董卓亡き後の長安

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第1巻、(平成10年3月出版)から転載するものである。


     一瞬の光赫
   
1、再び闇が垂れて
   
2、怒号と混乱と
   
3、荒廃の果てに
     
終わりに

 

   一瞬の光赫
 長安の人々は歓喜の声に酔いしれていた。「万歳、董卓が殺された」「万歳、万歳、董卓が死んだ」。人々は暗くて長い漆黒の恐怖からやっと解放されたが如く、道に溢れ町に繰出し己の衣服宝玉を売り払ってまで祝宴の酒肉を買い、歌舞しながらその喜びを互いに分かち合っていた。市場に晒された董卓の死体からは、そのでっぷりと太った体躯の脂肪が流れ出て地面を染め、それに触れた草々は赤く色を変え、またその脂ぎった腹上の臍に載せられた明りは、皓々と燃えて明朝まで燃え尽きる事は無かった。しかし、この喜びは将に一睡の夢にしか過ぎなかった。長安の町は再び音を立てて暗黒の門を閉ざし、攻防と殺戮の巷へと化して行くのである。歴史の彼方へと息を殺して蹲る長安が、再びわが世の春を謳歌するのは、ほぼ四百二十年後の李淵の建国に係る、大唐帝国の成立を待たねばならなかったのである。
 そもそも長安は、黄河の支流である渭水のほとりに位置し、最初の本格的統一中央政権である西漢の国都として、約二百年の栄華を誇った町である。しかし、西漢末の混乱の中で、成都に自拠する公孫述や長安地方に勢力を有する隗囂等の有力豪族を平定して、再び天下統一を果たした東漢の光武帝劉秀は、荒廃の極を呈した国都長安の再興を図るのではなく、黄河が直角的に大きく北に曲がる辺りに設置された天下の名嶮函谷関の遥か東側、則ち洛水のほとりに位置する洛陽を国都と定めて新王朝を樹立した。その時点から嘗ての国都であった長安は、単なる西方の一都市に過ぎなくなってしまったのである。この長安が再び脚光を浴びるのは、東漢末に外戚何進の入洛要請に基づいて、洛陽郊外に在って国都の内部で展開される外戚と宦官との熾烈な権力争いの推移を望観していた董卓が、涼州人士を中心とした軍事力を背景にして洛陽に乗り込み、僅か九歳の劉協(献帝)を擁立して暴政を行い、それに対して関東地方の諸豪が袁紹を盟主とした反董卓連合軍を結成し、董卓は己の身の安全を図るべく初平元年(一九〇)に、自己の本拠地である涼州に近い長安に献帝を擁して強引に遷都した時である。  献帝が鎮座して再び長安が国都になったとは雖も、実態は暴君董卓が支配する阿鼻叫喚の渦巻く暗黒の都であった。長安の人々が息を殺して見守る中で、僅か二年後の初平三年(一九二)四月二十三日に、司徒の王允と董卓の右腕であった猛将呂布との謀議に因り、董卓が呆気なく暗殺されると、長安の人々は思わず歓喜の声を挙げて喜び合った。しかしこの歓声は、いよいよ始まる更なる暗黒への序曲にしか過ぎなかったのである。

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   1、再び闇が垂れて
 初平三年(一九二)四月末以後、長安での政務を統べたのは、董卓殺害の立て役者である王允と呂布とである。王允は字を子師と言い太原郡祁県の出身であり、呂布は字を奉先と言い五原郡九原県の出身である。つまり彼等は共に并州を本貫とする同郷者であり、一時的ではあるがここに并州人政権とでも言うべきものが成立する。しかしこの政権は、解放を喜ぶ長安の人々の願望とは裏腹に、僅か四十日弱後の同年六月一日には、董卓の配下であった武将達の攻撃に会い、呂布は長安を出奔し王允は殺害されると言う形で、脆くも崩壊してしまう。元来この并州人政権は、董卓排除と言う点のみで結び付いた便宜的関係にしか過ぎず、王允と呂布とは互いに利害の異なる水と油のような存在であった。

 王允は、天子の権威と国家の安泰を第一とする謹厳実直な漢臣であり剛直の士であった。董卓殺害の功績を賞して呂布を奮威将軍・仮節・儀同三司に取り立て温侯に封じはしたが、基本的には武人である呂布を見下し剣客を以て遇するに過ぎず、「董卓の財物を公卿や将校に分賜したい」との呂布の請願を、言を左右にして拒否し決して許そうとはしなかった。一方呂布は、典型的な武人で己の功労を自負して腕力を誇り反復常無き性格で、己の要求が聞き入れられないと知るや、王允に対して失望感を抱き徐々に不平不満を抱くようになって来ていた。この二人がいずれ決裂するであろう事は、その朝廷に関与する政治的スタンスからして明白であり、単に時間の問題にしか過ぎなかったが、それ以前に董卓の配下であった武人達の長安への反攻を許してしまう事になる。しかし、この反攻を誘発した原因の一つに、王允の「悪を憎んで義節を正し、如何なる時でも決して権宜の計には従わなかった」と言うストイックなまでの剛直性が挙げられる。王允は、董卓の軍団を形成した涼州人士に対する赦免をかたくなに容認しなかった。その理由は、「彼等は本来罪が有る訳ではなく、単に主人である董卓に従ったに過ぎず、それを赦免すると言う事は、逆に彼等が悪逆であったと言う事を公認する事になり、決して安寧の方策ではない」と言うもので、それなりに筋は通ってはいるが、董卓が殺害されて不安の広がる涼州人士間に在っては、単に「赦免は認めず」と言う結果だけが喧伝され、更に「王允は涼州人を皆殺しにしようとしている」と言う流言訛語が飛び交い、彼等の恐怖心が逆に涼州人を結束させると言う結果を招いたのである。『三国志』董卓伝の裴注に引用されている謝承の『後漢書』には、王允と同席していた蔡ヨウが董卓の殺害を聞き思わず嘆惜の声を挙げたが、それを聞き咎めた王允は「国家の大逆賊が殺されたのに朝臣たる君が嘆き悲しむとは何事か」と怒り、蔡ヨウは「不忠とはいえ大義は弁えております、どして董卓などに加担いたしましょう。お耳を汚した罪は罪として額に入れ墨を入れる刑罰を受けますので、何卒漢の歴史を書き継ぐ仕事だけは続けさせて頂けないでしょうか」とひたすら弁明に勤め、他の公卿達も蔡ヨウの才能を惜しんでしきりに王允を諫めたが、王允は敢て許さず蔡?を廷尉に下して処罰させたと伝えているが、同時にこの書を引用した裴松之自身が「これは全くでたらめな作り話に過ぎない」と断じている。しかし范曄の『後漢書』蔡ヨウ伝には同様な話しが記載されており、且つ蔡ヨウの為に命乞いした大尉の馬日テイが聞き入れられないと知るや、「王公(王允)はとても長生きできまい」と人に語り、蔡ヨウの死を聞いた鄭玄が「漢の世の事は一体誰と共に正せばよいのか」と嘆いたとも伝えている。事の真偽是非は別として、王允のあまりにも杓子定規的な謹厳性・剛直性を垣間見るには十分な逸話であろう。

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   2、怒号と混乱と
 当時董卓配下の主だった武将達は、長安のやや東に位置する陝と言う場所に本隊を置き潁川や陳留の諸県を攻略中であった。陝に駐屯する本隊を指揮していたのは、董卓の娘婿である中郎将の牛輔であったが、呂布は董卓を殺害するや否や牛輔を処刑すべく李粛を陝に派遣した。これに対し牛輔は、李粛を迎撃して追い返したものの兵士の反乱と逃亡が続出し、恐怖に駆られた牛輔は信頼する部下数人と財宝を持って黄河を渡り北に逃亡せんとするが、財宝に目が眩んだ部下の裏切りに会い、その首は長安に送り届けられてしまう事になる。攻略先から急遽校尉の李カク(涼州北地郡出身)・郭(涼州張掖郡出身)や張濟等が陝に帰還した時には、既に牛輔が殺されてしまった後であった。怒り狂った彼等は軍中の并州人男女数百人を皆殺しにして鬱憤を晴らしたもののすぐさま恐ろしくなり、長安に再三使者を派遣して赦免を請願するが、返事は無しのつぶてでそれどころか「長安では涼州人を全て処刑している」との噂だけが伝わって来る。陝に止まるべきかそれとも涼州に帰るべきか、進退極まった所に長安進攻を進言したのが賈クである。軍隊を解散して単独で涼州に逃げ帰ろうと考えていた李クク等に対し、賈クは「兵を捨てて単独で行動すれば簡単に捕まってしまいます。それより董公の仇討ちをすると言って行く先々で兵を集め長安を攻撃する方が得策です。うまく行けば天子様を奉じて天下に号令がかけられます。だめであればそれから逃亡しても遅く無いでしょう」と長安攻撃を勧めたのである。裴松之は賈クの言動に対し、「国家を衰亡に導き人民に塗炭の苦しみを与えた第一級の戦犯は賈クであり、世上これ程の大犯罪は見た事が無い」と断じている。李カク等は長安への途上で董卓の配下であった樊稠・李蒙・王方等と合流し、十万の大軍で長安を包囲し、僅か十日程で長安を陥落させると呂布を打ち破り王允を殺害して長安の支配権を握った。李カクは車騎将軍・仮節・開府・領司隷校尉となって池陽侯に封ぜられ、郭は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となって三人が長安で朝政を担当し、張濟は鎮東将軍・平陽侯として弘農に屯し、ここに涼州人政権とでも言うべきものが成立する。

 しかし、この涼州人政権は、単に戦勝武人がその分け前を分かち合って地位と権力を握ったに過ぎず、本来の朝臣はその活動を封じられて天子の安泰にのみ意を砕き、政治は殆ど李カク等の勝手な要求に翻弄される事となる。李カクのみならず郭と樊稠も強引に開府を行い、朝廷の人事も彼等が左右し、それを拒否すれば怒りと恨みを買うと言う状況で、天子はやむをえず先ず李カクの推挙を認め、次いで郭の推挙を受け、次に樊稠の推挙を許可し、本来の三公の人事などは全く行われなくなって行った。当時長安の西方約百キロ程に位置するビには、西涼の馬騰が駐屯していた。本来馬騰は董卓の要請に応じて韓遂と共に長安に至っていたが、董卓が殺された後は朝廷に帰順し、韓遂は鎮西将軍に任ぜられて金城に帰り、馬騰は征西将軍に任ぜられてビに屯していた。興平元年(一九四)に至ると、この馬騰が李カクと一悶着を起こした。子細は不明であるが、馬騰が何か李カクに要求し、李カクがそれを拒否した事から諍いが始まり、互いに兵を向け合う事態に発展した。この状況を聞きつけた韓遂が涼州から仲裁に駆け付けるが、結局韓遂は馬騰の味方になり、ここに馬・韓連合対李・郭・樊連合の抗争が生じる事となった。一方朝廷では、この争いに目を付けた侍中の馬宇・左中郎将の劉範・諌議大夫のチュウ邵等が、馬騰を焚付けて長安を攻撃させ、自分達は内部から呼応して李カク一派を殺害しようと画策した。しかしこの計画は、馬騰が軍を率いて長平観まで到達した時に露見してしまい、馬宇等は槐里に逃亡した。李カクはすぐさま樊稠を派遣して馬騰を攻撃させ、破れた馬騰と韓遂は涼州に逃げ帰ったが、同じ涼州人であれば樊稠は深追いせず、矛を返して槐里を攻め馬宇等を皆殺しにしてしまった。則ち初平三年(一九二)以後の二年間は、李カク一派が好き勝手に長安を中心とした地方を荒し回った時期である。当初は数十万の戸数が有ったが、李カク等が兵を放って略奪を繰り返し村々を攻略し回ったため、人々は殆ど死に絶え荒れ野原と化していた。長安城中に在っても同様で、盗賊や兵卒が自由に略奪を行い、穀一斗が五十万・豆麦一斗が二十万、人々は互いに相食み、白骨があちこちに堆く積まれ、悪臭が町中に満ち溢れていると言う状況で、天子が存在しているとは言っても、長安は全くの廃墟と成り果てていた。

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   3、荒廃の果てに
 興平二年(一九五)二月に至ると、それまで緊張関係の中にも一応微妙なバランスを保っていた涼州人政権の中で、熾烈な主導権争いが発生する。長平観の戦闘で敢て馬騰・韓遂を深追いしなかった樊稠の行動に、何となく疑念を持っていた李カクではあったが、樊稠が増兵を要求してきた機会をとらえて軍儀を開き、その場に招き寄せた樊稠を刺殺してしまうと、その兵を己の配下に組み入れた。こうなると郭の心中にも穏やかならざるものが生じてくる。元来李カクと郭の関係は、共に董卓の元配下で長安占拠後は互いに分治し合い、たびたび李カクが酒宴を開いては郭を招待し、時には郭も李カクの邸宅に投宿すると言う間柄であったが、郭の妻の猜疑心と樊稠事件とが契機となって互いに反目し合い、遂には長安城中で兵を交える状態にまで至った。天子を味方に付けんと考えた李カクは、大尉楊彪の「古来天子が臣下の館に居住された例は無い」との拒否を無視し、強引に天子やその調度品を己の陣営に移すと、宮殿や城門を焼き払い役所を打ち壊した。李カクは天子の権威を背景にして公卿を郭に派遣し和議を申し入れたが、郭は逆に公卿を人質に取って対抗した。楊彪が「臣下が互いに争い、方や天子を方や公卿を人質に取り合うなどとは、一体何事ですか」と強諫したが郭は聞き入れず、李カクの部将である楊奉等が李カク暗殺を画策するが、それも結局失敗に終り、李カクは自ら大司馬となり以後数か月の間長安では郭との一進一退の攻防が展開され、死者は数万にのぼった。

 五月に至り、陝から張濟が調停に駆け付け、ようやく李カクと郭の和議が成立した。この一瞬の講和の間隙を突いて、七月に天子の長安脱出東帰行が敢行される。天子の一行が霸陵辺りまで来た時、郭がまたもや天子を人質にしようとし、天子は楊奉の陣営に逃げ込み、楊奉は郭を打ち破り董承と共に洛陽への帰途を急いだ。李カクと郭は天子の東帰を許可した事を悔やみ、急遽追撃して来たため楊奉は防ぎきれず、李カク等は公卿百官を殺害し宮女を略奪して荒し回り、天子は陝から北に逃れて黄河を渡り、どうにか徒歩で安邑にまで到着したが、付き従う者は、僅かに側近の楊彪・韓融・楊奉・董承等十人余りに過ぎなかった。天子は安邑で上帝を祭り、天下に大赦して改元を行ったが、時に建安元年(一九六)春の事である。その後天子は六月に聞喜に幸し、ほぼ長安脱出一年後の秋七月漸く車駕が洛陽に入城した。しかし洛陽は破壊尽くされており、百官は茨を背負って牆壁の間に身を潜ませ、群僚は自ら野草を採取して飢をしのぐと言う状態であった。そこで曹操が、天子を擁して洛陽から許に遷都し、一朝天下に号令を下す立場に立ったのである。

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   終わりに
 ではこの間、天子の居なくなった長安の状況は如何であったのかと言えば、強者は四散し弱者は相食み、二〜三年の間に全く人跡を見掛けない廃墟と成り果て、長安の周囲では李カク等が跳梁跋扈すると言う様相であった。しかし涼州の主だった将軍達は、先ず郭が配下の五習に攻撃されてビで死に、張濟は飢えのあまり略奪を働いて逆に住民に殺害され、胡才は仇敵に殺され、李楽は病死すると言う有様で、僅かに李カクが残っているに過ぎなかった。建安三年(一九八)曹操は、謁者僕射の裴茂に中郎将の段ワイを率いて長安に派遣し、李カクを討伐させその三族を皆殺しにさせた。ここに董卓以来長安を震撼させた涼州政権の将軍達は一掃され、曹操の勢力範囲に長安が組み込まれ、一見長安に安寧の日々が帰って来たかの感を抱かせるのであるが、実は長安の西方には西涼の豪雄馬騰と韓遂が存在していたのである。関東の雄袁紹と覇権を賭けて争わねばならない曹操にとって、関西の安定は欠くべからざる要件であった。そこで曹操は再び侍中の鍾ヨウを兼司隷校尉・持節として関中の諸軍を統率させ、長安に至った鍾ヨウは馬騰と韓遂にそれぞれ書を送り、対立を繰り返す二人に利害を説いて和解させ、馬騰を前将軍・仮節・槐里侯となして槐里に駐屯させた。二人は共に子供を朝廷に入待させて恭順の意を示し、一応曹操の支配を受け入れたのである。これより長安は、廃墟の中から再び活動を始め出すが、本格的に曹操の版図となり、より安定化の方向を示し出すのは、曹操が関中を征討した建安十六年(二一一)秋九月以後まで待たねばならなかった。

     平成九年十二月                           於黄虎洞 

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