三国時代の研究と工具書

本ページは、全国漢文教育学会『新しい漢文教育』第23(平成8年11月出版)からの転載である。


   〜三国時代の研究と工具書〜
 出版界やマスデイアの世界に於いて、『三国志』ブームと言われ出してから、既に十年以上の歳月が過ぎている。その間、流行の波長の上下の差こそ有るものの、未だに根強い人気を保ち続けていることは、書店の書架を見回した時、必ずと言って良いほど『三国志の××』『諸葛亮の××と経営戦略』など、「三国志」乃至は「諸葛亮」の名を冠した書籍が、陳列してあることからも判断される。

 しかし、この様な一見華やかにも見える出版業界の現状が、研究者の手に成る地味な実質的研究成果の蓄積的反映であるのかと言えば、答えは明白に「否」と言わざるを得ない。それどころか各研究者が研究雑誌等に発表した成果は、むしろ膨大な数に上っている。問題は、それらの成果が、一冊の単行本として紹介されたり、整備されたりして、研究者のみならず一般読者層をも想定した、共通財産として提示されることが、極めて少ないと言う点である。則ちここに、所謂「三国志もの」の一般書や啓蒙書の氾濫と言う現象と、研究文献目録や工具書の不整備と言う実態との、大きな落差が存在している。現在出版されている三国時代に拘わる書籍のほぼ九割以上が、『三國志』乃至は『三国志演義』に関するもので、占められているが、現実には、思想も宗教も詩文も芸術も存在している。しかし、これらの分野は、概説書乃至は前後の時代を扱った書籍で、触れられるのが一般的で、三国時代自体を主的対象としたものは、極めてすくない。
 試みに日本に於いて出版(尚、中国に於いて出版されているものは、専門書及び工具書を含めて、有用なものが何点か有るが、中国の経済事情に基づき出版数自体が少なく、何時でも随時容易に入手出来ると言う訳ではない)されている専門書を二〜三紹介すれば、文・哲両方を対象とした古典的名著である狩野直喜著『魏晋学術考』(筑摩書房)が有るものの、思想部門では加賀栄治著『中国古典解釈史』(勁草書房)及び堀池信夫著『漢魏思想史研究』(明治書院)、文学部門では鈴木修次著『漢魏詩の研究』(大修館書店)及び松本幸男著『魏晋詩壇の研究』(朋友書店)を挙げ得るに過ぎない。この様な傾向は、『三國志』及び『三国志演義』に関しても同様であり、原典(『三国志演義』)の翻訳本こそ訳者を変えて次々と出版されてはいるが、所謂研究書となると、金文京著『三国志演義の世界』(東方書店)と井上泰山(他)著『花関索伝の研究』(汲古書院)ぐらいであろう。まして三国時代自体を研究する上での工具書となると、誠に寥々たる状態で、僅かに『三國志』に基づく「中国の思想」刊行委員会編『三國志全人名事典』(徳間書店)や、『三国志演義』を底本とした渡辺精一著『三國志人物事典』(講談社)と、中川諭編『三国志演義人名索引』(朋友書店)、及び中国で出版された沈伯俊・譚良嘯編著『三国演義辞典』の翻訳である近刊の立間祥介(他)編訳『三国志演義大事典』(潮出版社)等の、官職・人名・用語などを解釈した辞典類が有るだけで、況や文・史・哲を含めた三国時代の学問的全体像を視野に入れた研究文献目録などは、皆無であったと言える。
 この様な、表面的華やかさとは裏腹な、実質的工具書の欠落と言う現実が、大学で三国時代の卒論を指導する教員にとって、最初に如何なる作業をするように指示すべきか苦慮させ、しかも年度毎に対象相手が変わるため、毎年同じ事の繰り返しをせねばならぬ、と言う苛立ちを招来させていた。この悩みを何とか解消させたい、と言うよりも本質的には些かでも卒論指導の手抜きをしたい、と言う教員の姑息にして且つささやかな願望から出版されたと言うのが、平成八年刊中林史朗・渡邉義浩編著『三國志研究要覧』(新人物往来社)である。この書は「三國志」を冠してはいるが、実質は「三国時代研究要覧」と称すべきもので、文学・思想・歴史・芸術と、該当時期のほぼあらゆる分野が網羅されている。出版社の事情で、中林・渡邉の両氏が編著者となってはいるが、文献目録資料収集と言う地味な作業に営々と努力を払われた、北海道大学・北海道教育大学・大東文化大学の大学院及び学部生諸君の、助力に負う所が甚だ大であると言えよう。
 この書は、「研究入門編」と「文献目録編」との二部構成で、第一部「研究入門編」は、先ず文献検索の方法として、中国学の工具書の紹介や利用の仕方、及び図書館の利用方法を述べ、更に日本全国の主要な漢籍所蔵機関の住所と利用方法を記した一覧表、及び日本に於ける中国書籍取り扱い専門店の一覧表とが附せられ、次いで三國志研究入門として、該当時期の歴史・思想宗教・文学の三分野に渉って、一九〇〇年以降の簡単な学説史、及び代表的研究著作と論文の内容紹介がなされている。第二部が「文献目録編」であるが、ここで言う三国時代とは、後漢末から西晋までを含み、歴史部門に在っては、『三國志』のみならずその他の史書をも対象にして、党錮の禁前後から初期六朝貴族制にまで及んでいる。思想部門に在っても、同様に後漢末の学術傾向から魏晋の老荘思想までを範囲とし、更に仏教・道教及び關羽信仰をも対象としている。文学部門では、魏晋文学と『三国志演義』とを対象とするが、当時の詩人達の逸話や詩文が採取されていると言う関係上、『世説新語』と『文選』とに関しても採取されている。しかし、『文選』にはそれ自体の研究文献目録が存在するため著作のみに限られ、同様に該当時期に拘わるものの、邪馬台国と敦煌・樓蘭などの西域関係も、既に独自の完備した研究入門書や文献目録が有るため、一切採取されていない。
 この目録に採取されている文献数は、五三○○点弱に及び、一見多そうではあるが極めて中途半端な数である。それは、文献を収集した時点では、遙かに一万点を越えてはいたが、基本的なコンセプトとして、研究者を主たる対象者とはせず、大学での卒論制作者を対象としたため、国内の大学などの公的機関に収蔵されているものや、入手可能なものに限り、特殊なルートに因る資料や、欧米の文献などは、敢て削除した結果に基づくからだと言う。故に、専門家から見れば飽き足らない部分も目に付き、逆に、一般読者から見れば可成り専門的な文献をも、含んでいる様に見受けられる。そして最後に、五十音順の日本人名・発音順の中国人名索引が、付けられている。
 この書は、三国時代自体の全体像を鳥瞰した日本で最初の工具書であれば、些かなりとも学生諸君に被益するであろうと思われるが、三国時代研究の発展には、今後更に有益な工具書等が、手頃な価格で陸続として作られることを、切に希望して止まない。

     平成八年十月                             於黄虎洞

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