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自己紹介  

自己紹介 MyProfile ・・・というほどのことはないのだが、なんとなく昔のこと。
生い立ち
 僕は、1970年9月2日、福島県伊達市梁川町に生まれた。実家は酒屋で、今も両親と妹夫婦が何とか店を続けている。

←在りし日の我が家とのこと。田舎の酒屋丸出しの写真。

 僕は長男なので、本当は5代目の酒屋の親父になるはずだった。子供のころはそれが当然だと思っていた。家を出ることをひそかに決意したのがいつのことかはもう思い出せない。時代が時代だったらそういかなかったろう。そしたら、自分も襲名し、武田×××となっていたはずだ。 

 福島の田舎町で子供時代を過ごしたことは幸福だった。子供のころには、東北の自然と城下町らしい情緒に溢れるこの町での楽しい思い出だけがある。

 また、小学校時代くらいまでは結構体が弱かったが、高学年から始めたソフトボールによって大部運動も得意になった。今では誰にも信じてもらえないが、僕は福島県の県大会で3位となったチームのエースであった。福島の県北地域の地方大会では、負けた記憶が一度もないくらいだ。

 その後地元の中学校を終えて、福島市内の県立福島高等学校に進学したのは1985年である。バブルのはじまりの年だ。子供のころから勉強は嫌いではなかったし、結構成績もよかったので進学校に合格したのだが、中学時代から数学が嫌い、本を読むのが好きという文系だった。高校時代には野球に見切りをつけ、柔道をやったりしながら相当の文学青年となっていた。数学の時間も平気で小説を読んでいたので、数学の教師からは大部いじめられた記憶がある。高校二年のころの夢は、アメリカの小説の翻訳家になることだった。英語は得意な方だった。

 なのに、考えてみると、僕は18歳になるまで外国人と英語で話した記憶がない。日本語でも標準語が話せなかった。僕は、毎日二冊くらいは小説を読み、高校三年生のころにはヘミングウェイの小説を全巻原書で読破できた。不思議な文学青年だったと思う。

大学から大学院へ
 1989年4月、上智大学文学部入学と同時に僕は上京した。2月から3月にかけて、僕は某国立大学のドイツ語学科と上智の英文科、ロシア語学科を受験し、結局、国立大の方を蹴って上智の英文科に進み、四谷キャンパスにあった学生寮に住みはじめた。今は取り壊されてしまったが、由緒ある学生寮であった。今でも寮の仲間とは時々連絡を取ったりしている。

 しかし、一、二年時には、初めての東京での生活(しかも新宿でも六本木でも初乗りで移動可能だった)にすっかりはまってしまい、三年でいわゆる専門に進むころには、4年間での卒業がほぼ絶望的になっていた。そこで、4年のときに英文科にいながら一年間中国に語学留学し、時間を稼いで何とか卒業した。

 そのころには日本の近代を中国とのかかわりから研究しようと大学院進学を決意していた。しかし、学者になれるとは到底思わなかった。僕は寧ろジャーナリストになりたかった。進学先を迷った末、東京都立大学社会科学研究科政治学専攻の大学院にすすむことにする。皆に合格など無理だと言われていたが、なぜか一発で合格した。

大学院から就職まで

 こうして大学院に進学してから後は、相当勉強した記憶がある。

 一方で修士の二年間は本当に貧乏だった。特に一年目の生活費は月に2万円くらいだったと思う。多分、僕はテレビでやっている「節約生活なんとか」にでても、結構いい線を行くのではないかと思うくらい、質素な生活を続けていた。

 それでも研究生活はとにかく充実していた。指導教官と研究室の先輩、仲間、友人たちのおかげである。あのころの僕の研究生活は今から考えても本当に理想的であった。都立大学(僕はあえて首都大学東京とは言わない)には感謝しようがない。
 
 大学院で、僕は、当初の目的であった日中関係を研究せずに、結局「日本政治外交史」を勉強することとなった。それは僕にとって結果的に思ってもいなかった視点や知識、そして人間関係をもたらしてくれた。研究が面白くなって、博士課程に進むこととしたが、これもなぜか無事に進学できた。そしてその後2年半で同大学学部助手に採用される。結果、僕は「大学院博士課程中退」であって、「単位取得満期退学」ではないこととなった。僕の博士号はいわゆる「論文博士」である。昨今はずいぶん少なくなったように聞いている。
 
 その後、指導教授の異動もあって、政策研究大学院大学の特別研究員というのになり、それを三年勤めたあと、大東文化大学法学部専任講師となる。大学教員になれるなんて思ってもいなかったので、このときは本当にうれしかった。しかも、それまでいわゆる「浪人」の時代が一年もなかった。自分でも「幸運」に感謝している。
大学教員として
 大東文化大学で、僕は自主独立の研究者として歩み始めた。

 専攻は、日本政治外交史であるが、現代日本政治や政策史料論も副専攻という感じである。

 講義は日本政治外交史を担当させてもらっている。その他に一年生向けの政治学も担当している。

 既に12年目となるこの大学教員生活だが、大学では自分を「研究者」だと感じることは少ない。僕はあくまで「教員」、つまり「先生」である。また、多くの場合は、「教職員」という名の職員である。一昔前で言う「教育」と、雑務という名の「行政」がとにかく多いのが昨今の大学事情で、就任当初は理想と現実のギャップに相当苦しんだ。

 しかし、僕の所属する学科には本当に気持ちのいい先生方ばかりがいらっしゃる。先生方には本当に教えられ、助けられてきた。

 最近我が学科には、そんな僕よりも若い人が増えている。大学の先生に先輩も後輩もないが、それでも僕がしてもらったようにあとから就職された先生方にお世話できているとは思えない。出来る範囲で頑張りたいと思っている 
 
 さて、以下は少しだけ、個人的なこと。
 僕の家族構成は、妻、長男、次男、三男の五人家族である。ちなみに妻とは博士課程進学時、25の時に結婚したからもう19年の結婚生活だ。

 しかも、結婚当初は僕が「主夫」だったので、今でも我が家はきわめて「民主的」な関係で家族を営んでいる。習慣というのは恐ろしいものである。
 ちなみに、そのころから埼玉県所沢市に在住。埼玉県民歴も19年目となった。
 大学院進学と同時に釣りを始める。一番の趣味は釣りである。当初はルアーでバスを狙っていたが、ブラックバス騒動のころから対象魚をヤマメなどの鱒族に変え始める。2004年に大東文化大学に着任直前、フライ・フィッシングを始める。フライ歴も今年で12年目となるが、この二年間はなんと一度も棹を握っていない。2015年度は是非とも釣りに行きたいと思っている。。

イギリスで釣ったブラウン
 また、2009年からイギリスに1年間滞在していたときに、サッカー観戦も好きになる。僕はFulhamというチームのシーズンチケットを買って、プレミアの試合を生で観戦してきた。サッカーは絶対にナマで見るべき。あの雰囲気は本当にたまらない。今でも僕は日本でもイギリスでも誰が何と言おうとフラムファンである。(あとちょっとだけManCiyも・・・・)

 そのフラムだが、2014年にプレミアを降格し、下位リーグでも低迷している。なんとかならないかしらん。

クリント・デンプシー クレヴァンコテジで一緒に写真撮ってくれた。
アメリカ人初のプレミアふたケタ得点者。
2012/13シーズンからスパーズに移籍した。
・・・・で、やっぱり活躍できていない。フラムにいればよかったのに

 今の悩みは、昔から大好きだった映画を見る時間がないこと。

 ちなみに、今まで見た中で最高の映画は、1992年の Scent of a Womanである。これは僕の心の映画である。

 先日久しぶりにテレビで見直して、夜中に一人で涙を流してしまった。最近涙腺がゆるくて困る。

1992 Scent of a Woman
 かわりに、ここ10年くらいは、CSで海外ドラマを良く見ている。法廷ドラマが大好きで、The PracticeやBoston Leagalに結構嵌った。今までみてきた中で最高のドラマは、2002年から2008年まで続いたThe Shield。これは絶対に歴史に残るドラマである。 

The Shield 2002-2008
  もう一つの悩みは、我が家の「民主主義」が、遂に子供たちにまで波及しはじめたこと。長男が高一、あとは三つ違いだから、皆身体だけではなく態度もでかくなってくる年頃だ。困ったものである。

 夢は、といわれれば釣りのこと。いつか「桜鱒」を釣りたい。また「フライフィッシングの世界大会」に出場したい。2011年からJFF(Japan Fly Fishers)の会員となった。釣りの幅も広がっているからいつかこの夢は叶うに違いない。

 勿論、いい本を書くことも僕の夢である。もっとも、それは夢というよりも、「仕事」であり、人生計画の一部である。しかし、その困難さを考えれば、やはり、夢といえるのかもしれない。

 それと、2011年の震災以降、僕はフクシマの出身であるという強い自覚を持つようになった。フクシマから近い将来きっと有為な人材が生まれる。僕はそう信じて疑わない。

 そういった学生を教師として精一杯援助してあげたいという気持ちにもなっている。

(2015年4月現在)