三民主義和五権憲法

〜孫文レポート〜

本ページは、大學院修士課程一年次の中國語授業(孫文學説)の、提出課題レポート(昭和48年12月)からの転載である。


   三民主義和五権憲法〜孫文レポート〜
 清末の革命運動史に於いて、1905年8月20日の中国同盟会の成立は、画期的な出来事であり、全中国的な基盤を持つブルジョア革命組織の成立を意味している。この革命運動の代表者が孫中山であり、革命思想の理論を形成したのが三民主義である。孫文自身の回想に因れば、その時「革命の大業が自分の一生中に成就する事を、私は初めて確信したのである」(『孫文学説』第八章有志竟成)と述べている。だが1925年3月の北京に於いて、「現在革命は尚ほ未だ成功せず。凡そ我が同志、務めて須く余の著す所の『建国方略』『建国大綱』『三民主義』及び『第一次全国代表大会宣言』に依拠して、継続努力し以て貫徹を求めよ」(『孫文先生集』)との委嘱を残して客死し、戦闘的民主主義者としての革命的生涯を終えている。其の後、旧三民主義を国教とする資本主義的中華民国と、新三民主義を演繹する社会主義的中華人民共和国とが成立し、両中国に於いて各々革命的国父として尊敬を受け、1966年に孫文生誕百年記念大会が両国で挙行され、高い評価を享受している事は、我々の脳裏に新しい(当時中華人民共和国はプロレタリア文化大革命中であって、否定的評価を受けるのではないのかとの見解も有ったが、記念演説をした周恩来総理が、「孫中山先生の理想は、現在我々の手の中で実現されつつある」と述べ、疑惑を払拭した)。


 三民主義が明確に打ち出されたのは、1903年7月に日本で革命軍事学校を開設した時の誓詞に、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」(『孫文先生集』)の句が使用され、民族・民権・民生の三民主義が大系づけられている。これが、満洲王朝支配の打倒・共和体制の樹立・土地の国有を内容とした所謂旧三民主義で、1924年の第一次国共合作までの革命運動を支えた、指導理論を裏付ける思想である。


 排満復華を内容とした民族主義は、当時の世界的風潮(弱小民族の独立運動)から見れば当然の感を与えるが、孫文の其れは、章炳麟の如き極端な排満国粋主義ではない。孫文自身が、「民族主義は決して異民族を排斥する事ではない。異民族が我が民族の政権を奪う事を拒否するだけである。故に決して満洲人を恨む者ではない」(『民報創刊記念祝賀会演説』於東京)と述べているが如く、漢民族が政権運営のイニシアチブを採り、漢民族を主的指導民族とした五族共和を目的とした民族主義で、若干国粋的要素を含んではいるが、本質的には共和主義的民族主義である。土地の国有を目的とした民生主義は、土地の没収と言う具体的政策が施行され出すまでは、実質的な用はなさない。孫文の三民主義中で最も顕著に彼の考え方を特徴づけるのは、この民生主義であろう。


 孫文の目的とした革命の終局的国家は、民主立憲共和体制である。彼は、革命宣伝の演説に於いて、常に漢民族の優秀性と共和体制成立の可能性とを力説して、「日本は中国文化を導入し、更に西洋文化を輸入して、富強となった。故に本家の中国が西洋文明を導入すれば、日本など問題ではなく、彼の国が三十年を必要とした革命(明治維新を指す)も、我が漢民族ならば、半分の努力で二倍の効果を挙げ得る」とか、「我々が中国と言う活躍舞台に生まれたことは、幸福なことで、仮に一大共和国を建設し、漢民族の力を世界に表明しなければ、漢民族の恥辱の極まりである」とか、「我々は西洋の良き部分だけを手本として、直ぐに共和政体を成立させれば良い。事実漢民族はその能力を持っている。故に我々は、最上の改革より着手す可きである」(以上、『日本留学生に対する演説』)とか、述べている。


 彼の革命思想は、革命運動推進の宣伝としては十分な用を為し得ている。しかし、実際状況に目を転じた時、そこに現実との多大なギャップが見いだされる。かれの西洋対中国の関係は、二者の間が或る程度対等状態に在る時に於いて、初めて成立し得る理論であるにも拘わらず、いとも実現可能が容易であるが如く説いている。そこには、帝国主義・資本主義の持つ侵略的本質を認識危惧した形跡は、残念ながらあまり強くは見られない。則ち、彼の革命思想は、楽観主義的・理想主義的・精神主義的でさえある。故に、彼の革命実践の基盤を支えたスペンサー流の社会進化論の、専制政体から君主立憲政体、そして共和政体へと言う移行定式を、或る意味では無視した感の有る、専制政体から共和政体へと言う移行パターンも、成立し得るのである。孫文の精神重視型の革命思想は、彼の自伝中の「革命之精神耳」(『孫文学説』第八章有志竟成)と言う一句が、端的に示している。それは、実践革命以前に於いて、有史以来の漢民族が持つ、精神的認識形態の内部構造自体の質的変化を必要とする、と言う大前提の前に於いては、より飛躍的・より進歩的革命思想が必要とされた爲である。故に、共和制樹立と言う大義名分の下で、全ての政治的問題は解決され、救国と言う大理想の下で、全ての現実的矛盾は消化される、と言う理論を、彼自身が持っていたであろうことは否めない。


 革命指導者である孫文が、1912年1月の中華民国臨時政府成立と同時に、大統領に任命されたのは、当然の結果である。だが、理想的革命思想であったが故に、革命の軍隊も革命的幹部も持たず、遂に政権維持が困難となり、袁世凱等軍閥の爲に下野し、1924年の国共合作に踏み切らざるを得なくなった事は、宋慶齢が彼の回想の中で述べている。この時孫文の三民主義は、国共統一戦線の綱領として思想的変化を遂げ、新三民主義へと進むのである。則ち、被抑圧民族の解放・直接民主主義・耕作者に土地を与える、と言う新三民主義に因り、漢民族自立的革命運動から、反帝反封的革命運動へと転進するのである。


 しかし、1927年12月の蒋介石の反共クーデターに因り国共は分裂し、1928年に南京に於いて国民政府が、江西省に於いて共産党が割拠するに至り、孫文の三民主義も二者の間で全く別の方向へと進む事になる。孫文の意図した三民主義とは関係無く、政治的目的に因り、それぞれ独自の解釈が為されるようになり出す。国民政府側では、国教として威儀づけられ、党化教育が強行され、三民主義を伝統的儒教の継承として説き、「孫文の中心思想は民主主義であり、それは中庸の精神である」と述べた陳立夫の唯生論は、その代表的なものである。同時に儒教的解釈に因る三民主義は、反共的精神運動の理論的裏付けとして利用され、現在の中華民国政府に於ける三民主義は、その延長上に存在すると言える。一方共産党側では、国民党に対抗する関係上、三民主義に対する否定的評価も一時行われたが、毛澤東の指導権が確立するに伴い、孫文が国共合作に踏み切った1924年時の三民主義、所謂新三民主義が高く評価され、1940年の毛澤東の『新民主主義論』の中で、「新三民主義こそ革命的三民主義と名づく可き新民主主義的三民主義であり、旧三民主義の発展したもので、孫中山先生の功績は、中国革命に於いて偉大である」との解釈が発表され、現在の中華人民共和国政府は、革命的三民主義が革命的社会主義へと発展した段階であると言えよう。


 では、孫文が意図した三民主義が何処に於いて実行されたのかと言えば、それは、中華人民共和国の方に於いてである。漢民族の精神的自立(民族)→プロレタリア文化大革命・共和国政体(民権)→現人民共和国(民生)→地主からの土地没収、孫文が初期に考えた三民主義とは些かの相違が認められるものの、彼の理想とした漢民族に因る共和政体は一応その形を見せるに至っている。しかし、中華民国に於いては、孫文の死後、政治上の国家的権威として、革命思想の三民主義ではなく、国家保持のシンボル的三民主義として利用され、全く別の思想となっている。


 三民主義と並んで、孫文の思考を形成した理論の五権憲法が有る。五権憲法は孫文自身が、「五権憲法は私の独創した所のものであって、古今中外の各国に一向にその前例が無かったものです」(『中国国民党特設弁事処に於ける講演』)と言う如く、当時の世界的主流であった三権を五権に増加させた点は、事実彼の独創であった。だが増加した考試権と監察権とは、共に中国に於いては、統一王朝の成立(秦を指す)以来、常に行政機構として運営されてきた一行政機関に過ぎない。元来中国は国家官僚を試験に因って選抜すると言う、他国に例の無い特筆すべき優秀な制度(科挙)を持っていた。孫文が民族革命を標榜すると同時に、常に漢民族の優秀性を自負していたことは、考試権を加えると言う行為を通じて明確に示されている。


 孫文は、旧中国に於いても憲法が有り、君権・考試権・弾劾権の三権が存在すると言う。だが考試権(科挙)・弾劾権(按察使)が完全に確立した宋代に於いては、全政治機構が全て皇帝権力下に置かれ、政治的独立権力は何も無い。強いて存在すると言えば君権だけである。孫文が五権分立を考え出した背景には、当時の各国の政治の得失を見るに、三権では不備な点が多すぎる、且つ政府関係者は国民の公僕である以上、有能な人材を必要とする、と言う点を重視した爲で、五権を以て国家の最高行政機関と為し、憲法に因り明確に五権分立を規定し、この五権に対して民権を行使することが出来、県自治単位の四種の直接民権(選挙・複決・罷免・創制)を置く、則ち、政府側の五権に対して国民側の四権、この二者を自動車とブレーキの関係状態に置くことに因り、国家経営は施行可能であろうとするのが、孫文の実際政治理論であり、具体的運営方法でもある。同時に五権憲法は、三民主義の民権の具体的運営に於ける実質的理論を構成する施策である。


 孫文の代表的思想である三民主義と五権憲法は、三民主義は中華人民共和国に於いて演繹運営され、五権憲法は中華民国に於いて施行運営されている。孫文の思想は、両中国に於いて各々一個づつ実施されている。故に、孫文は両中国に於いて国父と成り得るのである。但し、政治上の国家的意図に因ってである。

○本レポート制作に当たっては、『孫中山選集』(人民出版社)・『孫文先生選集』(中華民国学術会)・『毛澤東選集』(人民出版社)を、参考資料として使用した。

     昭和四十八年十二月                             於黄虎洞

※本レポートは、大學院修士課程一年の中國語(孫文學説)授業の課題として制作した昭和48年(23歳)當時のものであり、古典中國を専攻していた筆者に、否応なく現代中國への關心を持たせる切っ掛けとなったものである。

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