西晉樹立への道程

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第3巻、(平成10年10月出版)から転載するものである。


     征呉か反征呉か
   
1、晉朝内の権力闘争
   
2、晉の益州経略と征呉
   
3、呉の終焉
     
終わりに

   

   征呉か反征呉か
 嘉平元年(二四九)、魏王朝における宗室の実力者曹爽一派をクーデターで粛正し、実質的な魏晋革命への道筋をつけた司馬懿の権力は、懿の死去に伴い長子司馬師に継承されるが、師も三年程で死亡しその地位は弟の司馬昭が受け継ぐことになる。所が司馬昭も、景元四年(二六三)に晋公となって蜀を平定し、翌咸煕元年(二六四)に晋王の位に登り、西晋朝樹立を目前に見ながらも死去してしまう。しかし、すぐさま司馬昭の跡を継いだ長子司馬炎は、魏王朝より位を禅譲(実質は奪い取った)され、泰始元年(二六五)に西晋王朝を樹立するのである。
 蜀を平定し魏朝の禅譲を受けて成立した晋朝にとって、残る最後の大きな政治課題は、江東に割據する孫呉の平定であった。西晋が真の統一王朝たり得るには、早急に孫呉を平定せねばならぬはずであったが、実際に孫呉が平定されるのは、西晋成立十五年後の太康元年(二八〇)のことである。西晋初期における重要な政治課題遂行に十五年もの歳月を要したと言うことは、決して平定対象の孫呉政権が強固な抵抗を示したと言う訳ではなく、偏に西晋内部における政治権力闘争にかかっていた。では一体如何なる過程を得て孫呉平定は遂行されたのであろうか。
 西晋の武帝が明確な征呉の意図を示すのは、政権成立から五年後の泰始五年(二六九)のことである。『晋書』羊コ伝に、「武帝は、何とか呉を征伐したいとの思いが強くなって来たため、そこで羊コを都督荊州諸軍事・假節に任じた」とあるが、羊コが都督荊州諸軍事を拝して襄陽に鎮したのが泰始五年のことであり、同時に鎮東大将軍東莞王ユウが都督徐州諸軍事として下?に出鎮していれば、この泰始五年の対策こそが西晋成立後最初の対征呉用具体策と考えて良い。しかし、実際に征呉が敢行されるのはこれより十一年後の太康元年三月のことである。この事は武帝の意思とは裏腹に、晋の朝廷内部に反征呉派の一大勢力が存在していたが為に他ならない。
 この反征呉派勢力は、西晋成立時より存在した訳ではなく、泰始十年(二七四)前後から明白な征呉対反征呉の関係が形成され出して来る。この対立は、征呉自体が西晋の政治課題である為、早期実施を推進する積極派とその時期及び方法に異を唱える消極派と言う関係で、積極派の中心人物が羊コであり、消極派の中心人物が賈充である。この賈充こそが、魏朝末甘露五年(二六〇)に司馬氏の擅権を憎んだ高貴郷公曹髦が、側近の衛士のみを引き連れて自ら大将軍司馬昭の館に攻め込むと言う逆クーデター事件で、天子に刃を向けるのを躊躇する部下に対し、「日頃お前達に食い扶持を与えているのは今日のような時の為である」と叱責し、とうとう曹髦を刺し殺させてしまい、西晋樹立に大きく拘った陰の立て役者である。

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   1、晉朝内の権力闘争
 しかし、彼等の間に西晋成立当初から決定的な政治的スタンスの相違が存在していた訳ではない。元来朝廷に在って西晋初期の政治を担当した人々は、魏朝以来の宿老で晋の武帝(司馬炎)の父司馬昭に近侍して信任を得、次いで晋朝の開国に尽力した元勲連中で、彼等は共に開国佐命の功績に因り咸寧元年(二七五)に太廟に配饗されている。この開国佐命の功臣とは、太傅の鄭沖・太尉の荀・司徒の石苞・司空の裴秀・驃騎将軍の王沈・安平献王の司馬孚・太保の何曾・司空の賈充・太尉の陳騫・中書監の荀勗・平南将軍の羊コ・斉王の司馬攸の十二人である。この中の宗室である安平献王孚と斉王攸は別として、残りの十人の関係であるが、泰始八年(二七二)以前に在っては特に顕著な対立関係は窺えない。

 彼等は共に朝廷の機密に参与し、互いに武帝の腹心として信任を得、荀勗は羊コに譲り、羊コは裴秀・賈充に譲ると言う状況で、泰始七年(二七一)には、尚書令として官界の人事権を握り武帝の寵を得ていた賈充に対し、剛直守正を以て任ずる侍中の任トと中書令のユ純らが、賈充を都督秦涼二州諸軍事として外任に出鎮させ、その権力を弱めんとする事件が発生するが、これに対して羊コは密かに武帝に上言し、賈充を内官に止めるべく出鎮の中止を請願している。所が、この様な佐命の功臣たる一種の運命共同体的関係も、泰始八年(二七二)を境として崩れ出して行く。
 先ず十人の中で泰始二年に王沈が、次いで泰始七年に裴秀が、泰始八年には石苞が、泰始十年に鄭沖・荀が各々死去すると、朝廷内の輿論は賈充を中心とした人々に因って唱導されるようになる。佐命の功臣が次々と消えて行く中で賈充の擅権をより促したのが裴秀の死であった。何となれば、魏朝末に晋王の位に就いた司馬昭は、最初己の後継を長子司馬炎ではなく炎の弟である司馬攸にと考えていた。それを極諫して司馬昭に翻意させ、遂に司馬炎に大統を嗣がしめたのが裴秀・何曾・賈充の三人である。武帝にとってはこの三人こそが今の己をあらしめた人々であり、最も信任した重臣でもあった。この中でも特に裴秀は、朝儀の創制や刑政の広陳に尽力して当世の名公と称された人物で、死後上聞された彼の遺言は征呉の早期実施を請願するものであった。この裴秀の死去が泰始七年三月のことであり、それから僅か四ケ月後の七月に任ト・ユ純らに因る賈充追い出し計画が実行されている。
 賈充の党人として権力を振るった荀勗・馮タンらは、世の非難を浴びながらも賈充の娘(後の賈皇后)を太子(後の恵帝)の妃となすことに因って賈充の出鎮を阻止すると、宴席での賈充とユ純との口論を口実にしてユ純を免官に追い込み、外任に在って中朝の権貴に附結しなかった羊コは、逆に荀勗・馮タンらから恨まれると言う状況が出現する。咸寧二年(二七六)、位を征南大将軍に進めて開府した羊コは、征呉を上言して武帝もそれを嘉納するが、結局賈充らを中心とした朝議の反対を受け実行するには至らなかった。賈充らの反対意見は「秦涼地方に胡族の辺憂が有り征呉の時に非ず」と言うもので、羊コは「呉が平定されれば胡は自ら定まる、故に今こそ速やかに征呉の大功を立つべし」と言い、一見呉が先か胡が先かの時局論争の如く見受けられるが、咸寧四年(二七八)羊コ死去後の涼州辺憂問題では、賈充は「兵を出すは重事、虜は憂うるに足らず」と言い、羊コに反対した時に比べて正反対の結論を出していれば、まさに羊コに対する反対の為の反対であったことが分かる。
 賈充一派に唱導される朝議に在って、度支尚書の杜預と中書令の張華だけが羊コの征呉策に同意して密かに武帝と謀議し、一方羊コは益州刺史王濬に蜀で征呉の準備をさせるが、咸寧四年十一月、病を得た羊コは征呉の策を張華に伝え、その早期実施を武帝に面陳し、更に杜預を鎮南大将軍都督荊州諸軍事として己の後任に推挙して死去する。次いで咸寧五年(二七九)に益州刺史王濬が征呉を上疏し、王濬の参軍何攀は蜀より入洛して征呉を請い、杜預も上表して請願に努めるが、賈充ら朝議の賛同が得られぬため武帝は征呉の許可を与えなかった。杜預は一ケ月後再び上表するが、たまたま張華と棊を囲んでいた武帝は、張華の「陛下は聖明神武、朝野は清晏、国富み兵強く、号令一の如し。呉主は荒淫驕虐、賢明を誅殺す。当に今之を討つべし、労せずして定む可し」との一言に因り、遂に征呉の断を下した。しかし、事ここに至っても賈充・荀勗・馮タンらは征呉の中止を要請するが、武帝は逆に賈充を使持節・假黄鉞・大都督つまり征呉の総指揮官に任命し、固辞する賈充に対して「君行かざれば、吾便ち自ら出でん」との強意を以て臨み、遂に征呉が敢行された。
 太康元年正月、西晋軍は約二十万余の大軍を以て東西から呉に攻め下った。西晋軍の配置と進軍先は、鎮東大将軍・都督徐州諸軍事の琅邪王司馬ユウは下ヒからト中へ、安東将軍・都督揚州諸軍事の王渾及び揚州刺史の周浚は寿春から江西へ、豫州刺史の王戎は安成から武昌へ、平南将軍の胡奮は江夏から夏口へ、鎮南大将軍・都督荊州諸軍事の杜預は襄陽から江陵へ、そして平東将軍・假節・都督益梁二州諸軍事の王濬は成都から水軍を率いて揚子江を下り、大都督たる賈充は騎兵二千・歩兵一万の中軍を率いて襄陽に鎮すると言う具合である。
 詔を奉じた王濬は、巴東監軍・廣武将軍の唐彬らを率いて蜀から一気に東下し、呉軍を撃破して建平に至った。初め王濬は、建平に至ると杜預の節度を受け、秣陵に至ると王渾の節度を受ける事になっていたが、杜預が「戦いには時の勢いが有る。もし王濬が呉軍に勝って建平に至らば我が節度を受ける必要は無い」と勝手を許したため、王濬は喜び勇躍して一気に秣陵まで進軍した。一方やむをえず大都督諸軍節度として襄陽に鎮した賈充は、王濬らの活躍を横目に見ながらも、征呉の即時中止と張華の断罪を上表し、中書監の荀勗も賈充に同調した意見を上聞する。この動きを察知した杜預は急遽反対の意見を上表して争い、朝廷を中心に賈充一派と杜預らとの間で熾烈な政治的駆け引きが行われている太康元年三月に、王濬が呉主孫晧を降して呉が平定され、ここに西晋の全国統一が完遂した。
 この征呉の成就は、一見杜預ら征呉積極派の大勝利であり、朝廷に在って反対し続けた賈充ら消極派の大敗北のように見られるが、実際の政治権力闘争の場においては、全く逆の様相を呈するのである。則ち、一応己の意と異なった結果となった賈充は罪を武帝に請うが、ただ節鉞を解かれただけで平呉の論功に預かり本職太尉に位し、荀勗は中書監・侍中を領したまま位を光禄大夫・儀同三司に進めて開府し、馮タンも御史中丞・侍中と累遷し尚書令となって官人の人事権を掌握し、共に朝権を独占して権力を振るって行く。これに対し、勝利者たるはずの杜預は出鎮先の荊州から度々洛中の貴要に賄賂を送って己が地位の確保を図り、王濬は征呉の時の節度問題で有司の弾劾を受け、ひたすら隠忍自重して身の安全を求め、張華も幽州方面の辺憂を理由に体よく持節・都督幽州諸軍事として外任に放出されている。

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   2、晉の益州経略と征呉
 晉の版図となった益州は、対征呉用後方基地として機能させられる。則ちそれは、泰始八年にブン山郡の白馬胡の辺乱を平定し、その功績に基づいて益州刺史に就任した王濬に因って具体的な益州経略が開始されるが、結果から言えば彼の行動は全て征呉へと言う方向に集約されて行く。翌泰始九年に王濬は大司農に除せられんとするが、水軍の力を以て呉を討たんと計画していた羊コは、順流の計をなすべく密かに武帝に上表して王濬を益州刺史に留め、益州を征呉の戦略基地として機能さすべく王濬に密命を与えて船舶の修造に着手させる。以後四年間は目立った動きを見せなかった王濬であるが、突然咸寧三年(二七七)に彼の益州経略を最も象徴する事件が発生する。それが陳瑞教団に対する弾圧事件である。

 陳瑞教団とは、後漢末張魯の五斗米教の流れを汲む一派で、しかもこの教団は「積みて歳月有り」と言う如く、可なり以前から存在し僅か千人前後で細々と営まれていたものである。所が突然咸寧三年正月に至って「不孝」の名目に因り王濬の誅滅を受けるのである。確かに巫俗に因る淫祀の公的活動は魏朝時代より禁止され、晋初にも禁令が発っせられてはいるが、陳瑞教団の行動が取り立てて「淫祀」と言う程のものでもなければ、その教義も特別「不孝」と言うものではない。更に王濬自身が厳格な礼教主義者でもなかったことは、「王濬は若い頃名教を修めなかったので、郷里の称する所とはならなかった」と伝える如きである。とすればこの事件は、尚更唐突であり極めて恣意的に断行されたことになるが、それは同年中に引き続き採った王濬の一連の行動が、端的に示唆している。
 この陳瑞誅滅事件以後、王濬は蜀土の山川に散在する神祠を廃壊焼除すると言う暴挙を施行するが、それは「神祠に松柏を植えるのは非礼である」との理由に因る。古来時節が変わっても枯れない常緑性を善しとして、墓陵や神祠に松柏を植える風習は多々有るが、逆にそれが「非礼」つまり礼教違反であるとする事例は見当たらない。則ち「非礼」とは単なるこじつけに過ぎず、王濬にとっての本当の狙いが神祠に植えてある松柏に在ったことは、神祠焼除後すぐさまそこの松柏を伐採して船舶を修造していれば明白であろう。次いで彼は、個々人にとっては一種の聖地に該当する蜀人の墳墓に植えてある松柏の四割強を買い上げると言う、強引なまでの木材収奪策を施行するのである。
 則ち、泰始八年以後の王濬に因る益州経略は、征呉の準備のための後方基地として機能させる点に在り、それは船舶修造つまり木材の自由な収奪であり、最終的には個人の墓陵からの木材収奪へと連なって行くのである。とすれば、陳瑞事件は墓陵の松柏収奪の為の布石であり、同時に益州における王濬の絶対的支配権提示のスケープゴートであったことになる。このことは、当時の西晋中央の動きと併せて見てみると、尚更明白になって来る。先ず泰始九年(二七三)に羊コの船舶修造の密命を受けて益州刺史に王濬が留任し、咸寧二年(二七六)に羊コが開府して征呉の早期実施を武帝に上疏する。次いで咸寧三年(二七七)正月王濬が「不孝」を理由に陳瑞集団を誅滅、同年二月「非礼」を以て神祠を焼除しその松柏で船舶修造、同年三月武帝より船舶修造の詔が下され、同年三月以後墓陵の松柏を買い上げ、咸寧四年(二七八)益州別駕従事の何攀・参軍李毅を上洛させて征呉を要請、咸寧五年(二七九)杜預が再度の征呉要請を上表、同年冬王濬が假節・都督益梁二州諸軍事を拝し、太康元年(二八〇)正月征呉の大命下る、と言う流れが浮かび上がって来るのである。
 この王濬の強引なまでの益州経略に対し、蜀郡の名族何攀をはじめとして多くの土着人士が積極的に参画している。彼等は、西晋政権の地方的代弁者である刺史王濬の施策を支持する事で、晋朝政権に恭順の意を示し、更に王濬の伝で中央政界に参画しようと考えた節が有る。それは王濬晩年の行為として「彼が召辟するのは多く蜀人であったが、それは故舊を忘れない態度であった」と伝える一事が良く示している。しかし残念ながら、王濬自身が征呉問題に関わる政治的権力闘争の場での敗者であった為、必ずしも蜀人が意図した展開とはならなかったのである。

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   3、呉の終焉
 西晋が成立した泰始元年(二六五)は呉の甘露元年、つまり呉帝四代目にして最後の皇帝である孫皓が、その位に就いて二年後のことである。西晋に仕えた陳壽に因って著された『三国志』である以上、蜀・呉の部分に関しては多分に誇張を含んではいるであろうが、この廃太子和の子である孫皓こそ、才識明断にして好学の誉れ高きを以て二十三歳で推戴されたにも拘らず、即位するや否やその前評判を一変させた三国史上名高い暴君で、呉はまさに内部崩壊の坂道を加速度的に転げ落ちようとしていた時である。

 孫皓の暴虐放蕩たる様は、酒色に溺れて禁忌を犯すこと多く、図讖を信じて突然の北伐計画とその中止、理由無き遷都の試み、無謀な宮殿造営、強引な義兵の設定と宮女の挑発等々、その奇行・蛮行は枚挙に暇が無く、推戴に功績の有った丞相の濮陽興・左将軍の張布でさえ、讒言で即位後間もなく誅殺されている。孫皓に近侍してその寵愛を盾に権力を振るったのが、小役人上がりである殿中列将の何定や馬飼い上がりである司直中郎将の張俶らであり、彼等は讒言と誣告を行うことに因って昇進し、孫皓はそれを信じて能臣を誅殺すると言う図式で、少府の李勗の如きは娘と何定の息子との結婚を承知しなかった為、何定の讒言に因り一族皆殺しの族滅に遭っている。しかしその何定や張俶も密告に因って誅殺されると言う具合で、まさに呉の宮廷は讒言と誅殺が繰り返される猜疑心に満ちた場で、大臣・諸将達は唯々憂懼するだけであった。
 この様な状況に在って、最後まで孫皓に諌言を呈し続けたのが丞相の陸凱である。孫皓は己の計画(北伐や遷都等)にことごとく反対して諌言を上疏する陸凱を苦々しく思い、遂に「自分は何事につけても先帝の行われた道に従っているまでで、一体何処が穏当でないと申すのか」と詰問しているが、これに対して陸凱は毅然として二十ケ所に及ぶ問題点を指摘している。これが諌言二十ケ条と呼ぶものであり、実際に上疏されたのか否かは不明あるが、その内容は、万民の苦しみも考えず輔弼の臣に諮問しないまま行った遷都が第一、直言を憚らぬ中常侍の王蕃を賢者であるにも拘らず誅殺したのが第二、小細工を弄する凡庸な万ケを宰相に任用しているのが第三、人民を愛していないのが第四、後宮に女官が多過ぎるのが第五、色香に迷い小役人と戯れているのが第六、衣食共に贅沢に過ぎるのが第七、賢者を任用しないで小役人を登用しているのが第八、宴会で美酒を過ごし臣下の失言に目くじらを立てるのが第九、宦官を重用するのが第十、宦官に女狩りをさせているのが第十一、残された家族の面倒を見ないまま強引に乳母を徴発しているのが第十二、農耕と養蚕に力をいれてないのが第十三、恣意的な登用に因り派閥を生じさせているのが第十四、戦闘以外に兵士を流用し過ぎるのが第十五、信賞必罰が正しく行われていないのが第十六、監察役人の多用に因り地方政治に混乱をもたらせているのが第十七、監察役人に因る弾劾が多過ぎるのが第十八、転出・転勤が多過ぎるのが第十九、納得出来る判決が少なく冤罪が多過ぎるのが第二十、と言うものである。裏を返せばこれらの事を孫皓が日常的に恣意的に行っていたのに他ならない。
 一方外任に在っては、名将陸抗が境界を守り何とか事無きを得ていた。呉の鳳凰元年(二七二)、西陵督として西陵城に鎮していた歩闡の西晋への寝返り事件が発生する。父の代より西陵に鎮していた歩闡は、突然孫皓から呼び出しの命をうけ、身の危険を感じた歩闡は兄の子二人を洛陽に人質として送り、西晋に降伏の意を示すと西陵城に立て籠もったのである。西晋の武帝は、この機を捕らえて車騎将軍の羊コを江陵に、巴東郡監軍の徐胤に水軍を率いて建平郡に向かわせるが、これよりも素早く対応したのが呉の鎮軍大将軍として楽郷に鎮していた陸抗である。陸抗はすぐさま西陵城を厳重な包囲下に置いて歩闡を孤立させると、諸軍を指揮して寄せ来る西晋軍を撃破させたのである。以後暫くの間は境界に在って呉の名将陸抗と西晋の名将羊コとが対峙することになる。この二人は、立場上は敵対関係に合ったが武将としては互いに尊敬し合い、酒好きの羊コに陸抗が酒を送れば、羊コも病気がちの陸抗に薬を送ると言う状況であった。
 孫呉政権の末期は、まさに内外共に呉郡の名族陸氏(陸凱・陸抗)に因って支えられていた、と言っても過言ではない。この陸凱が建衡元年(二六九)に七十二歳で死去し、次いで陸抗が鳳凰三年(二七四)に「自分の意見にご配慮賜るならば、例えこの身は死すとも臣の存在は朽ちないのです」との諌言を上疏して死去すると、西晋に在って征呉の動きが風雲急を告げるのである。西晋のみならず孫皓自身にとっても、陸抗の死は一種の重しが取れたに等しかった。生前より陸凱の諌言に不快の念を持っていた孫皓は、陸抗の死を見届けるや否や陸凱の家族を建安に強制移住させる愚挙に出、呉人の心は一気に孫氏から離れていった。以後の孫皓は享楽に走り、揚子江に浮かぶ膨大な木屑を発見した建平郡太守の吾彦が、木片を上呈して西晋軍の侵攻に警鐘をならしても、何等気にも留めないと言う有様であった。天紀四年(二八〇)、周到な準備を進めた西晋軍が東西から侵攻して来ると、抵抗らしい抵抗を示すこと無く呉軍は一気に崩壊し、同年二月、書簡を以て降伏の意を西晋軍に告げた孫皓は、亡国の礼に則り素車白馬・肉袒面縛・銜璧牽羊し、従者に棺桶を担がせて王濬の軍門に降った。

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   終わりに
 この様な中に在って、呉将として最後の一戦を試みた武将もいない訳では無く、丞相の張悌は三万の軍勢を率いて長江を渡り、乾坤一擲の戦いを西晋軍に仕掛けたが大敗し、退却を促す副将の諸葛セイに対し、「私は子供の頃あなたの家の丞相(諸葛亮)殿に大変目を掛けて頂いた。以来賢者の知遇に背くのではないかと恐れていたが、今日こそ国家に殉じて私が死ぬべき日なのです」と言い残すや、粛然と戦塵の中に消えて行ったのである。ここに孫呉政権は、孫権以来四代五十八年で滅亡した。

     平成十年七月                           於黄虎洞 

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