日常空間の藝術〜文人趣味に浸る〜

本ページは、大東文化大学『大東文化』第530号、(平成13年10月刊行)からの転載である。


   日常空間の藝術〜文人趣味に浸る〜
 過日授業で東松山校舎に赴いた時、僅か三十分ほどであったが世俗を離れて文人世界に浸ることが出來た。それは一號館四階のコミュニテイギャラリーで、「燕京一月之跡」なる展覧會が開かれていた爲である。
 この展覧會は、本學書道學科の河野隆先生が、平成十二年度の短期特別研修として、北京を中心に過ごされた一ヶ月間の研修成果を、七十三點の藝術作品として、二週間(從平成十三年七月二日至十六日)に渉って公表されたものである。その内譯は、篆・隷・行・草の書作品二十七點、畫作品二十六點、篆刻作品四十一點である。
 これらの作品を拝見しながら、「中國を研究對象としている作家が、現地の息吹に直に触れると、かくも藝術的創作意欲乃至情熱をかき立てられるものか」等と、ある種の感動を味わうこととなった。
 無論筆者が言うまでも無く、河野先生は篆刻・書の專門家として著名な人物であれば、篆刻作品や書作品に対してあれこれ譯知り顔の言を弄することなど、とでも筆者の任でもなければ、その能力も無い。ただ九十四點の作品群の中に在って、特に二十六點の畫作品は、痛く筆者を喜ばせ感動させた。
 素朴な畫と漢字を連ねた畫讃と方寸の藝術たる印と、この三者が一體となって白い紙の上に描かれる畫作品こそ、將に文人趣味の小宇宙が展開される藝術世界である。そこに描かれている畫題は、爆竹であり、蟹であり、果物であり、野菜であり、文房四寶であり、京劇の瞼譜であると言う具合に、全てが日常のものであり、北京の人々の日常や生活の臭いを十分に感じさせるものであった。無論文人畫であれば、決してリアルな静物畫などでは無く、紙幅に彩墨を置いた素朴な畫である。一見矛盾するようであるが、リアルな臭いでは無く、「無臭の息吹」とでも言うべき一種の清涼感に富んだ生活臭を感じさせるのである。これは、作家に相當の力量が有って、初めてなせる技であろう。
 これらの小宇宙に浸りながら、作品を眺めて行った時、筆者の足を留めてしばらく佇ませた作品が有った。それは
「杭州所見」と題され茄子が二本描かれたもので、「これは良い」「これはすごい」と、思わず筆者に獨り言を言わせた作品である。無論他の作品もすばらしいが、特に茄子が良い。墨で輪郭を描かず薄紫の彩墨が、紙幅の上に生き生きとしかもごろんと横たわっている。この様な畫は、作家の感性と技の冴えが合い待った時に、一氣に書き上げられたものであろう。別の例えをするならば、中國清朝陶磁器の世界に在って、康煕民窯青花作品の素朴さと、雍正官窯作品の端正さとが、渾然一體となっている世界とでも言えるであろうか。民窯と官窯との差は、本來天地程の開きが有るが、それが一體となって小宇宙を形成している。紙幅の中央にごろんとした茄子は素朴であり、右端に僅か四行程書かれた畫讃以外の余白は端正である。
 最後に全作品を通して、何が一番筆者を喜ばせたかと言えば、それらが全て小品であると言う点である。「これは居間に合う」とか、「これは玄関に懸けよう」とか、どれもこれもが日常の生活空間の中に自然と當てはまるのである。見る者を壓倒させる様な藝術作品も悪くはないが、筆者自身はこの様な小作品が好きである。日常生活の中に、藝術と言うか小宇宙と言うか、 ある種の別世界が自然に無理なく収まっている世界に身が置けると言うことは、慎ましくはあっても幸せなことであろうと思えてならないのである。

     平成十三年七月                               於黄虎洞

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