日本人に於ける三国志とは

〜見るのか読むのか、江戸から現代まで〜

本ページは、大東文化大学『漢学会誌』第48号、(平成21年3月刊行)からの転載である。


     始めに
   
1、江戸時代
   
2、明治から昭和前半へ
   
3、昭和後半から平成へ
     
終わりに

   始めに
 日本人に広く知れ渡った『三国志』の世界とは、所謂西晉の陳壽が編纂した正史『三国志』の世界ではなく、明の羅貫中が著した章回小説『三国志演義』の世界であります。

 無論『三国志』は、宇多天皇の寛平年間(889〜897)に藤原佐世が編した『日本國見在書目録』に記載されておりますれば、既に平安朝時代には我が国に舶來されており、その内容が古くから知識人の間で知られていた事は明白な事實でありますが、一般大衆の口の端に三国時代の話や当時の人々の名が膾炙され出すのは、專ら江戸時代以降であり、その知識の大半が『三国志演義』に依據したものであると言えましょう。  

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   1、江戸時代
 三国志の中で、古くから日本人に知れ渡った人物と言えば、それは諸葛亮でしょう。彼の作として伝わる粱父吟や出師表は、『文選』や『古文真宝』に収められており、『文選』は平安時代から読まれており、特に中世禅林では『古文真宝』(笑雲清三の『古文真宝抄』など)が愛読された事から推測しますに、その評価が江戸まで引き継がれたと考えるのが妥当でありましょう。

 寛文三年(1663)に出された鵜飼石斎の『古文真宝後集諺解大成』に収める「後出師表」の最文末の注に、宋の張ショクの「蓋凛凛乎三代之佐也」を引用していますが、これは要するに諸葛亮を「王佐の人」と見る考えを肯定しているものでありまして、江戸幕府が朱子学を御用学としていることと考え合わせますに、この評価がある意味では、江戸時代の公式見解と言うことになろうかと思われます。故に、林羅山から始まります大学頭の林家二代目の林鵞峰には10篇以上、弟の読耕斎にも数篇の「孔明贊」が残されています。

 この「王佐の人」なる評価に批判的なのが、京都の町学者伊藤仁斎でして、仁斎は『古学先生文集』卷六の「読諸葛孔明伝」で、孔明自らが比した管仲・楽毅が覇者の臣である点と、その学が法家に基づく点とから、「覇者之臣」として批判し、「王佐之才」の対極に位置させておりますが、同時に『古学先生詩集』卷二の「楠判官画像賛」では、

「計謀ヘイ駕す漢の充国、信義差肩す蜀の孔明、昔日若し湯・武の主に遭はば、定めし知らん勳業は阿衡に匹せんを。」

と言い、信義と言う点に於いては、孔明を我が国の忠臣楠正成と同一視しているのものの、孔明自身に就いては、贊文などは一切書いておりません。

 しかし、仁斎の子である東涯の時代になりますと、東涯自身が孔明に関する詩文を書いていますし、それ以後の人々も三国志に関する詩文を書いています。(尚、伊藤親子の孔明観に就いては、長尾直茂著「伊藤仁斎、東涯父子の諸葛孔明観」、平成12年『漢文學、解釋與研究』第三輯に、詳説されています)

 これは、丁度元禄年間に湖南文山の『通俗三国志』が刊行された点や、ほぼ同時期に、京都や大阪で唐話の普及や白話小説の翻案を活発に行った、岡島冠山(1674〜1728)の活躍などが、影響を与えていたと考えられ、三国志が広く人々に知れ渡ったのは、元禄以降であったと言えるでしょう。

 同時に、その広がりに多くの図像が影響を与えていたであろうことは、「○○像」とか「題○○図」等の詩文が多く見られることから推測されます。掛け軸を御参照下さい)

江戸時代の詩文(元禄以後のごく一部を提示)

伊藤東涯(1670〜1736)
 「孔明贊」「関羽贊」(紹述先生文集卷12)、「諸葛孔明」(紹述先生詩集卷7)、「題孔明像」 (紹述先生詩集卷8)
梁田蛻巌(1672〜1757)
 「諸葛孔明」(蛻巌集卷6)
江村北海(1733〜1788)
 「題劉備玄徳訪司馬徽図」(北海詩抄二編卷5)
柴野栗山(1734〜1807)
 「関雲長」(栗山堂詩集卷2)、「題三顧図」(栗山堂詩集卷3)
皆川淇園(1734〜1807)
 「書関帝像軸首」(淇園文集卷6)
古賀精里(1750〜1817)
 「題孔明関羽対読図」(精里三集卷2)
管茶山(1748〜1827)
 「武侯像」(黄葉夕陽村舎詩卷5)、「三顧図」(黄葉夕陽村舎詩卷6)、「関帝」(黄葉夕陽村舎詩卷7)
篠崎小竹(1781〜1851)
 「諸葛武侯」(小竹斎詩抄卷5)
頼山陽(1780〜1832)
 「詠三国人物」(山陽詩鈔卷5)、「題司馬仲達観武侯営址図」(山陽先生遺稿卷4)

 以上は、江戸時代の儒者に見られる評価ですが、では一般諸人は何如がだったでしょうか。庶民の目線で風刺・諧謔・笑い等を含んで詠まれた江戸時代の川柳を見てみますと、三国志の登場人物に関する川柳は、曹操・劉備・諸葛亮・関羽・張飛・趙雲らを対象にした歌が百五十作以上も見られ、それらの歌から、一般諸人に『三国志演義』の内容が、良く知られていたことが分かりますが、その中でも諸葛亮に関した歌は特に多く五十作以上にも及び、次ぎに多いのが劉備です。

 例えば、諸葛亮に関しては、

「煤はきに孔明羽子(はご)を抱いている」
「煤掃きの孔明は子を抱いてゐる」 

等と言うのが残っております。これに因って、当時諸葛亮の絵を描いた羽子板が存在したことや、彼が智謀の士として広く知れ渡っていたことなどが、十分に推測されます。

江戸の川柳(『誹風柳多留全集』『誹風柳多留捨遺』の中のごく一部を提示)

曹操
「うろたえて曹操ひげを切ってすて」(35篇)
「暖かな風に曹操気が付かず」(39篇)
劉備
「いなびかりまでは玄徳箸を持ち」(25篇)
「桃の木の下で文殊の知恵を出し」(32篇)
「三度まで通いお蜀を手に入れる」(36篇)
「玄徳は言葉たたかい藁が出る」(43篇)
「虎五匹龍一匹で蜀を取り」(44篇)
「蜀の国しろし召さるる耳ったぶ」(54篇)
「大きいは耳ばかりかと孫夫人」(63篇)
諸葛亮
「どれ程な事か孔明首をまげ」(13篇)
「三つ山でご承知ならと諸葛亮」(18篇)
「今日もまた留守でござると諸葛亮」(26篇)
「孔明がさそうひょうたん雨に濡れ」(38篇)
「萬卒を孔明羽根でたたむなり」(43篇)
「松風をくらって司馬懿引き返し」(46篇)
「鼎足を一本へし折る五丈原」(61篇)
「孔明が死んで夜講の入りが落ち」(64篇)
「燈明が消えたで蜀が闇になり」(77篇)
「蜀将に孔明さんは妙にきき」(119篇)
「孔明が木馬仲達うまく乘り」(124篇)
「さあ琴だ孔明何か弾いている」(126篇)
「孔明も三会目から帯をとき」(捨4篇)
関羽
「金銀を置いて桂馬を関羽とり」(13篇)
「桃園で関羽一人が飲んだよう」(41篇)
「春秋を夏冬ともに関羽読み」(81篇)
「我がひげをふんまえ関羽度々のめり」(122篇)
張飛
「翼徳も知らずに張飛酒が好き」(91篇)
「この雪にばかばかしいと張飛言い」(119篇)
趙雲
「趙雲が膝であどなく伸びをする」(43篇)
「戦いのひまに趙雲子守り唄」(145篇)

 では、もう一人の著名人関羽はどうでしょうか。日本に於ける関羽像は、黄檗僧が信仰の対象たる伽藍神としてもたらした関羽像、長崎から入った唐絵としての明清時代の肉筆の関羽像、小説に附せられた版画の関羽像、等々が一体化して江戸中期の寶暦(1751)以後に広まり、日本での肉筆関羽像画が作られ出すようになります。

 その傾向は、

1、周倉・関平を従えた図(柳沢淇園画関帝像・・東京国立博物館蔵、但し、この図は関平を従えず)
2、赤兎馬に跨る図(片山楊谷画関羽図・・鳥取県立博物館蔵)
3、春秋を読む図(土方稲嶺画関羽看書図・・鳥取県立博物館蔵)
4、演義中の一場面図(狩野栄信画関羽図・・東京国立博物館蔵)

の四つに大別出来ますが、おおむね絵柄や構図は、中国のそれに倣うものであります。(具体的には、掛け軸を御参照下さい)(尚、關羽像に就いては、長尾直茂著「江戸時代の絵画における関羽像の確立」、平成11年『漢文學、解釋與研究』第二輯に、詳説されています)

 以上の事から考えられますのは、原文や翻訳を直ぐに読める知識人は別として、一般大衆に三国志を知らしめる要素として、絵画や図像或いは塑像など、ビジュアルなものが大きなウエイトを占めていたことが分かります。つまり一般大衆は、「読む」のではなく「見る」ことに因って、三国志やそれに関する知識を獲得した、と言うのは言い過ぎでしょうか。

 江戸後期のこの様な傾向に、尤も大きな影響を与えたと思われますのが、湖南文山の『通俗三国志』(五十卷本)に葛飾戴斗の筆になる絵図400枚前後を附して、天保年間に刊行されました『絵本通俗三国志』(七十五卷本)でしょう。

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   2、明治から昭和前半へ
 明治から昭和にかけては、大文人幸田露伴の『通俗三國志』を初めとして十本前後の演義の翻訳や、大学者内藤湖南の『諸葛武侯』を皮切りに五本前後の孔明に関する評伝が公刊されています。

 三国志やそれに関する資料は膨大な数に及びますが、以下に提示する資料は、その全体のごく一部を提示するに過ぎません。

『三國志』と『演義』に関するもの

植村藤右衛門・・『和刻本三国志』(寛文十年)

*一般的に寛文本は後印本と言われ、これより前に初印本が有ったとされているが、今に到るまで初印本は発見されていない。因って、書誌学の大家長沢規矩也氏は、初印本の存在自体に懐疑的な見解を示しておられる。

小南一郎、今鷹真、井波律子・・『三国志』(平成元年)

湖南文山・・『通俗三國志』五十卷本(元禄二年〜五年)
湖南文山、葛飾戴斗・・『絵本通俗三國志』七十五卷本(天保七年〜十二年)

*湖南文山は、京都天竜寺の僧、義轍・月堂兄弟(大観随筆)と伝えられているが、確定的な資料は見当たらない。また葛飾戴斗も、葛飾北斎自身のことだとか、或いは北斎の弟子戴斗であるとか言われているが、これも断定するに足る資料は見当たらない。

永井徳麟・・『通俗演義三國志』(明治10年)
小宮山五郎・・『三國志』(明治16年)
久保天隨・・『三国志演義』(明治39年)
伊藤銀月・・『三國志物語』(明治44年)
幸田露伴・・『通俗三國志』(明治44年)
三浦理・・『通俗三國志』(大正2年)
早稲田大學出版部・・『三國志』(昭和4年)
吉川英治・・『三國志』(昭和12年)
弓館芳夫・・『三國志』(昭和16年)
岡本成二・・『新譯三國志』(昭和24年)
小川環樹等・・『三國志』(昭和26年)
柴田天馬・・『定本三國志』(昭和31年)
立間祥介・・『三國志演義』(昭和33年)
蘆田孝昭・・『物語三國志』(昭和44年)
村上知行・・『完譯三國志』(昭和55年)
丹波隼兵等・・『三國志』(平成6年)
北方謙三・・『三国志』(平成8年)
宮城谷昌光・・『三國志』(平成16年)

諸葛亮に関するもの

馬場信武・・『諸葛孔明占法俚諺抄』(正徳3年)
浅田寛・・『諸葛孔明傳』(文政10年)
藤原信綱・・『諸葛孔明八陣積卒五営』(江戸時代)
上泉義郷・・『諸葛孔明八陣之卷』(江戸時代)
内藤湖南・・『諸葛武侯』(明治31年)
白河次郎・・『諸葛孔明』(明治42年)
杉浦重剛、猪狩又蔵・・『諸葛亮』(大正2年)
大場弥平・・『秋風五丈原』(昭和14年)
太田熊蔵・・『諸葛孔明伝』(昭和17年)
植村清二・・『諸葛孔明』(昭和三19年)
宮川尚志・・『諸葛孔明』(昭和41年)
狩野直禎・・『諸葛孔明』(昭和41年)
狩野直禎・・『孔明と仲達』(昭和46年)
守屋洋・・『諸葛孔明の兵法』(昭和52年)
加地伸行・・『諸葛孔明の世界』(昭和58年)
尾崎秀樹・・『中国の群像諸葛孔明』(昭和60年)
城野宏・・『諸葛孔明の戦略と戦術』(昭和50年)
中林史朗・・『諸葛孔明語録』(昭和61年)
寺尾善雄・・『諸葛孔明の生涯』(昭和61年)
林田慎之助・・『諸葛孔明』(昭和61年)
会田雄次等・・『諸葛孔明』(平成1年)
松本一男・・『諸葛孔明に学ぶ』(平成1年)
田中重弘・・『諸葛孔明と卑弥呼』(平成1年)
村山孚・・『諸葛孔明』(平成3年)
渡辺精一・・『諸葛孔明』(平成4年)
加来耕三・・『諸葛孔明』(平成5年)
渡邉義浩・・『諸葛亮、孔明』(平成10年)

 しかし、それらの中で、尤も人々に知れ渡ったのは、大詩人土井晩翠の諸葛亮を詠った長編詩「星落秋風五丈原」ではないでしょうか。この歌は、良く口にされる歌ですが、皆が知っているのは、大概出だしの「祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて」で始まる一節と、終わりの「名はかんばしき 諸葛亮」ではないでしょうか。恐らく全編を諳んじているような人は、殆どおられないでしょう。

土井 晩翠(どい ばんすい)

 明治4年〜昭和27年 (1871〜1952) 宮城県仙台市生まれ。日本の詩人、英文学者。本名、林吉(りんきち)。本来姓は「つちい」だが、1932年に改称。現在の東京帝国大学英文科卒。娘婿は英文学者の中野好夫。在学中は「帝国文学」を編集し詩を発表。男性的な漢詩調詩風で、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。作品は「星落秋風五丈原」や、滝廉太郎の作曲が有名な「荒城の月」などのほか、校歌、寮歌にも大きな功績を残した。ホメロス、カーライル、バイロンなどの翻訳がある。1950年、詩人としては初めて文化勲章を受章。

 この歌は、大変内容の濃い長編詩で、全編を読んでゆくと、諸葛亮の出盧から死去までの一生が分かるように作られた、土井28歳の時の大長編叙事詩です。試みに、以下に示した詩をご覧下さい。

「星落秋風五丈原」(『天地有情』より)

(一)《祁山悲秋の風更(ふ)けて》

 祁山悲秋の風更(ふ)けて、陣雲暗し五丈原(ごじょうげん)、零露(れいろ)の文(あや)は繁(しげ)くして、草枯れ馬は肥ゆれども、蜀軍の旗光無く、鼓角(こかく)の音も今しづか。***丞相病篤かりき。

 清渭の流れ水やせて、むせぶ非情の秋の聲、夜(よ)は關山の風泣いて、暗(やみ)に迷ふかかりがねは、令風霜の威もすごく、守る諸營(とりで)の垣の外。***丞相病あつかりき。

 帳中眠(ねむり)かすかにて、短檠(たんけい)光薄ければ、こゝにも見ゆる秋の色、銀甲堅くよろへども、見よや待衞面(おも)かげに、無限の愁(うれい)溢(あふ)るゝを。丞相病 篤かりき。

 風塵遠し三尺の、劍(つるぎ)は光曇らねど、秋に傷めば松柏の、色もおのづとうつろふを、漢騎十萬今さらに、見るや故郷の夢いかに。***丞相病 篤かりき。

 夢寐(むび)に忘れぬ君王の、いまわの御(み)こと畏(かしこ)みて、心を焦(こ)がし身をつくす、暴露のつとめ幾とせか、今落葉の雨の音、大樹ひとたび倒れなば、漢室の運はたいかに。***丞相病 篤かりき。

 四海の波瀾收まらで、民は苦み天は泣き、いつかは見なん太平の、心のどけき春の夢、群雄立ちてことごとく、中原鹿(しか)を爭ふも、たれか王者の師を學ぶ。***丞相病 篤かりき。

 末は黄河の水濁る、三代の源(げん)遠くして、伊周の跡は今いづこ、道は衰へ文(ふみ)弊れ、管仲去りて九百年、樂毅滅びて四百年、誰か王者の治(ち)を思ふ。***丞相病 篤かりき。

(二)《嗚呼南陽の舊草廬》

 嗚呼南陽の舊草廬、二十餘年のいにしえの、夢はたいかに安かりし、光を包み香をかくし、隴畝(ろうほ)に民と交われば、王佐の才に富める身も、たゞ一曲の梁父吟。

 閑雲野鶴空(そら)濶(ひろ)く、風に嘯(うそぶ)く身はひとり、月を湖上に碎(くだ)きては、ゆくへ波間の舟ひと葉、ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に誘はれて、訪ふは山寺(さんじ)の松の影。

 江山さむるあけぼのゝ、雪に驢(ろ)を驅(か)る道の上、寒梅痩せて春早み、幽林風を穿(うが)つとき、伴(とも)は野鳥の暮の歌、紫雲たなびく洞(ほら)の中、誰そや棊局(ききょく)の友の身は。

 其(その)隆中の別天地、空のあなたを眺(なが)むれば、大盜競(き)ほひはびこりて、あらびて榮華さながらに、風の枯葉(こよう)を掃(はら)ふごと、治亂興亡おもほへば、世は一局の棊(き)なりけり。

 其(その)世を治め世を救ふ、經綸(けいりん)胸に溢るれど 、榮利を俗に求めねば、岡も臥龍の名を負ひつ、亂れし世にも花は咲き、花また散りて春秋の、遷(うつ)りはこゝに 二十七。

 高眠遂に永からず、信義四海に溢れたる、君が三たびの音づれを、背(そむ)きはてめや知己の恩、羽扇綸巾(かんきん)風輕(かろ)き、姿は替へで立ちいづる、草廬あしたのぬしやたれ。

 古琴の友よさらばいざ、曉(あけぼの)たむる西窓の、殘月の影よさらばいざ、白鶴歸れ嶺の松、蒼猿眠れ谷の橋、岡も替へよや臥龍の名、草廬あしたのぬしもなし。

 成算胸に藏(おさま)りて、乾坤こゝに一局棊(いっきょくき) 、たゞ掌上)に指(さ)すがごと、三分の計はや成れば、見よ九天の雲は垂れ、四海の水は皆立(たち)て、蛟龍飛びぬ淵の外。

(三)《英才雲と群がれる》

 英才雲と群がれる、世も千仭の鳳(ほう)高く、翔(か)くる雲井の伴(とも)やたそ、東(ひがし)新野の夏の草、南(みなみ)瀘水の秋の波、戎馬關山いくとせか、風塵暗きただなかに、たてしいさをの數いかに。

 江陵去りて行先は、武昌夏口の秋の陣、一葉輕く棹(さお)さして、三寸の舌呉に説けば、見よ大江の風狂ひ、焔(ほのお)亂れて姦雄の、雄圖碎けぬ波あらく。

 劔閣天にそび入りて、あらしは叫び雲は散り、金鼓震(ふる)ひて十萬の、雄師は圍(かこ)む成都城 、漢中尋(つい)で陷(おちい)りて、三分の基(もと)はや固し。

 定軍山の霧は晴れ、汚陽の渡り月は澄み、赤符再び世に出(い)でゝ、興(おこ)るべかりし漢の運、天か股肱の命(めい)盡きて、襄陽遂に守りなく、玉泉の夕まぐれ、恨みは長し雲の色。

 中原北に眺むれば、冕旒(べんりゅう)塵に汚されて、炎精あはれ色も無し、さらば漢家の一宗派、わが君王をいただきて、踏ませまつらむ九五(きゅうご)の位(い)、天の暦數こゝにつぐ、時建安の二十六、景星照りて錦江の、流に泛(うか)ぶ花の影。

 花とこしへの春ならじ、夏の火峯の雲落ちて、御林の陣を焚(や)き掃ふ、四十餘營のあといづこ、雲雨荒臺夢ならず、巫山のかたへ秋寒く、名も白帝の城のうち、龍駕駐(とどま)るいつまでか。

 その三峽の道遠き、永安宮の夜の雨、泣いて聞きけむ龍榻(りょうとう)に、君がいまわのみことのり、忍べば遠きいにしえの、三顧の知遇またこゝに、重ねて篤き君の恩、諸王に父と拜(はい)され、思(おもい)やいかに其(その)宵(よい)の。

 邊塞遠く雲分けて、瘴烟蠻雨ものすごき、不毛の郷に攻め入れば、暗し瀘水の夜半(よわ)の月、妙算世にも比(たぐい)なき、智仁を兼ぬるほこさきに、南蠻いくたび驚きて、君を崇(あが)めし神なりと。

(四)《南方すでに定まりて》

 南方すでに定まりて、兵は精(くわ)しく糧(かて)は足る、君王の志うけつぎて、姦(かん)を攘(はら)はん時は今、江漢常武いにしへの、ためしを今にこゝに見る、建興五年あけの空、日は暖かに大旗(おおはた)の、龍蛇も動く春の雲、馬は嘶(いなな)き人勇む、三軍の師を隨へて、中原北に上りけり。

 六たび祁山の嶺の上、風雲動き旗かへり、天地もどよむ漢の軍、偏師節度を誤れる、街亭の敗(はい)何かある、鯨鯢(げいげい)吼(ほ)えて波怒り、あらし狂うて草伏せば、王師十萬秋高く 、武都陰平を平げて、立てり渭南の岸の上。

 拒(ふせ)ぐはたそや敵の軍、かれ中原の一奇才、韜略(とうりゃく)深く密ながら、君に向はん すべぞなき、納めも受けむ贈られし、素衣巾幗(そいきんかく)のあなどりも、陣を堅うし手を束(つか)ね、魏軍守りて出でざりき。

 鴻業果(はた)し收むべき、その時天は貸さずして、出師なかばに君病みぬ、三顧の遠いむかしより、夢寐に忘れぬ君の恩、答て盡すまごゝろを、示すか吐ける紅血(くれない)は、建興の十三秋なかば、丞相病篤かりき。

(五)《魏軍の營も音絶て》

 魏軍の營(えい)も音絶て、夜(よ)は靜かなり五丈原、たゝずと思ふ今のまも、丹心國を忘られず、病(やまい)を扶(たす)け身を起し、臥帳掲(かか)げて立ちいづる、夜半の大空雲もなし。

 刀斗(ちょうと)聲無く露落ちて、旌旗は寒し風清し、三軍ひとしく聲呑みて、つゝしみ迎ふ大軍師、羽扇綸巾(うせんかんきん)膚(はだ)寒み、おもわやつれし病める身を、知るや情(なさけ)の小夜(さよ)あらし。

 諸壘あまねく經(へ)廻(めぐ)りて、輪車靜かにきしり行く、星斗は開く天の陣、山河はつらぬ 地の營所、つるぎは光り影冴えて、結ぶに似たり夜半の霜。

 嗚呼陣頭にあらわれて、敵とまた見ん時やいつ、祁山の嶺(みね)に長驅して、心は勇む風の前、王師たゞちに北をさし、馬に河洛に飲まさむと、願ひしそれもあだなりや、胸裏百萬兵はあり、帳下三千將足るも、彼れはた時をいかにせん。

 成敗遂に天の命、事あらかじめ圖(はか)られず、舊都再び駕(が)を迎へ、麟臺永く名を傳ふ、春(はる)玉樓の花の色、いさをし成りて南陽に、琴書をまたも友とせむ、望みは遂に空(むな)しきか。

 君恩酬(むく)ふ身の一死、今更我を惜しまねど、行末いかに漢の運、過ぎしを忍び後(のち)計る、無限の思(おもい)無限の情(じょう)、南(みなみ)成都の空いづこ、玉壘今は秋更けて、錦江の水痩せぬべく、鐵馬あらしに嘶きて、劔關の雲睡(ねぶ)るべく。

 明主の知遇身に受けて、三顧の恩にゆくりなく、立ちも出でけむ舊草廬、嗚呼鳳(ほう)遂に 衰へて、今に楚狂の歌もあれ、人生意氣に感じては、成否をたれかあげつらふ。

 成否をたれかあげつらふ、一死盡くしゝ身の誠、仰げば銀河影冴えて、無數の星斗光濃し、 照すやいなや英雄の、苦心孤忠の胸ひとつ、其(その)壯烈に感じては、鬼神も哭かむ秋の風。

(六)《鬼神も哭かむ秋の風》

 鬼神も哭かむ秋の風、行(ゆき)て渭水の岸の上、夫の殘柳の恨(うらみ)訪(と)へ、劫初(ごうしょ)このかた絶えまなき、無限のあらし吹(ふき)過ぎて、野は一叢の露深く、世は北邱(ほくぼう)の墓高く。

 蘭は碎けぬ露のもと、桂は折れぬ霜の前、霞(かすみ)に包む花の色 、蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る草の蔭、色もにほひも消(きえ)去りて、有情(うじょう)も同じ世々の秋。

 群雄次第に凋落し、雄圖は鴻(こう)の去るに似て、山河幾とせ秋の色、榮華盛衰ことごとく 、むなしき空に消行けば、世は一場の春の夢。

 撃たるゝものも撃つものも、今更こゝに見かえれば、共に夕(ゆうべ)の嶺の雲、風に亂れて散るがごと、蠻觸(ばんしょく)二邦(にほう)角(つの)の上、蝸牛の譬おもほへば、世ゝの姿はこれなりき。

 金棺灰を葬りて、魚水の契り君王も、今(いま)泉臺の夜の客、中原北を眺むれば、銅雀臺の 春の月、今は雲間のよその影、大江の南建業の、花の盛もいつまでか。

 五虎の將軍今いづこ、神機きほひし江南の、かれも英才いまいづこ、北の渭水の岸守る 、仲達かれもいつまでか、聞けば魏軍の夜半の陣、一曲遠し悲茄(ひか)の聲。

 更に碧(みどり)の空の上、靜かにてらす星の色、かすけき光眺むれば、神祕は深し無象の世、あはれ無限の大うみに、溶くるうたかた其(その)はては、いかなる岸に泛(うか)ぶらむ、千仭暗しわだつみの、底の白玉誰か得む、幽渺境(さかい)窮(きわ)みなし、鬼神のあとを誰か見む。

 嗚呼五丈原秋の夜半、あらしは叫び露は泣き、銀漢清く星高く、神祕の色につゝまれて、天地微かに光るとき、無量の思齎(もた)らして、無限の淵に立てる見よ、功名いづれ夢のあと、消えざるものはたゞ誠、心を盡し身を致し、成否を天に委(ゆだ)ねては、魂遠く離れゆく。

 高き尊きたぐいなき、悲運を君よ天に謝せ、青史の照らし見るところ、管仲樂毅たそや彼、 伊呂の伯仲眺むれば、萬古の霄(そら)の一羽毛、千仭翔(かく)る鳳(ほう)の影、草廬にありて 龍と臥し、四海に出でゝ龍と飛ぶ、千載の末今も尚、名はかんばしき諸葛亮。

 この歌は、諸葛亮に与えられたイメージを考える上で、大変大きな影響を与えた歌であると言えます。土井に因って歌い上げられたこのイメージこそが、戦前までの定番的諸葛亮像であった、と言っても過言では無いでしょう。

 また、当時を代表する思想家で、大正3年(1914)に東宮御学問所御用掛となり、倫理を進講した杉浦重剛も、『諸葛亮』なる評伝を書いていますが、その彼が同時に江戸の侠客幡随院長兵そ衛を讃える漢詩七絶も作っています。杉浦の思考の中では、諸葛亮も幡随院も共に「侠」と言う概念で、同じように捉えられていたことが分かります。

杉浦 重剛(すぎうら  じゅうごう)

 安政2年〜大正13年(1855〜1924) 滋賀県生まれ。教育家、思想家。膳所藩の貢進生として大学南校に入学するが、制度が変わり、東京開成学校に学ぶ。在学中選抜され、明治9年イギリスに留学。15年東京大学予備門長。18年辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行う。21年に三宅雪嶺とともに政教社設立に参加、雑誌『日本人』を発刊し、国粋主義を唱える。また東京英語学校の設立、称好塾を経営し青少年の教育に尽力した。のち東亜同文書院長等を経て、大正3年東宮御学問所御用掛となり倫理を進講した。

幡随院 長兵衛(ばんずいん ちょうべえ)

 江戸の侠客で、1657年に旗本水野十郎左衛門に殺害される。

 言うなれば、土井や杉浦に見られる様な、諸葛亮に対する見方(悲運の名将・信義や侠気の持ち主)が、とりもなおさず当時の日本人の大概の見方であり、この様な見方を成り立たせた日本人自身の意識やスタンスが、同時に当時の日本の社会の在り様や、ある種の価値観つまり時代相の一面を表している、と言えるのではないでしょうか。

 余談ではありますが、この昭和初期は、あの「日本青年の歌」が詠われた時代でもあります。土井の歌と三上の歌との、傍線部分を見比べれば、この二つの歌の関係は、一目瞭然でありましょう。

青年日本の歌(昭和5年、三上卓・・作詞作曲)

1・汨羅の渕に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く

2・権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし

3・ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に踊る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

4・昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花

5・古びし死骸乗り越えて 雲漂揺の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫の歌なからめや

6・天の怒りか地の声か そもただならぬ響あり 民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ

7・見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて 革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐

8・ああうらぶれし天地の 迷いの道を人はゆく 栄華を誇る塵の世に 誰が高楼の眺めぞや

9・功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう

10・やめよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ われらが剣今こそは 廓清の血に躍るかな

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   3、昭和後半から平成へ
 この時代は、一言で言えば、小説(読む)・同人誌(読む・書く)・コミック(見る・描く)・人形劇(見る)・映画(見る)・ゲーム(遊ぶ)・インターネット(書く・描く・見る・語る)等々、何でも有りの世界が展開中の時代です。

 それは、単に社会の価値観が多様化したと言うだけでなく、三国志と言うものが、完全にエンターテイメント化した、つまり娯楽(大衆文化)の題材になったと言えるのではないでしょうか。娯楽の素材に過ぎなくなった以上、三国志の中身を何如に改変しようが、また何に使おうが、それは全て制作者の自由は発想と裁量に委ねられていることになります。

同人誌・コミック・ゲーム・インターネット等々、何でも有りの世界が展開中で、挙げたら切りがない程の数ですが、その中のごく一部を提示。

本・雑誌・漫画・同人誌
陳舜臣・・『画本三国志』
国会新聞社・・『演義三国志図鑑』
コーエー出版部 ・・『コミック三國志』
若林利光・・『サバイバル「三国志」』
横山光輝 ・・『三国志大百科』
園田光慶 ・・『三国志』
王欣太・・『蒼天航路』
伊豆平成・・『三国志アイテム物語』
シブサワ・コウ・・『三國志』
光栄・・『三国志ガイドブック』
光栄・・『三国志の法則』
光栄 ・・『三国志旅行ガイド』
三国志新聞編纂委員会 ・・『三国志新聞』
エンターブレイン ・・『三国志大戦乱世の群狼竜驤虎視の書』
山原義人 ・・『三国志データファイル』
渡辺仙州 ・・『三国志早わかりハンドブック』
小松健一・・『三国志の風景』
立間祥介 ・・『三国志入門』
PHP研究所・・『三国志のすべて』
光栄出版部 ・・『三国志旅行ガイド』
世界文化社・・『週刊ビジュアル三国志』
宝島社・・『新解釈でよみがえる三国志のすべて』
雑喉潤 ・・『覇道三国志』
江森備 ・・『天の華・地の風』
香桃花 ・・『私説三国志』
シブサワ・コウ ・・『爆笑三国志』
仲路さとる ・・『異三国志』
横山光輝 ・・『三国志(潮漫画文庫)』
片山まさゆき ・・『Sweet三国志』
白井恵理子・・『ストップ劉備くん』
本宮ひろ志・・『天地を喰らう』
池上 遼一・・『覇-LORD 1』

ネット社会
三國志圖書館/仁・三國志/三國英雄武侯祠無雙亂舞堂/電脳三國志/三劉/燕雀樓/水天宮/超絶短絡思考/蒼龍淵/紺碧のページ/蒼風天河/マリオネットの晩餐会/緑翠庵/三國迷ぐっこのHP/釜中の豆のページ/三國輔臣贊/策士カク家頁/孟徳真書/ねもん家/氣樂園/FREEDOM/三國堂/東呉華亭/臥龍岡/三國志家頁3s/卯金刀/逸聞三國志/三國志歴史紀行/江河水/三國英雄譚/笛吹堂/單福軍師の三國志/腰抜け三國志/子龍のねぐら/夷陵賓館/四史奮迅/蜀人氣質/幻の感覚/Chipo’s World/得隴望蜀/青藍亭/三國志武將列傳/安眠庵/三國志畫廊/天空の地圖/三國志研究室/三國忠臣/各駅亭舎/瑯邪県人會/三國志HP/三國志人物談/蜀家羣談/ちょびっと三國志/客心院/星落/満月のおむすび/三國百貨大樓/車到山前必有路/A Rainy Day/三國志探訪/鳳凰の巣窟/銅雀台桃花大酒楼/龍涎公司/三國志探訪/南去北来/むじん書院/蓬莱洞/三國志城/五夷山白雲洞/劉聡的三國志館/水上樓閣/樂天的我樂多部屋/私的三國志/真・三国志総合研究所/三國文庫荊州支店/真・三國戰亂/三國志倶楽部/三國志を語る/荀家の臺所/三國志DRIVE/水龍頭/東拉亞電訊/居眠り龍の館/三國検索/木の葉/花花公主閣/蒼天三國志/伊籍の館/轉轉大陸/鏡月亭/徳本商會/三國志−正史系−/えみりーの迷的空間/三國志フアンのためのサポート掲示板/曹洪の三國志/孫氏三代/早大・三國研/東大・三國研/帝京大・三國志サークル/三國志事典15X−31X/青木朋++青青/三國志遊好會/三國志展覧室/三國統一志/英語で三國志/三國志愛好會

ゲーム・芝居・映画
ゲーム『三国志1』/ゲーム『三国志2』/ゲーム『三国志3』/ゲーム『三国志4』/ゲーム『三国志大戦1』/ゲーム『三国志大戦2』/スーパー歌舞伎『新・三国志』/アニメ『三国志』/人形劇『三国志』

 例えば最近週刊誌の『ビッグコミックスペリオール』に連載中の、武論尊 (著), 池上 遼一画『覇-LORD 1 』では、内容や登場人物は三国志と同じですが、劉備は元々日本の邪馬台国の卑弥呼に仕えた武人で、彼が中国に渡って本物の劉備を殺して劉備になりすまし、趙雲は男装の女性で、その趙雲が呂布に犯されて生まれた子供が、関羽の養子関平になり、更に周瑜は美貌の女将軍で、彼女が率いる軍団は美女軍団と言うような構成です。

 更にネット社会では、三国志に関するサイトが1500前後登場し、内容も正史を語る・演義を語る・ゲームを語る・自ら小説を書く・自ら絵を描く・互いに語り合う・情報の提供を行う等々、実に多岐に渉っています。或いはゲーム社会でも、コーエーに代表されるようなメジャーなゲームのみならず、単に「三国志」と言う名だけを冠した、可成りいかがわしい内容の私的製作のゲームも、数多く見受けられます。一方芝居の世界でも、江戸歌舞伎以来の伝統が受け継がれ、市川猿之助に因る「新・三国志」が、上演されています。

 この様な状況の中で、唯一大きな展開を示していないのが、映画やテレビを中心とした映像部門で、NHKで放映された人形劇や劇場公開されたアニメ(東映動画制作で、声優に渡哲也やあおい輝彦など有名な役者を使用)以後、新たな企画は殆ど耳にしませんでしたが、昨年からハリウッドのジョン・ウー監督に因る「赤壁」の撮影が行われておりますし(日本では2009年公開)、またつい最近に、来年(2008年)放映(日本では2010年4月より東京12チャンネルで放映)を目指して日中共同でアニメ『三国志』の制作(脚本・キャラクターーデザインは中国側、絵コンテは日本側、制作担当は日本のヒューチャー・プラネット・共同参画トミー等)が始まった、との話も伝わって来ております。

 また、「三国志」と言うものが、中国の三国時代の事を記した書籍を著す固有名詞から、単に覇権を賭けた争いを表す普通名詞になったとも言えます。

 この「三国志」の普通名詞化は、既に江戸時代の千代丘草庵主人の『洒落本讃極史』(遊里の話)や近松門左衛門の『本朝三国志』(日本の話)に見られ、更に江戸末には、東西の相撲番付に見立てた見立摺物である盛衰記三国志勇士競見立が、東方を盛衰記、西方を三国志(大関は劉備・関脇は孫權・小結は司馬懿)として書林兼草紙屋から出されると言う状況で、一般諸人にとって「三国志」は、江戸時代から娯楽(小説も娯楽の一つではありますが、その小説の本質的な内容に拘らない、と言う大衆文化的意味に於て)の一種であり、決して中国のように経典ではなかった事が分かりますが、この傾向が一段と顕著化するのは、昭和の後半からでしょう。

三国志とは関係無いもの(ごく一部を提示)

千代丘草庵主人・・『洒落本讃極史』
近松門左衛門・・『本朝三国志』
銭屋惣四郎 ・・『鳥羽三国志』
藤原英城・・『武士道三国志』
小山内高行・・『政党・三国志』
柴田穂 ・・『新中国三国志・毛王朝秘史』
吉川英治・・『江戸三国志』
平岩弓枝・・『かまくら三国志』
秋永芳郎・・『阿波三国志』
山名一郎・・『ゲーム業界三国志』
秀ノ山勝一・・『相撲三国志』
朝日新聞社・・『世界経済三国志』
鎌倉太郎・・『電力三国志』
柴田錬三郎・・『徳川三国志』
大和球士・・『プロ野球三国志』
大下英治・・『映画三国志』
加藤文・・『やきそば三国志』
村上元三・・『次郎長三国志』
加野厚志 ・・『女三国志』

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   終わりに
 以上、江戸時代から現代に到るまでの、日本に於ける「三国志」の取り扱われ方を概観してきましたが、そこで先ず三国志は「見るのか読むのか」と問いかけますと、江戸時代は、知識人は「読むと見る」ですが、一般大衆は「見ると聞く(絵・版画・浮世絵・歌舞伎などで、特に歌舞伎芝居にはよく三国志ものが取り上げられ、好んで關羽を演じたと伝えられるのが、二代市川団十郎である)」が中心であり、明治から昭和初期の近代でも「読むと見る」が主流(浮世絵師橋本周延の筆になる役者絵である明治十七年大判三枚続の
三国志長坂橋図や、同じく明治初期の豊原国周の役者絵三国志人物図等が有れば、明治以降も歌舞伎で三国志ものが多く上演されたことは、容易に想像がつく)であり、昭和後期から平成にかけては、「見る・読む・書く・描く・遊ぶ・語る」の多種多様なアプローチの方法が登場して来た、と言えます。

 更に改めて「日本人にとって三国志とは何じゃいな」と問いかけますと、それは、江戸後期以後は「何でも有りの娯楽だ」と言えましょう。(この様な傾向は『水滸伝』にも見られ、二代目玉川勝太郎に因って演じられた『天保水滸伝』と言うのが有りますが、これは、利根川を挟んでヤクザの飯岡助五郎と笹川繁蔵とが縄張り争いをした話で、繁蔵の客人として有名な平手造酒も登場します)

 特に、江戸後期の庶人が持つ中国に対する知識(専門的であるか、表層的な言葉尻であるかは別として)は、現代人を遙かに越えており(これは、当時の学問の中心が漢学であり、知識の大半が漢籍に依拠したものであることに因ります)、それは、単に三国志にのみ止まらず、上は神農から下は宋詩にまで及びます。彼等は、その知識を笑い飛ばし洒落のめしていますが、その一端を川柳の『柳多留』から見ますと、
孔子が他国に身を寄せた時のことを、
「孔子でも三杯目にはそっと出し」(91篇)
と笑い、孟子の「夫婦別有り」をもじって 、
「帯解いて夫婦別有り湯屋の門」(88篇)
と洒落、平安時代に「勧学院の雀は蒙求を囀る」と言われていたのをもじり、当時下谷池之端に在って大商いをし、その金で三万余の書籍を蔵していたと言われる薬問屋勧学屋と引っかけて、
「蒙求を知らぬ勧学屋の丁稚」(101篇)
と言い放ち、宋の大詩人蘇東坡の詩「春夜」と吉原の揚げ代が一両の四分の三であったこととに引っかけて、
「春宵一刻あたいは三歩なり」(13篇)
と洒落のめす、と言う具合です。

 また、三国志に於ける登場人物の、大衆的人気度の変化と言う点を見れば、江戸時代は関羽の人気(画像の數は、圧倒的に関羽に関したものがが多い)が高く、明治以降は諸葛亮(諸葛亮に関する専著が多く書かれる)が高まり、現在では個々人の興味に応じて、人気が分散している、と言う状況でしょう。因みに、現在関羽像が見られる場所は、函館関帝廟・立川関帝廟・横浜関帝廟・和歌山関帝廟・宇治関帝堂・京都関帝廟・大阪関帝廟・大阪関帝堂・神戸関帝廟・福岡関帝廟・長崎関帝廟・長崎関帝堂・沖縄関帝廟など、13カ所程が挙げられます。

代表的関羽像所在地

函館関帝廟・・函館市大町1−2 中華会館内
立川関帝廟・・立川市柴崎町3−2−1 駅ビル7階
横浜関帝廟・・横浜市中区山下町140
和歌山関帝廟・・那智勝浦町那智山168 瀧見寺内
宇治関帝堂・・宇治市五ヶ庄三番割34 万福寺内
京都関帝廟・・福知山市正明寺1771
大阪関帝廟・・豊中市新千里東町1−5−2 千里セルシー内
大阪関帝堂・・大阪市天王寺区勝山2−6−15 清寿院内
神戸関帝堂・・神戸市中央区中山手通7−3−2
福岡関帝廟・・福岡市中央区天神
長崎関帝堂・・長崎市寺町4−32 天后堂内
長崎関帝廟・・長崎市鍛冶屋町7−5 崇福寺内
縄沖関帝廟・・那覇市若狭1−25−1

 日本人に広く知れ渡った「三国志」と言うものが、ある意味で娯楽(大衆文化)であったとするならば、娯楽であるが故に「三国志」に関する多くの著作は、それぞれの時代の時代相或いは当時の日本の社会相を、色濃く反映していると言えるでしょう。

 我々は、日本人が著した「三国志」に関する著作を読み解くことに因って、単に中国の時代や文化を読み解くだけでは無く、それぞれの時代の日本或いは日本人自身を読み解くことも可能となります。

 この事は、敢えて誤解を恐れずに言えば、「中国を学ぶ」と言うことは、中国に関する日本人の著作を通して、取りも直さず「日本・日本人・日本社会を学ぶ」と言うことになろうかと思います。

 以上のような意味に於て、中国・日本の両方を読み解く格好な材料としては、数ある古典中国に関する著作の中でも、「三国志」に関する著作こそが、数量的多さと内容の多様性と言う点から、最も適し最も面白い題材だと思われます。

*本拙稿は、平成19年7月に大東文化大学で行われた、第3回「三国志シンポジウム」に於いて発表した講演原稿と配付資料とに、些か手を加えて書き改めたものである。

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     平成十九年季夏                           於黄虎洞 


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