素人古陶磁鑑定団始末記

本ページは、里文出版編集部の許可を得て、『目の眼』NO228(平成7年9月刊行)からの転載である。


   素人古陶磁鑑定団始末記
 我が大学の研究室では、授業用の資料として中国古陶磁器を収集しており、現在百七十点程が無造作に書架に積み上げてある。もとより鑑定の大家でもなければコレクターでもない中国学専門の研究者が、参考資料の一環として集めたものであれば、古代から民国初期に及ぶまで、真品・贋品・完品・損品・補修品・倣品入り乱れて放置され、閑時にはそれらを眺めながら、あれこれ素人古陶磁談義に花を咲かすのである。

 所で過日面白い逸品を手に入れた。それは、中国宜興の朱泥による三段重ねの蒸籠仕立ての茶器である。出所は、戦前の中国北京瑠璃廠で某日本人が入手したものであり、それが、その人の末裔から当研究室にもたらされたものである。我々が最初にそれを見た時は、あまりの見事さに感嘆の声を挙げたものである。何処から見ても竹で作った蒸籠である。あの横浜中華街の路上にある饅頭を入れた蒸籠と言うべきか、はたまた飲茶の点心を入れた蒸籠と言うべきか、誠に湯気に蒸されて茶色になった、長年使い込んだ竹の蒸籠に他ならない。手に取ってみても、その重さたるや竹以外の何物でもない。下段は茶海、中段の中には同じく蒸籠仕立ての急須と竹株の茶杯が入れられ、上段は蒸籠の蓋である。茶器の裏には、「葛庭製陶」の方印が篆字陽文で刻されている。葛庭なる人物は不明であるが、葛氏は清の中期以降の宜興の陶芸家として有名な一族である。
 さて、話はここからがややこしい。この茶器に対して、俄か鑑定家や外野の観客入り乱れての談義が盛り上がり、「清朝中期の作品だ」とか「いやいや清朝末期から民国初期にかけてであろう」とか、「さすがに宜興の名工、見事な作りだ」とか「色・艶・形、何処を取っても竹そのものだ」とか、いやはや喧しいことひとしきり、一応「清末葛氏作、宜興朱泥蒸籠仕立て茶器」と言う結論に落ち着いたのであるが、些か汚れが目立つので綺麗に洗おうと言うことになり、一晩熱湯に漬けて置いたのである。明朝いざ洗わんとバケツの蓋を取った所、何とお湯が真っ茶色に変わり、名工の朱泥と思ったその色が、見事に色落ちして黄色くなっているのである。とすればこの茶器は、形態はすばらしくても、我々が感嘆した艶の有る茶色は、お湯で溶ける程度のいい加減な着色が、施されていたに過ぎないのである。何と言うことだ、このままでは気分が悪い。何か色を付ける名案はないものかと考え、「茶の湯に漬けて茶渋を付けたらどうか」との意見に従い、多量のウーロン茶や紅茶を煮立てたバケツの中に漬け込み、密封して外側に「危険、触るな」と墨書し、廊下に置いておいたのである。
 しかし、間が悪いとはこのことで、世間かかの有名な地下鉄サリン事件の真っ最中である。浮世離れした極楽とんぼの学者が考えるのは、この程度のことである。掃除のおばさん達の猜疑心と胡散臭い視線に晒され、遂にこのバケツは解体撤去が申し込まれたのである。禄を奉ずる身として当局の意には逆らえず、僅か一ヶ月で茶器はウーロン茶の中から取り出されたのである。所がこの茶器、茶渋が付くどころか、益々もって白く変色したのである。宜興の作品であることは明白なのであるが、一体この茶器は何であろう。もう考えるのも面倒くさい。感嘆から嘆息へ、この落差は天と地程の開きが有る。こんな物は、見たくもない。哀れ、この茶器は、新たに「民国初期葛氏作、宜興黄泥蒸籠仕立て茶器」なる札を貼られて、部屋の隅で埃を被っている。物の罪ではない。見立てた我々の罪である。物言わぬ茶器は、愚かな人間のこのドタバタ騒ぎを、一体どんな思いで眺めていたことであろうか。
 高度な直しや手の込んだいかさまは、我々も鵜の目鷹の目で探し出し、その粗や傷を見つけては、嬉々として得意になり己の眼力の高さを誇るが、あまりにも稚拙な行為には、時として見過ごしてしまうことが有る。今回のがそれで、一体誰がお湯で溶ける様な色が茶器に付けてあるなどと考えようか。「巧智は拙誠に如かず」とはよく言ったものである。古人曰く「仁者は山を楽しむ」とか。なれば我々も、物の真贋など論議せず、素直に「陶に楽しむ」世界に身を遊ばせれば良いのである。

     平成七年六月                             於黄虎洞

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