信号待ち交差点

生活環境を変える

池田 秋恵 | 2007.11.07

 生活環境をがらりと変えるというのは年をとればとるほどわずらわしくなるものだと思う。見知らぬ地で、限られた荷物。初めて会う人たち。20代のときはそれがたまらない刺激で、おっくうと思ったことなどなかったのに。今回34歳での留学が決まった時は、荷物のしたくをするのも面倒、先のことを考えたら、不安が6割、期待と興奮が4割だった。20代では海外に行くときは期待と興奮8割、不安2割、うち1割は半ばやけくそ、、だったのに、だいぶ事情が変わって、「余計なものを背負い込んでるな」と思った。

 そこまでしても今回環境を変えることが出来たのはは最高にいい「リセット」となり、初心に帰えることが出来た。

 日本の「物質&システム」に恵まれた日常では、すべてはあって「あたりまえ」、色んなことは百も承知の「常識」だし、「〜でしかるべき」と決め込んでしまうことが多い。色々なことが受身になる。それは自分の周りの環境がそうであるというだけなのに、いつのまにかそれが「世界の常識」と思い込んでたりして、かえってそれで自分を窮屈にしていたりするし、その様にならないと無性に腹が立ったりして無駄なエネルギーを使ってしまう。

 自分の慣れ親しんだ空間からすっぽりと抜けて、全く違う価値観の世界にどっぷんと入ってみると、異質なものに触れることで、「あっ、こういうのもありなのね。」とか「もっと自由に考えていいのか」なんて発見をして、余計な贅肉(固定観念)がどんどん落ちていくのを実感できる。特にインドにいくと「こうでなきゃいけない」、と思っていることをおかしくなるほど皆ことごとく実施してないし(笑。。)、「当然手に入るだろうと思う物」がなかなか手に入らない。だから生きるためにはいつのまにかとても積極的というか、必死になる。必死なことは、けして楽ではないけれど、受身であることよりもずっと実感があるものだ。

 物がなければないで「何とかしよう」とするし、どうしても必要なら「ごみ」になるようなものから作り出すことを思いつく。生きることにすごく積極的な自分を発見できて素敵だし、確かな実感がつかめてくる。そして初めて出会うもの、初めて出会う人、動物、価値観、言葉、なんでもかんでもを鏡にして、自分の感じ方、見方、そして自分自身の姿が写しあがってくる。自分自身に出会った時の感動は、他の誰にも分からない自分だけの最高の経験になる。

 今回のインド滞在は本当に最高の時間だった。自己発見の方法は人それぞれだけど、私は、インドに行くことで、インドを知り、日本を知り、自分を知り、生きることの豊かささえも実感させてもらってるなあとつくづくインドに感謝した。

関連して、
インド・アーグラ滞在中の日記より

 喜びと言うのは、生活が変わることでその根拠が変わるものだ。どんなことでうれしくなるか、楽しくなるかだいぶ変わってくる。
 昨日は色鉛筆を買った。日本ではあたりまえに家にあって、見向きもしないのに、昨日色鉛筆を買ったことが無性にうれしくて何度も箱を開けては眺め、描いてみたりしてそれが宝物のように思えた。こんなことで嬉しくなれる自分てなんてかわいいのかかしら。日本では、食べたいなんて思えなかったかつを風味のふりかけを(「風味」ってのが気に入らない。単に「かつお」じゃなくてなんで風味なんだと思うから!!)デリーに行ったら買おうと心に決めている。牛乳だって、牛糞とチンピラインド人を避けながら、店までたどり着き、店主にごみ等をろ過するように口うるさく注文して計って売ってもらい、電熱器で時間をかけて煮沸して殺菌、口に入れるまでの工程がこんなに長いから、コーヒー牛乳を飲めたときはことさらにおいしくうれしい。さらに毎日、毎日中途半端な寮のインド料理を食べていると、時々チョウメン(焼きそば)が出たり、スープが出たりするだけで飛び上がるほどうれしくなる。環境に応じて、満足すること、喜ぶことのハードルが下がったりあがったりする。

 生活のスタンダードが下がればそれだけ、喜びが増えるということは、金持ちになればなるほど喜びは減るのか?やっぱり質素が最高と思ったりする今日この頃でした。

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