管説日本漢文學史略

〜授業用備忘録〜

上  代 (翰林時代・ 主たる担い手は貴族)

      

 漢籍の伝来と最古の漢文

 推古朝時代

 近江・奈良朝時代

《閑話休題・1》

 

 

 ここでは、「日本漢文」について紹介します。そもそも日本漢文とは、日本漢学と称される学問分野を構成する、一ジャンルです。漢(中国)学とは、中国に発達した文化を研究する学問ですので、内容的には文献・文物から社会現象までをも含み、漢字を基本として全ての分野を対象とした総合中国学的なもの、だと考えられます。因って、日本漢学を広義に解釈すれば、詩文や思想のみならず芸術・技芸・生活様式なども含んだ、中国文化の日本的展開の様相を、総体的に見ることになります。その中で日本漢文と言えば、専ら漢字を媒介として、日本人に因って書かれた漢詩文や史書、儒教の解釈や諸子の読解などを指します。

 因って本章では、漢籍が日本に伝来して以後、日本人に因って書き表された漢詩文や、漢籍の解釈の歴史などを中心に、代表的な作品や作者を紹介しながら、時代順に簡単に述べます。

 

 漢籍の伝来と最古の漢文

 日本に於ける漢籍の伝来は、一般的には『古事記』の記載に有る、和邇吉師(王仁)が『論語』と『千字文』を齎した、とするのを最初としていますが、この話は『日本書紀』には無く、『日本書紀』では、応神天皇の十六年に百済の昭古王がその臣阿直岐(王仁)を派遣して兩馬を献上させたが、この阿直岐は経典に堪能であったため、皇太子の菟道稚郎子が彼を師として学ばれた、と有ります。とすれば五世紀の前半には、何らかの漢籍が既に日本に齎されていた、と考えられます。

 また日本に現存する最古の漢文は、現在東京国立博物館に所蔵されている七十五字の漢字を連ねた太刀の銘文で、この太刀は熊本県玉名市の船山古墳から発見されたものですが、銘文の内容などから、五世紀後半の雄略天皇時代のものと推定されています。

 

 推古朝時代

 この時期を代表する人物は、言うまでもなく推古天皇の摂政であった聖徳太子(574〜622)です。

『十七条憲法』

 太子が官吏の心構えを示すために制定された、と言われているのが推古十二年(604)の『十七条憲法』です。この憲法は『日本書紀』に載せて有り、全編の字数八百余字で句数百八十句(全体の八割前後が四字句)の漢文です。この憲法は、漢籍の知識や仏教思想を下敷きにして作られた、と言われていますが、第三条に、仏法僧が三宝を崇敬すべきことの一文が有る以外は、概ね君臣の分や政治の要諦などを記した文で、儒教の思想が色濃く反映されています。『詩経』『書経』『礼記』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』『孟子』『荀子』『墨子』『韓非子』『管子』『史記』『文選』などからの引用語句が多く見られ、例えば、「以和為貴」は『礼記』の儒教篇、「剋念作聖」は『書経』の多方篇と言う具合です。また、「十七」と言う数は、『管子』や『淮南子』に見える、「天の数九、地の数八」や、陽数の極数九、陰数の極数八、とかに基づいているのであろう、とも言われています。 

『三教義疏』

 正倉院文書の天平十九年法隆寺資財帳に記載が有り、現在宮内庁に所蔵されているのが、太子の著作と伝える『三教義疏』です。これは、勝鬘経・維摩経・法華経に対する注釈で、所謂漢籍ではなく仏典の注釈書ですが、漢文で書かれた日本人の著述稿本としては、現存最古の稿本です。逆にこれが後に中国に伝えられ、唐の僧明空がこれを参考にして『勝鬘経義疏私鈔』五卷を著した、とも言われています。

金石文

 太子の著述以外に、この時期を代表する漢文として、金石文が挙げられます。最も古い碑文が、推古四年(596)の「伊予国湯崗側碑」です。この碑文は、既に原碑を失っていますが、碑文だけは『釈日本紀』卷十四に引用する『伊予風土記』の中に、見ることが出来ます。この他にも、「法隆寺観世音菩薩造像記」(606)・「法隆寺薬師仏造像記」(607)・「法隆寺金堂釈迦仏造像記」(623)等が有ります。これら当時の金石文に関しては、江戸後期の学者狩谷(木+夜)斎(1775〜1835)が撰した『古京遺文』(平安遷都以前に成立した金石文を集めて解釈した書)に、収められています。現在では、狩谷の『古京遺文』(三十二篇)と、明治に至って山田・香取両氏が編纂した『続古京遺文』(十七篇)とを合わせ、『古京遺文』(四十九篇)として勉誠社から出版され、またその解釈も、桜風社から『古京遺文注釈』が出されています。

 

 近江・奈良朝時代

 近江・奈良朝時代の漢文は、推古朝に引き続き金石文が主流です。「宇治橋断碑」(646)・「法隆寺二天造像記」(650)・「法隆寺観音菩薩造像記」(651)・「法隆寺釈迦仏造像記」(654)・「観心寺阿弥陀仏造像記」(658)・「船首王後墓版」(668)・「那須国造碑」(689)・「薬師寺東塔?銘」(698)・「多胡碑」(711)等が有り、これらは全て『古京遺文』に収められています。

 概ねこの時期の漢詩文は、『文選』の影響を受けている(奈良朝から平安初期までは『文選』、以後は『白氏文集』)、と言われていますが、漢字を連ねた本格的な著述の史書と漢詩集が、作られた時代でもあります。

『古事記』三卷

 元明天皇が和銅五年(712)に太安万侶に勅命を下して撰修させた勅撰の史書です。その序文は、四六駢儷文の麗々たる漢文ですが、本文は可成り国語化された文章で、漢文的な部分も有れば国語的な部分も有り、所謂準漢文体の文章です。例えば、「神夜良比夜良比岐」などの記述がそうです。

『日本書紀』三十一卷(紀三十卷・系図一卷) 

 元正天皇の養老四年(720)に、勅命を受けた舎人親王を総裁とし、太安万侶を初めとして多数の学者が編纂に携わった勅撰の史書で、六国史の最初です。この書は『古事記』と異なり、全編漢文体で記述されており、『書経』『礼記』『春秋左氏伝』『史記』『漢書』『後漢書』『荘子』『淮南子』『文選』などに依拠して書かれた、と思われる語句が多く散見しています。

『風土記』

 和銅六年(713)に諸国に令して上らせたものですが、現存しているのは、常陸・播磨・肥前・豊後の四風土記で、しかも全て闕本です。唯一完本の出雲風土記は、二十年後の天平五年(733)の成立です。風土記の文体は各々異なり、常陸風土記が漢文体、出雲風土記が準漢文体、播磨・肥前・豊後の三風土記は和漢混淆体であると言えます。

『懐風藻』

 現存する日本最古の総集の漢詩集ですので、この書に因って、近江・奈良朝時代の漢詩の全貌を、ほぼ窺うことが可能です。成立は、孝謙天皇の天平勝宝三年(751)と言われていますが、編者は不明です。採取詩数百十六篇(本来は百二十篇)、詩人六十四人で、この内十八人の詩人は、同時に『万葉集』の歌人でもあります。因みに『万葉集』の成立は、『懐風藻』に遅れること約二十年後の宝亀二年(771)以降のことです。この書は、詩人の爵位の高下や詩体の違いなどは一切関係無く、一に時代順に排列してあり、五言八句の詩が七十二首、その他の五言詩が三十七首で、七言詩は僅かに七首だけです。詩の内容は、頌徳賛事のものが大半で、個人の感情を吐露したような詩は、殆ど見られません。

 

《閑話休題・1》

 この時期に書かれたと言い伝えられている文献が二つ有ります。一つは聖徳太子の伝記で、『上宮聖徳法王帝説』です。『群書類従』の64巻に集録されていますが、成立年代は不明で、最近の研究では可成り時代が下るであろう、と言われています。尚、この書には江戸時代に狩谷(木+夜)斎が考証を施した証注本が有ります。太子伝説・太子信仰を考える上で、面白い資料と言えます。

 もう一つは、鑑真和尚の渡来記で、『唐大和上東征伝』(一名、鑑真大和尚伝とも言います)です。作者は淡海三船で、光仁天皇の宝亀十年(779)の成立、と言われています。『群書類従』の69巻に集録されており、当時の渡航状況が窺える貴重な史料です。

 日本の書は、仏教の伝来に伴って経典書写の必要性から大いに発展しますが、書法的には、六朝や隋唐の影響を受けていると言われています。作品は、正倉院に収められている聖武天皇や光明皇后らの詩文・天平写経と称されている写経書、及び「薬師仏造像記」「妙心寺鐘」や「宇治橋断碑」「多賀城碑」等の金石碑文が中心です。

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