先人を偲ぶ〜加藤梅城と『廻瀾集』〜

本ページは、同窓会報269号(平成22年4月出版)からの転載である。


 過日ひょんな事から加藤梅城(名は梅四郎)の七言絶句の掛け軸を入手した。筆者は、数年前から大学での授業(日本漢文学史)資料として、江戸時代以後の儒者や漢学者の書軸を集め(現在、千九百本程)、授業で使っているが、全くの偶然から加藤梅城の書軸を見かけたのである。
 インターネットのオークションで、「書軸五本一括千円」と出ていたのを、面白半分に見てみた所、五人の人物が木下斗南(名は成太郎)の喜寿の祝いに送った品であった。木下斗南は、「北海の太閤」と称された北海道選出の衆議院議員で、大東文化学院の前身大東文化協会の理事を務めた有力政治家である。
 では、祝いの書軸を送った人々とは、青木朝峰・末松鴻嶺・内田遠湖・細田剣堂・加藤梅城の五人である。この内、青木と末松は、木下の同僚である政治家であるが、残りの三人は全て大東文化学院の関係者である。内田と細田は、学院創設期に教壇に立った漢学と書の教授であるが、問題は加藤梅城である。この加藤梅城なる人物が、如何なる人か、とんと分からなかったが、『廻瀾集、第十四編』(昭和十六年)なる本の編集者であることが分かった。
 『廻瀾集』とは、廻瀾社の文集のことで、廻瀾社とは、明治の大学者川田甕江が創設した漢文の文会で、錚々たる漢詩人や漢学者が集まって、月一回の会合を開いているが、日下勺水没後は途絶えていた。それを昭和三年に安井朴堂・古城坦堂・久保天随・松平康國(四人とも大東文化学院の教授である)らが復活させ、会員の漢文を掲載した文集を発行したのである。それが『廻瀾集、第一編』(昭和三年)で、編集は古城坦堂から始まり、安井朴堂・松平康國と受け継がれ、『第十四編』が加藤梅城なのである。
 この『第十四編』を見てみると、加藤梅城だけでなく、大東文化学院の第一期生である西脇玉峰・鈴木由次郎・藤野岩友らの作品も記載されている。では加藤と本学との関係はと言えば、実は加藤も学院の第一期生なのである。と同時に、本学卒業後は本学で『大學』を講義していれば、本学卒業生にして且つ本学教授なのである。
 当時の歴々たる漢学者と共に、若手である彼ら第一期生の漢文が、数多く記載されている。確かに彼らも廻瀾社の会員である以上、記載される権利は有しているが、他の人々は全て天下に知れ渡った漢文の大家である。その大家に比して遜色の無い堂々たる漢文、とすれば、彼ら第一期生の漢文力の高さが伺い知れると言うものである。「漢文に関する天下の秀才が雲集した」と伝えられている、当時の学院生達、その力量の一端を将に垣間見せられた気がする。
 何如にすごい先人達が、我が大東文化学院(現、大東文化大学文学部中国学科)で学ばれたことか、図らずも本学中国文学科の卒業生であり、同時に中国学科の教員の末席を汚す後輩たる筆者は、彼ら先人の詩文を眺めながら、ただただため息をつき恥じ入る昨今なのである。

 

     平成二十二年三月                           於黄虎洞 

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