ショウ(言+焦) 周

〜蜀漢政権を終わらせた男〜

本ページは、新人物往来社編集部の許可を得て、『歴史読本スペシャル』46号、(平成6年4月出版)から転載するものである。


   ショウ(言+焦) 周〜蜀漢政権を終わらせた男〜
 蜀漢政権に参画した益州土着名士層の中で、最も蜀漢政権の運命を左右し、後世の人々から悪評を被る事となったのが、ショウ周である。しかしそれは、彼が政権に積極的に参画し、政権の中枢に位置して権力を握り、その運営を恣意的に自由に操ったと言う意味ではなく、政権の崩壊期に当り、独立政権として取るべき道を論議する会議に於て、「魏に降伏すべし」とする彼の意見が大勢を制し、その結果蜀漢政権が滅亡し、一方彼は「蜀土を全うした」と言う功績に因り、魏及び晋から厚遇を受けたと言う意味に於てである。

 ではそもそもショウ周とは如何なる人物であろうか。ショウ氏は『華陽國志』巻一巴志の巴西郡に「大姓侯・ショウ氏あり」と記載されているが如く、代々巴西郡西充国の大族で、ショウ周以前には後漢初期に活躍したショウ玄・瑛父子が存在し、ショウ周以後ではほぼ二百五十年後の東晋末義熈元年(四〇五)に反乱を起こして、偽蜀王の位に就いたショウ縱が存在し、共に同族ショウ氏の一員である事は明白であるが、ショウ周との直接的血脈関係を裏付ける資料は見出だせない。
 ショウ周は、後漢末の益州地方を代表する一級の大学者であると同時に、蜀学の大家でもある。蜀学と言うのは、前漢末に益州地方を占拠して後漢の光武帝と天下の覇権を争った公孫述の武将となり、公孫述の敗死に伴い自殺を遂げた楊春卿から始まる讖緯の学を指し、その内容は、天文や自然の状況から人や国家に将来起こり得る吉凶禍福や災異を占い予言するもので、楊春卿から楊統へ、楊統から楊厚へ、楊厚から任安・董扶・周舒へ、任安から杜微・杜瓊・何宗へ、杜瓊から高玩へと受け継がれていくが、ショウ周自身がこの学統に直接連なっていた訳ではない。
 ショウ周は、尚書を修め讖緯に通じ州郡の辟請にも一切応じなかったと伝える父を早くに失い、ほぼ独学で寝食も忘れて典籍を通読し、更に秦ビツを訪問して学業を受け、彼の学識は経学・天文・諸子の各分野に亘って博学多識を称されているが、彼の著した『五経然否論』や『古史考』などの著述傾向から、その本領は経学と史学に在った事が分かり、同時に、彼が師事した秦ビツが、蜀学の任安を「仁義直道でその名声は四遠にまで達している」とか「人の善は記憶しているが人の過は直ぐに忘れてしまう性格だ」とか賞賛して劉焉に推挙している点や、ショウ周自身が蜀学の杜瓊に図讖の術を問い、晩年には蜀漢政権の滅亡や己の死期を予言している点から判断して、益州地方の伝統的蜀学にも相当に造詣が深かった事が分かる。彼の性格はその素朴な風貌と同様に誠実で、突然の質問に咄嗟に答えるような雄弁の才こそなかったが、内に秘めたる見識は深く頭脳も極めて鋭敏であった。
 ショウ周は、劉焉・劉璋及び劉備の時代には就官した形跡がなく、亡父同様世事に拘らずひたすら学問の研鑽に精力を費やしていたようであるが、建興元年(二二三)に劉禪が即位して諸葛亮が益州牧を領すると、州職の一つである勧学従事に就任している。ショウ周が州職就任に当り初めて諸葛亮と面会した時、ショウ周の風体を見た諸葛亮の臣下達が笑いだし、ショウ周の退出後に笑った臣下の処罰を申し出た役人に対し、諸葛亮が「私でさえ我慢でき無かったのだから、まして臣下達はなおさらであろう」と言っていれば、まさに何ら己を飾る事のないショウ周の面目躍如たるものがある。だからと言ってショウ周は、諸葛亮の求めに応じてやむをえず儀礼的に州職に就任したと言う訳では決してなく、むしろ諸葛亮に対しては絶大な心服を寄せていたふしがある。なぜかと言えば、建興十二年(二三四)に諸葛亮が五丈原で陣没した時、劉禪は人々が諸葛亮の遺体の下に駆け付けるのを禁止する詔勅を発布するが、ショウ周は家で悲報を聞くや否やすぐさま前線に駆け付け、その後に禁止の詔勅が下されたため、彼だけが前線の遺体に対面する事が出来ている。行動に規制が加えられている官僚でありながら、悲報に接して直ちに馳せ参じた行動の中にこそ、諸葛亮に寄せていたショウ周の信頼と深い思いが滲み出ている。
 建興十三年(二三五)に大将軍の蒋エンが益州刺史を兼領すると、ショウ周は州内の学者を統括する典学従事に転任し、次いで延熈元年(二三八)に劉禪が劉エイを太子に立てると太子家令に転じるが、この頃より劉禪に遊興の行動が目立ち出し、宮中の妓女や楽員を増やしたり、頻繁に物見遊山に出かけたりするようになる。これに対してショウ周は、「漢末混乱の時に当り群雄は割拠いたしましたが、結局後漢の世祖が天下平定の大事業を為し得たのは、善を為して徳を施したからに他ならず、その結果天下の賢才達が彼の下に帰順致しました。今や我が蜀漢政権にあっては先帝の志も未だ完遂せず、逸楽に時間を浪費すべき時ではありません。楽官や後宮は先帝時代のままにして、子孫の規範となるべく何卒質素倹約に努力されますように」と上疏して諫言に努めている。その後ショウ周は位を中散大夫に進め、延熈十六年(二五三)以後衛将軍の姜維がしばしば出兵をするようになると、尚書令の陳祇と北伐の利害を論議し、「今蜀漢政権が置かれている現状を考えるに、北伐を挙行して民衆を疲弊させるべきではなく、民心を養って内政の安定と充実を計る事こそ肝要であり、急務である」とする『仇国論』なる文章を著すが、劉禪に対する諫言にしろ陳祇に対する意見書にしろ、それが蜀漢政権の国策を直接左右するような事はなかった。
 ショウ周は、官僚として九卿に次ぐ光禄大夫にまで昇進するが、実際の政務に携わる事はなく、彼の持っている学識と徳行とに因って礼遇されはするももの、何か大問題が発生した時に意見が諮問されるに過ぎず、まさに実務からは敬して遠ざけられて行き、景耀元年 (二五八)に宦官の黄皓が専権を振い出すと、彼の名誉職的な立場は一層顕著になって来る。景耀五年(二六二)に宮中の大樹が理由もなくひとりでに折れると言う事件が発生する。この事件に何か感じる事のあったショウ周は、無言でただ柱に「衆(曹)にして大(魏)なれば、期して会す。具(備)して授(禪)くれば、若何ぞ復せん」と書き付けたが、これは蜀漢政権の滅亡を予言したものであった。
 景耀六年(二六三)冬、魏の大将軍ケ艾の侵攻をうけた蜀漢政権では、この国難に当り如何に対応すべきか朝議が開かれ、「魏に対して徹底抗戦すべきだ」とか「呉の孫氏に身を寄せるべきだ」とか「一時的に南方に亡命政権を作るべきだ」とか議論が百出して意見の一致を見なかったが、ショウ周の「古より以来、他国に寄りて天子と為る者無し」との降伏論が大勢を決し、劉禪は魏に降伏して蜀漢政権は二代四十三年で滅亡した。今まで国政に反映される事のなかった?周の意見が、政権の存続を左右するぎりぎりの最後に至って受け入れられ、まさにショウ周の一言に因って政権に幕が引かれたのである。ショウ周の「他国に寄りて天子と為る者無し」との一言は、荊州人士に因って主導され天下統一を目指す流寓政権として成立したはずの蜀漢政権が、諸葛亮死後徐々に土着化の様相を示しだしてきた事に対する、益州人士ショウ周の痛烈な批判が含まれていたように感じられる。
 蜀漢政権滅亡後ショウ周は、蜀土を保全した功績に因り己の意思とは反対に甚だ礼遇され、魏より陽城亭侯に封じられ、晋朝が成立すると騎都尉を拝し、泰始六年(二七〇)に七十一歳で病死している。彼の死を悼んだ晋の武帝は哀悼の詔書を下し、更に朝服一式と銭五十万を下賜している。死去する一年前、別れの挨拶に立ち寄った門弟陳寿に対し、彼は自ら己の死期を予言したと言う。政治的活動に見るべき物の少ないショウ周ではあるが、学者としては門弟に文立・陳寿・李密・羅憲・杜軫らを擁し、後漢末から晋初かけて益州地方を代表する儒宗であった。

     平成六年一月                             於黄虎洞

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