「三堂一牛」と「廻瀾社」

本ページは、『大東書道』20201月号、(令和元年12月刊行)からの転載である。


   「三堂一牛」と「廻瀾社」

 最近本學創立百周年に向けて、草創期の人々を思い返す事が多くなった。當時「書」に關わる授業の擔當者に、「三堂一牛」と稱された先生方が居られた。

 三堂とは、漢字の細田劍堂・川崎克堂、假名の高塚竹堂、一牛とは、文字學の樋口銅牛の諸氏である。

 細田劍堂は、名を謙蔵と言い、幼時に卷菱湖の書を學んで、雄渾ではあるが何處か柔らかな行書を得意とした書家であるが、同時に三島中洲にも學んだ漢學者・漢詩人としても知られており、知友らが彼の爲に寄せた『劍堂先生古稀壽言』が有る。

 川崎克堂は、名を克と言い、泰東書道院総務長を務め、昭和14年には興亜書道連盟を結成し、洒脱な行書を殘した書家であるが、政治家として鳩山一郎らと同交會を結成して翼賛議員同盟に對抗し、大日本貿易振興會會長等を歴任した、政治家にして且つ經濟人でもあり、伊賀焼きの復活に努めた文化人でもある。

 高塚竹堂は、名を錠二と言い、小野鵞堂の門に入って上代様假名の研究をし、泰東書道院や日展の審査員を務め、端整な線の和文を書いた書家であるが、時には和歌を善くした事でも知られている。

 樋口銅牛は、名を勇夫と言い、自分が書いた漢字に關する本(『漢字雜話』)の草稿を、一面識も無かった京都大學の中國史學者内藤湖南に送り付け、「君なら分かるだろう」と言って序文を書かせた傑物である。

 同様に、「漢文」の方では評會である廻瀾社が有った。廻瀾社は、明治時代に川田甕江が創設し、毎月一回開かれた漢文の文會で、日下勺水没後は途絶えていたが、昭和三年に本學院の教授達である古城坦堂・松平天行・安井朴堂・久保天随らが復活させた。其れに勇躍參加したのが、當時の學院生である齋伯守・近藤杢・西脇玉峰・内藤政太郎・沢田總清・鈴木由次郎・藤野岩友・加藤梅四郎(編集も擔當)等の諸先輩達である。復活した廻瀾社の同人雜誌が『廻瀾集』で、1〜15輯まで有り、其處には當時の學生達の漢文が、多く掲載されている。

 昨今、「我こそは」との氣概や、他人に一目も二目も置かせる餘技や遊び心を持った教員や學生が少なくなった事、傑物的人物の存在を許容しなくなった近頃の規制まみれの窮屈な大學社會に對し、チョッピリ寂しく悲しい思いを、禁じ得ないのである。

      令和元年十二月                             於黄虎洞

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