信号待ち交差点

実感

池田 秋恵 | 2007.11.05

 もう20年近く前の事になりますが、高校2年生の時、「卒業後の進路調査書」に第一希望ヒッピー、第二希望 職人、第三希望 大学進学、と書いたことがありました。親の承認をもらうので、母に見せた所、母は堂々とそこに印鑑をついてくれて、先生に提出しました。(冗談みたいな話ですが。)今考えたらなんとも無責任で寛大な我が母親だったのでしょう。放任主義だった我が親の意図するところは、自分が考え放った思いは、勝手に自分で責任を取れ!といった意味だったのかもしれません。受け取った先生はどんな心中か考えると笑えます。結局、ヒッピーになるという勇気を持ち合わせていなかった私は、(そもそも何を持ってヒッピーというのかよく分かってもいませんでしたが)父の冷静なアドバイスに従い大学進学を決めることになりました。それでも無知で、世間知らずの娘は実は自分なりに真剣に色んな事を考えていたのでした。

 高校生のときに愛読していたロック雑誌「宝島」に、「現在のヒッピー」という特集がありました。「東京に住むヒッピー的暮らしをしている若者たち」の写真やらライフスタイルを紹介していて、その記事を見てすごい衝撃を覚えました。特に野菜をリアカーに載せて引き売りしている「ヒッピー」の写真が衝撃的で、自分の作った野菜を自分の足を使って販売している、その「完結」した暮らし振りに妙な説得力と爽快さを覚え、「かっこいい!」こんな素敵な暮らしを私もしてみたいと、思ったのでした。横浜で都会的な暮らしをしてきた私には、巨大で複雑化した社会の中で、食べ物も飲み物も、ごみや排泄物、情報も、人も、すべてが右から左へと、どっかから来てどっかに流れていく仕組みが、何か宙に浮いたように思えて、実感がなく、どこか居心地の悪い様に感じていたのだろうと思います。ちょうど高校卒業後の進路を決めなきゃいけない時期にあって、自分はどんな暮らしをしていけばいいのか、悩んでいた時期でもありました。

 命をつなぐということ、生きるということの1つ1つに実感のある暮らしを求める気持ちは、今の今まで私の最大の興味どころです。生きるために自分が実際に触るもの、味わうもの、感じたこと、体験したこと、気持ちよくても痛くてもこれが最高の真実でで最高の情報だとい思います。都会に住んでいると、どうしても、「感覚」の方はおろそかになって、第六感どころか、五感さえも退化して行くように感じます。おいしい水、気持ちのいい空気、暖かい心、感じのいい場所。窮屈な満員電車、汚れた空気、怖い暗闇、こう感じる生き物としての自然の感覚は、我慢すべき物として追いやられ、邪魔なものとして「感覚を閉じ」なければ都会では暮らすどころか、ストレスで死んでしまいます。

 この前、パプアニューギニアの先住民の人たちが日本にホームステイをするというテレビ番組を見たのですが、その中で一行が動物園に行くシーンがありました。目を丸くして色々な動物たちを見ていったのですが、トラの檻のところで、一行は大きな動揺を見せました。大の大人の男性が異常な恐怖を示したのです。普段ジャングルの中で暮らしている彼らは自然の中で自分を守る力に優れているため、いくら檻の中にいるから安全だと説明しても、感覚的にとても受け入れられない状況だったのでしょう。テレビの中のその男性の形相はまさに必死で、一時もここにいたくないといった様子でした。そのとき思ったのは、この人たちは、脳よりも五感+第六感の優れた人たちだということで、とても合点が行きました。

 人間は少々脳みそを使いすぎ、科学に頼りすぎたために自然と共生することが難しくなってしまったように思えます。うつ病の人たちが増えつづけているのも、環境どころか自分の中の自然とさえ向き合うことを忘れているからではないからでしょうか。いくら便利で近代的な暮らしをしても、疲れきった心と体は最終的には自然を求めます。それは人間自身が自然そのものだから当然の感覚なのです。団塊の世代のバリバリに働いていたおじさんたちが、田舎暮らしだとか、帰農だとか言って盛んに田舎に移り住む動きも合点のいくことと思われます。

 「経済」という今世界を引っ張っていっている価値観よりも、五感+第六感をもっとも大切なものとするならば、人間は自然と共生するのはいとも簡単なように思えます。まあそれが難しいのですけど。。。

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