日本漢字書 手習い略史

〜授業用備忘録〜

本ページは、大宮光陵高校出張講義資料(平成21年10月刊行)からの転載である。

《日本漢字書 習い略史》

上代

 日本の書は、仏教の伝来に伴って経典書写の必要性から大いに発展しますが、書法的には、六朝や隋唐の影響を受けていると言われています。作品は、正倉院に収められている聖武天皇や光明皇后らの詩文・天平写経と称されている写経書、及び「薬師仏造像記」「妙心寺鐘」や「宇治橋断碑」「多賀城碑」等の金石碑文が中心です。

平安時代

 この時期の書は、漢字の和様化と仮名の出現が見られますが、代表的な能書家としては、三筆と称された嵯峨天皇・空海・橘逸勢や藤原関雄・小野篁・紀貫之ら、和様書道の三跡と言われる小野道風・藤原佐理・藤原行成や藤原定家ら、更には藤原行成を祖とする世尊寺家(所謂世尊寺流の書)の伊房・定実・定信・伊行らが、活躍しています。また奈良朝以来の経典写経も盛んで、特に平安後期は末法思想流行の中で、善美を尽くした装飾経が盛行します。

鎌倉・室町時代

 この時期の書文化を担ったのは、五山文化の禅僧を中心とした宗教人の書である墨跡や、歴代天皇の書である宸翰・各御門跡の書、及び名筆家として知られる第17代青蓮院門主尊円親王の書風を継承しているとされる青蓮院歴代門主の書(所謂青蓮院流・御家流)、飯尾宗祇を初めとする連歌師らの書、他には一条兼良・三条西実隆・今川貞世ら等で、次いで戦国時代に入ると、武将の武田信玄・細川幽斎(藤孝)・細川三斎(忠興)父子・伊達政宗・毛利元就・前田利家・結城秀康らも、能書家として知られています。

 また、仏教自体の変質や新展開は起きたものの、上代以来の写経自体は個々の時代を表す書体で、奈良写経・平安写経・鎌倉室町写経へと営々として行われて来ています。

江戸前期時代

 また江戸初期の書は、和様の御家流が公用書体として隆盛を示し、水戸藩に仕えた三国筆海、寛永の三筆と称された近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乘や、烏丸光広・近衛家煕・森尹祥・釈元政・北向雲竹(大師流)らが活躍しますが、同時に幕府に因る儒学奨励の文教政策の影響や、江戸初期に来日して帰化した宇治黄檗宗の禅僧達で、黄檗の三筆と称された隠元・木庵・即非や独立らから刺激を受けて、中国風漢字書である唐様書に目を向ける人々が現れだし、独立門下の逸材高玄岱・高玄融父子、隷書を得意とした石川丈山や佐々木玄龍・佐々木文山の兄弟、唐様書道の基礎を開いたと言われる北島雪山や寺井養拙・細井広沢・土肥黙翁・赤井得水・亀田窮樂・桑原空洞・平林静斎・関思恭・松下烏石ら、更には長門の草場居敬・草場仲山父子、肥後の雅望中瀬柯庭らがその代表的な人として挙げられます。

江戸後期時代

 江戸時代の後半は、所謂文人と称される人々が多く登場します。その彼等の嗜好が文人趣味と言われる一種の中華趣味です。彼等は、詩文を操ることは当然として、それ以外に諸々の諸芸も自由にこなします。当時の典型的な文人は、人の師たる芸は十六以上と言われている柳沢淇園です。

 また、諸芸とは、書・画・篆刻・琴・煎茶・投壺・盆栽・小動物の飼育等々です。これらの中で、特に幅広く隆盛を極めた書では、三都(江戸・京・大阪)を中心に活躍したのが、唐様の森佚山・河原井台山・三井親和・細井九皐・趙陶齋・細井竹岡・韓天寿・雨森白山・沢田東江・関其寧・松本龍沢・山梨稲川・上田止々斎・芝田?嶺・中井董堂・関克明・関思孝・亀田鵬斎・白井赤水・白井木斎・松山天姥・脇田赤峰・野呂陶斎・永田観鵞・釈道本・松元研斎・多賀谷向陵・高島雲溟・亀田綾瀬・井田磐山・佐野東洲・男谷燕齋・石川梧堂・中根半仙・小島成斎・桂帰一堂・松本董齋・藤原不退堂・戸川蓮仙・筒井鑾溪・中川憲齋・三井南陽・市河恭齋・荒庭平仲・呉策(肥前屋又兵衛)・柳田正齋・榊原月堂・山内香雪・川上花顛・生方鼎斎・大竹蒋塘・中沢雪城・萩原秋嚴ら、幕末の三筆と称される貫名海屋・市河米庵・卷菱湖ら、女流漢字書家としては、河村如蘭・吉田袖蘭・小笠原湘英らです。

 一方地方で活躍した人々には、秋田の能筆家石田無得、盛岡の書家久慈東皐、庄内の名手重田鳥岳、会津の祐筆糟谷磐梯・星研堂、仙台の能書家菅野志宣斎、利根の三筆の一人萩原墨齋、上野の書僧角田無幻、下野の大家小山霞外、武蔵の磯田健斎、信州の大家馬島禅長、越前の能書家関明霞、尾張の祐筆丹羽盤桓子・名手柳沢新道、桑名の能書家尾嶋樸齋、丹後の書師範梶川景典・祐筆沢村墨庵、安芸の能書家沢三石、長州の才人矢野竹舌、長門の書師範草場大麓、伊予の名手大野約庵・能書家万沢癡堂、阿波の才人吉田南陽・赤松藍洲、筑前の大家二川松陰、長崎の名手野村雲洞・笹山花溪、肥後の能書家草野潜溪・書師大槻蜻浦、薩摩の能書家鮫島白鶴らが居り、和様(御家流や大師流)では加藤千蔭・細合半齋・岡本方円齋・岡本修正齋・岡本近江守・花山院愛徳・花山院家厚・梅沢敬典らが名を残し、画では、池大雅・与謝蕪村・谷文晁ら、篆刻では、望月啓斎・高芙蓉(大島逸記)・細川林谷・小俣蠖庵・濱村藏六(初代・二代・三代)・田辺玄々・十河節堂・立原杏所・羽倉可亭・頼立斎らが有名です。

 更に、江戸後期に於ける諸芸の隆盛を受けて、幕末から維新(明治20年頃)にかけての近代化の中で、書・画・篆刻ともに新たな発展を示しますが、当時能書家として特に名を馳せていた人々に、千葉三余・大島堯田・石井潭香・安藤龍淵・宮原節菴・亀田鶯谷・高斎単山・服部隨庵・永井盤谷・松本董仙・秋山正光・宮小路浩潮・貫名海堂・齋藤百外・渡邊水翁・原田柳外・市河遂庵・中根半嶺・太田竹城・三好竹陰・岡崎越溪・伊藤桂洲・久永其潁・武知五友・伊佐如是・久世龍皐・樋口逸斎・長梅外・村田柳香E宗像雲閣・桑野霞松・伊東遜斎・平井東堂・小野湖山・莊田膽斎・高橋石斎・三輪田米山・大沼枕山・寺西易堂・林雪蓬・遠山廬山・佐瀬得所・中村淡水・関雪江・成瀬大域・中林梧竹・恒川宕谷・坪井山舟・大沼蓮斎・小林卓斎・吉田晩稼・菊池晁塘・神波即山・長三洲・三枝五江・金井金洞・片桐霞峯・秋月楽山・巌谷一六・市河得庵・卷菱沢・卷菱潭・香川琴橋・岡三橋・小山梧岡・小山遜堂・新岡旭宇・小林穣洲・岩城玉山・杉聴雨・卷菱洲・卷鴎洲・松田雪柯・浅野蒋潭・内田栗陰・越智仙心・高林二峰・村田海石・副島蒼海や、幕末三舟の勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟らがおり、亦、画では、山本梅所・平野五岳・張晋斎・鈴木百年・藤田呉江・王欽古・千原夕田・長井桂山ら、篆刻では細川林斎・中村水竹・山本竹雲・小林愛竹・濱村藏六(四代)・成瀬石癡・小曽根乾堂・山本拜石・中井敬所・原田西疇らがいます。

明治から昭和初期代

 一方、江戸以来の諸芸の中で、著しい発展を遂げたのが書です。現在の書道界の隆盛が、それを端的に示しています。幕末(慶応三年・1867以前)の生まれで、明治の後半から昭和の前半にかけて、書道教育や書製作で活躍した人々は、それこそ枚挙に暇がない程ですが、彼等に共通して見られる点は、自ら製作した漢詩や和歌を書くと言うことで、単なる書の表現のみに止まらず、言葉自体が自らの漢学や国学の教養に裏付けされており、書作品として如何に表現するかを追求する所謂「芸術書道」ではなく、学問と表現が混在した諸芸の一つである所謂「学芸書道」であったと思われることです。

 代表的な人としては、漢字の岡本碧巌・市河万庵・秋山璧城・後藤潜龍・日下部鳴鶴・山内香溪・土肥樵石・小山雲潭・福岡敬堂・野村素軒・川村東江・荒木雲石・香川松石・長岡研亭・三好芳石・高島九峰・石橋二洲・恒川鴬谷・西川春洞・川上泊堂・高山文堂・齋藤芳洲・樋口竹香・山田古香・前田黙鳳・金井信仙・玉木愛石・開沢霞菴・岡村黒城・日高梅谿・杉山三郊・中川南巌・久志本梅荘・市川塔南・岡本可亭・湯川梧窓・朝倉龍洞・山口豪雨・浅野醒堂・赤星藍城・亀田雲鵬・細田劍堂・都郷鐸堂・角田孤峯・江上瓊山・高林五峰・高田竹山・天野東畊・柳田泰麓・大島君川・近藤雪竹・丹羽海鶴・広橋研堂・小室樵山・北方心泉・松田南溟・渡辺沙鴎・山本竟山・藤野君山・辻香塢・水野疎梅・大野百練・稲本陽洲・武田霞洞・中村春坡・杉溪六橋・諸井春畦・黒木欽堂・稲田九皐・林春海・岩田鶴皐・中村不折・浅野松洞・宮島詠士ら、和文の多田親愛・植松有経・跡見花蹊・小野鵞堂・阪正臣・大口周魚・岡山高蔭などが挙げられます。

 また篆刻では、円山大迂・山田寒山・浜村藏六(五世)・桑名鐵城・栗田石癖・寺西乾山・近藤尺天らで、明治初期生まれの人としては、足達疇邨・河井せん盧・園田湖城・石井雙石らが現れます。

 

     平成二十一年十月                             於黄虎洞

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