管説日本漢文學史略

〜授業用備忘録〜

平  安 (翰林時代・ 主たる担い手は貴族)

 平安朝時代

   空海

   勅撰三集

   『白氏文集』と『日本国見在書目録』 

   平安中期以後の漢詩文

   四大辞書

   漢文で書かれた史書等

《閑話休題・2》

 

 平安朝時代

 桓武天皇は、即位前より深く儒学を好み経書に精通し、大学頭にまでなった人であったため、即位すると、漢音を正音として使用することを奨励されますが、これは唐との交通の中で長安・洛陽地方の音が標準音化して来たため、当時乱れていた漢字の音を正そうとされたものだ、と言われています。

 延暦十三年(794)に平安遷都されると、大学寮の拡張充実を図り学問を奨励されたため、好学の風が一気に起こり、多くの私学が設立されます。藤原氏の勧学院・橘氏の学館院・和気氏の弘文院・在原氏の奨学院・恒良親王の淳和院・空海の綜芸種智院などが、代表的な私学ですが、殆どが貴族の貴族の子弟のための学校で、唯一綜芸種智院だけが僧侶のみならず一般の子弟をも教育しています。 

 この様な、平安初期の学風の中で、作詩・文学理論・思想など多方面に才能を発揮した人物が、真言宗の開祖として名高い弘法大師こと空海です。また、平安朝随一の漢詩文作家と言えば、菅原道真です。

 空海

 空海は光仁天皇の宝亀五年(774)に讃岐の国に生まれ、十五歳の時に外舅である阿刀宿禰大足から『論語』『孝経』などを受け、十八歳で大学明経科に入って経史を学ぶが、大和石淵寺の勤操和尚の教えを受けて大学を退き苦行を始め、二十四歳の時に出家します。桓武天皇の延暦二十三年(804)三十一歳の時に入唐し、平城天皇の元和元年(806)に帰国するや真言宗を弘伝し、平城・嵯峨・淳和・仁明の四朝に渉って一代の師宗として崇敬を集め、仁明天皇の承和二年(835)に高野山に入定した人です。弘法大師とは、死後八十七年を経て醍醐天皇から賜わった諡号です。以下に、彼の代表的著作を挙げておきます。

『三教指帰』三卷

 二十四歳の時の作と言われています。内容は、儒教・仏教・道教の優劣を論じたもので、寓意を含んだ小説体仕立てです。遊蕩青年である蛭牙公子を、兎角公子邸で三人の識者が戒告する話です。亀毛先生(儒)・虚亡隠士(道)・仮名乞児(仏)の三人が、それぞれの考えで説諭戒告しますが、最後は仮名乞児(仏)が一同の敬服を集めて終わる、と言う筋立てです。

『文鏡秘府論』六卷

 三十七歳頃の時の作と言われています。内容は、六朝から唐に至る間の詩文音韻関係の書を分類彙纂して、漢詩・漢文の作法を説明したものです。この書に引用されている書籍は、沈約の『四声譜』『四声韻音』・劉善経の『四声指帰』・釈皎然の『詩議』・元兢の『詩髄脳』『古今詩人秀句』・王昌齡の『鑑格』・崔融の『唐朝新定詩体』・姚合の『詩例』・殷?の『河岳英霊集』等々で、既に中国で亡んだものを多く含み、このことが本書の価値を高らしめています。

『遍照発揮性霊集』十巻

 空海の詩文集ですが、彼の高弟真済が空海存命中に編纂したものです。全十巻の内、七・八・九の三巻は早くから散佚し、承暦三年(1079)に仁和寺の済暹が編補しています。全体で百二十余の詩文を収めていますが、大半が仏教に関わる文章で、詩は僅か二十五首です。

『篆隷万象名義』三十卷

 日本人の手に成る最古の字書で、梁の顧野王の『玉篇』を節略したもの、と言われています。

 勅撰三集

 桓武天皇以来漢文が奨励され、特に嵯峨天皇は当時を代表する漢詩人でもあったため、漢詩が非情に盛んになります。その様な時代背景の中で、勅撰の漢詩集が三種作られます。勅撰三集とは、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の三作品を総称した言い方です。

『凌雲集』一巻

 小野岑守・菅原清公・勇山文継等奉勅撰。嵯峨天皇の弘仁五年(814)に成立した本書は、日本で最初の勅撰漢詩集です。凌雲とは、『史記』の司馬相如伝の「飄飄として凌雲の気あり」に依った言葉で、延暦元年(782)から弘仁五年(814)に至る三十三年間の詩を集めています。作者二十三人、作品九十首で、排列は作者の爵位順です。採取詩の多い人は、嵯峨天皇の二十二首、賀陽豊年の十三首、小野岑守の十三首、淳和天皇の五首、菅原清公の四首などです。

『文華秀麗集』三巻

 藤原冬嗣・菅原清公・勇山文継等奉勅撰。嵯峨天皇の弘仁八年(817)に成立した本書は、『凌雲集』以後の作とそれに漏れた作とを集めています。作者二十六人、作品百四十八首で、排列は遊覧・宴集・餞別・贈答等の類題別で、作者名は唐風の単姓表記で、藤原冬嗣を藤冬嗣・小野岑守を野岑守などと記してあります。二十六人の中に姫大伴氏がいますが、これは文献上に採取された最初の女流詩人です。

『経国集』二十巻(現存六巻)

 菅原清公・南淵弘貞・安倍吉人等奉勅撰。淳和天皇の天長四年(827)に成立した本書は、日本で最初の漢詩文集です。経国とは、言うまでも無く魏の文帝の『典論』の「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」に依拠した言葉で、詩と文とを合わせて採取した詩文の合集である点は、梁の昭明太子の『文選』に範を取っています。文武天皇の慶雲四年(707)から天長四年(827)に至る百二十一年間の詩文を集め、作者百七十八人、作品は、詩九百十七首・文百六首と伝えていますが、現存するのが一巻・十巻・十一巻・十三巻・十四巻・二十巻の六巻だけですので、奈良朝の詩文は概ね欠け、平安朝の詩文を残すに過ぎません。

 『白氏文集』と『日本国見在書目録』 

 『枕草子』に「書は文集・文選」と有る如く、文集と言えば『白氏文集』を指し、平安朝では教養人の必読書となり、日本の漢文や国文に与えた影響は絶大なものが有ると言えます。この『白氏文集』が何時日本に将来されたかに就いては、色々意見が有りますが、一応仁明天皇の承和五年(838)頃と言われています。

『白氏文集』

 この文集が将来されると、平安の漢詩壇は一気に白氏に席巻されたが如き様相を呈してきます。何故『白氏文集』が、これ程までに当時の人々に受け入れられたのか、その理由に就いては、

@平易で理解し易い詩であったこと。

A題材が広く語彙に富むこと。

B彼の思想(儒仏道を合わせた考え)が神儒仏の調和を考えた当時の人々に受け入れ易かったこと。

C彼の忠厚な人格が好感を持たれたこと。

D本場の中国で盛行していたこと。

等々が挙げられています。

 この『白氏文集』将来前後に活躍した詩人として、小野篁・都良香・島田忠臣・橘広相などがいます。小野篁と橘広相の詩文集(有ったことは、仁和寺書籍目録などに因って分かります)は伝わっていませんが、都良香の詩文は『都氏文集』三巻で、島田忠臣の詩文は『田氏家集』三巻で、それぞれ見ることが出来ます。

菅原道真

 この白氏の影響の精華を会得し、平安朝第一の詩人たる栄誉を獲得したのが、菅原道真です。現在道真を学問の神として祭る天満宮関係の神社は、全国で二万余にのぼります。彼は、政治的にも輝かしい業績を残した人ですが、その詩文を集めたのが『菅家文草』十二巻です。一巻から六巻までが詩で四百八十六首、残り六巻が文章百七十篇と言う構成です。他に太宰府時代の詩三十九首を集めた『菅家後集』一巻も有ります。

『日本国見在書目録』

 当時の人々にどの様な漢籍が読まれたのかを知ることは、当時の日本漢文の有り様を知る上で、重要なことだと言えます。その手がかりを与えてくれるのが、宇多天皇の寛平年間(889〜879)に勅を奉じて藤原佐世が編纂した『日本国見在書目録』です。これは、冷泉家の火災で蔵書が消失した後に作られた漢籍の分類目録で、千五百七十九部、一万六千七百九十巻に及ぶ漢籍を、四十類に分類してリストアップした、日本最古の漢籍目録です。

 平安中期以後の漢詩文

 宇多天皇の寛平六年(894)に遣唐使が廃止されて以後は、詩文も生気を失い勅撰ものも無くなりますが、それでも個人が集めた詩文集が有りますので、その代表的なものを挙げておきます。

『扶桑集』十六巻(現存二巻)

 一条天皇の長徳年間(995〜998)に紀斉名が編纂した書。醍醐天皇から円融天皇に至る八十余年間の詩が集められています。残存詩数九十四首で、七言八句の詩が大半を占め、大江維時や紀長谷雄の詩を多く収めています。

『本朝麗藻』二巻

 一条天皇の寛弘年間(1004〜1011)に、当時生存していた人々の詩を高階積善が集めた、と言われています。巻首を欠いていますが、採られている詩人は二十九人で百五十三首、春・夏・閑居・贈答など十九の部門に分けられています。

『和漢朗詠集』二巻

 三条天皇の長和元年(1012)に藤原公任が編纂した書。この書は朗詠の用に供するために作られた書で、中国の詩人三十人と日本の詩人五十人の佳句や麗章五百九十句と、日本の歌人八十人の歌二百十六首を採取し、漢詩と和歌とが並挙されている。並挙の組み合わせは、漢詩一首に和歌一首或いは数首であったり、逆に漢詩数首に和歌一首であったりと、必ずしも一定ではありません。

『本朝文粹』十四巻

 後冷泉天皇の治暦二年(1066)に藤原明衡が編纂した書。弘仁年間から寛弘年間に至るほぼ二百余年間の漢詩文を集めたもので、平安朝漢詩文の一大総集です。

『本朝無題詩』十三巻(現存十巻)

 二条天皇の長寛年間(1163〜1164)に編纂されていますが、編者は不明です。採取されている詩人は三十余人で、詩数は七百余首ですが、不思議なことに全て七言詩で、五言詩は一句も見当たりません。

 四大辞書

 盛んに漢詩文が作られた平安朝時代ですが、同時に当時の人々は、漢字の和語としての意味とか、逆に和語の意味をどの漢字に該当させるべきか等々、漢字の和語としての解釈にも、意を砕いた時代です。その結果、四大辞書と称されている『新撰字鏡』『和名類聚抄』『類聚名義抄』『伊呂波字類抄』が作られます。当時の詩文を、当時の人々が理解していた意味で解釈しようとすれば、当然これらの辞書を参考にする必要が有ります。なぜなら、同じ漢字であっても、今の我々が理解する日本語としての意味と、当時の人々が理解した和語としての意味とでは、大きな相違が存在するからです。

『新撰字鏡』十二卷

 南都の僧昌住の作と伝え、醍醐天皇の昌泰年間(898〜901)に成立しています。部首別に漢字を標出し、それぞれの漢字の音注を施し、意味を漢文で記し、それに和訓を万葉仮名で加えた漢和辞書です。

『和名類聚抄』二十卷(十卷本も有ります)

 朱雀天皇の承平四年(934)頃に源順が編纂した書です。部類別に漢字や漢語を標出し、出典を明示して半切や類音で音注を施し、意味を漢文で説明して和訓を万葉仮名で加えた漢和辞書です。二十卷本では、三十二部二百四十九門に分けられ、標出語は約三千三百五十余りですが、十卷本は二十四部百二十八門で標出語も約二千六百余りです。

『類聚名義抄』三卷

 作者は不明ですが、原撰本と増補本とが有り、恐らく、原撰本は法相宗系統の僧侶に因って十二世紀前半には成立し、増補本は真言宗系統の僧侶に因って十二世紀後半に増補されたらしい、と言われています。部首別に漢字を標出し、半切や類音で音注を施し、意味を漢文で和訓を万葉仮名或いは片仮名で加えた漢和辞書です。

『伊呂波字類抄』(『色葉字類抄』とも言います)十卷(三卷本も有ります)

 橘忠兼の編纂で、高倉天皇の治承年間(1177〜1181)の成立、と言われています。標出した漢字に付けられた和語や字音をイロハ順に排列した和漢辞書或いは国語辞書です。

 漢文で書かれた史書等

 この時期には、詩文ではありませんが漢文で書かれた史書も多くあります。内容は、国史と律令関係ですが、以下に列挙しておきます。

『続日本紀』四十巻、延暦十六年(797)、藤原継繩等奉勅撰。

『日本後紀』二十巻、承和八年(841)、藤原冬嗣等奉勅撰。

『続日本後紀』二十巻、貞觀十一年(869)、藤原良房等奉勅撰。

『文徳実録』十巻、元慶三年(879)、藤原基経等奉勅撰。

『三代実録』五十巻、延喜六年(906)、藤原時平等奉勅撰。

以上の五史に『日本書紀』を加えたものが六国史です。

 この他にも、

『大同類聚方』、大同二年(807)、安倍貞道等奉勅撰。

『古語拾遺』、大同三年(808)、斎部広成撰。

『新撰姓氏録』、弘仁五年(814)、万多親王撰。

『弘仁格』、弘仁十一年(820)、藤原冬嗣等奉勅撰。

『秘府略』、天長八年(831)、滋野貞主奉勅撰。

『令義解』、天長十年(833)、清原夏野撰。

『類聚国史』、寛平四年(892)、菅原道真奉勅撰。

『延喜式』、延長五年(927)、藤原忠平等奉勅撰。

等が有ります。

 

《閑話休題・2》

 平安朝に流布した『白氏文集』は、実際どのくらい日本文学に影響を与えたのでしょうか、その具体例を少し示しておきます。

 『白氏文集』の凶宅詩の「梟鳴松桂枝、狐藏蘭菊叢」は、『源氏物語』(夕顔)の「荒れたる所は狐などやうのものの、人おびやかさんとて、・・・」や、『徒然草』(第235段)の「狐梟やうのものも人げにせかれねば、・・・」や、与謝蕪村の『新五子稿』の「子狐のかくれ貌なる野菊かな」等です。

 また、有名な「琵琶行」は、『源氏物語』(横笛)の「ものむづかしう思ひしづめる耳をだに明らめ侍らんときこえ給ふを、・・・」や、『枕草子』(第80段)の「なかばかくしたりけむも、えかうはあらざりけむかし。それはただ人にこそありけめといふを聞きて、・・・」や、『方丈記』の「もし桂の風葉をならす夕には、潯陽の江をおもひやりて、・・・」や、与謝蕪村の『蕪村文集』(宇治行)の「白居易が琵琶の妙音を比喩せる絶唱をおもひ出て、・・・」等です。

 この時期の書は、漢字の和様化と仮名の出現が見られますが、代表的な能書家としては、三筆と称された嵯峨天皇・空海・橘逸勢や藤原関雄・小野篁・紀貫之ら、和様書道の三跡と言われる小野道風・藤原佐理・藤原行成や藤原定家ら、更には藤原行成を祖とする世尊寺家(所謂世尊寺流の書)の伊房・定実・定信・伊行らが、活躍しています。また奈良朝以来の経典写経も盛んで、特に平安後期は末法思想流行の中で、善美を尽くした装飾経が盛行します。

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