徒然なるままに

〜残影の滴・臧軒原田種成博士を追憶して〜

本ページは、無窮會『東洋文化』復刊第75号、(平成7年9月刊行)からの転載である。


   徒然なるままに〜残影の滴・臧軒原田種成博士を追憶して〜
 原田種成博士との思い出も、僅か数ヶ月前に袂を分かちたに過ぎないのに、既に遙か遠くの事となったような気のする昨今である。将に「去る者は日々に疎し」とは、この事であろう。筆者が初めて原田先生の音容に接したのは、昭和四十五年の春の事であった。それは、大東文化大学での授業と同時に、無窮会での講義であった。以来昨年の九月まで、訓読をご教授賜り続けて来たが、長い様でもあり、短い様でもある。この間、先生との私的な交わりは、唯一共に中国の四川・雲南地方を旅した一回限りであり、他は全て訓読の教授者と受講者と言う公的な交わりに過ぎなかった。しかし、現在の筆者を大学教員として存在ならしめている大半の要素は、原田先生との接触無くしては語り得ない。

 筆者がまだ大学三年次生であった昭和四十六年五月から、原田先生を中心として、大東文化大学で『宋史』本紀の訓読会が開始された。この会の発足当時のメンバーは、将に無窮会を代表するが如き原田種成・石川梅次郎・戸村朋敏・山田勝美・栗原圭介の諸先生及び小岩井弘光(国士舘大学、宋代史の専門家)先生と、お茶汲み要員としての学生である林田剛・濱口富士男・中林史朗とであった。八年の歳月をかけて読了したこの会は、途中に諸先生の移動は有るものの、最初から最後まで読み続けたのは、原田種成・石川梅次郎・小岩井弘光の諸先生と筆者とだけであった。
 当時、筆者は、学生として先生各位の訓読技術を目前で見聞することだけでさえも望外の喜びであったが、北宋部分の終わりに近づいたある日、突然原田先生が「聞いていても面白くないだろう。中林お前も読んでみるか」とおっしゃった。想像だにしないあまりにも突然の事とて、咄嗟に「分かりました」と答えたものの、実際の所は途方に暮れた。当時は今の様な校点本など無く、手元に有ったのは殿本の影印本だけであった。筆者にとっては、貴重な勉強の機会であっても、実際この『宋史訓読会』は勉強会などではなく、文部省から科研費を取っての先生方の研究会である。その研究会で、学生風情の筆者が読ませて頂くことなど、例え原田先生のお声掛かりとは雖も、無謀であり不遜の極みであった。
 以後五年間、諸先生方に迷惑をお掛けしない事だけを念頭に置いて、南宋部分を最後まで読ませて頂いたが、筆者にとっては、勉強どころか極度の緊張感に包まれた、地獄の如き針の筵の日々であった。しかし、あの日々が有ればこそ、今の己が有る事を思うにつけ、あの貴重な機会をお与え下さった原田先生の学恩を、思い出さない訳にはゆかない。
 筆者は、大学院単位修得満期退学と同時に短大の漢文担当専任職を奉じ、短大で十年を過ごした後に故有って母校に職を奉じた。母校の話が筆者にもたらされた時、正直に言って筆者自身に忸怩たるものが有った。それは、筆者の如き学力の者が、大東文化大学の中国文学科の教壇に立って果たして良いものであろうか、と言う疑念に苛まれ続けていた。
 と言うのは、筆者が学生時代から原田先生聞かされ続けて来た言葉に、「大東の中文の教員と言うのは、己の専門が何であれ、教養課程で開講されている専門科目に関しては、文学であれ哲学であれ將亦歴史であれ、初見で読みこなせる力量の無い者は、教壇に立ってはいかんのだ」と言うのが有った。言葉こそ異なってはいたが、同じ内容の事を池田末利先生からも聞かされていたし、亦た斯文会での事であったと記憶しているが、同様な話が出た時、宇野精一先生が「その通りですよ。今では想像もつかんでしょうが、私だって最初の講義は唐詩選だったんですよ」とおっしゃっておらてた。この様な、諸先生の言葉が筆者の頭から離れず、大東の職を奉じてから今に至るまで、忸怩たる思いと自信の無さが、常に筆者の心を悩ませ続けている。
 ある時、十八史略の授業中にある学生が質問に来た。彼は筆者に「先生は先ほどこの様に読まれましたが、参考書にはあの様に書いてあります。どちらが正しいのですか」と詰問したのである。筆者は「意味に違いが無い以上、どちらの読みでも良いが、参考書の読みはゴロが悪く耳障りなので、あまり好きにはなれない。私は、やはり私の読みの方が良いように思うよ」と答えた。学生は納得出来ない怪訝な顔をして「そうですか」と言って帰って行ったが、やはり納得していなかったようである。後日その学生が再び筆者の所に来て「先生の読みで良いそうです」と言うのである。筆者が「どういう意味だ」と聞き返すと、学生が「原田先生に聞いた所、『どっちでも良いよ。中林には中林の読み癖が有るからなあ』とおっしゃっていました」と言う事であった。この原田先生の「中林には中林の読み癖が有るからなあ」と言う一言を学生伝えに聞いた時、今まで筆者の心を悩ませ続けていた楔が、非常に微量ではあるが一寸だけ緩んで来た様に感じた。
 この様に、原田先生は、筆者を教導して頂いたと同時に、常に筆者を悩ませ続けて来た人でもある。この悩みは筆者が再び蓮華の上で原田先生にお目にかかる時まで、続くであろう。否、持ち続けて行かねばならない悩みであろう。死して猶ほ筆者を悩ませ続けるとは、一体何たる人ぞ。将に「死せる原田、生ける中林を悩ます」の図であり、腐れ縁の最たるものであろう。これも又もって命哉。とすれば、全て善哉、善哉である。

     平成七年六月                             於黄虎洞

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