名と号

本ページは、『大東文化大学歴史資料館だより』第5号、(平成20年11月刊行)からの転載である。


   名と号

 「号」とは、本来他人が相手を尊敬したり敬ったりして、その相手に関わりの有る別の呼び方をするものである。
 号には、「萬屋」等の屋号や「春風亭」」等の芸号、或いは画家の画号、書家の書号等々が有り、これらは一種の職業的別名、つまり芸能人の芸名と同じであれば、堂々と名乗っても何ら問題無い。
 問題は「雅号」である。雅号は職業的なものでは無く、それこそ人様が名を呼ぶのを憚って呼んでくれるもので、自らこれ見よがしに名乗るものでは無い。まして私信に書くなど、愚の骨頂である。
 例えば、司会者が「ただ今平沼機外先生が到着されました」と言っても、本人は決して「機外」とは言わず、「ただ今ご紹介賜りました平沼騏一郎です」と名を名乗るのである。
 そこで、ここに呈示した大木氏の七言対の書幅二本を見比べて頂きたい。一本は「天籟」と雅号を書し、一本は「大木遠吉」と名を書してある。名を書した方には、「為安田君」との為書きが有り、号の方には何も無い。
 恐らく大木氏は、為書きの有る方は、安田君に宛てた私信に等しいとの判断から号では無く本名を記されたのであろう。同じ書幅であっても、それが如何なる性質の品かに基づき、名と号を使い分けている点は、漢学の教養に依拠した大木氏の高見識を示すものであり、「流石である」と感服せざるを得ない。
 たかが「号」、されど「号」である。その使い方一つに因って、その人の見識の高さと教養の深さを示すものにもなれば、逆に無知と無教養をさらけ出すものにもなる。故に「号」の使用には、慎重であらねばならないと自戒するこの頃である。

     平成二十年十月                             於黄虎洞

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