孫呉政権に於ける孫・陸抗争の真偽

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第3巻、(平成10年10月出版)から転載するものである。


     反魏か順魏か
   
1、孫・陸対立の実態
     
終わりに

   

   反魏か順魏か〜無定見の中の定見〜
 建安五年(二〇〇)、兄孫策の不慮の死を受けてその跡を継ぎ、曹操から討虜将軍・会稽太守に任じられた孫権ではあったが、当時実質的に孫氏が支配下に置いていた地域は、僅かに会稽郡・呉郡・丹陽郡・豫章郡・廬陵郡の五郡に過ぎず、しかもこの域内の人々が全て孫氏に服従していた訳ではなく、特に山岳地帯に居住する山越と呼ばれる少数部族は、孫氏の支配に強行な抵抗を示していた。
 因って孫権がすぐさま着手せねばならなかった仕事は、対外的には武将を派遣して各地で抵抗する山越部族の討伐であり、内政的には兄孫策から受け継いだ官僚以外に己自身が直接徴辟登用した孫権直属の家臣団を作り上げることであった。しかしこれらは共に孫氏の域内での問題であって、孫権が対処せねばならない最初の本格的外交や対外的戦闘が、建安十三年(二〇八)に行われた赤壁の決戦であり、周知の如く、曹操と戦うべきかはたまた降伏すべきか、論議の末魯粛や周瑜の強硬策に従った孫権は、結果として大勝利を得るのである。
 この時降伏論を主張した中心人物が北来の名士張昭である。周瑜にしろ張昭にしろ孫策より孫権の後見を依頼され各々文事と武事を統べる立場の人物であれば、彼等の意見は当然重要ではあるが、それが孫権にとってより重みを増したのは、母である呉夫人の存在である。孫堅無き後孫策・孫権の呉国経営に対し、呉夫人は軍事・行政の両面に亘って助言し被益するところが甚だ大きかったと伝えているが、呉では「母」の存在がかなり大きい。例えば、赤壁の決戦より少し前の建安七年(二〇二)に、曹操から人質を差し出すようにとの要求が孫権に伝えられ、この問題を孫権は群臣に論議させるが、張昭や秦松達は逡巡して態度を明白にせず、業を煮やした孫権は結論を出すべく、周瑜一人を引き連れて呉夫人に会いその判断を仰ごうとする。周瑜の「人質など送られる必要はありません」との意見に対し、呉夫人は「公瑾殿の申されることはもっともなことです。私は公瑾殿を我が子同様に思っていれば、お前も公瑾殿を兄上だと思ってお仕えしなさい」と孫権を諭している。
 一方張昭に関しては、後年のことであるが何かにつけて人目も憚らず諌言する張昭に対して、我慢仕切れなくなった孫権が「呉国の人々は宮中に入れば私を拝するが、一度宮中から出れば貴方を拝している。それは私が貴方を最大に礼遇しているからに他ならず、その私をやり込められるのは、国を誤るのではないのかと心配している」と怒りを露にしているが、この事は言うまでも無く、宮中と言う官僚組織のトップに立つ皇帝の君主権力が、後漢末以来の清流士大夫が一般社会において構築した名士としての社会的評価を凌駕出来なかったことへの苛立ち以外の何物でもないが、問題は張昭自身が己の言動の正当性を名士としての在り様に求めていない点である。無論張昭の言動は、儒教倫理に基づく名士的価値観に依拠した言動ではあるが、その様な己の行為の正当性については、孫権の怒りに対して張昭自身が「私がお怒りも顧みず常々諌言を致しますのは、太后様(呉夫人)がご逝去されるに当たられ、私めをわざわざ牀までお呼びになり、遺言として貴方様の後事を付託されましたからに他なりません」と述べている。則ち、張昭は己の行為の正当性は呉夫人の遺命に因って保証されていると主張しているのである。
 この呉夫人が死去したのが建安十二年(二〇七)であれば、まさに赤壁の決戦の一年前である。孫権は、呉夫人から「兄事するように」と諭された周瑜の意見に従ったのであるが、同時に孫権自身に「唯唯諾諾と曹操の言いなりにはなれない」との思いが有ったことも事実である。その理由は、反対論を述べた張昭らの意見のまさに裏返しであった。張昭らの意見は、「例え曹操が悪逆であったにしても、漢の丞相たる立場で事に臨んでいる以上、その要求を拒否することは漢朝に逆らうことに他ならず、逆賊となって後々面倒な事になる」と言うもので、名分論としては全く正論である。では曹操に帰順すれば、江東の支配者たる立場が保証されるのであろうか、恐らく答えは否であろう。何となれば、兄孫策以来自らの努力に因って江東六郡を実質的支配下に置くとは雖も、それは実力行使に伴う既得権益に過ぎず、後漢王朝から正式に認定された合法的なものではない。孫権は、名分論上漢朝の逆賊となる非正当性は分かっていても、同時に現実の場で地方政権の代表者として漢の丞相たる曹操と外交を展開するだけの正当性も持ってはいなかった。
 則ち、後漢末に在って合法的且つ自立的地方政権を開設するためには、州牧の地位が必要である。故に曹操は漢の丞相たる地位に在りながらも冀州牧を名のっているし、各地を逃げ惑っていた劉備においてすら、徐州牧陶謙の上表に因って手に入れた豫州牧の地位を後生大事にし、赤壁の決戦後は荊州牧劉表の長子劉gを荊州牧に推戴し、劉gが死去するや否や自ら荊州牧を領し、益州を平定するや否や益州牧を領しているが如きである。これに対して当時孫権が後漢王朝から認定されていた地位は、討虜将軍・会稽太守つまり一郡の長に過ぎないのである。これでは、帰順の条件を曹操と交渉しその後の安泰を保証させるだけの合法性など持ち得ず、まして戦乱時の約束事などは特別の信頼関係(張昭らは、個人的信頼関係と社会的名声とに因って在る程度その身分が保証される名士であるが、曹操にしろ孫権にしろ実力を背景とした武門の出である)でもない限り紙屑以下であることは自明の理である。
 とすれば既に建安七年において曹操からの人質要求を拒否している以上、孫権としては結果の如何に関わらず先ず一戦を交えない訳には行かないのである。だが同時に、己の政権に対する合法性も欠くべからざるものである。己の合法性を認定してくれるのは後漢王朝の承認であり、その後漢を後ろ盾とするのが曹操である以上、孫権の外交は自ずから制約を受けることになる。故に赤壁の決戦以後における孫権の魏に対する対応は、言葉上は曹操に帰順して称藩する態度を取って後漢王朝からの承認の機会を伺いつつ、同時に曹操の軍が実際に侵攻すれば軍を出して交戦し、外交上は帰順で現実面では敵対すると言う面従背腹的二面性を持つことになる。この戦略を側面から支えた戦術が蜀とのご都合主義的な提携であった。因って孫権は蜀が意図的な侵略を仕掛けない限りは、蜀とは戦端を開かないのである。
 建安二十四年(二一九)、荊州に鎮していた蜀の関羽が魏の曹仁を襄陽に包囲すると、あたかも曹操の意を受けたが如く見せかけて、関羽の背後から手薄になった公安を呂蒙らに襲わせ、荊州の南部を平定してしまう。この功績で孫権は曹操の上表に因り、驃騎将軍・仮節・荊州牧の地位を獲得する。次いで魏の黄初二年(二二一)に至り、魏の文帝(曹丕)から大将軍・使持節・督交州の官位と共に呉王に封ぜられ、呉の産物を献上して恭順の意は示すものの、人質差し出しの要求は言を左右にして拒否するのである。孫権が魏と決然と袂を分かち明白な敵対行動を取り出すのは、文帝が死去して二年後、自ら自立して帝位に就いた呉の黄龍元年(二二九)以後のことで、それが、海路より将軍の周賀と校尉の裴潜とを派遣し、魏の遼東太守である公孫淵に爵位を与えて手懐けようとして失敗した、嘉禾元年(二三二)の公孫淵事件であり、孫亮時代の建興元年(二五二)から二年にかけて強行された諸葛恪の北伐事件である。

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   1、孫・陸対立の実態
 興平元年(一九四)に袁術の手先となって江東平定に携わっていた孫策が、呉郡の名族陸康を平定するに当たりその宗族の半数以上を死なせたため、孫氏と陸氏との間に抜き差し難い亀裂が生じ、以後陸康の長子陸績が孫権時代に己の死を予感して自ら作った祭文に「有漢志士」と書いている点、及び二宮事件で陸遜が孫権から責問されて憤死している点などから、孫・陸両氏が対立を繰り返し、その結果陸遜の死が、君主権力確立を目指す孫権の江東名士層への弾圧事件であった、との見方も生じない訳ではないが、果たして実態はそうであったろうか。

 陸康平定に伴う陸氏との亀裂は疑いようも無い事実であるが、問題はそれ以後である。先ず陸績の場合に就いて見てみると、確かに「有漢志士」と書いてはいる。しかし、陸績は三十三歳で死去しており、また建安五年(二〇〇)以前に孫策に仕えて張昭・張紘・秦松らと同席する機会を得ている。陸績より数歳年上の陸遜は建安五年に孫権に初めて出仕しているが、その時の陸遜の年齢は二十一歳であれば、陸績の年齢はほぼ十八〜十九歳と言うことになる。則ち、陸績の死亡年代は建安十九年(二一四)前後であり、遅くとも建安二十年(二一五)を下ることはない。時は未だ後漢時代であり、呉王時代でもなければ呉帝時代でもなく、それどころか曹操が魏王の位に就く前ですらある。とすれば、この時期の人士が漢朝に思いを馳せるのは、特別に異とする程のことではなく、例えば、関羽が「漢寿亭侯」を名乗るのと同じであり、それ所か孫権自身が張紘を尊敬して「東部殿」と呼んでいるが、この「東部」は、張紘が曹操の上表に因り後漢王朝から与えられた「会稽郡東部都尉」と言う官職の略称である。
 とすれば、学者的生活を好んだ陸績が偏将軍・鬱林太守と言う職に不満を持っていたにしても、己の祭文に記した「有漢志士」の一事を以て、孫氏との軋轢に伴う意思表示と受けとるのには無理があろう。もし本当に孫氏に対して含む所が有るならば、孫権どころか父陸康を死に追いやった張本人である孫策に、一体どうして父の死後数年ならずして仕える必然性が有ろうか。則ち、陸績の「有漢志士」なる言葉は、後漢王朝の下に生きた人間としての思いが発露したものであり、決して孫氏に対する不臣の意思の表れではなかったと言えよう。
 では陸遜の憤死は如何であろうか。彼が関わった二宮事件とは、赤烏四年(二四一)に本来の太子である孫登が三十三歳で死去したため、次の太子に立てられた孫和と魯王孫覇との後継争いが太子派と魯王派の朋党を生み、丞相陸遜・太常顧譚・大将軍諸葛恪・大都督施績らが太子派に与みし、驃騎将軍歩隲・大司馬全j・鎮南将軍呂岱・中書令孫弘らが魯王派に就き、ほぼ十年弱の間国論を二分した大事件である。しかし、結果として大事件に発展したと雖も元来この事件の発端は、孫権の後宮内における女同士の嫉妬心から発生したものであり、基本的に後継問題は孫氏の家内のいざこざに過ぎないのであるが、孫権が呉国の皇帝であり後継が皇太子であるが故に、取り巻き連中の暗躍に因り国家的問題へと展開するのである。孫権には謝氏・徐氏・歩氏・王氏・王氏・潘氏の六人の夫人が存在するが、この中で孫権が最も寵愛を傾けたのが歩隲と同族の歩夫人である。この歩夫人との間には二人の娘が生まれ、年上を魯班と言い年下を魯育と言う。歩夫人が死去して皇后の位が追贈されると、孫権の寵愛は琅邪出身の王夫人に移り、孫登の死去に当たり太子に立てられたのが王夫人との間に生まれた孫和である。
 王夫人への寵愛のあまり孫権は孫和の弟である孫覇を魯王に取り立て、太子宮と王宮の二宮を併置させたのである。所が歩夫人の娘である魯班は平素から王夫人を憎んでおり、父である孫権に王夫人の悪口を少しづつ吹き込み、孫権が重病である時を見計らって「王夫人が病気を喜んでいる」と讒言して遂に王夫人を憂死させると、その矛先は太子の孫和へと向けられたのである。王夫人と魯班との確執が一体何に基づくものなのか不明であるが、恐らく自分の母(歩夫人)へ向けられていた孫権の寵愛が、王夫人へ移って行ったことへの不満が王夫人への憎悪として現れたものであろう。この魯班と言う女性は、最初周循に嫁ぎ後に全jに嫁いだため全公主と呼ばれているが、同族の孫峻とも度々密通を繰り返すと言うなかなか勝ち気で発展的な女である。
 魯班の讒言に因り孫和への愛情が薄れた孫権は、代わりに孫覇に目を掛けるようになる。こうなると孫覇には兄に取って代わろうとする野心が生じ、逆に孫和は身の危険を感じ出すようになる。彼等の野心と危惧は当然の如く彼等の宮廷に仕える人士の野心と危惧になって表出され、結果国論を二分する状況に至るのである。当時の人士が己の子弟達を正規の任官を受けないまま二宮に出入りさせている様子を全jから知らされた陸遜は、「朋党の害を生む恐れが有るので早急に止めさせるべきです」と全jに注意を促しているが、状況は陸遜の恐れた方向へと進んで行くのである。
 孫策の娘を娶った関係上孫氏とは縁続きとなり、同時に百官を統べる丞相と言う立場に位置した陸遜は、「皇太子殿下と魯王様との立場を明白にして差別をつけるべきです。そうしないと大統が乱れ国体が混乱致します」と再三上表して諌言するが、これが孫権の怒りを買って流罪の処置を受け、更に流罪先にまで孫権が使者を派遣して責問したため、陸遜はとうとう憤死を遂げているのである。尚、孫権の王夫人に対する過度な愛情表現の綻びから始まったこの事件は、赤烏十三年(二五〇)に孫権が、魯王孫覇には死を賜い、太子孫和は廃嫡流罪、新たに末子孫亮を太子とすると言う、喧嘩両成敗の断を下したことに因り、一応の決着を見る。
 ではこの陸遜が憤死に追いやられた二宮事件は、君主権力の確立を目指す孫権の江東名士層への弾圧事件と言えるのであろうか。確かに江東名士の代表格たる陸遜は憤死し、それに連なる顧譚・姚信らも流罪に処されているが、これらは全て魯王派の讒言に基づくものである。例えば、太子太傅の任に在った吾粲は、孫覇や魯王派の楊竺の讒言・中傷に因り獄死しており、朱拠も魯王派である孫弘の讒言に因り自殺させられている。一方魯王に与した人士も、全jの次男である全寄は自殺を命じられ、楊竺は斬首の刑を受け、諸葛恪の長男諸葛綽も魯王と関係を持ったため父である諸葛恪に毒殺されると言う具合である。
 とすれば陸遜の憤死は、一時の怒りに任せて讒言を信用した孫権が、恣意的な処罰を強行したのであり、君主権の確立ではなく君主権の乱用にしか過ぎない。結果として江東名士が被害を受けたのは事実であるが、そこには江東名士層を弾圧すると言う明白な政治意識が伺えないのである。何となれば、魯王派の代表格の如く言われる全jも、陸遜ほどの名門ではないにしてもやはり呉郡の大豪族である。一方陸遜配下の五千人に及ぶ兵士は、陸遜の次男である陸抗がそのまま受け継いでいるし、また陸遜への嫌疑が楊竺の讒言に基づくものであったことを悟った孫権が、病気が治って任地に向かうことになった陸抗に対し、「自分は讒言を信用し君の父上に対して大義に背くことをしてしまい、君には大変申し訳ないと思っている。どうか詰問の書状は全て焼き捨て、他人には見せないでほしい」と涙ながらに謝ってもいる。
 もし意図的な弾圧であれば、兵権を陸抗に渡す必要は無く陳謝する必要も無いのである。更に言えば、孫皓時代の孫呉政権末期を支えたのは、外に在っては晋の将軍羊コと対峙した名将陸抗であり、内に在って諌言を繰り返したのが丞相陸凱であるが、言うまでも無く彼等は、呉郡の名門陸氏の一員である。

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   終わりに
 では本当に孫・陸の対立は有ったであろうか。確かに陸康平定に伴う亀裂は存在したであろうが、それ以後の関係は、陸氏はむしろ孫呉政権に忠勤を励んでいる。二宮事件に関する陸遜の諌言も、丞相たる立場から国家の有り様を示唆したに過ぎず、孫権の対応も、年を取って短気になった性格から讒言を信じて怒りに任せて処罰したに過ぎない。とすれば、世上喧伝される程の孫・陸対立は存在しなかったのである。

 それにしても、孫呉政権の将来を左右する大問題である赤壁の決戦にしろ二宮事件にしろ、呉夫人と言い全公主と言いどうもやたらに女性の影がちらつく。一体彼女達は孫呉政権にとって如何なる存在であったのであろうか。 

     平成十年七月                           於黄虎洞 

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