晋代巴蜀地方に於ける諸變亂の性格について

本ページは、大東文化大學『中國學論集』第四号、(昭和57年3月出版)からの転載である。


     初めに
   
1、陳瑞之變
   
2、范賁之亂
   
3、李弘之亂
   
   終わりに

 

   初めに
 後漢末期漢中の地に於いて、張氏に因る五斗米教の出現以来、この信仰がその後六朝時代を通して、老荘思想或いは神仙思想と共に天下に流布した事(注1)は明白であり、更に五斗米道亦は天師道の教主に率いられた民衆反乱が各地に発生した事も、史書がそれらの経緯を伝えてはいるが、当時の五斗米道(天師道)が、張氏の五斗米道とは内容・教義等に於いて質的変化を示していた事も事実である。黄巾の乱を起こした太平道教団が徹底的な誅滅を受けて、その教団的組織を壊滅させたのに対し、同じ道教系統の教団組織である乍ら魏政権下の庇護(注2)に因り、内実を変質させつつも生き続けて来たのが五斗米教であった。この二者の間の差異は、厳密に言えば種々の要素が指摘出来様が(本拙稿では、この問題を直接の対象とはしない)、大局的立場より言えば、各教団の発生時期に原因が有ったと言えよう。
 太平道教団がポスト漢を狙う後漢末群雄割拠時代に発生した事が、この教団にとっては不幸であり、逆に三国鼎立と言う時期に於いて宗教政権として成立したのが五斗米教団であった。地理的に漢中と言う魏・蜀両政権の勢力が拮抗した地点に位置した事が、結果的に曹操の庇護下に於いて、独立教団としての立場を放棄しつつ、五斗米教自体としての存続を図ったのである。宮川氏は、張魯のこの行為に対し、政権に隷属する貴族宗教として道教の再発足を計った事を意味するとし、更に六朝時代の道教(五斗米道の流れ)は、政治史の裏面に暗躍する傾向を持つ(注3)と指摘されているが、元来既成権力に対抗して、独自の教権を持つ宗教政権として成立した五斗米教団が、理由の如何に拘わらず魏政権下の庇護を得た事自体が、政治的な妥協に他ならず、教団自体が体質的に極めて政治性を持っていた事を意味すると同時に、六朝時代に於ける傾向は、後漢末教団成立時に於いて、既に内蔵されていたとも言える。
 故に晋代に至ると、五斗米道は琅邪の王氏(注4)の如き名家名族の信奉者を排出する一方で、民間信仰と結合して孫恩・盧循の乱の如き民衆反乱も起こしているが、何れにせよそこには政治的要素が看取される。この傾向は道教的雰囲気の強い(注5)巴蜀地方に於いても決して例外ではなく、特に変乱発生時に於ける益州刺史との拘わりに於いて、政治的傾向が見い出され、中には刺史の恣意的目的に因って弾圧されたが如き感を与えるものさえ有る。故に、本拙稿では、各変乱と地方行政官との拘わりを通して、各々変乱が如何なる性格或いは政治的要素を持っていたのかを考察してみたい。但し、当時の変乱に関しては、明確且つ具体的資料が殆ど残存していない爲に、益州刺史の列伝や関係者の伝等の関連資料を中心とした傍証に因って、論を進めたいと思う。


(1)この問題は、陳寅恪氏の「天師道與地域之關係」(『陳寅恪先生全集』上冊)に詳論が有る。
(2)『三國志』卷八張魯伝に、「太祖逆拝魯鎮南将軍、待以客礼、封ロウ(門+良)中侯、邑万戸。封魯五子及閻  甫等皆為列侯。為子彭祖取魯女。魯薨、諡之曰原侯」と言えば、単に礼遇したのみならず、姻戚関係をも結   んだ事になり、曹操が五斗米道に可成りの理解を持っていた事が推測される。
(3)宮川尚志著「三張の道教とその系統」(『六朝史研究・宗教篇』)を参照。
(4)『晋書』卷八十王羲之伝に、「王氏世事張氏五斗米道」と言い、同獻之伝にも、「獻之遇疾、家人爲上章、道  家法応首過、問其何得失」と記している。他にも名族の信奉者としては、陳郡の謝氏・呉興の沈氏等が存在す  る。
(5)拙稿「後漢末・晋初に於ける地方学者の動向〜巴蜀地方に於けるショウ(言+焦)周グループを中心として  〜」(『土浦短期大学紀要』第九輯)を参照。

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   1、陳瑞之變
 陳瑞の変とは、武帝の咸寧三年(277)に、ケン爲の民陳瑞が率いる五斗米教団が、益州刺史王濬に因って誅滅された事件を指すが、この事件に関しては、『晋書』卷三武帝紀の咸寧3年及びその前後の条にも、直接的討伐者の伝である同書卷四十二王濬伝にすらも、何ら記載が残されてはいない。この事件の概略を伝えるのは、僅かに『華陽国志』の一書に過ぎず、それを見ても陳瑞の教団が晋朝の既成権力を拒否したとか、反益州刺史王濬的行動則ち誅伐の対象と為り得るが如き行為は存在せず、亦た当時五斗米教自体が晋朝に因って禁止された様な事例
(注1)も見当たらない(既述の如く、五斗米教は魏政権の庇護下に在り、その魏政権を受け継いだのが晋朝政権であり、亦た朝廷内に於いて権力を持つ名士・名族の多数が信奉者であった事等を考え合わせれば、具体的な反政府・反権力的行動を示さぬ限りは、誅伐の対象とは為り得ぬはずである)。にも拘わらず陳瑞教団は、益州刺史王濬の手で壊滅させられている。当時の王濬の位置した立場及びその前後の彼の行動を見た時、この誅伐行為自体が、極めて王濬自信の政治的立場と恣意的要素とに因って行われた政治的弾圧行為であった、と思われる点が看取される。筆者が「某某の乱」と言う通例的表現を用いず、敢て「某某の変」とした理由も、この点に存在する。
 この教団が何時頃から組織化されたのか明白ではないが、教主の陳瑞等が誅されたのが咸寧3年(277)であるから、張魯が魏に降った建安20年(215)からほぼ六十年後の事件である。張魯の五斗米教が魏の庇護下に在ったとは言っても、それは教団の上層部を形成していた人々達であり、下部教徒は、土着の在地に於いて布教を続けていたと思われるので、恐らく陳瑞はその流れを汲む者であろう。彼は、道治を設置し、祭酒を信徒の師と為し、信者の入道に当たっては酒一斗・魚一匹を納入さしめ、他神を奉ぜず鮮潔を貴び、死喪産乳の者は百日を過ぎざれば道治に行く事が出来ず、父母妻子の喪にも入弔させなかった。後には生活が奢靡になり、朱衣・素帯・朱サク(巾+責)・進賢冠を作り、自ら天師と称して衆徒が千百を数えるに至り、信徒中には、同郡人で巴郡太守唐定の如き現職官吏をも含んでいた(注2)と言う。張魯が受道者に五斗米を提供させたり、信徒の責任者を祭酒と名付けて義舎を設置させた(注3)行為等と比較すれば、陳瑞の教団が五斗米教の一派であった事は明白である。
 この教団が、益州刺史の誅伐を被る程の対象であったのか否かであるが、結果は『華陽国志』卷八大同志に、

 誅瑞及祭酒袁旌等、焚其伝舎。益州民有奉瑞道者、見官二千石長吏巴郡太守ケン爲唐定 等、皆免官或除名。

と記している。しかしこの教団は、何ら反益州刺史的行動を示している訳ではなく、僅かにこの教団に対する意識として、「以鬼道惑民」と言う意識は有るものの、これは張魯の五斗米教に対して与えられた「以鬼道教民」と同内容の表現で、重要且つ決定的な意味は持ち得ない。では誅伐の理由は何か、『華陽国志』卷八大同志には、

 濬聞、以爲不孝。

と記す。則ち、陳瑞の教道には儒教的孝道に反する行為が有る(恐らく「父母妻子之喪、不得る撫殯入弔」と言う一事を指すのであろう)と王濬が判断したが故に、誅伐を加えたと言うのである。さすれば王濬自信の生き方或いは倫理観に於いては、「不孝」なる行為は、許す可からざる更には誅伐を加えらる可き行為として認識されていた事になり、陳瑞の教道が、王濬の儒教的孝道観に抵触するものを含んでいたが故に、誅伐の対象と為り得たと言う事になる。
 だが王濬の生き方及びこの事件の前後に於ける彼の行動を見れば、この理由が単なる表面的なものにしか過ぎず、実は当時の晋朝政権の政策を実行しようとした王濬の政治的意図が看取されるのであり、この誅伐行為自体が、王濬の政治的或いは恣意的判断に依拠して強行された事件であった事が分かる。王濬が決して儒教的孝道観を墨守するが如き人物ではなかった事は、『晋書』卷四十二王濬伝に、

 濬博渉墳典、美姿貌、不修名行、不爲郷曲所称。

と記せば、明白であり、彼の栄達は徐バク(東晋末の儒学者徐バクとは別人)の女と結婚した時点より始まる。河東従事に過ぎなかった彼が、結婚を機として巴郡太守・広漢太守と累遷し、益州刺史皇甫晏が張弘に殺害される事件が発生するに当たり、代わって益州刺史を拜し、更に張弘誅滅の功に因り右衛大将軍・大司農に拜除(注4)されている。
 彼の晋朝政権内に於ける立場を更に決定的なものにしたのが、羊コ(示+古)の知遇であった。羊コは漢代の名士蔡ヨウの外孫で景獻皇后の弟に当たり、武帝の信任厚き人物(注5)である。当時武帝の討呉方針に対して朝議は二分しており、賈充・荀勗等の反対派に対し、推進派の人々が張華・杜預・羊コ等であり、この討呉策遂行の為に羊コに重用されたのが王濬である。『晋書』卷四十二王濬伝に、

 車騎将軍羊コ雅知濬有奇略、乃密表留濬、於是重益州刺史。武帝謀伐呉、詔濬修艦。

と記し、同書卷三十四羊コ伝にも、

 咸寧初、コ以伐呉必藉上流之流、・・・(中略)・・・会益州刺史王濬徴爲大司農。コ知其可任、因表留濬監益州諸軍事、加龍驤将軍、密令修舟シュウ、爲順流之計。

と言う。羊コが王濬に船艦修造の密命を下したのは、彼が征南大将軍に除せられた時の事で、『晋書』卷三武帝紀に因れば、咸寧二年冬十月の条に、

 平南将軍羊コ爲征南大将軍。

と有り、王濬が武帝の詔勅を賜った時期に就いては、『華陽国志』卷八大同志の咸寧三年三月の条に、

 被詔罷屯田兵、大作舟船爲伐呉。

と記す。以上の諸伝を勘案すれば、先ず咸寧二年十月に羊コよりの密命が下って修造に着手し、同三年春に陳瑞の教団を誅滅、同年三月に武帝より正式に詔勅が下ると言う順序になり、この間僅か六ヶ月に過ぎない。晋朝の運命を決するが如き国策遂行中に、しかもその重要任務を担当した王濬が、単に「不孝」と判断して誅伐を加えるだけの必然性が、陳瑞教団の那辺に存在したのか、と言う疑問が発生する。『華陽国志』卷八大同志には、陳瑞誅伐事件の直ぐ後に続けて次の如き事件を載せている。

 蜀中山川神祠皆種松柏、濬以爲非礼、皆廃壊焼く除、取其松柏爲舟船。

この事件も、陳瑞の件に於ける「濬以爲不孝」と同様に、「濬以爲非礼」と言う王濬個人の判断に起因する行為である。その結果、巨大艦船修造用木材の調達を、王濬は巴蜀人士の個人的墓陵にまで拡大し、その木くずが江を被って流れた(注6)と言う。
 以上、陳瑞事件の前後及び王濬の位置した状況等を見た結果、陳瑞教団誅伐事件の持つ性格が、極めて政治性に富んでいた事が推測される。則ち、この事件は、王濬が討呉計画の舟船修造担当責任者であったと言う一事に全てが帰着する。討呉用舟船修造の命を受けた王濬にとって、羊コ又は武帝の意に適う(この事は必然的に自己の栄達をも約束する)可く努力する為には、巴蜀地方に於ける益州刺史としての完全なる支配権の確立を必要とし、それに対して抵触しそうな存在或いは将来抵触する可能性を持つ存在等は、完全に排除しておく必要が有り、更に舟船修造用の松柏を祠社及に墓陵からも調達すると言う行為を、巴蜀人士の抵抗無く実施する為には、「濬以爲非礼」なる理由だけで可能とするプロローグが必要であったと言う点から考えて、陳瑞の教団がその対象となったと推定する事は、十分に妥当性を有するものと思う。故に、陳瑞教団が具体的反晋行為を示したと否とに拘わらず(実際は何も示してはいないが)、単に「濬以爲不孝」だけで、誅伐行為実施の理由には十分為り得たのである。則ち、陳瑞の変は、王濬の政治的判断に因って起こされた、一種の弾圧事件であったと言う事が出来よう。


(1)この点に於いて注意を要するのは、巫俗に因る淫祀の公的活動が、既に魏朝時代より禁止されていた事で  あり、『三國志』卷二文帝紀の黄初五年十二月の条には、宮中に於ける淫祀盛行に対し、「自今、其敢設非祀  之祭、巫祝之言、皆以執左道論」なる詔が発せられており、『晋書』卷十九礼志上にも同様の詔が泰始元年十  二月の条に存在し、更に同書卷一百二十李特載記に、「漢末張魯居漢中、以鬼道教百姓、ソウ(宗+貝)人   敬信、巫覡多往奉之」と記すが如く、五斗米教成立時に於いて既に巫俗の混入が見られる事である。そして、五 斗米教と巫俗的淫祀とを弁別する具体的判断基準が何であるかに就いては、魏朝も晋朝に於いても明確には  理解せれていなかったと思われる。とすればこの判定は、一にこれ等の集団と対応した地方行政官の判断如何 に係っていたと言えるのであり、この点にこそ、誅伐側の感情的乃至は政治的判断が、多分に加わる危険性が 有ったと言えるのである。
(2)『華陽国志』卷八大同志に、「其道始用酒一ト(豆+斗)魚一頭、不奉他神、貴鮮潔、其死喪産乳者、不百日  不得至道治。其爲師者曰祭酒、父母妻子之喪、不得撫殯入弔。転奢靡、作朱衣素帯朱サク進賢冠。瑞自称   天師、徒衆以千百数」と記す。
(3)『三國志』卷八張魯伝に、「自号師君、其来学道者、初皆名鬼卒、受本道已信、号祭酒、各領部衆」と言う。
(4)『晋書』卷四十二王濬伝。
(5)『晋書』卷三十四羊コ伝に、羊コの死に当たって示した武帝の態度を、「帝素服哭之、甚哀。是日大寒、帝涕  涙霑鬚鬢、皆爲冰焉」と伝えている。
(6)『晋書』卷四十二王濬伝に、「濬乃作大船連舫、方百二十歩、受二千餘人。以木爲城、起楼櫓、開四出門、  其上皆得馳馬来往」と言う。

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   2、范賁之亂
 范賁の乱とは、成漢の李勢が桓温に降った穆帝の永和三年(347)の一ヶ月後、則ち、同年四月に李勢の属将であったケ定・隗文等が反し、三ヶ月後の七月に范賁を擁した本格的反乱であるが、二年後の四月に益州刺史周撫等に因って平定された事件である。『晋書』卷八穆帝紀に因れば、永和三年三月の条に、

 桓温攻成都克之、李勢降、益州平。

と有り、同年四月の条に、

 蜀人ケ定・隗文挙兵反、桓温又撃破之、使益州刺史周撫鎮彭模。

と言い、同じく秋七月の条に、

 隗文立范賁爲帝。

と述べ、永和五年四月の条に、

 益州刺史周撫・龍驤将軍朱壽撃范賁獲之、益州平。

と記す。一見李勢の残党(周撫伝には、「餘寇」と称す)に因る抵抗反乱の様にも見受けられるが、彼等が范賁を擁立した事から言えば、五斗米教団に因る反乱であり、教徒である隗文等が偶々李勢の属将であったと言うのに過ぎないのである。
 成漢は西晋末から東晋にかけて、略陽より流入した李氏に因って樹立された地方政権(注1)であるが、李勢に対して東晋軍への降伏を勧めたのは常キョ・王カ等を中心とした人々(注2)であり、『晋書』卷九十八桓温伝に、

 温停蜀三旬、挙賢旌善、偽尚書僕射王誓・中書監王輸(『華陽国志』及び李勢載記には「カ」に作る)・鎮東将軍ケ定・散騎常侍常キョ等、皆蜀之良也。並以爲参軍、百姓咸悦。

 と言えば、彼等は共に巴蜀地方の土着人士であった事が分かる。一旦降伏して桓温の参軍となった彼等の中で、ケ定や王誓等が反して范賁を擁立するのであるが、范賁に関しては、殆ど資料が存在しない。但し彼は范賢の子供で、左道を教えて百姓を惑わし、従衆一万人を有した(注3)と伝えている。更に『華陽国志』卷三蜀志に、

 好鬼妖大姓呉・隗。

と言えば、隗文が五斗米教の信奉者であった事は想像に難くなく、当時五斗米教が多数の土着名士や名族の信奉者を有していた事や、范賢が成漢成立時に於いて、絶大なる李雄の尊奉を受けて(注4)おり、更に范賢の死去に当たり子の范賁が父の地位を継いでいる事等から考えれば、成漢の属将であった土着人士が范氏の教道を信奉していた、或いは教徒であったろう事は容易に推察される。とすれば、范賁の乱は、五斗米教徒が教主を擁立して起こした宗教的反乱であった、と言う事になる。
 では何故に成漢滅亡後僅か一ヶ月で反乱を起こさねばならぬ必然性が那辺に在ったのか、と言う疑問が生じるが、この問題は、成漢と彼の父范賢との関係(注5)が如何なる関係であったのか、と言う問題にまで遡る。范賢は李氏の政権樹立過程に於いて、極めて重要な働きを為した人物で、自立を標榜した李氏集団が、統率者李特の死亡・仲間であったテイ(氏+一)族の離反等々の集団分解的現象を示し、更に晋軍の反攻に因る一族李流の一時的降伏、と言う李氏集団が危機的状況に陥った(注6)時、軍料を支給して援助したのが部曲千餘家を率いて青城山に自居していた范賢(注7)である。その結果、范賢は成漢成立後に丞相の地位を以て迎えられている(但し、彼が李雄の厚遇を受けた理由は、単に軍料を支給した為だけではなく、李氏は張魯の時代から五斗米教を信仰(注8)しており、更に李氏と范氏は共に巴蛮出身であると言う同族意識等々の要素が存在する)。『晋書』卷一百二十一李雄載記には、

 范長生自西山乗素輿詣成都、雄迎之於門、執版延坐、拜丞相、尊曰范賢。・・・(中略)・・・加范長生爲天地太師、封西山侯、復其部曲不豫軍征、租税一入賢家。

と記し、『華陽国志』卷九李特雄期壽勢志にも、

 賢既至、尊爲四時八節天地太師、封西山侯、復其部曲軍征不預、租税皆入賢家。

と言えば、范賢が如何優遇されたかよく分かり、李氏自身が信奉者であったが故に、范賢及びその教団は、一種独立した勢力と特権を保持しつつ、成漢政権の絶対的保護下に入ると同時に、超政権的な立場をも確保しているのである。この事は程度や現象(降伏か支援か)の差こそあれ、張魯教団が魏・蜀対立状況下に於いて、降伏して魏政権の庇護を受けたのと同様に、范賢教団も晋朝・成漢の間に於いて、何れの勢力に与した方が有利であるか、つまり自己教団の権益を保持発展させるための政治的妥協(注9)に他ならない。元帝の大興元年(318)に、范賢の死去に伴い丞相の位を継いだのが范賁である。だが、成漢の政権運営状況を見た時、丞相の関与した事例は一つも存在しない。、恐らく范氏が就いた丞相の位は一種の名誉職で、実際の政権運営には参加せず、政権とは分離した形態で独自の教団運営権を保持していたと考えられる。
 以上、范氏と成漢との関係を見た結果、何故に范賁の乱が成漢滅亡後僅か一ヶ月で発生したか、自ずから明白になったと思う。范氏の教団にとっては、成漢つまり李氏の存在自体が、教団を保護する最大の外壁であり、成漢崩壊は取りも直さず教団のガードが極めて弱体化する事を意味する。更に教団の有力信徒であったと思われる成漢の王誓・ケ定等が、桓温の参軍に編成された事は、組織の上部構成者の離脱、則ち教団自体の弱体化をも意味する。亦た『晋書』卷九十八桓温伝に、

 温志在立勲於蜀。

と記すが如き意識を持った人物が、成漢誅滅の最高責任者であれば、教団が成漢時代に保持した特権(部曲・租税の自己所有等々)を座視黙認する事は考えられず、具体的な事例の存在こそ見出せないものの、そこには当然教団所有の人的・経済的勢力を減少させるが如き、何らかの行為が施されたものと推測される。とすれば、成漢滅亡後に晋朝が、その庇護下に在った范氏教団に対し、直接的弾圧行為を加えなくても、成漢の滅亡自体が、教団の壊滅を促す最大の危機的要素を含んでいた事になる。故に、ケ定・隗文等が僅か一ヶ月で反した時、成漢樹立者である李氏関係者ではなく、范賁を擁立した最大の理由は、この点にこそ存在するのであり、逆に范賁が彼等」の推戴を受け入れた理由も、ここに在るのである。則ち、范賁の乱は、単に成漢残党の起こした反乱として認識すべき性格のものではなく、五斗米教徒が自己の教団に対する崩壊的危機感に因り、教主を擁して起こした宗教反乱であり、敢て言えば、成漢滅亡に基づく教団の自衛的反乱であったと言う事も出来る。そして、この危機感を一層増大させたのが、巴蜀地方に侵攻駐屯していた桓温の存在であったろうと推測される。


(1)拙稿「李氏集団の展開とその性格〜西晋末益州の状況を繞って〜」(『中嶋敏先生古希記念東洋史論集』   上)を参照。
(2)『晋書』卷一百二十一李勢載記に、「勢衆惶懼、無復固志、其中書監王カ・散騎常侍常キョ等、勧勢降」と有  り、『華陽国志』卷九李特雄期壽勢志にも、同様の文を載せている。
(3)『晋書』卷五十八周撫伝に、「隗文・ケ定等復反、立范賢子賁爲帝。初賢爲李雄国師、以左道惑百姓、人多  事之、賁遂有衆一万」と言う。
(4)『晋書』卷一百二十一李雄載記に、「雄以西山范長生巌居穴処求道養志、欲迎立爲君而臣之、長生固辞」と  言い、『華陽国志』卷九李特雄期壽勢志の方には、「雄遣信奉迎范賢、欲推戴之、賢不許」と記す。
(5)この問題に関しては、唐長孺氏の「范長生与巴テイ倨蜀的関係」(『魏晋南北朝史論叢』続編)に詳説されて  いる。 
(6)拙稿「李氏集団の展開とその性格〜西晋末益州の状況を繞って〜」(『中嶋敏先生古希記念東洋史論集』   上)を参照。
(7)『晋書』卷一百二十李流載記に、「フウ陵人范長生、率千餘家依青城山、(羅)尚参軍フウ陵徐挙求爲ブン山  太守、欲要結長生等、与尚掎角討流。尚不許。挙怨之、求使江西、遂降於流、説長生等使資給流軍糧、長生  従之、故流軍復振」と記す。
(8)『華陽国志』卷九李特雄期壽勢志に、「祖世本巴西宕渠ヒン民、種党勁勇、俗好鬼巫、漢末張魯居漢中、以  鬼道教百姓、ヒン人敬信」と伝えている。
(9)この二者の関係は、李氏の方の立場から言えば、信徒であるが故に尊奉したと言う単なる宗教的関係のみ  に限定されるべきものではなく、政権樹立地帯である巴蜀地方の有力人士及び土着豪族等の積極的参加を得  られなかった、と言う流寓政権的性格を持つ成漢であれば、土着人士に因って構成組織された部曲を有する一 定勢力の教団を率いる范氏を、自己の政権下に置くと言う事は、政権運営上に於いて多大のメリットを与えたと 言える。政権成立時に於いて、李氏が范賢に与えた過大とも思える種々の特権は、この意味に於いて容易に理 解出来るものであり、同時に、李氏政権の持っていた性格の一端も、これらの行為に因って或る程度類推判断  する事は、十分可能であろうと考える。

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   3、李弘之亂
 李弘の乱に関しては、その具体的内容が全く残ってはおらず、果たして一節を立ててまで論ずるだけの必然性が有るのか否か、筆者自身も疑問に感じない訳ではないが、晋代の最後に於いて巴蜀地方に発生した宗教的反乱の一種と言う意味に於いて、関係資料に因り敢て類推考察を加えてみたい。この乱は海西公の太和五年(370)、則ち、范賁の乱後二十三年目に、広漢・益州両郡を中心にして発生した反乱で、『晋書』卷八海西公紀の太和五年九月の条に、

 広漢妖賊李弘与益州妖賊李金根、聚衆反、弘自称聖王、衆万餘人、梓潼太守周コウ(九+虎)討平之。

と記すが如く、僅か一ヶ月でしかも一太守に因って平定された小規模な乱ではあるが、単なる民衆反乱ではなく、五斗米教徒に因る宗教的な反乱であろうと推測される、二つの理由が存在する。
 一つは、李弘に対して「妖賊」なる表現が為されている事で、東晋末に多発した宗教的反乱には、「妖賊」なる表現が多出し、例えば『晋書』卷九孝武帝紀の太元十四年正月の条には、

 彭城妖賊劉黎、僭称皇帝於皇丘。

と言い、同じく十八年にも、

 妖賊司馬徽、聚党於馬頭山。

と記し、晋代最大の宗教的反乱である孫恩・盧循の乱に関しても、同書卷十安帝紀の隆安三年十一月の条に、

 妖賊孫恩、陥会稽。

と記している。更に討伐者である周コウの伝を見れば、周氏は代々この地方に家し、周コウの曾祖父が范賁の乱討伐に参加した周撫であり、祖父の周楚も梁・益二州を監し、この地方の物情には極めて精通していた(注1)と言い、本紀の記載と異なり、李金根には「盗賊」と言い、李弘にのみ「妖賊」と厳密に使い分けている点からも、単なる反乱でなかった事が分かる。では「妖賊」なる表現が一体何を意味するのか、孫恩の乱に就いて宮川氏は、当時の民間信仰特に水神信仰と五斗米教とが結びついた民衆反乱であった事を、既に指摘(注2)しておられるが、巴蜀地方が中原とは異なった独自の開国伝説(注3)を持ち、水神に関する信仰も昔から存在していた(注4)等の事を考えれば、恐らく李弘の乱も民間信仰と結びついた宗教反乱であったろうと推測される。
 一つは、李弘が李勢の子と偽称した事である。『晋書』卷五十八周楚伝に因れば、

 太和中、蜀盗李金銀(一作根)・広漢妖賊李弘、並聚衆爲寇、偽称李勢子。

と言う。成漢滅亡後二十年以上を経た後に、何故李氏の末裔と偽称する必要が有ったのか、亦た流寓政権的であった李氏を称する事に因り、衆徒を万人以上も結集させる事が果たして可能であったのか、この点に就いて、筆者は次の如き想定を試みた。則ち李弘は、成漢時代の范氏の五斗米教の流れを汲む人物ではなかったのか、本来李弘は、范氏の末裔と偽称したかったが、李姓であるが故に敢て李氏の末裔と偽称した。その理由は、既述の如く李氏政権が范氏教団の最大の庇護者であると同時に、李氏自身も熱烈な有力信奉者であったと言う点である。そして李弘自身が范氏教団の系統に連なる信徒であったが故に、万餘人もの民衆を結集して乱を起こす事が可能であったと言う事である。
 幸いにしてこの想定に妥当性が有るならば、李弘の乱は、范氏教団の流れを汲む五斗米教が、巴蜀地方に於ける民間信仰と結合した形で発生した宗教的反乱であり、性格的には、その後に発生する孫恩の乱と同質性を有していた、則ち、小規模とは雖も、孫恩の乱の先駆けをなす様な反乱であった、と言う事も可能であるように思われる。


(1)『晋書』卷五十八周楚伝に、「父卒、以楚監梁益二州、仮節、襲爵建城公。世在梁益、甚通物情」と記す。
(2)宮川尚志著「孫恩・盧循の乱と当時の民間信仰」(『道教の総合的研究』)を参照。氏には他に專論として「孫  恩・盧循の乱について」(『東洋史研究』30―2・3)等々が有る。
(3)拙稿「古代巴蜀地方について〜『蜀王本紀』の世界より〜」(『土浦短期大学紀要』第七輯)を参照。
(4)楊雄の『蜀王本紀』には、「江水爲害、蜀守李冰作石犀五枚、二枚在府中、一枚在市橋下、二枚在水中、以  厭水精」なる話を伝え、『華陽国志』卷三蜀志にも、「冰発卒鑿平コン崖通正水道、或曰、冰鑿崖時水神怒、冰  乃操刀入水中与神闘」なる話が有る。

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   終わりに
 以上晋代に於ける巴蜀地方の三つの変乱を見て来たが、三変乱とも各々にその性格を異にしていた事が理解された。陳瑞の変は、益州刺史王濬の政治的意図に因って誅伐された一種の弾圧事件であり、范賁の乱は、成漢滅亡に基づく教団の危機的状況と、侵攻者桓温の教団に対する態度とに因り、組織維持の為に自衛的に起こした反乱であった事が看取された。更に李弘の乱に就いては、過去に二度の誅伐を受けた五斗米教が、当地の民間信仰と結合して起こした宗教的反乱(民間信仰との関係から言えば、一種の民衆反乱とも言えるが、指導者が五斗米教徒である以上、本質は宗教反乱と見なす可きであろう)である事が推定され、更に三変乱の共通点として、共に五斗米教の流れを汲む教団或いは教徒を主体とした、と言う事も判明した。

 巴蜀地方に於けるこれ等の変乱を敢て発生順に見れば、既成と異なる教団の発生、権力との妥協或いは結合、土着民間信仰との融合、と言う六朝期を通して魏晋以来の五斗米教が変質を遂げる過程の縮図を、これ等の諸変乱の性格中より看取する事が出来ると言えよう。本拙稿は、宗教的教団が誅伐者との拘わりに於いて、そこに如何なる性格乃至は性質が読み取れるのかを探ろうと試みた。その結果、これ等の変乱は、教団の発生時期と発生地に於ける政治的権力者との関係が、如何に重要性を持つかと言う事、それが組織化された団体であればあるほど、行政官の意識如何に因って誅伐の対象と為り得る可能性を持つと言う事、そして五斗米教が権力と妥協する性格、則ち一種の政治的柔軟性を初期から有していたが故に、時に於いてはその政治性自体が逆に誅伐或いは弾圧を誘発させる危険性を増大させる傾向に在ったと言う事である。

     昭和五十六年八月                           於黄虎洞

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