書籍の校定を行っている事を考えれば、単に学者として歴史的順当性を求めただけの結果と言うだけではなく、漢朝官僚としての政治的・社会的思考が反映された結果でもある、と考えても蓋然性は高いと言えるのではあるまいか。
 公孫弘や董仲舒ほ建義に基づき、建元五年(前134)に武帝が五経博士を学官に立てた事に因り、国家的に経学が興隆するが、元帝の時には既に十四博士もが立っている。則ち、師法と伝統とを重んじ乍らも、一方では博士の分立が顕現化しており、この事は、取りも直さず発達を遂げた学問が、未だ整理統合されていなかった事を意味する。古代中国人の思考形態は、自ら新たな事を述べるのを好まない。一見新たに見えても、其の実は、必ず古典の言葉や、既に正しいと認定された過去の事例を引用する事に因り、己の正統性・斬新性を傍証する。斯様な態度は、既に孔子が『論語』述而篇の中で、

 「述べて作らず、信じて古を好む。」

と言い、為政篇では、

 「故を温ねて新しきを知る。以て師と為す可し。」

と言い、極めて古典や古儀礼を重視している。漢代人が認知した最初の職業的学問人の孔子の思考がこの様であるならば、其れ以後の人々の発想は自ずから一定の指向性を持たざるを得ない。自らの規範を古典に求めるとするならば、其の古典は総体的に認知され且つ整理されたものでなければならない。この点にこそ、漢末に於ける劉氏の文献校讎と言う行為が、時代的意味を持つ事になる。同時に漢代は書く対象の材質、つまり文献の材質に大きな変化が生じだした時でもある。其れ以前の木簡から帛書への移行時期でもあり、其のテキストの変化自体が、前漢の「専家の学」と後漢の「兼家の学」との相違にも影響を与えていると思われるのである。因って劉氏父子の作業は、次の二点の意味合いを持っていたと言えるであろう。
1、発達多様化した学術自体の次なる展開、則ち、其の多様化に一定の筋道を立て、道統を明らかにして整合性を与え、更により確定化されたテキストを作る、と言う学問自体の要求。
2、国家体制を支える理念の、具象化されたものの一つである儀礼・規範に関する文化的学術面での整備確立、と言う政治的要求。
以上の如き、学術的・社会的要求、換言すれば歴史的要求に基づいて行われた劉氏の仕事に依拠して、出現したのが後漢の班固が編した『漢書藝文志』 であると言えよう。 

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   3、六朝時代の目録
 『漢書藝文志』 以後、各種の目録は作られているが、現在では既に全てが亡佚して見ることが出来ず、現存する次なる完本の目録は『隋書經籍志』である。但し幸いな事に、梁の阮孝緒の『七録』の序文が『廣弘明集』に残っており、この序文と『隋書經籍志』の序文とに因って、魏から隋に至るほぼ四百年間の目録学の変遷を窺い知る事が出来る。其れに因れば、『隋書經籍志』に至るまでに、約十四種類の目録が作られている。次に其れを列挙すると、

 1、魏の『中経』(鄭黙)
 2、晉の『中経新簿』(荀勗)
 3、宋の『義煕以来新集目録』三卷(邱深之)
 4、宋の『秘閣四部書目』四十卷(謝霊運、或いは殷淳)
 5、宋の『四部書目録』四卷(王儉)
 6、宋の『七志』七十卷(王儉)
 7、斉の『四部書目』(王亮・謝朏)
 8、梁の『天監六年四部書目』四卷(任ム・殷鈎)
 9、梁の『七録』十二卷(阮孝緒)
10、陳の『寿安殿四部目録』四卷
11、陳の『承香殿五経史記目録』二卷
12、陳の『徳教殿四部目録』四卷
13、隋の『開皇四年四部目録』(牛弘)
14、唐の『武徳五年見存目録』
の如くなる。『隋書經籍志』は、14から俗書を除き、更に6・9を参考にして注記を加えたものと伝える。
 さて、この流れを一見して分かる事は、目録分類上に於ける四部分類の出現である。荀勗の『中経新簿』が甲・乙・丙・丁の四部に分けられており、新簿は鄭黙の『中経』に基づいているので、既に『中経』から四部分類であったと考えられる。元来『漢書藝文志』は、『七略』に依拠すると雖も、『七略』中の総序に当る「輯略」が抜けており、分類数上は「六芸略」「諸子略」「詩賦略」「兵書略」「術数略」「方技略」の六部分類で、其れがほぼ二百年後の魏に至り、四部に変化した事になる。甲部は『漢書藝文志』の「六芸略」、乙部は「諸子略」、丙部は歴史関係で、本来『藝文志』に無かった項目で、新たに作られている。この事は、元来『漢書藝文志』 に歴史書の記載が無かった、と言う訳ではなく、『藝文志』では「六芸略」の春秋の項に附載されていたものが、独立して一項目を立てた事を示す。丁部は「詩賦略」に当る。次いで、晉の南渡後に李充が乙・丙の順序を入れ替え、ここに以後連綿として受け継がれる経・史・子・集の四部配列が出現した。しかし、同時に其れが単なる甲・乙と言う区分分類になった事は、劉向に始まる内容分析を伴った目録学の学問が、其の内実を衰えさせて行った事をも示している。要するに、漢から魏にかけて、目録学の内容に変化が現れ、同時に四部分類と史部の独立とが、確定化し出して行ったと言う事である。史部の独立と詩賦の増加、及び古典的経学や其の他の思想、つまりイデオロギー部門の固定化は、歴史的必然でもあり、史部が経部に次ぐ位置を占め出す様になるのは、経部から独立した項目であると言う理由よりも、其の数量の絶対的増加と言う理由の方が、より説得性を持つと言える。以後南朝を通じて、各代に各々四部分類目録が次々と作られた事は、既述の如きである。
 四部分類に移行する過程で、『七略』の旧に復そうとする試みが、宋の王儉の『七志』と梁の阮孝緒の『七録』とである。漢の劉キンに思いを馳せたと言うが、劉向の『別録』までには思い至らなかったらしく、『七志』は解題を付さない簿録であり、「七」の数に拘ったため、『漢書藝文志』 が実体は「六」であるにも拘わらず、他の文献とは性格を異にする「図譜志」を加えて「七」の数を調節しているが、附設させている「仏志」「道志」を加えれば「九」になり、『七志』の「七」は単なる数合わせにしか過ぎなかった事が分かる。ナンバリングの本質は、命名と区分とに在るが、ナンバリング成立時には、確実に他者と区別する内実を伴っていても、ナンバーが固定化された以後は、逆に内容がナンバー自体に規制され、内容がよりカオス化して来る傾向を持つ。『七志』の如きは其の典型的な例で、実体は『九志』であっても敢て『七志』と命名する所に、姑息なまでの形式に対する執着が感じられる。次に現れる阮孝緒の『七録』も、ほぼ同様である。内篇五録、外篇二録、合わせて『七録』と称するが、どこが劉キンの『七略』と異なり、どこが同じなのか、内容は全く異なり単に「七」の数だけが同じである。しかも外篇二録は、『七志』で附設されていたものを独立させた(この事は、一方では当時の仏教・道教隆盛の状況を暗示してはいるが)に過ぎず、実質的眼目は、内篇の五録である。
 劉キンの『七略』から始まり、『漢書藝文志』 の六略をへ、『隋書經籍志』に至って四部が確立する中間に於いて、実質五部形式の『七録』の出現を見る事は、七→六→五→四と言う数字の変転から、漢代以後の推移の中で、どの学問が発達し、逆にどの学問が衰微して行ったかを、象徴的に暗示していると同時に、附設に過ぎなかった仏・道の独立は、其の隆興を表す(唐の詩人杜牧は、南朝に於ける仏教の一端を『江南春』で、「千里鶯啼き緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風、南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」と詠じている)時代相の反映である。要するに、漢から隋までの目録を概観して知られる事は、六芸(経)と諸子(子)との二部門は『七略』時よりほぼ固定化しており、其の後の学問的発達に伴う書籍の増加は、詩賦(集)と新設の史とであり、統一王朝以後は、政治体制の確立と儒教の国教化とに伴い、経典や思想の如き定型化されたイデオロギー部門よりも、単なる事実関係の記録である歴史的記述や、言語自体を目的とした純粋な言語活動である言語世界の作品の方が、より自由な活動のキャパシテイーが広かった事を示しており、同時に当時の知識人の学問の方向と、興味の在り方を考える上で、目録は貴重な手がかりを与えてくれる。
 以上の如き過程を経て、『武徳五年見存目録』に依拠し、更に梁代の目録を参考にして唐初に編修されたのが『隋書經籍志』で、この作業には初唐の著名な学者が多数参画し、チョ水良・魏徴・虞世南・顔師古らが次々と校定し、最後に長孫無忌より奏上されている。『隋書經籍志』は現存する完全な目録としては、『漢書藝文志』 に次ぐものであり、書籍の変遷を見る上では極めて貴重な資料であるが、この經籍志が編修された前後に、目録とは異なるが同じ学術的出版物として、経典だけの文字を解釈した陸徳明の『経典釈文』が作られ、また歴史編纂の主義及び方法論に因って史籍の分類を試みた劉知幾の『史通』が表れ、更に唐の太宗は孔潁達に命じて五経の義疏を撰定せしめているが、この作業には先の長孫無忌らも加わっている。斯様な唐初の書籍に関する状況を見た時、奇しくも『隋書經籍志』の編修された太宗の貞觀年間(六二七〜六四九)は、漢代以後の学問が、中世的発展を遂げた一つの帰結点を示しているとも言えよう。

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   4、唐以後の目録
 五代に至ると『舊唐書經籍志』が作られるが、これは唐の玄宗の開元九年に完成した『開元群書四部録』二百卷を要略した『古今書録』四十卷に依拠して編修されているため、唐の經籍志とは雖も、開元以後の唐人で誰でも知っている著名な李白・杜甫・韓愈・柳宗元らの著作が採取されていない。亦た北宋時代に作られる『新唐書藝文志』も相当粗略に出来ており、更に元の時に編修される『宋史藝文志』の如きに至っては、全くいい加減なもので、ここに正史の藝文志は遂に全く単なる簿録に堕してしまったと言える。しかも『明史藝文志』に至ると、今までの通例を破り、とうとう遂に明朝一代の書籍を載せるだけに止まってしまう。元来正史自体は断代史であるが、其の中に含まれる芸文・経籍の志だけは、通史であることを旨とした。故に其の中に書籍の変遷を見る事も可能であった。しかし、この伝統も『宋史藝文志』を以て終わり、明・清の正史の藝文志は各朝一代の書籍だけで構成されている。則ち、『漢書藝文志』 以来の内容を伴った伝統的藝文志は、表面的パターンは一応『宋史藝文志』まで続くとは雖も、内実は『隋書經籍志』を以て終焉を告げ、以後は実質的機能を喪失させ、単に形式として正史に附されているに過ぎなくなった、と言っても大過無いであろう。

 しかし、これとは別に南宋に至ると、民間に於いて目録及び目録学に新しい傾向が出現する。其れは、
1、私家の蔵書目録、則ち私家書目の出現。
2、目録学上の新しい考え方、則ち目録学理論の出現。
の二点である。
 1、について言えば、其れまでの写本形式に代わり、宋版と言われる木版本が印刷される様になり、一度に多量の書籍印刷が可能となった事、及び其の流通範囲の拡大等々に因り、誰でも一応容易に書籍の入手が図られる様になった、と言う社会的背景を伴って現れた現象である。代表的目録として三種挙げられるが、一つ目は、晁公武の『郡齋讀書志』で、これは四川転運使の任に在った井度から、彼が平生集めた書籍を譲り受けた晁公武が、其の書の舛誤を校定し、其の大旨を採って録したもので、書籍の内容に関する解題が付されている。二つ目は、陳振孫の『書録解題』で、これは彼が夾サイの鄭氏・方氏・林氏・呉氏の旧書五万一千一百八十余卷を伝録し、その解題を付したものである。三つ目は、尤袤の『遂書堂書目』であるが、これは全体を四十四類に分けた簿録で解題は付されていない。以上の目録は全て私家書目で、これらの目録中に存在しないからと言って、其の本が当時存在しなかったと言う訳では決してなく、あくまで彼等が個人的に所有していた書籍に基づいて書かれた目録に過ぎないが、晁氏・陳氏の解題は、当時のものとしてこれに代わる可きものが無い以上、極めて有益な目録であると言える。
 2、については、鄭樵の『通志』校讎略が其れであり、其こには目録学としての理論が述べられ、其れに基づいて作られた実際の目録が『通志』芸文略である。しかし乍ら、理論と目録とを見比べると、実作である芸文略よりも理論である校讎略の方が相当立派で、全体的にはやや煩瑣な感じがしない訳ではないが、「秦の焚書に因って書籍が滅んだとするのは誤りである」とする意見など、可成り独自な見解を多数含んでいる。だがこの様な彼の理論は、本格的な学術論議の対象とはなり得ず、当時必ずしも高い評価を得ていたとは言い難いのである。故に彼が考えた「佚書を載せる方法」などは、其れが実際の目録製作上で使われ出すのは、清朝初期の朱彝尊が経義に関する全ての序文や跋文を、「存」「佚」「未見」の三通りに分けて集録した『経義考』の出現まで、待たねばならなかった。
 明代は、目録及び目録学に関して特に見る可きものは無く、ただ明末に焦рフ編した『国史経籍志』が有るだけで、これとて目録としては特別に変わった所など無く、ただ最後に「糾繆」と題し、『漢書藝文志』 以後『文献通考』に至る歴代芸文志の分類上の誤りを正し、入れ替えたものが設けられており、一応其れなりに目録学の意味を考えていた点が窺える。
 そして清朝に至り、清朝最大と言うよりも中国最大の目録学の成果とでも言う可き『四庫全書総目提要』二百卷、略して『四庫提要』が出現する。そもそも『四庫提要』とは、『四庫全書』の解題書であるが、『四庫全書』(中国各地から蒐集した書籍を筆写し、それを七閣それぞれに文貯、紫禁城内の文淵閣・北京城外円明園の文源閣・奉天離宮の文溯閣・熱河離宮の文津閣・江蘇省鎭江金山寺の文宗閣・江蘇省揚州大観堂の文匯閣・浙江省杭州聖因寺の文瀾閣であるが、文源閣本は義和団の乱で焼失し、文宗閣・文匯閣の両本も長髪賊の乱で焼失し、文瀾閣本は乱後に補写して浙江図書館に収蔵され、現在影印出版されているのは、文淵閣本である)自体が清朝最大の出版事業で、乾隆三十七年に諭文が発せられて翰林院に四庫全書館を置き、郡主・大学士を総裁に、六部の尚書・侍郎を副総裁に任じ、紀ホ・陸錫熊・孫士毅を総編纂官とし、任大椿・邵晋涵・戴震を総目協勘に、姚鼎・朱インを纂修官に、王念孫を分校官に任じ、内外の学者を動員すること凡そ十四官三百六十余人、全国各地のあらゆる書籍を集めて、其の書を全て校勘書写し、更に必ず其の書の得失・大旨を首巻に叙して進呈すると言う大事業で、其の首巻の得失・大旨だけを取り出して集めたものが『四庫提要』であり、動員された著名な学者の精力は、一にこの提要製作にかかっていたのである。経部は戴震が、史部は邵晋涵が、子部は周書昌が、各々主筆分担したと伝え、学問的価値が高い書で校訂整理後『四庫全書』に編入されたもの、つまり著録、及び目録だけが保存されたもの、つまり存目、の全てに渉って解題が加えてあり、極めて学術的価値の高い目録である。しかし乍ら、二百卷に及ぶ大部な書であるため、全てに目を通すと言うのは容易な作業ではなく可成りな時間を要する事になる。そのため、『四庫提要』から存目部分を外し、その内容を凝縮簡便にしたのが『四庫全書簡明目録』二十卷であり、更に邵懿辰が其の書の欄外に種々の版本を列挙し、其の優劣を論じたのが『四庫簡明目録標注』である。故に、先ず『簡明目録』を見て如何なる内容の本か知り、更に『簡明目録標注』に因って如何なる版本が良いのかを選ぶのが、便利な方法であると言えよう。
 尚、余談ではあるが、前橋在住の元大東文化大学教授原田種成博士が、二十年以上に渉り無窮会で『四庫提要』の読書会(筆者も最初から参加)を開いておられるが、現在は東京の板橋高島平で毎月第一・第四日曜日に開催され、読書会への参加は全くの自由参加である。且つ其の成果が徐々に公開されているが、其れが汲古書院出版の『訓点四庫提要』である。

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   終わりに
 歴代の目録を考えて見るに、劉向の『別録』より始まった解題付き目録の歴史は、清朝に至って最大の成果である『四庫全書総目提要』を出現せしめ、劉キンの『七略』より始まる目録の歴史は、『漢書藝文志』 『隋書經籍志』の成果を生みだし、以後其の機能は正史から私家書目へと移って行った。書籍の単なる内容紹介だけに止まる事無く、其の得失は言うまでもなく、更に学問の源流まで考え、其れを目録に付すると言う中国独自の目録学は、膨大な量の書籍を擁すると言う中国書籍文化の一つの具体的な学問的特色でもある。漢代以後の流れを端的に言えば、古代的学問が一応の発展を遂げた到着点に『漢書藝文志』が出現し、更に其れが中世的拡大を遂げた唐初に『隋書經籍志』が現れ、経済的発展に伴う出版物の累加的増加と言う近世的展開の極に『四庫全書総目提要』が編修されたと言えるのであり、見方を変えれば、木簡(木片や竹片)に書かれた学術の成果を整理したのが『漢書藝文志』で、帛書(絹布や綿布)や巻子本を整理したのが『隋書經籍志』で、版本(麻紙や竹紙)と称する冊子本を校訂整理したのが『四庫全書総目提要』であったとも言えよう。

 我々はこれらの目録を見る事に因り、学問の内容や其の変遷を知るのみに止まらず、個々の時代の文化的特徴さえ読み取る事が出来る。この事を極論すれば、中国の目録と目録学の精神の中には、「各時代の文化自体が、羅列的に整理化された形で、総体的に纏められている」と言うことが出来る。故に、少なくとも中国の書籍文化、或いは歴史的学術傾向を見ようとする人々にとって、上記の三点の目録は、必須にして欠く可からざる目録であると言えよう。
 以上甚だ簡略に、中国の目録学の特徴と目録の変遷とを概観してみたが、これは「中国目録学」中のほんの一部分にしか過ぎない。因って、より詳しくより専門的に解説した本で、代表的名著が三点有れば、其れを紹介しておく。興味の有る方々は其れを読んで頂きたい。則ち、
『支那目録学』内藤湖南(筑摩書房『内藤湖南全集』第十二卷)
『目録学』武内義雄(角川書店『武内義雄全集』第九卷)
『目録学』倉石武四郎(汲古書院)
の三書である。これらはどれも大部な本では決してなく、全て一日で読了出来る量であり、また各々が独自の見解と蘊蓄に富む内容で、読者に裨益する所は甚だ大である。昨今中国から多量の校訂を経た書籍が次々と日本に流入し、今更目録云々の時代ではないのかも知れないが、それでもやはり、自分の目で見、自分の手で触れ、自分自身が苦労して経験してみる、と言う事が学問を行う上での、極めて初歩の基本中の基本ではないのかと考える。とすれば、学問の入り口で待ち受け、更なる興味を引き起こしてくれるものが、目録の存在ではなかろうか。

     昭和六十三年二月                           於黄虎洞

※本拙文は、大東文化大学中国文学科の授業「文献研究」(昭和62年度)の講義ノート中の一部分を簡潔に纏めたものである。 

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