天下三分策の真相

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第2巻、(平成10年4月出版)から転載するものである。


     結果としての三国鼎立
   
1、漢民族にとっての中原
   
2、曹操の意図した版図
   
3、孫權の意図した版図
   
4、劉備の意図した版図
  
   終わりに

 

   結果としての三国鼎立
 三国時代はその名が示すが如く、魏・呉・蜀の三国がそれぞれ中国を三分して覇権を競い、三国鼎立と言う状況を将来せしめた時代である。しかしそれは、三国各国が三国の鼎立を良しとして選んだ結果の三国鼎立では決してない。魏・呉・蜀の最終目標は、全中国を己が版図に収め一朝天下に号令をかける、即ち天下統一・全国制覇に他ならなかったはずである。実態はともかく曹操は、後漢の献帝を擁して漢臣として天下に号令を発せば、天下統一は当然のことであり、劉備はその曹操を漢賊・国賊と非難して、漢朝復興を旗印に掲げる以上、これも天下統一以外には考えられない。呉の孫氏にしても、孫策が華北平定に多忙を極める曹操の虚を衝こうとし、その準備段階で不慮の死を遂げていれば、やはり全国制覇の野望が無かったとは言えない。
 則ち彼等は、共に同じ戦略目標を立てながら、それを遂行する過程の戦術が各々異なり、結果として三国鼎立と言う現象を出現させたに過ぎず、誰一人その戦略を達成させる者は現れなかった。彼等の目指した戦略は、魏が蜀を滅ぼし、その魏から禪譲を受けた晋の司馬氏が呉を平定することに因って、完遂されるのである。
 清朝の歴史学者である錢大昭が著した『三国志辨疑』に序文を寄せた錢大キンは、その中で「魏氏中原に據りて日久しく、晋其の禪を承く。當時中原の人士、魏有るを知れども蜀有るを知らざること久し。承祚(陳壽)の書(『三国志』)出でてより、始めて三國の名を正す」と述べている。この指摘は、晋初の中原人士の意識を端的に言い表した言葉ではあるが、曹操時代の中原人士が既にこの様に意識していた訳では決してない。曹氏の下で日夜天下の覇権を懸けて争っていた中原人士には、南に孫呉が有り西に劉蜀が有ることは、片時も忘れられるものでは無かった。
 しかし、固定化した三国の鼎立状況が長期化すればする程、彼等の意識の中に無意識に晋初の人々と同様な意識が生じて来たであろうことは、否めないのである。何となれば、曹魏政権は、中原人士を中心にして中原地帯に成立した政権に他ならないからである。

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   1、漢民族にとっての中原
 中国の古代文明は黄河沿いに華開き、徐々に東に移動(秦の咸陽、前漢・唐の長安、後漢の洛陽、宋の開封、元の大都、明・清の北京の如きであり、この事は、中国の経済発展に伴い国都の持つ意味が、軍事重視から経済重視、つまり守備を重視した要衝の地から商品流通を重視した平野部に移行したことを意味している)するものの、統一王朝は歴代黄河沿いに国都を設置している。言うまでも無く魏は、曹操時代にはギョウ(河北省臨ショウ県)に都し、曹丕の時に洛陽に移っている。彼等漢民族にとっては、華北平原の広がる中原地帯こそが天下の中心地なのである。天下の覇権を争うことを、「中原に鹿を追う」とか「中原を制す」とか称するのは、そのためである。極めて画一的な言い方をすれば、「中原」なる言葉に因って彼等が己の眼中に収める版図は、黄河以南・揚子江以北・漢水以東、つまり三大河川に因って匚の字型に区切られた地帯を、その基本的部分とするのである。

 「川」の北岸か南岸かでさほど問題は無いであろうなどと考えてはならない。我が国に在って源平の戦場となった「宇治川」とか、戦国絵巻の「川中島」とか、天保水滸伝の「利根川」とかの如き世界とは、その内容もスケールも実態も基本的に隔絶した差異が存在する。たかが「川」一つ、されど「大川」である。特に「揚子江」は、天然の要害であると同時に、政治的にも社会的にも彼等漢民族の精神的優位性を示す中原文化自体を切断する「江」であったことは、今に至るまで幾多の事例が如実に物語っている。例えば、新中国の成立は、北京天安門の楼上から毛沢東主席が「北京開放了」と高らかに呼び掛けた時よりも、彼自身が揚子江を泳ぎ渡ると言う政治的イベントを以て完了し、最近では漢民族で最初の直接民主選挙で選ばれた台湾の李登輝総統が、国民の精神を鼓舞するために「新中原文化の創造」と言うスローガンを掲げている。
 この様な彼等の意識からすれば、政治的・文化的・トポグラフイ的観点から見た時、益州であれ揚州であれ、所詮天険に囲まれた西南僻壌の奥地と、揚子江東南岸の辺地でしかないのである。則ち、益州は、前漢末の公孫述政権・西晋末の李氏政権・唐の玄宗の蒙塵逃避行・五代の前蜀後蜀・日中戦争時代の重慶臨時政府の如く、自拠して地方政権を維持したり、中原の混乱を避難する場所としては適しているが、そこから天下を平定した事例は中国史上一度として無いのである。一方江南・江東地方は、南朝時代に国都が建康(江蘇省南京市)に置かれたため、文化的・経済的に大きな発展を遂げ、以後我が国に実質的な影響を与えた江南文化を形成することになるが、基本的には南朝の建康にしろ南宋の臨安(浙江省杭州市)にしろ、本来国都が在った華北が異民族に蹂躙されたため、臨時に仮に皇帝が居住する場所つまり行在所として出発し、それが固定化して国都となったに過ぎないのである。
 故に唐代に至っても江南・江東地方は、少数部族が居住する風俗の異なった流謫の地であり、中唐の大詩人白居易が「江州の司馬青衫濕ふ」(『琵琶行』)と詠じたが如く、彼は江州(江西省九江県)に左遷され、同じく「永州の野に異蛇を産す」(『捕蛇者説』)と記した中唐の大文章家柳宗元も、永州(湖南省零陵県)から柳州(広西壮族自治区馬平県)に左遷されており、江南地方出身人士として朝廷で宰相の位に登り竹帛に名を輝かすのは、撫州臨川(江西省臨川県)の出身である北宋の王安石の登場まで、待たねばならないのである。
 要するに「中原」は、漢民族にとって心の故郷であり、如何に国土が拡大しようとも、将亦海を隔てていようとも、彼等の意識の中には常に「中原」が存在する。中原地帯の政治的状況の変化に因って、時には益州が脚光を浴びたり或いは江南地方が重視されたりする事が有っても、それは所詮一時的なものに過ぎず、中原が本来の機能を果たしていないがための結果でしかなく、基本はあくまで中原に存在する。それは、黄河文明の発生以来連綿として彼等の潜在意識の中に受け継がれたものであり、意図的に意識すると否とに拘らずであると言えよう。

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   2、曹操の意図した版図
 魏の曹操が本来的に意図した版図は、言うまでも無く全中国である。後漢の献帝を擁して各地を平定している曹操にとっては、少なくとも後漢が治めていた版図を全て回復することは大命題であり、後漢の光武帝の「望蜀」を想起するまでも無く、天下を狙う者の欲望には限りが無いはずである。しかし、先ず最初に押さえるべき場所は中原である。この事は、単に漢民族としての中原意識だけに基づくものでは無い。何となれば、曹操は後漢末の混乱を平定した群雄の一人として頭角を現した人物であり、後漢末の混乱自体が黄巾の乱の勃発から始まり、献帝を洛陽から長安に拉致した董卓の暴政へと繋がっている。これらの事件は全て黄河沿いの華北を中心に発生している。とすれば、当然のことながら真っ先に平定すべき地域は、司隷を中心にしてエン州・青州・豫州・徐州の華北諸州以外には考えられない。

 故に主だった群雄達は専らこの地方での覇権を争うことになり、曹操は先ずこれらの諸州を精力的に平定するのである。「天子は南面す」の例えの如く、全国平定の討征軍は北から南に向かうのが常道であるが、背後に憂えが有ってはそれも不可能になる恐れが生じる。そのため曹操は、華北諸州平定後は冀州に残る最後の大物袁紹と対峙するのである。建安五年(二〇〇)に官渡の戦いで勝利して袁紹を破ると、同九年(二〇四)に袁氏の根拠地であった冀州のギョウ城を制圧し、同十二年(二〇七)には袁氏の残党が逃げ込んだ遼西の烏桓を討伐すると、曹操は華北一帯を完全に制圧して己が掌中に握り締めた。華北平定後の曹操にとって、中原に連なる最後の重要地域は、劉表の治める荊州だけである。因って同十三年(二〇八)、当然の如く曹操は、荊州制圧の討伐軍を繰り出すのである。
 荊州を制圧すれば天下統一は成ったに等しい、と曹操が考えても已むを得ないことである。曹操は彼の作として伝わる『短歌行』の中で、「酒に對して當に歌うべし、人生幾何ぞ、譬へば朝露の如く、去日苦だ多し、・・・山は高きを厭はず、海は深きを厭はず、周公哺を吐きて、天下心を歸せり」と詠じている。この一戦に、この一戦に勝ちさいすれば、後は自然と天下が心を私に帰してくれる。曹操の思いと意気込みが良く伝わってくる。しかし、結果は孫・劉連合軍に因って大敗北を嘗めさせられ、彼の思いは遂げられ無かった。次に彼が目を向けたのが漢中であり、漢中は前漢の高祖劉邦が漢中王として覇業を始めた地である。建安二十年(二一五)、彼は漢中征伐に赴くが、これも結局劉備に阻まれて失敗に終わり、曹操は、己の天下統一を懸けた晩年の二つの戦いにおいて、敗北を喫し最後の詰めを大きく誤ったのである。
 華北を己が版図とした曹操にとっては、荊州を平定すれば、呉は江東の辺地の一地方勢力に過ぎなくなり、漢中を制圧すれば、蜀を益州の奥地に封じ込めることが出来る。要するに実質的な天下統一は成ったにも等しく、結果として呉・蜀の問題は、絶大な軍事力の差を背景として、一辺冦問題として時間の解決に委ねれば良い。因って、曹操が意図した実質的な版図は、中原を中心とした華北とそれに連なる荊州、及び漢中地方とであったのである。 

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   3、孫權の意図した版図
 孫呉政権の拠るべき根拠地を自ら切り開き、その実質的な基礎を築いたのは孫策であり、赤壁の決戦前に周瑜が孫権に曹操との対決を説得した言葉の中で、「将軍は、父上・兄上が残された成果を受け継ぎ、六郡(呉・会稽・丹楊・豫章・廬陵・廬江)を保持しておられます」と述べたが如く、孫権は兄孫策の功業を受け継いだに過ぎない。「小覇王」と称された孫策は、建安五年(二〇〇)に曹操と袁紹とが対峙している虚を衝いて、許を襲って後漢の献帝を己の所に迎え入れようと考えるぐらいであるから、確かに天下を狙う意識と気概とを持っていた。

 しかし、孫策と孫権とではその行動力も性格も大きく異なっている。この点に関しては、孫策自身が孫権に対して、「江東の軍勢を総動員して敵と対峙し、勝機を見つけて一気に天下の群雄達と雌雄を決する様な能力は、おまえはおれに及ばない、だが賢者や能力者を任用して力を尽くさせ、江東を保持して行くと言うことに関しては、おまえの方がおれより上手い」と述べているし、更に孫策は、張昭らに遺言して「今中原は混乱していれば、呉・越の軍勢と三江の固い守りで天下の成り行きを見守り、我が弟を補佐してやってほしい」とも言っている。
 このことは、呉・越の安定確保が第一義であり、自ら北上するのではなく、中原の状況如何に因っては打って出る場合も有ると言うに過ぎず、基本はあくまで揚州の維持に在る。これと同様な考えは魯粛も持っており、彼は孫権に「漢の王室を復興することなどは無理なことであり、曹操もそう簡単には取り除くことが出来ません。ですから将軍にとって最善の計は、江東地方をしっかりと確保し、天下の変をじっくりと見守ることです」と述べている。
 孫呉政権は、主に江東の土着豪族を糾合して成立した政権であれば、江東の安定確保は言うまでも無いことである。赤壁の決戦後の孫権の行動は、ほぼこれらの意見に沿ったものであり、魏に対しては称藩したり対立したりし、蜀に対しても同盟を結んだり戦ったりと、時々に応じて変幻自在であり一定していない。つまり、江東を維持するためには、どの様にでも行動すると言うことである。故に、己の勢力範囲を犯されれば積極的に対応するが、敢えて自ら打って出ると言う行動はあまり取らない。それよりもむしろ、己の版図内に居住する少数部族の山越とか武陵蛮の平定に意を注ぎ、更に南の交州の制圧に努力している。
 自己の国内の安定に意を傾け、あまり積極的には外部と対応しないと言う対外政策は、一見定見の無い風見鶏の様ではあるが、魏と蜀とが熾烈な戦闘を繰り広げる狭間に在って、一地方政権として生き長らえると言う戦略は、結果として成功したと言えよう。故に、孫権が意識した実質的版図は、揚州を中心として交州及び荊州の南部とである。

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   4、劉備の意図した版図
 劉備の在るべき方向を示唆したのが、諸葛亮である。故に、劉備の戦略は諸葛亮の戦略でもある。劉備が訪れた荊州襄陽隆中の草廬で、諸葛亮が披瀝した戦略こそ俗に「天下三分策」と喧伝されているものである。では諸葛亮の戦略とは如何がなものであったろうか。

 まず第一に劉備の外交方針が示される。それは「劉備の最大の敵は曹操であるが、曹操とは正面切ってぶち当たるべきではなく、常に孫権を味方に付けて彼の勢力を補翼にすべきである」と言うものである。これは三国の軍事力を比較検討すれば当然の帰結であるが、同時に劉備の戦術に一定の足枷を与える。つまり、孫権との間で生じた諸問題は、基本的に外交上において解決且つ妥協すべきもので、武力の使用は早期終結可能な局地戦までであり、全面戦争は許されないと言うことである。次に具体的戦術であるが、それは「荊・益二州を拠有して二方面から魏を討ち漢室を復興する」と言うものである。則ち、劉備の戦略は魏を討伐して漢室を復興する、つまり天下統一であり、そのための具体的戦術が荊州・益州の拠有であり、それを可能とする外交戦術が孫権との提携である。故に、諸葛亮が提示した戦略は、決して「天下三分策」などでは無く、「天下統一策」以外の何物でも無いのである。
 この戦略の中での益州の位置付けは、漢室復興のための前提条件、換言すれば、到達点に至るまでの足掛かりつまりベースキャンプに過ぎないのであり、決して益州確保を最終目標にしたものではない。荊・益の二方面から魏を討つと言う戦術は、魏の勢力を分散させると言う意味において、極めて有効的ではあるが、そのためには荊・益二州の維持が絶対条件となって来る。故にこそ諸葛亮は、一度魏の手に落ちた荊州を、反復常無き孟達を説得してまでも何とか回復させようと試み、孫権の称帝問題に関しても、呉と袂を分かつべしとする群臣達を説得してまでも、妥協して同盟を維持させようとするのである。則ち、益州の確保も孫権との同盟も、漢室復興と言う戦略達成のための戦術に過ぎないのである。
 蜀漢政権は、漢室復興を政権の基本的存在理念とし、荊州人士を中心にして他郷である益州に成立した政権であれば、異質な基盤の上に成立した異質な政権、つまり一種の「宿借り政権」である。諸葛亮が国力の疲弊をも顧みず、ひたすら北討を遂行し続けるのは、まさに政権の存在理念が漢室復興に在ったがために他ならない。なぜなら、存在理念に基づく具体的行動を放棄してしまえば、敢えて他郷に政権を置く意味が失われてしまい、政権の成立を容認した足元である益州人士の間から、政権の存在そのものに対する疑義が提示されかねない。故に諸葛亮は『後出師表』の中で、「先帝、漢・賊は兩立せず、王業は偏安せざるを慮る。故に臣に託するに賊を討つを以てせり。・・・臣、鞠躬盡力し死して後已む、成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所に非ず」との、悲壮感漂う決意を述べるのである。
 とすれば、劉備が意識した版図は、漢室復興をスローガンにする以上、曹操と同様に中原を中心とした全中国であり、三国鼎立と言う現象は、漢室復興と言う戦略遂行上において、荊州を失うと言う戦術の不手際などに因り、戦略が途中で破綻したがための結果でしかないのである。

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   終わりに
 曹操も劉備も、共に天下統一を目指して駆け抜けた。その中でひたすら江東の維持に腐心した孫呉政権だけが、三国中最も長い五十九年と言う命脈を晋初まで保ち続けるとは、まさに歴史の皮肉としか言い様がないのである。

     平成十年一月                           於黄虎洞 

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