漢學と文物〜文字から物へ〜

本ページは、大東文化大学『大東フオーラム』第11号(平成10年3月)からの転載である。


     はじめに
   
1、陶磁器
   
2、青銅器
   
3、圖畫
     
おわりに

   はじめに
 漢学とは、如何にも古色蒼然たる響きを聴く者に与える。試みに手元に有る漢和辞典を紐解いて見ると、「(1)シナに発達した文化を研究する学問(2)シナの漢唐間に行われた経学(3)シナの文字語句の解釈を中心にした学風」(三省堂、『新明解漢和辞典』)と記されている。この場合の「シナ(秦旦)」とは「中国」の事であるが、一般的には(2)と(3)とを合わせた訓詁注釈乃至は漢詩文の解釈を想起させる古臭くて堅苦しい学問であるとのイメージを、社会に与えている事は否めない。しかし、これはある意味では已むを得無い事で、最初に日本人が中国の文献に拘った時には、その文献自体が本場の中国では既に古典となっており、結果日本人は中国の古典を学ぶと言う事になるのである。
 中国では、秦の統一に因る思想統制以来、独自の論理に因る新たな思想を述べるような人物はあまり輩出されず、何かにつけて古典を引用して己の意見の正当性を主張しようとし、場合に因っては断章取義的傾向さえ見受けられる。例えば「孔子はこの様に申しております。故に・・・」とか「春秋にはかく有ります。因って・・・」とかである。そのため、漢の鄭玄や宋の朱熹の如き古典解釈に拘る大学者は登場するが、独自な思考となると清朝末の章学誠まで待たねばならないのである。
 とすれば日本人の中国研究は、必然的に中国古典研究に主眼が置かれる事になり、そのため中国の同時代的な物に関しては、中国近現代思想とか中国近現代文学とか言って、「近現代」を付ける事に因り所謂「漢学」とは弁別しようとする風潮が発生し、更に言えば
「漢学」を学ぶためには「訓読」が出来なければだめであるとか、中国の文献であれば「中国語」で読むべきだとか、学問以前の不萠な論議が声高に論じられる事になる。しかし「訓読」であれ「中国語」であれ、所詮それは中国の文献を理解するための方法論、つまり技術に過ぎない。技術は技術でしかなく、本人が鍛練を積みその技術に熟達さえしていればそれで十分で、基本的に学問の本質とは何ら拘り無い事である。要は両方をマスターして、対象文献に合わせて理解しやすい方を適宜用いれば良いのである。所が、この二者択一的な論議は、ややもすると「我こそは訓読を会得している」とか「私は中国語が何不自由無く使える」とか高言なさる方々に、得てして見られる論議である。つまり、何時までも技術論が戦わされる所に「漢学」の古色蒼然たるものが有ると言えるのである。

 因みに筆者は、「漢学」とは(1)であると考えている。対象が「中国(秦旦)に発達した文化を研究する学問」であれば、空間的には当然中国文化の影響を受けた周辺諸国の漢字に依拠する文化もその対象に含む事になるし、時間的には古代から現代までになるし、内容的には文字・文物から社会現象までと言う事になる。つまり漢字を基本としたありとあらゆるものを含む「総合中国学」的なものこそが、筆者にとっての「漢学」なのである。
 とすれば、中華料理(忽思慧の『飲膳正要』・賈銘の『飲食須知』・朱彜尊の『食憲鴻秘』・袁枚の『随園食単』等)を研究する事も、「中国食物文化史」の研究として筆者には「漢学」の一部を構成するものであり、また衣服(衣冠束帯やその付随品及び纒足靴等を含む)の研究であっても、「中国服飾文化史」として同様である。
 しかし、過去に於ける日本での漢学研究と言えば、やはり文字資料を通しての中国理解が中心であり、文物はあくまで補完資料としてしか扱われてこなかった。無論中国に於ても程度の差こそ有れほぼ同様で、例えば、亀の甲羅や鹿の足の骨等に刻まれた文字を研究する甲骨学や、青銅器に彫られた文字を考究する金文学等が有るが、これとても基本的には甲骨や青銅器自体を云々するのではなく、そこに残っている文字を研究対象としている。更に言えば、事の真偽は別として河から登場したとされる緯書の河図洛書や、家屋の壁中から現れた古文書等も、発掘物と言えば発掘物であるが、やはりそこに書かれている内容が論議を呼ぶに過ぎず、材質等々その物自体はあまり問題視されない。この様に言えば、当然「いや中国には書画を研究する分野が有るではないか、それは立派な文物ではないのか」との反論が起きて来る。確かに中国書画に関する研究は長い歴史を持っている。しかしそれは、観賞であり実作であり評論であり、「物」そのものの分析ではない。つまり如何なる筆を使って如何なる材質の物に書けば、如何なる物が出来上がるのか、又ある物を描くには、如何なる材質の筆で如何なる顔料を如何程使用すれば良いのか等々の材料学とでも言うべきものが、全く論議されて来ていない。最近「中国美学」とか「中国書学」とか言う言葉をよく耳にするが、「美術」や「書道」の歴史は長いものの、総合中国学としての「美学」「書学」となれば、今後の大きな課題であろうと思われる。
 では過去に於て文物は全く顧みられ無かったのかと言えば、必ずしもそうではない。江戸時代の文化・文政以後、文人趣味の流行と共に狩谷ヤ齋の如き大学者を初めとして、何人かの学者が中国古銭や中国古印を収集研究してはいるが、それが漢学の一分野として日の目を見る事はなく、一過性の中国趣味として取り扱われている。また十九世紀末から二十世紀初頭にかけての欧州社会は、多くの人員を中国を初めとして亜細亜諸国に送り込み、長期に亘る風俗調査に基づく文物を持ち帰っているが、これは中国学の一分野を客観的に研究するためと言うよりも、植民地政策に基づく中国趣味的色彩の方が遥かに大きい。
 しかし一九五〇年以後中国から報告される発掘物は、満城漢墓の金縷玉衣にしろ長沙馬王堆漢墓の帛書にしろ、更には秦の始皇帝陵の兵馬俑にしろ四川三星堆の青銅器群にしろ、我々を驚愕させるには十分な物であったし、今まで疑いを以て見られていた文献上の記載が、「物」の出現に因って証明された事も多々有った。
 では今後我々は、伝世の文物や発掘物或いは今存在する物等を、如何に扱って行けば良いのであろうか。それらを収集して眺め、「美しい」とか「醜い」とか「善い」とか「悪い」とか言っている限りは、所詮中国趣味の世界から離れられず、総合中国学の一分野として位置付ける事は困難になる。則ち文物を単なる観賞物として扱うのではなく、文物それ自体を成立せしめている要素の分析から始めねばならない。とすれば当然の事ながら、物理・科学・薬学・医学等々の自然科学の分野に属する知識が必要となろう。人文学を専攻する者にとって、これらに関する最先端の知識を得る事は、極めて困難であると思われるが、基礎知識に関しては努力次第で身に付ける事が出来るし、亦た中国からは、既に専門家に因って分析された詳細なデーターが報告(『文物』『考古』等)されていれば、それらを有効に使用すれば良い。次に、その文物が如何なる場所で制作され、如何なる地域に流通しているのか等、社会科学的分析も必要になろう。要は文物自体に、その時代と社会を語らせると言う事であり、その成果を、伝統と歴史を持つ文献解釈に因る人文学の成果と有機的に結合調整し、より立体的にある時代や社会及び人々の様相を理解把握しようと言う事である。
 一例を挙げれば、人々が日常使用する衣服の大きさ等は、あまり意に止められない。しかし、古い時代に在っては衣料の素材はある程度限定される。とすれば小さくて短かった衣服が、ある時期から大きく長くなったとするならば、しかもそれが一部の地域ではなく全国的であったならば、当然綿布の使用量が大幅に増加する事になる。使用量の増加は必然的に生産量の増加を将来し、結果換金商品作物の耕作面積地拡大と、逆に食料作物の耕作面積地減少と言う状況をもたらすであろう。この様な社会状況は、地域間に貧富の差を生じて社会不安を惹起させるであろうし、一方該当時期の文献には、人民の移動・離散や群盗の多発等が散見する事になると言う事である。文献には事象の記録は残っていても、その客観的な遠因まではあまり記されない。
 筆者は而立以前に在って、中国の文献を読む度に師父から、「字面を読むな、文脈を読め、行間を読み込め」と叱責を受けた。当時は「行間を読む」事など分からず、「何を言っているんだ、書いてある事は書いてある事だろう、全くこの人は口喧しい先生だ」と思っていたが、今はその浅はかさを深く反省している。

 筆者は文物を扱う事も、立派な中国学、即「漢学」の一部だと理解している。無論古の聖賢が書き残した古典や詩文を解釈理解する事が、「漢学」の重要な一分野である事は十分に承知している。故に古典や詩文の読解に対しては、夜を日に継いで努力を傾注し、彼等の思考を理解しようと悪戦苦闘してはいるが、しかし、自分自身が聖賢になろうとも詩人になろうとも更々思ってはいない。要は筆者の学問的興味が、それらを成立せしめた時代・社会及び人々の生き様の方に、より大きく傾斜していると言う事である。因って所謂訓詁注釈的「漢学」なるものは、あくまで筆者の理解する「漢学」の「一分野」であり、決して「全体」では無いのである。
 「これこそが漢学だ」「漢学の正統はかくあるべきだ」などと言い、強固なカテゴリーを作ってその中に安住する事は、極めて居心地の良い事であるが、それでは何時まで経っても古色蒼然たる世界から脱却出来なくなる。自分が努力して長年学んだものが、所詮「ワンオブゼム」であると思う事は、極めて居心地が悪く己のアイデンテテイーが崩壊しそうで不安が襲って来る。しかし同じ国を研究対象にしていても、個々の学問的興味の相違に因り個別的研究対象は千差万別となり、結果としてそれに対するスタンスやアプローチのスタイルも自から異なって来る。だが同時に中国学は、如何に学問が細分化されようとも元来は「文・史・哲・芸」を共に学ぶ総合学でもあったはずである。故にその居心地の悪さの中に居心地の善さを求め、例え嫌いで理解し難いものであったにしても、せめて互いに異質な他者を容認し合う努力を傾注する事こそが、「漢学」のルネッサンスを将来するものであろうと、筆者は常々考えているのである。

 因って次に、具体的な文物を紹介しながら文献との拘りを説明する事とする。

トップへ

   1、陶磁器
 先ず陶磁器に就いて見てみよう。宋代以降の青磁や白磁及び明清の官窯製品は一種の美術工芸品であるが、それ以前の物は基本的に墓の副葬品、所謂明器(古陶磁器2.古陶磁器4.古陶磁器8.古陶磁器9.古陶磁器11.古陶磁器789.を参照)が大多数を占めている。これらは埋葬者の生前の生活様式を写してミニチュア化したものが大半であるため、文献上からは伺い知れない当時の生活形態や社会風俗を考察する上で、極めて貴重な第一級の文物資料と言えるであろう。それらの中で特に興味を引くのが、三国時代の呉から西晋時代にかけて現れる青磁の「神亭(魂亭)壺」と呼ばれる怪奇な壺である。壺の上に楼閣を取り付け、その周囲に動物や人物等をびっしり貼り付け、壺胴にも貼付文を飾った異様な器形の壺である。この壺が何を現しているのか、未だ完全には解明されていないが、「神亭(魂亭)」と言う言葉が示すが如く、「神の憑依する所の義」を現していると言われ、或いは「五穀豊穣の義」を現しているとも言われている。いずれにしてもそこには宗教的要素が濃厚に感じられるが、問題なのは、浙江省と江蘇省から集中的に出現すると言う事である。
 以後この様な形態の壺は忽然と姿を消すが、南宋に至ると青白磁に因る同形態の壺が再び出現する。それが
「帰依瓶(十二神瓶・日月瓶)」古陶磁器18.古陶磁器282.を参照)と呼ばれる壺である。「神亭(魂亭)壺」に比べれば細長くはなっているが、周囲に十二支俑や動物・日月等を堆貼して装飾している点は同様である。装飾紋様の題材から道教の影響が指摘されてはいるが、これも出現地が江西省及び福建省の一部に限定されているのが問題である。材質が青磁か青白磁かに就いては、陶磁器の釉薬の発展変化に拘る問題でしかなく、取り立てて言う程の事はない。問題なのは、時期と場所である。西晋にしろ南宋にしろその前の後漢末及び北宋末には、河北から江南への民族移動が認められる。しかもこの様な壺は河北からは出現例が見られず江南地区だけであり、更に江南全域ではなく特定地域から集中的に出現すると言う事である。しかもその場所は、現在「客家」と呼ばれる人々が居住している地域に極めて隣接している。とすればこれらの壺・瓶は、単なる宗教(道教)の影響だけを考えれば良いのであろうか。他に民俗的・習俗的なものが拘っているように思えるのであるが、いずれにしても地方文献等を駆使した今後の解明を待たねばならない。

トップへ

   2、青銅器
 次に青銅器に就いて見てみたい。殷・周時代の著名な鼎や尊等の青銅器群は別として、秦以後となれば銅鏡が多く出現する。その中に「四神(四獣・四霊)鏡」青銅器2.を参照)と呼ばれている漢代の鏡が存在する。「四神」とは、我が国の高松塚古墳の壁画にも描かれている青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)の事である。これらの動物は、東西南北の四方を象徴する神獣であるが、同時に国都の四方に鎮する守り神でもある。「鏡の紋様など、夫々の時代の流行り廃れだ」と言ってしまえば、所詮それまでの事である。しかし、筆者には次の様な事が想起される。そもそも前漢とは如何なる時代であったろうか、一般的に「秦漢統一王朝」と呼び、如何にも強固な国家体制が構築されていたが如きイメージを与えるが、果たしてそうであろうか。
 我々は後漢の班固が編纂した『漢書』藝文志の依拠した物、つまり前漢の劉向・劉キン父子が行った書物の校訂作業の時期を考えれば良い。劉向・劉キン父子が活躍した時期は、前漢の元帝時代(BC四八〜)から王莽時代(〜AD二三)にかけてであり、特に劉キンは王莽の国師となっている。この前漢末に、それまでの学問の総括則ち書物の整理校訂作業が行われたと言う事は、本格的統一王朝の前漢と雖も、未だ戦国の遺風を強く残し、この時期に至ってやっと春秋以来の学問を冷静に判断出来る余裕が生じたと言う事であろう。つまり前漢は、表面的な統一とは別に、内実は完全なる国家体制を確立するまでには至っておらず、特に理念上から言えば、前漢末は「漢王朝は如何なるものか」「国家とは如何に在るべきか」「国家的行動を律する儀礼は何か」等々を模索し、確定させようとしていた時期に当たる。『漢書』郊祀志を一読すれば、国家の体現者たる天子が行う最も重要な儀礼の一つである郊祀さえ、未だ完全には確立されていなかった事が分かる。況や他の儀礼をやであり、しかもこの論議には先の劉氏父子が参画している。以上の文献的資料を基にして、再度「四神(四獣・四霊)鏡」の出現状況を考えてみよう。
 この鏡は漢代を通じてアトランダムに出現する物では決してない。それはある時期に限定され、それ以前でもそれ以後(この場合は、隋唐時代の四神鏡や瑞獣鏡は含まず、前漢後漢時代に限定してである)でも現れず、前漢晩期から王莽時代、更に後漢初期の間に集中している。既述の如き四神の持つ社会的或いは国家的意味合いを勘案した時、その出現時期と王朝に在って国家の在り様が論議されていた時期との一致は、果たして偶然の一致であろうか。
恐らく今後は、鏡の上面に施された紋様を単なる修飾紋様の変遷史的視点で見るのではなく、より社会学的分析を加えねばならない必然性に迫られるであろう。

 亦た今まで疑問視されていた文献の記述内容が、発掘物に因って証明された事例も存在する。それが四川省三星堆出土の青銅器群である。一九八六年に発掘された殷代の大型祭祀坑から出現したある種の青銅器は、我々を大いに驚愕させた。これらの青銅器群の中には、中原地帯の如き祭祀用の「器」も無い訳ではないが、中原地帯では決して青銅器の主流とならなかった「人物」をモデルにした青銅器が多量に出現した事である。この違いは単なる青銅器製造技術の相違と言うべき範囲を遥かに越えており、明らかに中原地帯とは文化的・宗教的・社会風俗的に異なる異質の文化が古代中国の四川地方に存在しており、長江上流文明とでも言うべき独自な古代文明を想定する事を可能とさせた。
 これらの人物を模した青銅器は、一種のマスクである人頭像にしろ人物像にしろ、「目」に造型的な特徴が有りいずれも極めて大きくデザインされている。例えば一号坑出土の
「青銅跪座人像」青銅器1.を参照)は、歯を食いしばり目を見開き、更に頭髪は逆立った形状を示している。これだけでも極めて異常な顔相であるが、これよりも更に驚くべき物として、二号坑からは「縦目人面像」が出現した。この像は有ろう事か眼球が顔の前面に大きく飛び出しているのである。これは極めて重要な事である。何となれば、この地方の古代史を記録した書物に『華陽国志』と言う本があるが、その中の蜀地方に於ける古代帝王伝説を記した部分に、「蜀侯蠶叢なるもの有り、其の目は縦、始めて王と称す。死して石棺・石椁を作り、国人之に従ふ。故に俗石棺椁を以て縦目人の塚と為す」と言う一文が有る。この中の「其の目は縦」と言う語句を如何に理解すべきか、今まで種々の論議が行われて来たが、結局落ち着く先は「良く分からんが、ピエロの様に目に縦のくまどりをしていたのだろう」と言うのが一般的であった。
 所が出土した「縦目人面像」は、我々の想像と常識とを否定し更に覆し、現代人の固定観念を粉々に粉砕するには、十分にして且つ余り有る物であった。これに因って、文献の「其の目は縦」が見事に証明されただけではなく、「縦」と言う言葉の中には、二次元世界に於ける縦横の「縦」以外に、三次元世界に於ける「立体性」を示す意味も含まれている事が分かったのである。更に言えば、出土地域の古名である「蜀」と言う文字には「横目」が付いている。則ち文字・文献・文物の突き合わせに因り、古代四川地方には「目」に身体的特徴が有るか、或いは「目」に何か特別のシンボリズムを持たせた部族が生息していた事を伺わせるのである。
「特徴」であれば医学的・栄養学的分野からの分析が必要になろうし、「シンボリズム」であれば宗教的・習俗的分野からの究明が求められる事になる。

トップへ

   3、圖畫
 最後に図画に就いて一言述べておく。元より絵画は中国の代表的美術品であるが、それ以外に風俗や社会を描写した図画や版画が存在する。これらが該当時期の社会や習俗を伝える貴重な資料である事は、他言を要すまでもない事であるが、如何せんこれらの資料は、本来日常生活の場に於て使用されていたため、歴史の波間に埋没してしまい現在殆ど残っていない。しかし、明清以後の物に関しては、丹念に探せばまだまだ収集可能である。これらは一般大衆の素朴な願望を如実に現しており、時代の変遷と共に彼等の願望や年々の流行の変化等が、そこはかと画面上に漂っている。
 例えば、我が子が賢明に成育し無事科挙に合格して出世してほしい、との願望を込めて正月に部屋の中に貼る
「年画五子奪魁」書画1.を参照)等がそれである。年画は、春節を迎えた時に吉祥的・魔除的図柄の多色刷り版画を門扉や部屋の壁に貼り、商売繁盛や試験合格を祈願する風習である。現存最古の年画は金代の物であると言われているが、技術的には明清の物が素晴らしく、我が国の江戸時代の版画技術にも影響を与えたと言われている。そこに描かれる題材は、伝統的な神々を初めとして福壽祈願・神話伝説・民間故事・風景・風俗・人物・花卉等々、まさに民間大衆の願望に基づく彼等の愛した物が、次々と取り上げられており、民間風俗を伺うには好都合な資料である。明清の大衆小説には当時の風俗が多々登場し、それが作品の重要な要素になっているものもある。それを文字面だけから理解しようとしてもなかなか困難であるが、これらの図画と見比べる事に因り、その実態がより明白に理解されると言うものである。

トップへ

   おわりに
 以上、文物を取り上げて縷々述べて来たが、いずれにしても中国の文化を研究解明する事は、甚だ大変な事ではあるが同時に極めて楽しい作業でもある。文献を扱うにしても、先ずその読解が必要になる。読解は技術作業であれば、それを可能とするには絶え間ない「習練」が必要とされる。また文物を扱うのであれば、実際にそれを見て触れなくては意味が無い。因って各地の文物を見て回る行為やそれらを収集する作業が必要となり、それはそれで地味な「努力」が求められる。
 だからと言って
「習練」だけを声高に叫ぶのは一種の根性論で無意味であり、また「努力」だけに血道を挙げて駆けずり回るのも単なる趣味人に堕してしまう危険性が有る。要はこの地味で絶え間ない「習練」と「努力」とが有機的に結合し、意味有る結果が得られた所に、「漢学」即「総合中国学」が開化するものと考える。そしてそれこそが、「漢学」ルネッサンスの始まりであると言えるのではあるまいか。

    平成九年十一月                          識於黄虎洞

トップへ


[論文Aに戻る]