中国古陶磁器管見

本ページは、大東文化大学『人文科学』創刊号(平成8年3月)からの抄訳転載である。


     はじめに
   
1、各陶磁器の形態と年代
     
おわりに

 

   はじめに
 中国古陶磁器に関する研究は、昨今の科学的研究の発達に因り日進月歩の展開を示しており、伝世品に基づく視覚的且つ形態的研究である第一世代から、文献資料研究を加味した第二世代を経て、以前に比べれば一応は中国との自由な往来や中国からの多量な調査報告書の流入等の環境的状況の変化に伴い、窯趾の発掘調査や釉薬及び胎土分析に依拠して、より客観的な判定と陶磁史全体の枠組みの再構築、及び各窯場の個別的且つ実証的研究の進化を目指す第三世代へと進んで来ている。この様な学術状況の中に在って、中国の文化史或いは美術史を理解する上で、絵画史・書道史・建築史・工芸史などと同等に、陶磁史の解明が欠くべからざる存在となって来ている事は、他言を要しないであろう。
 とすれば、中国古陶磁器の現物収集は、陶磁史解明の為の基本的且つ最重要な基礎作業の一環であると言えよう。無論世界各地の博物館に所蔵されている超一級の美術品に属する様な陶磁器の収集などは、金銭的・時間的・能力的にほぼ不可能と言ってよく、更に言えば、それらは中国古陶磁器を形成する氷山の頂上の一角に過ぎず、既に普遍的且つ確定的な評価が与えられているものであり、美術工芸品の収集と言う意味に於いてはそれなりの意義を持つ行為ではあるが、中国陶磁史の解明及び全体像の学術的把握と言う意味に於いては有効性が少なく、むしろ海面下に隠れている二〜三級に属するものや破損品及び陶片などの収集の方が重要且つ有用であると言えるのである。
 我が研究班(萩庭勇・中林史朗・大橋由治)も上記の如き問題意識に基づき、現物収集とその分析判定に鋭意努力して来た。その結果、この一年間で少数ではあるが20点前後の古代から清朝末に至るまでの現物を収集し得た。因って、ここにそれらの紹介と解説を提示して、我が研究班の中間報告としたい。

                                              

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   1、各陶磁器の形態と年代
彩陶雙耳壺(仰韶文化馬廠類型、BC3000〜2000)
高さ11cm、口径8,5cm、腹径11,5cm、底径5cm。泥質は紅陶で、形状は大口短頸にして圓腹小平底で口沿部分から肩部分にかけて兩耳が有る。口沿内部及び頸部には黒彩に因る縦横の直綫的紋様が描かれ、腹部には装飾的な横線及び菱形の紋様が描かれている。

紅陶雙大耳壺(仰韶文化斉家類型、BC2000〜1500)
高さ10,8cm、口径8,2cm、腹径10,3cm、底径6cm。泥質は紅陶であるが、上記の彩陶よりも土質が緻密で燃焼程度も堅い。形状は大口長頸にして圓腹小平底で、口沿部分から肩部分にかけて大きな兩耳が有る。腹部の丸みがやや鋭角的であり、紋様は一切描かれていない。

原始青磁弦紋小盂(西周時代、BC1027〜770)
高さ6,5cm、口径8,9cm、腹径10,6cm、底径6,7cm。泥質は灰色でカオリン質も高そうになく、形状は直口折肩にして浅腹実足であり、末広がりの圏足は高さ1cmである。肩の部分には二本の四周弦紋が描かれており、器の内外には青褐釉が施されている。釉調は薄くて流動的であり、器状に応じてはんなりとした濃淡や釉溜りが有る。圏足は無釉の露胎で、足底内部には轆轤使用の形跡が窺えるが、やや粗製の感は免れ難い。恐らくは、江南地方で焼成されたものではないのかと推測される。

緑釉陶壺(後漢時代、26〜220)
高さ15,5cm、口径7,1cm、腹径13cm、底径7,1cm。泥質は粒子の荒い紅色土で構成され、形状は盤口短頸にして圓腹小平底である。墓の副葬品である明器の一種で青銅器の壺を模したもの。800度前後で釉化する鉛を熔媒とした低火度の鉛釉、つまり緑釉が口縁内部から底部に至るまで全面に施されており、部分的に銀化が認められる。銀化の原因に関しては諸説が有るが、最近の中国科学院上海硅酸塩研究所からの報告に因れば、銀化は「墓室中の水と大気の作用に因り緑釉の表面が溶食して出来た物質が、水中の可溶性塩類と共に釉層表面とひびの中に析出されて出来たもの」と言うことである。本器は、低火度で焼きがあまいため、何処にも破損が無いにも拘らず、水を注入しておくと時間の経過と共に、器の表面から水分がうっすらと滲み出て来る。

灰陶鷄(後漢時代、26〜220)
頭部の高さ14cm、腹部の高さ7,5cm、尾部の高さ13cm、底径6cm。泥質は硬質の灰色土で、形状は鶏を模したものに過ぎないが、羽や尾の描写は力強い線刻で現されている。これも明器の一種である。

唐三彩忿怒人面貼花紋壺(唐時代、618〜907)
高さ12,8cm、口径10,7cm、腹径12,6cm、底径8,4cm。泥質は粒子の荒い紅白色土で構成され、形状は開口短頸にして圓腹小平底である。釉薬は腹部の上半分まで施され、下半分及び底部は無釉である。肩の部分に褐釉を施した人面四枚と、緑釉を施した小宝相紋四枚とが貼りつけてあり、腹部の中心には切り返し用の線刻紋が一周させてある。盛唐の万年壺の如きふっくらとした暖かさやおおらかさは認められず、釉調も薄くて荒っぽく、濃淡の有る褐釉の中に小さな緑釉が点じられていると言う風情で、そこはかとなく西方の影響が窺える。恐らくは初期の三彩であろう。壺中に人の毛髪が付着していた点から見て、やはり副葬された明器の一種である。

玉縁白磁碗(唐末・五代、881〜959)
高さ6,3cm、口径15cm、底径6,8cm。泥質は粒子の荒い灰白色土で、形状は高台より直線的に立上がり、口縁部分は玉縁形となっている。内外共に白釉が施してあるが、畳付け及び高台は無釉である。同形のものは日本でも各地で出土し、典型的なものとしては、奈良薬師寺西僧坊跡から発掘された唐の白磁碗が有り、宋代のものとしては京都市伏見区鳥羽離宮跡から出土したもの等が有る。本碗は、胎土・釉調及び全体的フオルムが宋代のものと異なりむしろ唐代的ではあるが、口縁部分の玉縁形がやや鋭角的で宋代に近く、畳み付けをやや斜めに切り込んだ平高台である点等から判断して、唐宋変革期つまり唐末・五代時期の作品であろうと推測される。

青磁牡丹紋有足円壺(越州窯、北宋初期、960〜1021)
高さ9cm、口径6,3cm、腹径10,5cm、底径7,3cm。泥質は粒子の細かい硬質灰色土で構成され、末広がりの圏足を伴った端整な姿の壺である。内外共に釉薬を施しているが、足底内部は無釉である。腹部の三方に力強い輪郭線で牡丹の花が刻されている。この形状は既に唐代から見られ、根津美術館には、ほぼ同形の唐代の黒釉青白斑文円壺が所蔵されている。口縁部分の状況を見るに、恐らくは本来は有蓋であったろうと想像される。

青白磁有蓋小経筒(徳化窯、南宋時代、1127〜1279)
高さ12cm、口径5,1cm、腹径6,3cm、底径4cm、蓋高3cm、本体高さ9cm。経筒でこれだけ小型のものは珍しい。内部・高台及び蓋裏は無釉であり、本体の釉表面には細かな貫入が無数に入っている。胎土はカオリン質の白土であるが、景徳鎮の影青ほどカオリン質が高くなく、且つ柔らかくて荒い。恐らく福建省の徳化窯近辺で焼いたものであろう。日用雑器は多く影青で焼かれているが、青磁の経筒は見かけても影青で作られたものは、あまり例を見ない。

黒釉兎毫紋盞碗(建窯、南宋時代、1127〜1279)
高さ6,8cm、口径11,9cm、底径4cm。所謂禾目天目茶碗である。胎土は、例に漏れず黒褐色の硬質土である。高台部分は小さく畳付けと内高台との差が殆ど無く、高台部分から口縁部分に向かってやや鋭角的に立上がり、将に宋代に流行した典型的な姿の茶碗である。口縁部分は、釉薬が下部に流れて薄くなったため一周の茶褐色を呈し、胴すその釉溜りや見込部分のどっしりとした漆黒の黒釉部分に向かって、兎の毫毛の如き茶色な細い線が無数に走っている様は、誠に美しい。釉調と言い、重さと言い、手触りと言い、古来我が国の茶人が珍重したのも宜なるかなと思われる。

黒釉白縁天目碗(吉州窯、南宋時代、1127〜1279)
高さ5cm、口径10,3cm、底径3,5cm。胎土は、硬質の白色土で、胴下部分と高台部分とが一体化して差が無く、畳付け部分から一気に直線的に立ち上がった小振りの茶碗である。口縁部分は、内側に8mmの幅で白釉が一周しており、美しいアクセントを付けている。見込全面と外側胴部半分位の所まで、海鼠風の黒褐釉が施されており、そのしっとりとして且つまったりとした釉調は、何とも言えぬ落ち着いた風情を醸し出している。

黒釉藍白斑碗(磁州窯、金時代、1126〜1233)
高さ6,5cm、口径11,7cm、底径3,4cm。胎土は、やや荒い灰色土である。全体に比べれば異常に小さい高台で、やや高めの高台から湾曲的に立ち上がっている様は、当時の磁州窯の白地鉄絵紋碗にも多々見受けられる例であり、胎土及び全体的フオルムから磁州窯系の碗と判断される。外高台よりも内高台の方が5mmほど深く、畳付けは3mmの幅しかない。内外共にやや薄くて光沢の無い黒釉を施し、口縁部分の三箇所から見込の中央に向かって藍白釉が流し込まれており、中央部分で混ざり合った藍白釉が、一種独特な色模様を呈している。

月白釉紫紅斑査斗(釣窯、元時代、1234〜1367)
高さ9,3cm、口径11,1cm、腹径10,3cm、底径5,9cm。胎土は、硬質の茶褐色土である。発掘物であるため、全体的に色調がかせているが、内外共に失透性の月白釉が施され、釉下に散らした辰砂はあざといまでの紫紅斑を呈し、全体的に浅い貫入が認められる。高台及び畳み付けは無釉であるが、高台の中央部分だけに蛇の目風に月白釉が付けられている。口縁部分及び胴の中心部分は、釉薬が薄くなって鼠色を呈している。胎土及び釉薬の厚さからして当然のことではあるが、手に取って見ると、見た目の大きさ以上の重量感が感得される。

青磁鍔縁貫入大皿(龍泉窯、元時代、1234〜1367)
高さ6,3cm、口径43,7cm、底径20,8cm、支柱孔径3cm。胎土は、半陶半磁の粒子の細かい灰色土である。器物全体に釉薬が施されているが、一か所だけ高台内部が蛇の目風に丸く削り落としてある。当時の例に漏れず、見込の底部中央に孔を開け支柱を立てて造型し、その後同質の陶板で塞いだ跡が、釉薬の上からも明白に目視出来る。本来、元の龍泉窯青磁は美しい緑色を呈しているが、本品は釉薬が全体的にガラス化してやや黄緑色を示し、釉薬の薄い部分は胎土の色を窺うことが出来、逆に厚い釉溜りの部分だけが透明性の強い緑色を呈している。釉薬がガラス化した青磁は、既に広東で焼かれた唐代の青磁に見ることが出来るが、本品は、胎土・釉薬・形状からして明らかに龍泉窯青磁である。しかし龍泉窯青磁としては、恐らく失敗作に属するものであろうが、逆にそのことが研究材料としては貴重である。則ち本品に因って、釉薬の厚薄の差が貫入の入り具合に如何なる形状的相違を生じさせるのか等々が、十分に窺い知れるのである。

白磁碗(景徳鎮民窯、明中期、1465〜1572)
高さ7,7cm、口径5,1cm、底径6,5cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。畳付けを除く全面に白釉が施され、やや光沢と透明性が有り、手に取ってみて分かる程度の極めて浅く且つ細かい氷裂の貫入が全体に入っている。形状は、高台からやや垂直的に立上がり、口縁は外部に反り返った縁反りであり、無紋ではあるが、明らかに元の枢府手白磁碗の系統を引くものである。

青花花卉紋鏤空花薫(景徳鎮官窯、明中晩期、1573〜166 1)
高さ42cm、胴径20cm、底径14cm、上半分の高さ23,8cm、下半分の高さ18,2cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。畳付けを除く全面に釉薬が施され、鮮やかな青花で薔薇と唐草紋が全面に描かれている。本品と同形であるが、一回り小さい宣徳時代(1426〜1434)のものが台湾の故宮博物院に所蔵されており、またロンドンのビクトリア・アルバートミュウジアムには、宣徳のものを模したと言われる、中央の球形がやや細長く卵形になり、全体の青花の量が減少して紋様がすっきりした、清朝乾隆時代(1736〜1795)のものが所蔵されている。本品は、上蓋の口縁部分に「大明萬暦年製」なる銘が在り、全体のフオルム・青花の色調・銘文の字様などから、萬暦の官窯製品ではないのかと想像されるが、確証は無く或いは後世の倣品かもしれない。ただいずれにしても、この形状からは、明らかに中近東の影響則ちモスクやイランの金属器の形が濃厚に感ぜられ、当時の東西交流に伴う商品の意匠や形態が、可成り直接的に景徳鎮磁器にインパクトを与えていたことが窺える。

呉須赤絵花卉紋碗(景徳鎮民窯、明晩期、1621〜1661)
高さ8,8cm、口径20,7cm、底径8cm。胎土は、カオリン質が高いも粒子の荒い磁土である。畳付けと高台を除く全面に釉薬が施され、その上から朱と緑で大雑把な花卉紋が後絵付けされ、見込みの中央部分も朱で丸を描きその中に同様な花卉紋が一点描かれている。しかし、生付けで可成り焼きがあまいために、一部ではあるが上絵が剥離している。もともと呉須赤絵は、官窯作品に比べれば古染めなどと共に崩れたデカダンス性が強いものではあるが、その呉須赤絵の中でも特に雑に作られた粗悪品ではあると言えよう。しかしこの手の通例に漏れず、高台の周辺にはやはり荒い砂粒が付着している。

白磁千手観音蓮弁座像(徳化窯、清朝、1662〜1911)
高さ24,2cm、手幅14cm、仏像高さ15,2cm、蓮座高さ9cm、底径5,8cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい磁土である。明代から名高い徳化窯の仏像は、俗に象牙質と呼ばれる黄白色のしっとりとした光沢の有る白磁が一般的であるが、本品は、叩くと金属音がする程に焼き締められ、やや冷たくて光沢の無い、些か引き締まって落ち着いた感じのする白磁である。清朝ものの如く底抜きの型造りの軽薄さは少なく、どっしりとした風格が有り且つ底にも中央に口経5mmの空気抜きの孔を開けた厚手の底板が張られ、一見明朝風の感無きにしも有らずであるが、良く見ると、台座と観音像とのバランスがやや悪く、更に意匠を駆使した感の有る鬱陶しいまでの手の数(一般的には8対乃至9対が普通であるが、これは12対も有る)や、宝冠の紋様及び衣服のドレープの線の弱さなどから判断すれば、やはり清朝の17〜18世紀時期の制作と考えた方が蓋然性が高い。

倣宋哥窯青磁長頸瓶(景徳鎮民窯、清朝、1662〜1911)
高さ17,5cm、口径5cm、頸高7cm、腹径9cm、底径5,3cm。胎土は、鉄分の強そうな褐色土である。褐色の畳付けだけを残して全面に釉が施してある。明らかに、形態は南宋官窯青磁瓶を、釉調は南宋哥窯を模したもので、所謂俗称の「白哥窯」である。全面に亘って施された比較的浅白な灰青磁釉の中を、無数の黒い貫入が走り回っている。しかし、その貫入は鬱陶しさや野暮ったさが無く、口縁部分にやや厚ぼったさを感じさせるものの、むしろ優美な中に凛とした風格が窺われる。ただ宋代の青磁ほど失透性が強く無く、釉の表面に微かに光沢が有る。雍正時代(1723〜1735)の作品に、本品と同様な釉調及び貫入の入り具合を示すものが有り、本品も雍正期の作ではないのかと想像されるが、或いは乾隆時代まで下るかもしれない。

火焔紅大瓶(景徳鎮官窯、清朝、1662〜1911)
高さ31cm、口径15,7cm、頸高5cm、腹径17cm、底径14cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。筒状の上に端反りの口縁部が付いた形で、どっしりとした風格の有る大瓶である。畳付けを除く全面に釉薬が施され、釉薬が薄くなった口縁部分は、ガラス化して透明になった釉薬に細い貫入が入っているが、他は全て見事なまでの火焔紅で、深紅色の中を青白色が不規則に垂れ流れている様は、複雑微妙な色調を提示して将に炎立つに相応しい色具合であり、畳付け部分の釉溜りの厚さは5mm近くにもなっている。清朝初期の官窯作品である紅釉瓶などの例と同様に、本品も、高台内は火焔紅ではなくて貫入が入った青磁が施され、且つ無銘である。恐らくは乾隆時代(1736〜1795)の作品であろうと推測される。尚、東京国立博物館には乾隆在銘の火焔紅觚形瓶が所蔵されている。

爐鈞釉合子(景徳鎮民窯、清朝、1662〜1911)
高さ4cm、口径11cm、底径5,2cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。畳付けを除く全面に釉薬が施されている。青色と白色とが織り成す霜降り状の釉調は、実に不可思議な色合いである。歴代の爐鈞釉を見比べると、霜降りの状況は一様ではなく、青色の濃いもの・緑色の濃いもの・茶紅色の濃いもの・白色の濃いもの・目の荒いもの・目の細かいもの等々多種多様であるが、本品は、どちらかと言えば白色部分の方が多くて全体的に青緑色を呈しており、且つ霜降りの目も極めて微細である点から考えると、多分道光以後(1821〜1911)の作品であろうと思われる。

黄緑釉山水紋筆洗(景徳鎮民窯、清朝、1662〜1911)
高さ3,3cm、口径9cm、腹径11,3cm、底径6,8cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。畳付けを除く全面に釉薬が施されている。黄釉の名工と謳われた王炳榮の作品で、肩の部分には線刻の亀甲紋が一周し、腹の部分には陽刻で山水と人物の絵柄が削り出されている。絵柄のダイナミックな構図や、樹木の線の力強く且つ微細である様などは、将に名工の作に相応しい。中国ではこの色調を湖緑釉と呼ぶ本も有るが、実際の色合いからすれば黄色の強い黄緑釉で、黄釉の作家と称されている所以が良く分かる。高台内には、篆文で二行四字の「王炳榮作」なる銘が陽文で識るされており、同治年間(1862〜1874)のものである。

黄釉地龍紋碗(景徳鎮官窯、清朝、1662〜1911)
高さ5,3cm、口径11,5cm、底径4,3cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。口縁がやや端反りの光を通す程の薄手の碗で、一級品に属するものであろう。外面は落ち着いた色調の黄釉が全面に施され、五爪の龍二匹と海波紋が柔らかいタッチの線刻で描かれ、歴史の流れを物語るが如く黄釉の表面が微かにハレイションを生じている。一方見込み内部には青花が使用され、口縁部分には青花の二重線が一周し、見込み中央部分は青花の二重線で丸を描き、その中に金魚三匹と水草の魚草紋が青花で描かれている。高台内部には、青花を使用した二行六字の「大清光緒年製」なる楷書の銘が在る。作風・釉調・銘文などから考えて、光緒年間(1875〜1908)の官窯作品と判断しても、まず間違い無いであろう。

倣乾隆雨龍唐草紋闘彩竹管雙耳壺(景徳鎮民窯、清朝、1662 〜1911)
高さ38,5cm、口径23,7cm、腹径31cm、底径20cm。胎土は、カオリン質が高く粒子の細かい上質の磁土である。この様な形状の壺は乾隆時代に多く見られ、高台内には確かに篆文で三行六字の「大清乾隆年製」なる銘が在るが、しかし本品は、明かに光緒時代の倣乾隆作品である。闘彩の色彩部分だけを取ってしまった青花の下絵部分だけを見ると、それなりに整った青花の色調で全体的釉調も悪くは無く、一見乾隆の風が無い訳ではないが、後絵として加えられた闘彩の色調が甚だ雑で、その中でも特に緑色が悪く、見る者をして目を背けさせてしまう。本来の闘彩用の顔料ではなく粉彩用の顔料が使用されており、しかも色の入れ忘れが多々有り、極めて野暮ったくいかがわしい作風に仕上がっている。恐らく、光緒時代に倣乾隆作品として下絵を入れたままで忘れられていた漏彩が、民国時代に至ってから加彩された、所謂「後加彩」作品ではないのかと判断される。

白泥蒸籠型茶器(宜興窯、清末民国初期、1875〜1931)
蒸籠の高さ15,5cm、口径21cm、茶器の高さ7,5cm、口径9,8cm、茶杯の高さ3cmと4cm、口径4cmと3,6cm。胎土は、粒子の細かく且つ柔らかい宜興の白泥土である。蒸籠は下段が茶海、中段が急須受け、上段が蒸籠蓋の三段作りで、急須も蒸籠仕立てであるが、注ぎ口と取っ手は竹枝作りである。茶杯は八個有るが、四個は蒸籠作りで、残りの四個は竹株作りである。蒸籠と茶器の裏に篆文陽刻の方印で「葛庭製陶」なる銘が記されている。葛氏は、清朝中期以後宜興の陶芸家として有名な一族であるが、葛庭なる人物は残念ながら不明である。恐らく、葛氏に連なる人物の手に成る民国時期の作品であろうと推測される。但し、この中で他と異なる四個の竹株作りの茶杯は、明かに清朝末期の名工の手に成る逸品である。何処から見ても竹株であり、色調見栄えと言い、手触りと言い、重さと言い、感触と言い、将に枯れた古竹の竹株以外の何者でもない。杯の底裏には「金蘭」なる銘が、篆刻陽文で押されている。
                                                

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   おわりに
 以上この一年間で収集した25点の作品に就いて、分かる範囲で作品の解説と時代設定を試みた。しかし、陶磁器の研究は、集めさえすれば良いと言うものでもなければ、これで事足りると言うものでも決してない。八千年にも及ぼうとする中国陶磁史の中に在っては、所詮涙の一滴に過ぎない量であり、全体像を把握しようとすれば、古窯址の発掘とその報告が陸続として行われている現況に在っては、恐らくこの一万倍以上の量が必要であろう。だからと言って、収集を放棄する訳にはゆかない。各々の時代には各々の時代相を伴った作風や特徴が有り、それぞれの窯にはそれぞれ独自な生産様式と美意識が有る。更に言えば、陶磁器は美術品だけではなく膨大な日用雑器を生産して市場を形成していれば、商品流通に伴う経済活動の中で陶磁器が担った経済的影響や、地方経済圏の盛衰との関わりなども解明されねばならないであろう。
 故に、個々の作品を地道に丹念に収集しながら、景徳鎮のみならず各地の地方窯の実態を解明分析し、更にそれを全体像の中で客観的に位置付け、それが絵画や建築など他の芸術分野や経済活動などと如何なる影響や関係が有るのか等々を追及して行くことが、今後に求められる大きな課題である。本来中国文化史理解の一端として陶磁器収集とその分析を開始した我が研究班であるが、将来的にはそれのみに止まらず、商品経済に関わる視角を持ったものとしての問題解明に立ち至らざるを得ないであろうことは、既に他言を要すまでも無いこととして、各研究員に十分実感されている。


参考文献
@『中国陶瓷』馮先銘主編(上海古籍出版社)
A『中国歴代陶瓷款識彙集』(古文化研究社)
B『徳化窯』福建省博物館編(文物出版社)
C『中国古代窯址調査発掘報告集』(文物出版社)
D『古陶瓷科学技術国際討論会論文集』李家治主編(上海科学技術 文献出版社)
E『中国美術全集〜工芸美術編1.2.3〜』楊可揚主編(新華書 店)
F『中国文物精華大全〜陶瓷巻〜』国家文物局主編(上海辞書出版 社)
G『清代瓷器賞鑑』銭振宗主編(中華書局)
H『中国陶瓷美術史』熊寥著(紫禁城出版社)
I『宋代官窯瓷器』李輝柄著(紫禁城出版社)
J『汝窯的新発見』河南省文物研究所編(紫禁城出版社)
K『南京出土六朝青瓷』江蘇省文物管理委員会編(文物出版社)
L『中国陶磁通史』中国硅酸塩学会編(平凡社)
M『貿易陶磁』橿原考古学研究所編(臨川書店)
N『中国陶磁の八千年』矢部良明著(平凡社)
O『世界陶磁全集11〜15』長谷部楽爾主編(小学館)
P『中国陶磁史研究』三上次男著(中央公論美術出版)
Q『元明時代窯業史研究』佐々木達夫著(吉川弘文館)

     歳在丙子                               識於黄虎洞
                                                

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