管説日本漢文學史略

〜授業用備忘録〜

鎌 倉  室 町 (叢林時代・ 主たる担い手は五山の僧侶)

 鎌倉・室町時代

   漢文表記に因る日記

   禅僧の詩文

   室町期の総集

   室町期の抄物

   室町期の儒教

   金沢文庫と足利学校

《閑話休題・3》

 

 鎌倉・室町時代

 この時期は一名五山時代とも言われますが、それは漢詩文作者の大半が、鎌倉五山・京都五山を中心とした僧侶に因って占められていたが為に他なりません。しかし実際は、南北朝から室町時代にかけての京都五山が中心であり、鎌倉時代はその揺籃期乃至は啓蒙期に当たります。

鎌倉時代は中国からの帰来僧(蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧・竺仙梵仙等)が多く、同時に雪村友梅や天岸恵広を初めとして多くの日本人が入宋し、より直接的に宋元の詩文や宋学などを学んだ時代です。

南北朝から室町時にかけて、「五山版」と称される漢籍が、多く寺院で出版されます。それは、『三体詩』『聯珠詩格』『瀛奎律髄』『皇元風雅』『古文真寶』『寒山詩』を初めとして、杜甫・韓愈・柳宗元・蘇軾・黄庭堅・陸游・趙孟(兆+頁)など、中唐以後宋元を中心とした詩人の集で、当時の日本人の嗜好が窺えます。

最初に朱子学を日本に伝えたのは、弁円円爾(嘉禎元年・1235に入宋し、仁治二年・1241に帰朝)であろう、と言われていますが、中国古典の解釈に在っても、古注に基づく博士家の伝統的解釈だけではなく、帰来僧や帰朝僧などに因って齎された程朱の性理学、つまり宋学の新注に因って解釈しようとする試みが行われた時代で、丁度次の江戸儒学への移行期に当たります。

詩文の方でも平安朝の白居易に対して、この時期は杜甫・蘇軾・黄庭堅などが喜ばれた、と言われています。 

 漢文表記に因る日記

 鎌倉時代は、漢詩文に於いて見るべき作品は殆ど有りませんが、一応漢文で書かれた日記が有ります。可成り和臭の強い日本的漢文ではありますが、当時の政治状況等を窺う史料としては貴重です。

『玉葉』三巻

 本書は、九条兼実の日記で一名『玉海』とも言います。この日記は二条天皇の長寛二年(1164)から土御門天皇の正治二年(1200)に至る三十七年間、兼実十六歳から五十二歳までの記録です。兼実は、晩年失職しますが、それまでは右大臣・摂政など政治の要職に位置し、その彼が実際見聞した所を記していますので、重要な史料と言えます。

『明月記』三巻

 本書は、藤原定家の日記で一名『昭光記』とも言います。高倉天皇の治承四年(1180)から後堀河天皇の嘉禎元年(1235)に至る五十六年間の記録です。内容は、歌学の問題・公武の問題等多岐に渉っており、当時の文学・政治を考える上で貴重な史料です。

『吾妻鏡』五十二巻(但し第四十五巻を欠く)

 本書は、鎌倉幕府の日記で一名『東鑑』とも言います。作者は、複数の幕府の書記に因って書き継がれたものだろう、と言われています。頼朝挙兵の治承四年(1180)から亀山天皇の文永三年(1266)に至る八十七年間の記録です。

 禅僧の詩文

 五山文学に於ける漢詩文の代表的な人々は、南北朝期の虎関・中巌・雪村・別源、室町期の義堂・絶海らの禅僧ですが、文は虎関・中巌・義堂が優れ、詩は雪村・別源・絶海が優れ、義堂と絶海とは、五山文学の最高峰である、とも言われています。以下に彼等を簡単に紹介します。尚、彼等の詩文を集めた個人集は、『続群書類従』に収められていますが、上村観光編『五山文学全集』・玉村竹二編『五山文学新集』にも収められています。

虎関師錬(1278〜1346)

 俗姓藤原氏で京都の人。十歳で受戒し、『文選』を菅原有輔に、『易説』を源有房に問ひ、帰来僧の一山一寧に学び、入宋を望むが母の病のため断念し、南禅寺に住して六十九歳で死去しています。韓愈を模範として文を学び、彼の詩話・詩論は中国文芸として見ても何ら遜色が無い、と言われています。その詩文集に『済北集』二十卷が有ります。

中巌円月(1300〜1375)

 俗姓土屋氏で鎌倉の人。十二歳で道慧に従って『孝經』『論語』を読み、二十五歳で入宋し、帰国後は南禅寺・万寿寺などに歴住し、七十六歳で死去しています。五山随一の学僧と称される彼の学問は、儒仏を融合して老荘を斥け程朱の学は採らず、文は韓愈・蘇軾を模範にした、と言われています。その詩文集に『東海一?集』が有ります。

雪村友梅(1290〜1346)

 俗姓源氏で越後の人。帰来僧の一山一寧に学び、十八歳で入元したが捕らえられて湖州の獄に下され、西蜀・秦隴地方に逃れて十年、赦されて長安に帰り更に止まること十年余、四十歳で帰国して建長寺に入り、金華山法雲寺を開山し、五十七歳で死去しています。彼の詩には、華麗な元詩の格調有る作品が見られ、その詩文集に『岷峨集』二卷が有ります。

別源円旨(1294〜1364)

 俗姓平氏で越前の人。七歳で入山し、鎌倉円覚寺の慧日和尚に侍ること十二年、二十七歳で入元し留まること十一年、帰国後越前弘祥寺の開山となり、その後建仁寺に移り、七十一歳で死去しています。その詩集に『南遊集』(入元時の作)・『東帰集』(帰国後の作)が有ります。雪村と別源の二人を、北越の二大詩人と言いますが、後世の良寛(1757〜1831)と合わせて、北越の三詩僧とも称されます。

義堂周信(1326〜1389)

 俗姓平氏で土佐の人。十五歳で受戒して夢窓国師に師事し、建仁寺・善福寺に歴住し、鎌倉管領上杉氏に請われて報恩寺の開山となり、後に南禅寺に移り六十四歳で死去しています。その詩文集に『空華集』二十卷が有り、前の十卷が詩集で後の十卷が文集です。特に文章に優れ、文の義堂とも言われています。

絶海中津(1336〜1405)

 俗姓津能氏で土佐の人。十三歳で天竜寺に入って夢窓国師に侍り、三十三歳で入明し四十一歳で帰国、甲斐の恵林寺の開山となるが天竜寺に帰り、後に阿波の宝冠寺を開山し、相国寺に転じて七十歳で死去しています。その詩文集に『蕉堅稿』二卷が有ります。特に詩に優れ、詩の絶海とも言われています。

 室町期の総集

 この時期の詩文は、個人の別集が中心で、総集が作られることは少ないですが、それでも『禅林風月集』『花上集』『北斗集』『翰林五鳳集』『百人一首』『遍界一覧集』等が有ります。その中の代表的なものを、紹介します。

『花上集』

 この集は、五山の名僧二十人の絶句集です。二十人とは義堂周信絶海中津・太白真玄・仲芳円伊・惟忠通恕・謙巌原冲・惟肖得巌・鄂隠慧カツ・西胤俊承・玉エン梵芳・江西龍派・心田清播・瑞巌龍惺・瑞渓周鳳・東沼周ゲン・九鼎竺重・九淵龍チン・南江宗ゲン・中恕如心・村庵文柄の人々で、各々十首が採取されています。

『北斗集』

 この集は、月翁周鏡・蘭坡景?・天隠龍沢・正宗龍統・了庵清欲・桂林コ昌・景徐周麟の七僧の詩、各々二十首を集めたものです。

『百人一首』

 この集は、七言絶句集で、当時の名僧百人の七言絶句を一首づつ集めたものです。『花上集』や『北斗集』に見える人だけではなく、この集有るに因って初めて名を知るような人々も含んでいます。

『翰林五鳳集』

 この集は、後陽成天皇の勅旨に因り、禅林諸僧の漢詩を分類編纂して六十四巻に仕立てたもので、一大詩偈集です。尚、この集は大日本仏教全書に収められています。

 室町期の抄物

 南北朝から室町期にかけて、所謂「抄物」と言われるものが多く作られます。これは、漢籍の解釈などを口述筆記した、一種の漢籍国字解ものです。その表記は、漢文も有りますが大半は仮名交じり文で、文語体であったり口語体であったり、或いは二者混淆であったりしています。

漢籍の解釈と言えばそれまでですが、平安以来の博士家の伝統的古注に因る解釈が有る一方で、新たに齎された宋学の新注に因る解釈も有ります。江戸儒教に移行する過程の室町時に作られる抄物は、日本に於ける漢籍解釈の歴史と変遷を考える上で、重要な資料であると言えます。

 この時期の、経史子集の抄物は、その総数は百余にものぼる、と言われていますが、義堂周信の『三体詩抄』、桃源瑞仙の『易抄』『史記抄』、笑雲清三には諸家の注を集め更に自説を加えた『古文真宝抄』、太岳周崇の『漢書抄』、月舟寿桂の『史記世家抄』『山谷詩抄』、雪嶺永瑾の『杜詩抄』、破関子の『東坡詩抄』等が有り、他にも無名氏の『論語抄』『孝経抄』等が有ります。

 これらは、主に禅僧の手に成る抄物ですが、博士家に在ってもこの様な動きは無視出来ず、清原宣賢には『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』『孝経』『孟子』『中庸』等の抄物が有ります。

 これら抄物は、清文堂出版の『抄物資料集成』や勉誠社出版の『抄物大系』等に収められています。

 室町期の儒教

 この時代は、地方にも儒学の波が押し寄せ、その最たるものが板東の足利学校ですが、それ以外にも、土佐と薩摩で儒学が盛んになって行きます。土佐の儒学を南学派と称し、薩摩の儒学を薩南学派と言います。

南学派

 この派は、南村梅軒が土佐に遊び、吉良宣経・宣義らと樹立したもので、道義を説く朱子学派です。学は四書に備わっており、道義を学んでそれを実行することこそが、学問の本領であるとする考えです。

 この梅軒の学は、三叟と称される忍性・如渕・天室の三禅僧に因って伝えられます。更に天室の門人谷時中に伝えられますが、その谷門下に、江戸初期に於いて土佐で活躍した野中兼山や小倉三省が現れ、更に京都で一派を立て、大きな影響を与えた儒学者山崎闇斎が現れます。

薩南学派

 この派は、四書新注を教授した岐陽不二の学問系統を引く桂庵玄樹が、島津忠昌に招かれて学を講じ、そこから一派を樹立したもので、古注を斥け新注のみを奉ずる朱子学派です。禅の見性と宋学の心性説とを融合した、精神の修養鍛錬を唱え、道義と忠孝を重んずべしとし、四書を絶対視しています。

 桂庵は藩老伊地知重貞に掛け合い、所謂文明版『大学』と称されている『大学章句』を刊行させていますが、これは、日本で朱子の註を刊行した最初のものです。

 また桂庵は、博士家に伝わったそれまでの「古点」による訓読ではなく、その時代に合った言葉での訓読を提唱した人で、門人の中に「文之点」で有名な文之玄昌がいます。

 金沢文庫と足利学校

 鎌倉・室町期に於ける代表的な漢学教育機関と言えば、多くの漢籍を収蔵した金沢文庫と、儒学の教育を行った足利学校が挙げられます。以下にその来歴と価値を、簡単に紹介します。

金沢文庫

 この文庫は、公的な図書館のようなものではなく、鎌倉中期に金沢(神奈川県)の称名寺内に北条実朝が創立し、実時・顕時・貞顕の四代に渉って収集が行われた、北条一門の蔵書です。その蔵書の中心をなすのが漢籍で、平安以来の写本や当時新たに齎され宋版などが収蔵されていました。「実時の蒐書は、決して単なる好学ではなく、修己治人の志に基づいた修学教養のための蒐集である」とは、阿部隆一氏の言です。

 室町時代に鎌倉管領であった上杉憲実が文庫の修理復興に努めますが、豊臣秀吉の小田原攻めの混乱で多数の書籍が散亡したのを初めとして、長い歴史の変転の中で大半の漢籍が散らばり、現在の蔵書は約二万巻有りますが、その殆どは仏書で、漢籍は散亡した残りの断簡零葉に過ぎません。

 しかし、例え断簡零葉とは雖も、宋版『南史』零本・旧抄本『文選集註』残本・旧抄本『南華眞経注疏』零葉等、唐以前のテキストや宋版の様相を伝える貴重な資料です。

 また幸いなことに、元来金沢文庫に有った「金沢文庫本」と呼ばれる漢籍が、宮内庁書陵部や静嘉堂文庫・大東急記念文庫・足利学校などに所蔵されており、『白氏文集』『文選』『群書治要』『太平御覽』『尚書正義』『論語正義』などが有ります。

 勉誠社が影印出版した『白氏文集』(重文指定)は、大東急記念文庫が所蔵する平安写本の金沢文庫本ですし、同様に汲古書院が影印出版した足利学校秘籍叢刊の『文選』(国宝指定)も、南宋明州刊本の金沢文庫本です。

足利学校

 この学校は、栃木県の足利市に現存しますが、その名が知られ出すのは、鎌倉管領であった上杉憲実が復活させた室町時代からです。創立起源に関しては諸説有りますが、「憲実関与以前の学校の殆どは、不明であると言ってよい」とは、川瀬一馬氏の言です。

 憲実は、漢籍を寄進したり学田を寄付したりして再興に努め、僧快元を校長に据えて管理教授の任に当たらせています。憲実が定めた校則には、四書五経や『老子』『荘子』『史記』『文選』などの名が見えますので、儒学を中心にして広く漢学を講じていたことが分かります。

 十六世紀の中頃には、空前の盛況を呈し、全国から学徒が雲集して「学徒三千」と称され、宣教師のフランシスコ・ザビエルが「板東に日本を代表するアカデミーが有る」と報告するが如く、当時の日本を代表する漢学教授の中心機関となります。

 この学校で講ずる漢籍の解釈は、博士家の古注を基本として新注を斟酌すると言う、古注と新注との折衷主義が採られていますが、特に易学の講義に異彩を放っていた、と言われています。かの徳川家康の政治顧問であった天海僧正も、足利学校に学んだ一人です。

 しかし、足利学校は明治五年に廃校となり、現在では、貴重な漢籍の所蔵機関として有名です。国宝・重文指定を受けている典籍は、八種九十八冊有りますが、代表的な漢籍は、宋版の『文選』『周易注疏』『尚書正義』『礼記正義』『周禮注疏』『毛詩注疏』などです。

 この内、『周易注疏』(南宋・両浙東路茶塩司本)・『毛詩注疏』(南宋建安の劉叔剛刊本)・『文選』(南宋明州刊本)の三種は、汲古書院から足利学校秘籍叢刊として影印出版されています。

 

《閑話休題・3》

 この時期漢学者と呼べる人々は、平安朝以来の博士家の人達で、菅原家では公時・豊長・秀長(特に優秀)の三人、清原家では頼元・良賢(特に優秀)の二人、中原家の師夏・師緒の二人です。博士家以外では、南朝の北畠親房と北朝の二条良基です。

 また、当時は戦国武将でありながら漢詩を嗜んだ人々もおり、それは、足利義昭・上杉謙信・武田信玄・細川頼之・伊達政宗・直江兼続らですが、直江兼続は、上杉家の滅亡を救い米沢文庫の基を作った人でもあります。

 この時期の書文化を担ったのは、五山文化の禅僧を中心とした宗教人の書である墨跡や、歴代天皇の書である宸翰・各御門跡の書、及び名筆家として知られる第17代青蓮院門主尊円親王の書風を継承しているとされる青蓮院歴代門主の書(所謂青蓮院流・御家流)、飯尾宗祇を初めとする連歌師らの書、他には一条兼良・三条西実隆・今川貞世ら等で、次いで戦国時代に入ると、武将の武田信玄・細川幽斎(藤孝)細川三斎(忠興)父子・伊達政宗・毛利元就・前田利家・結城秀康らも、能書家として知られています。

 また、仏教自体の変質や新展開は起きたものの、上代以来の写経自体は個々の時代を表す書体で、奈良写経・平安写経・鎌倉室町写経へと営々として行われて来ています。

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