管説日本漢文學史略

〜授業用備忘録〜

江 戸 前 期 (儒林時代・ 主たる担い手は儒者)

 江戸時代

   文教政策と叢書

   江戸前半期の漢学(1600〜1735)

     江戸初期の漢詩人

     朱子学派の人々

     陽明学派の人々

     古(義)学派の人々

     敬義(崎門)学派の人々

     水戸学派の人々

     古文辞(ケン園)学派の人々

     古注学派の人々

     折衷(考証)学派の人々

     門派以外の儒者・漢詩人

     唐話学者

《閑話休題・4》

 

 江戸時代

 江戸時代は、日本に於ける漢文学の全盛期ですが、それを担った人々は儒者と称された漢学者達です。江戸幕府を開府した徳川家康は、学問の奨励に努め、自らも儒者である藤原惺窩や林羅山を招いて漢籍の講読をさせていますし、同時に『群書治要』『貞観政要』『孔子家語』『六韜』『三略』等の漢籍の刊行も行っています。

 この様な江戸幕府の文教政策を背景として、多くの儒者が登場します。彼等は経子の学を講ずる一方で漢詩文も作ります。学問の方向性と個々の興味とに因って、講学(詩文も作ります)で名を馳せたり、詩文(経子の学も理解しています)で有名であったりの違いは有りますが、基本的に彼等は漢学のオールラウンドプレイヤー(その最たる人物が荻生徂徠)であり、厳密に学問と詩文とを弁別することは困難です。

 但し、江戸一代を通じて全体的傾向を見れば、荻生徂徠の登場を挟んで前後に分かれます。徂徠以前は、講学を旨とする経術系の儒者が割と多く、徂徠以後は、詩文を旨とする文人系儒者が多くなります。そのため、大概八代将軍吉宗の享保二十年(1735)頃までが江戸前半期で、それ以後が江戸後半期と言えます。

 江戸期の儒学の傾向は、大きく分ければ、藤原惺窩から始まる朱子学派・中江藤樹から始まる陽明学派・伊藤仁斎から始まる古(義)学派の三派に分けられます。しかし、一方では、神道との関わりも考慮した、山崎闇斎から始まる敬義(崎門)学派・個々の学問傾向に飽き足らず唐話を重視した、荻生徂徠から始まる古文辞(?園)学派・諸派の良い所を採取し、また清朝の学問的影響をも受けたと思われる、榊原篁洲等から始まる折衷(考証)学派が登場し、更にこれらとは別に、漢唐の古訓を旨とする宇野明霞等に代表される古注学派と、朱舜水に師事した水戸光圀から始まる水戸学派が有ります。

 因って以下に、江戸時代の代表的儒者を時代順に紹介し、江戸漢学の一端を示しますが、先ず、江戸期の文教政策と出版事情の概略を紹介し、次いで江戸前半期は主に各学派の人々を中心に述べ、江戸後半期は主に文人系儒者を中心に述べます。

 文教政策と叢書

 江戸幕府の文教政策は、林羅山が家康に仕えて、幕府の教学制度創立に参与した所から始まります。羅山自身が、藤原惺窩の衣鉢を継いで宋学(程朱の学)を奉ずる朱子学者であったため、畢竟朱子学を中心とした学問の奨励を勧めることになります。この幕府の学問奨励と言う施策は、諸大名にも影響を与え、各藩に藩校と言う藩士の子弟の教育機関の設立を促します。この様な幕府の文教政策の下に、多くの儒者が登場して来るのです。

昌平坂学問所(昌平黌)

 三代将軍家光は、林羅山に土地(上野の忍岡)を与えて学校を建てさせますが、これは基本的に林家の私塾です。四代将軍家綱が、この私塾に弘文館の号を与え、五代将軍綱吉が、大成殿(聖堂)を湯島に造営し、林家に有った孔子像と弘文館を湯島に移し、名を昌平坂学問所と改め、幕府直轄とします。

 ここに、朱子学を主とする官立の教育機関が成立し、幕臣の子弟や林家以下の儒者の子弟の教育に携わります。ここの責任者は、大学頭として代々林家が受け継いで行きます。

 尚、昌平黌から教官が派遣され漢学を講義していた、幕府直轄の学校として、日光の日光学問所・駿府の明新館・甲府の徽典館・佐渡の修教館・長崎の明倫堂が有ります。

藩校

 幕府の文教政策の影響を受け、四代将軍家綱の頃から各藩でも学校が次々と作られます。基本的に藩校は藩地に設置されますが、時には江戸藩邸内に置かれたものも有ります。初期は、儒学や武芸の教授が中心で、漢籍は主に朱子学で講じていますが、中には陽明学や古学或いは折衷学を講じる所も有り、誰がその藩校の教官となるかに因って、同じ儒教でも解釈やテキストが異なります。また幕末に近くなると、国学や医学更には蘭学も講ずるようになります。

 藩校は殆ど各藩に有りますが、主立った藩校は、米沢の興譲館・会津の日新館・仙台の養賢堂・水戸の弘道館・尾張の明倫堂・紀州の学習館・金沢の明倫堂・長州の明倫館・柳川の伝習館・福岡の修猷館・熊本の時習館・薩摩の造士館などです。また、藩校ではありませんが、それに準ずる藩運営の庶民学校として、備前の閑谷学校も有名です。

閑谷学校

 私塾ではありませんが、藩校でもありません。岡山藩主池田光政が和気郡伊里村閑谷に開設した郷学です。寛文八年(1668)に領内123カ所に建てた手習所の一つがその始まりで、延宝三年(1675)に手習所を廃止統合し,閑谷黌として改めて発足しています。この学校は、四書五経を講じていますが、武士だけでなく一般庶民の子弟も受け入れ、庶民教育の充実を図っています。

私塾

 江戸時代は、儒者と言う職業が成立した時代ですが、その全てが儒官や教官になれた訳ではなく、多くは私塾や家塾を開いて漢学を講義しています。当時の私塾は、本格的な漢学から作詩の塾に至るまで、数多く有りますが、代表的な私塾は、京の古義堂と大阪の懐徳堂でしょう。

古義堂

 一名堀川学校とも言い、寛文十二年(1662)に京の堀川に開かれた伊藤仁斎の家塾で、代々その子孫が受け継いで、仁斎の学を講じています。この古義堂の蔵書は、現在古義堂文庫として、天理大学図書館に収められています。

懐徳堂

 一名大阪学問所とも言い、享保九年(1724)に大阪の富商五人が発起し、儒者の中井甃庵と相談の上、校舎を建てて三宅石庵に漢学を講じさせたのが始まりです。その後中井竹山・中井履軒などが学主となって、庶民教育に力を注ぎます。享保十一年(1726)に、幕府の許可を得て官許学問所となります。この懐徳堂の蔵書は、現在懐徳堂文庫として、大阪大学文学部図書館に収められています。

漢籍の出版と叢書

 江戸時代は、木版技術の進歩に因り多量の印刷物が作られた時代です。漢籍もその例に漏れず、中国の書籍のみならず、儒者の注釈書・詩文から随筆に至るまで、漢文に関わる膨大な書籍が出版されます。個々のものを一々列挙できませんので、当時の大型叢書を挙げて、その一班を示します。

昌平黌官版(昌平叢書)

 寛政十一年(1799)から慶応三年(1867)の間に、昌平黌から出版された漢籍のことで、官版書目に因ると、経部四十六種・史部三十一種・子部七十種・集部五十二種の百九十九種が、出されたことになっています。ただし、昌平黌の書庫が弘化三年(1846)の江戸大火災で燃え、版木も燃えてしまったため、明治四十二年(1909)に至り、伊達家に残存していた官版に基づき、富田鉄之助が印行したのが昌平叢書で、それには六十五種が収められています。

佚存叢書

 林述斎が撰した叢書で、既に中国で佚亡し、日本に伝存する漢籍十七種八十六巻を集め、寛政十一年(1799)から文化七年(1810)にかけて、木活字で刊行したもので、『古文孝経』一巻・『唐才子伝』十巻・『蒙求』三巻などを含みます。この叢書は、中国に逆輸入され、清の光緒八年(1882)に重刊本が出されていますし、また台湾新文豊出版の『叢書集成』新編に収められています。

甘雨亭叢書

 安中藩主板倉勝明(1809〜1857)が、収集した書籍の中でも特に近世名家の写本類の散逸を恐れて、逐次出版したもので、当時の貴重な資料を多数含んでいます。その期間は、弘化二年(1845)から幕末(1867)にかけて行われています。内容は、正篇五集と別篇二集とからなり、正篇は近世儒者の漢文随筆で構成され、別篇一集は和歌や和文で構成され、別篇二集はその他十種で、全五十六冊です。台湾新文豊出版の『叢書集成』続編には、別篇二集を欠いた四十八冊本が収められています。

 

 江戸前半期の漢学(1600〜1735)

 江戸初期の漢詩人

 江戸初期には、漢詩人と呼べる様な人はあまりいません。藤原惺窩の門人に、詩名を以て唱われた石川丈山がいますが、それ以外には釈元政を挙げ得るだけです。

釈元政(1623〜1668)

 名を日政と言い、京都の人です。彼は、二十六歳の時に妙顕寺の日豊老師に従って得度し、深草の瑞光寺に居を構え、僧俗を問わず教え導き、深草の上人として人々の崇敬を集めています。詩人としては、石川丈山・熊沢蕃山・陳元贇(明の帰化人)らと親交を結び、その詩文集は、陳元贇との唱和の詩を集めた『元元唱和集』一巻や、『草山集』三十巻が有ります。

 朱子学派の人々

 江戸初期は、家康との関係も有って朱子学派の人々が活躍します。その朱子学派の門を開いたのが藤原惺窩であり、惺窩の弟子に林羅山・松永尺五・堀杏庵・石川丈山・那波活所・吉田素庵・菅得庵などがいますが、特に林羅山・松永尺五・堀杏庵・那波活所の四人を、惺窩門の四天王と称します。

 この中でも、最も学問的に優れた弟子が林羅山で、朱子学の地位を高らしめて官学林家の基礎を築きます。逆に詩を以て名を馳せたのが石川丈山で、文を以て名を馳せたのが堀杏庵です。一方門人に恵まれたのが松永尺五で、彼の下には後の木門派を立ち上げる木下順庵がおり、その順庵門下に、木門の五先生と称された新井白石・雨森芳洲・室鳩巣・祇園南海・榊原篁洲や、南部南山・服部寛斎・松浦霞沼・向井滄洲(これに三宅観瀾を加えて木門の十哲と呼びますが、観瀾は木門の人士と交流が有っただけで、順庵の門下生ではありません)など、錚々たる人材が登場します。

藤原惺窩(1561〜1619)

 名を肅と言い、京都の人です。朱子を尊崇すると同時に陸象山の学にも詳しく、朱子の新注に基づき始めて四書五経に加点を施し、近世儒学の祖とか日本朱子学の開祖などと言われていますが、特に己の学説を述べたような書は有りません。文禄二年(1593)に家康に招かれて、江戸で『大学』『貞観政要』などを講じていますが、京都に帰った後は、専ら『四書朱註』を講じています。彼の儒学に対する考えを見るには、『大学』を摘出して和文の解釈を施した『大学要略』二巻が有り、また彼の文章を集めたものに、『惺窩先生文集』十八巻が有ります。

惺窩門下の人々

林羅山(1583〜1657)

 名を信勝と言い、京都の人です。文筆の才を以て家康に仕え、江戸幕府の教学・制度の創設に参画し、秀忠・家光・家綱の四代に渉って歴事した人です。彼が経書に加点を付した通称「道春点本」と呼ばれる漢籍は、割と多く流布していますが、中国の学問に関する著作は少なく、『大学要略抄』『老子経頭書』『孫子諺解』などです。尚、詩文に関しては、『羅山文集』七十五巻、『羅山詩集』七十五巻が有ります。

石川丈山(1583〜1672)・・詩文系

 名を重之年と言い、三河の人です。最初家康に仕えた武士ですが、大阪夏の陣で軍律を犯し、京に移り惺窩の門に学びます。その後芸州浅野家の客臣となり、十四年後再び京に帰り、一乗寺村に詩仙堂を築いて世俗を絶ち、学問よりも詩を以て聞こえた人です。その書に、『覆醤集』正続二十巻が有ります。

堀杏庵(1585〜1642)

 名を正意年と言い、近江の人です。二十一歳の時に惺窩の門に学び、芸州浅野家に仕えた後、徳川義直の尾張家に仕えます。『釈奠儀』一巻を著して名古屋城内に聖殿を建て、『大学』を講義しています。その書に『杏陰集』二十一巻等が有ります。

松永尺五(1592〜1657)

 名を遐年と言い、京都の人です。僅か十三歳で豊臣秀頼に『書経』を講じて満座の驚嘆を獲得し、惺窩の衣鉢を継いで京学を興した人で、門弟数千人に及んだと言われています。その書には、『五経集注首書』六十七巻、『尺五全集』二巻等が有ります。

那波活所(1595〜1648)

 名を觚と言い、播磨の人です。豪商の子で学問を好み、十八歳で京都に出て藤原惺窩の門に入って宋学を学び、一度肥後藩に仕えますが、十二年後に京に帰り、再び紀州藩に仕えて儒臣となっています。尚、彼が刊行した『白氏文集(所謂道円本文集)』は、北宋刊本の旧を伝えたものとして有名で、中国で編集された『四部叢刊』に収められています。その書には、『通俗四書註音考』一巻、『活所稿』一巻、『活所遺稿』十巻等が有ります。

羅山門下と林家の人々

那波木庵(1614〜1683)

 名を守之と言い、京都の人です。彼は、惺窩門の那波活所の長子で、十七歳の時に江戸に出て林羅山に師事します。その後紀州藩に仕え二代藩主光貞に侍講しますが、晩年は京都で子弟教育に従事しています。その書に、『中庸異見』・『弁駁朱子章句』・『老圃堂集』三巻等が有ります。

林鵞峰(1618〜1680)

 名を春勝と言い、京都の人です。彼は、九歳の時に国学を松永貞徳、詩文を那波活所に学びますが、これは手習いの読み書きで、本格的な学問は父羅山から学んでいます。十七歳で江戸に入り、父の後を継いで、漢籍の講義と加点に専念します。彼の最大の仕事は、父の『本朝通鑑』の後を続けて『続本朝通鑑』を完成させたことです。その儒教に関わる書に、『古文孝経諺解』三巻・『周易私考』十三巻・『書経私考』一巻・『詩経私考』一巻・『論語諺解』三十巻・『孟子諺解』三十三巻・『大学諺解』一巻・『中庸諺解』三巻等が有り、詩文集に『鵞峰文集』二百四十巻が有り、国史関係に『国史実録』八十巻・『続本朝通鑑』三百十巻等が有ります。

林鳳岡(1652〜1732)

 名を信勝と言い、江戸の人です。父鵞峰の後を継いで大蔵卿法印となり幕府に仕え、よく林家の家学を守り門弟への教授に努めています。彼は、祖父羅山が忍岡に建てた書院弘文館を、五代将軍綱吉の命に因り湯島に移転し、従五位下大学頭を賜ります。その書には、『鳳岡全集』百二十巻等が有ります。

尺五門下の人々

木下順庵(1621〜1698)

 名を貞幹と言い、京都の人です。京の松永尺五に師事し、後に加賀前田家に仕え、五代将軍綱吉の時に、幕府の儒官となって国史の編纂に当たっています。彼は、朱子学を宗としつつも古注を捨てず、道学の実践を重んじた教育者で、その門下は、将に多士済々で詩文に優れたものが多い。「江戸詩文の開拓者」とか、「一代の通儒」とか、称されるに相応しい学徳深い人です。その書に、『錦里文集』十巻・『班荊集』二巻等が有ります。

安東省菴(1622〜1701)

 名を守約と言い、筑後の人です。京の松永尺五に師事し、後に柳川藩に儒臣として仕え、明の朱舜水が長崎に来た時、その学徳を慕って弟子の礼を取り、教えを受けています。その詩文集に、『省菴先生遺集』十二巻、経書に関わる書に、『周易伝義異同考』八巻・『四書道徳総図』二巻・『経翼群書集録・続録・別録・余録』八巻等が有ります。

貝原益軒(1630〜1714)

 名を篤信と言い、筑前の人です。京の松永尺五に師事し、後に木下順庵・山崎闇斎にも学んでいます。福岡の黒田藩に仕えていますが、学を問うこと誠に謙虚で博覧強記であった、と言われています。その著書は甚だ多いですが、朱子学関係のことを述べた書に『大疑録』二巻が有り、詩文集に『自娯集』七巻・『損軒詩集』一巻が有ります。

宇都宮遯庵(1633〜1709)

 名を的と言い、周防の人です。京の松永尺五に師事し、後に岩国の吉川藩に仕えます。その詩文集に、『遯庵詩集』六巻が有りますが、それよりも漢籍の注釈書が多く有り、『蒙求詳説』十六巻・『杜律集解詳説』十八巻・『三体詩詳説』二十三巻・『近思録首書』十四巻・『忠経集註詳説首書』一巻等です。

順庵門下の人々

榊原篁洲(1656〜1706)

 名を元輔と言い、和泉の人です。彼は、京に出て順庵に師事し、その家におること三年で自家に帰り、門を閉じて読書し経書の義理を研究しています。その後、順庵の勧めに因り、紀州藩徳川家に仕えて儒官となっています。彼の経書の講義は、漢唐の旧説も宋明の新説も兼修し、折衷して用いることを常に主張しています。彼が折衷学の祖と言われる所以は、経書理解に於いてこの兼修折衷の用を唱えたがために他なりません。その書には、『古文真寶前集諺解大成』十七巻・『易学啓蒙諺解大成』八巻・『書言俗解』六巻・『大明律例諺解』三十一巻・『文法授幼鈔』五巻・『詩法授幼鈔』三巻等が有ります。

新井白石(1657〜1725)

 名を君美と言い、江戸の人です。順庵の推挙に因り甲府侯松平綱豊に仕え、綱豊が六代将軍家宣と成るに及び、その顧問となっています。彼は本来朱子学者ですが、政治に参与することが多く、その著作も百三十種以上にのぼります。詩文に関しては、『白石詩草』一巻・『白石遺文』三巻等が有りますが、大半は日本史や地理に関するものが多く、直接儒教に関わるような書は殆ど有りません。敢て言えば、朱子の鬼神説を中心に博く諸書を引用して述べた『鬼神論』四巻が、彼の学説の一端を示しています。

室鳩巣(1658〜1734)

 名を直清と言い、江戸の人です。彼は、加賀の前田家に仕えて『大学』を講じ、金沢で教育読書に従事すること二十五年、その門下に天野天遊らの逸材を輩出しています。後に白石の推挙で幕府の儒官となり、八代将軍吉宗の信任を得て侍講となっています。彼は、朱子学者として名教の維持に努め、江戸での門下に、中村蘭林・河口静斎・浅岡芳所などがいます。その経学に関する書に、『周易講義』十巻・『四書講義士説』一巻・『大学章句新疏』三巻・『中庸章句新疏』二巻等が有り、詩文集に、『前篇鳩巣文集』十四巻・『後篇鳩巣文集』二十一巻等が有ります。

雨森芳洲(1668〜1755)・・詩文系

 名を誠清と言い、京都の人です。順庵の門に学んで業が成ると、対馬藩の儒官と成っていますが、朝鮮語・中国語に通じた博学の人です。自ら「吾は詩才なし」と言う如く、詩よりも文に長じています。その文集に、『橘窓文集』二巻・『芳洲先生文抄』二巻が有り、また博学さの一端を示す随筆集に、『橘窓茶話』二巻が有ります。

祇園南海(1677〜1751)・・詩文系

 名を貢と言い、紀州の人です。順庵門下で尤も作詩に長じ、木門随一の詩名を以て鳴らし、紀州藩の儒官となっていますが、徂徠一派に対して堂々と詩で一家を張った人です。その書に、『南海先生集』五巻。『詩学逢原』二巻・『南海詩訣』一巻等が有ります。

中村蘭林(1697〜1761)

 名を明遠と言い、江戸の人です。彼は、最初幕府の医官であった父玄悦の跡を嗣いで医官となり、玄春と称していますが、室鳩巣に就いて経学を学び、遂に儒官となり朱子学を講じていますが、その学は、考証学に近いものが有ります。この門下から、柴野栗山が現れます。その書に、『孟子考証』一巻・『読詩要領』一巻・『群籍綜言』五巻・『大学衍義考証』八巻・『白鹿洞講説』一巻等が有ります。

門派以外の人々

中村タ斎(1629〜1702)

 名を之鉄と言い、京都の人です。彼は、独学で朱子学を学んだ人で、世俗を絶ちひたすら経典を修めることに専念した人です。しかし、儒学者タ斎の評判は高く、当時京に在って伊藤仁斎とその名声を二分しています。その著作は夥しく、『五経筆記』『詩経示蒙句解』『孝経示蒙句解』『四書示蒙句解』『近思録示蒙句解』『小学示蒙句解』『近思録鈔説』『四書集註鈔説』『筆記周易本義』『筆記詩経集伝』『筆記春秋胡伝』『性理字義鈔説』等々が有り、文集に『タ斎文集』『タ斎筆録』等が有ります。

後藤芝山(1721〜1782)

 名を世鈞と言い、讃岐の人です。彼は、高松藩の儒者である守屋義門や菊池黄山らに経史を学び、十八歳で江戸に出て昌平黌に入り、三十三歳で帰郷して藩の儒臣となり、藩校講道館の整備と藩教に尽力しています。彼の門下から、柴野栗山や菊池五山が現れますが、それよりも重要なことは、「後藤点本」とか「芝山点本」とか称される、彼が訓点を施した経書(四書五経)が全国に流布したことです。

那波魯堂(1727〜1789)

 名を師曾と言い、播磨の人です。彼は、初め漢唐の注疎を講じた岡田白駒に就いて学び、京に家塾を開いて古注学を講じますが、晩年旧学を全て捨て去り性理の学を唱えだし、宋学を論じるようになります。そして徳島藩に仕えて藩学に朱子学派の基礎を固め、朱子学を四国の正学とさせた人です。その書に、『学問源流』一巻・『左伝標例』一巻・『魯堂先生手録』一巻等が有ります。

奥田尚齋(1729〜1807)

 名を元継と言い、播磨の人です。彼は、那波魯堂の弟で、初め漢唐の注疎を講じた岡田白駒に就いて学びますが、自らは宋学を宗として大阪で家塾を開き、程朱の学を講じた人で、殊に『春秋左氏伝』を好んでいます。その書に、『左伝釈例稿案』六巻・『左伝字句便蒙』一巻・『増訂左伝評林』三十巻・『左占指象』一巻・『定本大学』一巻・『拙古堂文集』十巻等が有ります。

 陽明学派の人々

 陽明学は、宋の陸象山に始まり明の王陽明に至って大成した儒学です。端的に言えば、「致知」の学で、人が先天的に持っている知である「良知」を求めるべく実践躬行し、体験して良知を実現することが「致」であるとし、「知行合一」を説く儒学で、一種の実践倫理学であるとも言えます。

 日本に於ける陽明学の開祖は、中江藤樹です。この学派に属する人はあまり多くなく、藤樹の門下に熊沢蕃山や渕岡山がおります。

 また藤樹とは別に陽明学を奉じた人に、北島雪山・三重松庵・三宅石庵・三輪執斎などがおり、江戸後半期に至ると大塩中斎と佐藤一斎が現れ、一斎の門下からは、安積艮斎・佐久間象山・山田方谷・横井小楠・渡辺華山・中村敬宇など、錚々たる人材が輩出します。更に象山門下から、吉田松陰・橋本左内・坂本龍馬・河井継之助など、幕末の志士が現れます。

中江藤樹(1608〜1648)

 名を原と言い、近江の人です。元来は朱子学を学んで大洲藩加藤家に仕え、二十七歳で致仕して郷里に帰り、家塾を開いて講義していますが、三十三歳で『王竜渓語録』を入手し、次いで三十七歳の時『陽明全書』を購い、以後「致良知」に基づいた言動を採るようになります。その円満高潔なる人柄と学識とに因り、後世「近江聖人」と呼ばれています。その経学に関する書に、『論語郷党翼伝』三巻・『論語講説』一巻・『大学解』一巻・『中庸解』一巻・『孝経啓蒙』一巻・『孝経心法』一巻等が有り、詩文集に、『藤樹先生家集』一巻・『藤樹文集』一巻・『藤樹文録』一巻等が有ります。

藤樹門下の人々

渕岡山(1617〜1686)

 名を宗誠と言い、仙台の人です。四十七歳の時に藤樹の門を叩き師事します。藤樹没後は、師の藤樹が教えを垂れた京の遺跡に学舎京都学館を建て、子弟を教育して師の教えを広めます。彼の門流は日本全国に及び、藤樹学伝播の大功労者です。経学に関する特別な著作は有りませんが、己の考えを述べたものに、『岡山示教録』が有ります。しかし、最大の功労はその門流の広さで、会津の遠藤謙安・江戸の二見直養・伊勢の中西常慶・大阪の木村難波・美作の植木是水・熊本の山崎勝政などです。

熊沢蕃山(1619〜1691)

 名を伯継と言い、伏見の人です。彼は、岡山藩の池田家に仕えますが、二十歳で致仕して学問を志します。二十三歳で藤樹に師事し、二十七歳で再度池田家に仕えるも、三十九歳で再び致仕する、と言う起伏に富んだ人生を送ります。その書に、『論語小解』『孟子小解』『大学小解』『中庸小解』『繋辞解』等が有ります。

門派以外の人々

北島雪山(1637〜1697)

 名を三立と言い、熊本の人です。彼は、熊本藩細川家に仕えますが、寛文九年(1669)に熊本藩が出した陽明学禁止令を受けて致仕します。彼自身が能書家であったため、その門下に能書家の細井広沢が現れます。

三輪執斎(1669〜1748)

 名を実父と言い、京都の人です。彼は、江戸の佐藤直方の門に入り、朱子学を学びますが、密かに陽明学も学びます。直方没後は、下谷に家塾明倫堂を開き、子弟に陽明学を講義します。その経学に関する書に、『大学俗解』『孝経小解』『標註傳習録』四巻(日本で最初に『傳習録』に注を付けた書)等が有り、詩文集に『執斎雑著』四巻が有ります。

三重松庵(1675〜1735)

 名を貞亮と言い、京都の人です。初めは伊藤仁斎に学んだようですが、後に陽明学を教授しています。その書に『陽明学名義』二巻が有ります。

 古(義)学派の人々

 古(義)学とは、孔子や孟子の教えの真髄を、直接原典に基づいて求めようとする学問で、伊藤仁斎がその道を開きます。但し、仁斎の言う古学は、漢唐の注疏の読みに帰るものではなく、基本的には、聖人の教えを朱子の注に因らず直接原典から求めようとする考え方です。

 そのため、論語・孟子を「本経」と称して最上の経典とし、詩・書・易・春秋を「正経」と呼び、他の三礼・三伝などを「雜経」と称しています。道徳の根底は仁義であるとし、その道徳の確立を主とした学問です。

 仁斎の門下には、中江岷山や並河天民がおり、長子東涯の門下にも、奥田三角・山田麟嶼・原雙桂・青木昆陽・原田東岳らがいますが、仁斎の学問は、東涯・蘭嵎・東所・東里へと代々仁斎の子孫に因って、伝えられて行きます。

 また、仁斎とは別に、独自に古学を提唱したのが山鹿素行です。門弟六千人と称されていますが、殆どが兵学者素行の門弟で、彼の古学を受け継いだ人は見当たりません。

山鹿素行(1622〜1685)

 名を高祐と言い、会津の人です。九歳で林羅山の門に入り、十一歳の時に『論語』と『中庸』を講義して名声を揚げ、赤穂藩浅野家に仕えて兵学と儒学を講じています。しかし、致仕して江戸に帰った後四十二歳頃から、忽然として朱子学を排斥し、漢唐の注疏も退け、直接孔子の説を求める古学を提唱します。由井正雪事件に連坐して浅野家預かりとなって以後は、古学を論ずることなく兵学者としてのみ活動しています。彼の「素行」の号は、長崎で対面した明の亡命学舎朱舜水が、『孫子』の「令、素より行われて」から取って与えたものだと、言われています。その書には、『孫子諺義』が有ります。

伊藤仁斎(1627〜1705)

 名を維驍ニ言い、京都の人です。彼は、材木商の家に生まれますが、学問に志して家督を弟に譲り、刻苦勉励して三十六歳頃から古学を標榜するようになります。名声が揚がるにつれて、諸藩の招聘が来ますが一切固辞し、古義堂を開いて講学に努め、終生処士(町儒者)として通します。彼には長子東涯を初めとして、福山藩に仕えた梅宇・高槻藩に仕えた介亭・久留米藩に仕えた竹里・紀州藩に仕えた蘭嵎と、五人の子(各々の字を原蔵・重蔵・正蔵・平蔵・才蔵と言い、蔵の字が付くため堀川の五蔵と称されています)がいますが、全て父の学を継いでいます。その経学に関する書に、『論語古義』十巻・『孟子古義』七巻・『中庸発揮』二巻・『大学定本』一巻・『語孟字義』二巻等が有り、詩文集に、『古学先生文集』六巻・『古学先生詩集』二巻が有ります。

仁斎門下の人々

中江岷山(1655〜1726)

 名を一貫と言い、伊賀の人です。彼は、仁斎に学んだ後、大阪に出て講説を生業とします。ひたすら古義学を唱えて宋学を厳しく排斥し、詩文を作らなかった人です。その書に、『四書弁論』十二巻・『理気弁論』二巻・『疑叢弁』四巻等が有ります。

並河天民(1679〜1718)

 名を亮と言い、丹後の人です。彼は、仁斎に師事しますが、その仁義性情の説に疑義を抱き、日夜孔孟の正旨を理解すべく研鑽に努め、一日遂にその解を得たと伝えています。その書に、『論語解』一巻・『天民遺言』二巻等が有ります。

伊藤家の人々

伊藤東涯(1670〜1736)

 名を長胤と言い、京都の人です。父仁斎の後を継いで古義堂で講学に努め、仁斎の学を祖述し終生仕官していません。その経学に関する書に、『論孟古義標註』五巻・『中庸発揮標釈』二巻・『大学定本釈義』二巻・『語孟字義標註』二巻等が有り、詩文集に、『紹述先生文集』三十巻が有ります。

伊藤梅宇(1683〜1745)

 名を長英と言い、京都の人です。仁斎の第二子で家学を受けて一家を成し、徳山藩や福山藩の儒臣を歴任し、藩士の教育を通して仁斎の学を広めることに尽力しています。その書に、『講学日記』八巻・『梅宇文稿』五巻・『康献先生文集』十巻・『康献先生詩集』六巻等が有ります。

伊藤介亭(1685〜1772)

 名を長衡と言い、京都の人です。仁斎の第三子で父や兄東涯から家学を受け、仁斎の弟進齋の家を継ぎます。高槻藩の儒臣となって経書を講ずる一方で、行・草書に長じた能書家としても、名を知られています。その書に、『謙節遺稿』十二巻等が有ります。

伊藤竹里(1692〜1756)

 名を長準と言い、京都の人です。仁斎の第四子で兄東涯から家学を受け、特に史学に長じています。久留米藩の儒臣となり、江戸藩邸で藩士の教育に従事しています。その書に、『竹里遺稿』四巻等が有ります。

伊藤蘭嵎(1694〜1778)

 名を長堅と言い、京都の人です。仁斎の第五子で、紀州藩の儒臣となり藩士子弟の教育に尽力しています。仁斎には五人の子どもがいますが、長子の東涯と末子の蘭嵎が特に優れていたと、言われています。その書に、『大学是正』一卷・『周易本旨』十六巻・『左伝独断』四巻等が有り、詩文集に、『紹明先生全集』十二巻が有ります。

伊藤東所(1730〜1804)

 名を善韶と言い、京都の人です。東涯の長子で、季父蘭嵎に就いて学び、挙母藩藩主内藤学文に招かれて藩校崇化館で講説していますが、基本的には家学を受け継ぎ古義堂第三代塾主となった人です。その書に、『周易経翼通解』十八巻・『論語古義抄翼』四巻・『孟子古義抄翼』七巻・『修成先生文集』十巻・『修成先生詩集』五巻等が有ります。

東涯門下の人々

奥田三角(1703〜1783)

 名を士享と言い、伊勢の人です。彼は、十九歳で東涯の門に入り、十年に渉って古義学を学びます。その後津藩に仕えて藩学の振興に尽力します。その書に、『毛詩解』一巻・『三角集』五巻等が有ります。

原雙桂(1703〜1783)

 名を瑜と言い、京都の人です。彼は、十歳で東涯の門に入って古義学を修め、京で私塾を開きますが、後に唐津藩の土井公に仕えます。東涯の学を受け継ぎつつも、論孟を根拠として一家の見を立て、道徳性命の理を説いています。その書に、『洙泗微響』二巻・『桂館詩軌』二巻・『桂館随筆』十巻等が有ります。

東所門下の人々

十時梅崖(1732〜1804)

 名を賜と言い、大阪の人です。彼は、伊藤東所に就いて古学を学び、伊勢長島藩の儒臣となって藩校文礼館を再興し、聖堂を建設して祭酒となり、碩学と称された人です。その書に、『通俗西湖佳話』四巻・『梅崖遺草』六巻・『梅崖集鈔』三巻等が有ります。

 敬義(崎門)学派の人々

 敬義学は、山崎闇斎が提唱した学問ですが、日本の神道と結びついた朱子学で、神朱兼修の学で、思想の実践を目標としています。百家の思想を学んで学識を深めるのではなく、見識を養い徳行を修めることを説きます。この学派の人々を、敬義学派或いは崎門学派と呼び、大別すれば、彼の神道(垂加神道派)部分を受け継ぐ人々と、朱子学部分を受け継ぐ人々とがいて、門弟六千人と称される如く誠に多士済々で、その後の水戸学や尊皇運動に影響を及ぼします。

 闇斎の門下で、朱子学を受け継ぐ代表的な人達は、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・谷秦山・保科正之・米川操軒・鵜飼錬斎らで、特に直方・絅斎・尚斎の三人は崎門の三傑と称されています。更に直方の門下に稲葉迂斎・跡部光海・三輪執斎らが現れ、絅斎の門下に三宅観瀾・若林強斎・鈴木貞斎らが現れ、尚斎の門下に久米訂斎・服部梅圃・加々美桜塢らが現れています。

山崎闇斎(1618〜1682)

 名を嘉と言い、京都の人です。彼は、最初妙心寺の僧となりますが、釈迦を笑ったため土佐に追われ、そこで南学の谷時中に学びます。二十九歳で還俗して京に帰り儒者として講義を始めます。四十一歳で江戸に出、保科正之に招かれて会津で講義したり、更に伊勢に下って神道を授けられたりしますが、正之没後は京に帰って子弟の教授に当たります。彼の著作は百種近く有りますが、儒教に関する書は殆ど経書の注解書で、『四書序考』四巻・『孟子要略』四巻・『六経経名考』一巻・『小学蒙養集』三巻等が有ります。しかし、闇斎の漢文読解は独特で、俗に「闇斎読み」と言われていますが、その読みで訓点を施した重要な漢籍が有ります。それが、『四書』十四巻・『五経』十一巻・『小学』二巻・『周易本義』十巻・『近思録』五巻・『文公家礼』四巻等です。

闇斎門下の人々

鵜飼錬斎(1633〜1693)

 名を真昌と言い、京都の人です。彼は、尼崎藩の儒臣であった鵜飼石斎の子で、十七歳頃から家学である朱子学を講説しますが、闇斎に師事して崎門派朱子学考究し、後に水戸藩に仕えて『大日本史』の編纂に参与します。その書に、『錬斎遺稿』・『二鵜詩集』等が有ります。尚、彼の弟が、同じく水戸藩に仕えて史官となった鵜飼称斎です。

佐藤直方(1650〜1719)

 名を直方と言い、備後の人です。二十二歳で闇斎の門に入り、二十四歳で帰郷して『小学』を講じ、再び闇斎の塾に通いますが、神道に傾斜する闇斎の考えが受け入れられず、遂に破門されます。闇斎没後は江戸に出て子弟の教授に専念し、諸侯の招きに応じて進講したりしています。彼は、ひたすら朱子を尊信しており、その書も朱子の文集や語録から抄録したものが多く、『道学標的』一巻・『講学鞭策録』一巻・『四書便講』六巻・『論語考』一巻・『孟子尽心口義』一巻等が有ります。

浅見絅斎(1652〜1711)

 名を安正と言い、近江の人です。十六歳で闇斎の門に入り、その才を愛でられ闇斎に信任されますが、神道論争で佐藤直方が破門になった巻き添えで、彼も破門されます。以後、一切の招聘を固辞し、京に在って門弟の教授と著述とに専念します。その書に、『大学明徳説』一巻・『六経考』一巻・『五経要旨』八巻・『小学講義』六巻・『中庸講義』一巻・『白鹿洞掲示講義』一巻・『靖献遺言』八巻等が有ります。

三宅尚斎(1662〜1741)

 名を重固と言い、播磨の人です。十九歳で闇斎の門に入りますが、闇斎晩年の弟子であったため、闇斎没後は佐藤直方や浅見絅斎らにも学んでいます。二十四歳で江戸に出て忍藩の阿部家に仕えますが、後に京に帰り門弟に教授しています。彼の学問は朱子学が中心で、その書には、『太極図説口義』『四書筆記』『大学或問筆記』『中庸章句筆記』『孟子筆記』『続近思録筆記』『仁説図考』等が有ります。また、詩文を禁止した闇斎の門人に在っては珍しく、『尚斎先生文集』三巻が有ります。

谷秦山(1663〜1718)

 土佐の人です。九歳の時に四書を学び、十七歳で上京して闇斎の門に入ります。闇斎没後は神道や天文学を学び、高知城下で国史を講じています。その後、冤罪に因って禁錮せられ罪籍のまま死去します。土佐藩は遂に免除しませんが、孝明天皇即位に当たり、皇室から前罪免除が命ぜられ、正五位の追贈が行われています。彼の学問は、神道を体として儒学を翼とするものですが、将に闇斎晩年の思考をよく受け継いでいる、と言えます。因ってその著作には、『秦山集』六巻等が有りますが、殆どが神道関係で儒教関係の書は見当たりません。

直方門下の人々

稲葉迂斎(1684〜1760)

 名を正義と言い、江戸の人です。彼は、初め絅斎や尚斎の門人達と経義の講究を行い、次いで直方の門に入り教えを受け闇斎学を大成させた人です。三十二歳で唐津藩の儒臣となり、晩年には名声高く、秋田藩主佐竹侯・阿波藩主蜂須賀侯・秋月藩主黒田侯ら、多くの藩主が弟子の礼を執って闇斎学を奉じています。その書に、『近思録講義』十四巻・『易経講義』二巻・『大学講義』一巻・『迂斎文集』十巻・『迂斎学話』二十八巻等が有ります。尚、彼の子が稲葉黙斎で、父迂斎の家学を受け闇斎学を伝えています。

絅斎門下の人々

三宅石菴(1665〜1730)

 名を正名と言い、京都の人です。絅斎の門人として闇斎の学を江戸や大坂で講説した人です。大阪では主に程朱の学を唱え、中井甃菴らと相謀って尼崎に懐徳堂を建て、その初代祭酒となっています。その書に、『論孟首章講義』一卷・『万年先生詩稿』一卷等が有ります。尚、石庵の弟が、水戸藩徳川家に仕えた三宅観瀾です。

若林強斎(1679〜1732)

 名を正義と言い、京都の人です。絅斎の門人として闇斎の学を後世に伝えた人です。二十四歳の時に絅斎の門に入り、『大学』『中庸』『近思録』等を学んでいます。絅斎没後は、同学の三宅尚斎と学説に於ける確執を生じ、以後門弟への教授と著述とに専念するようになります。彼には多くの著作が有りますが、儒教に関した書としては、『大学師説』『中庸師説』『論師説語』『孟子講義』『詩講義』『近思録師説』『小学師説』『延平答問師説』『仁義礼智師説』等々多数有ります。

尚斎門下の人々

久米訂斎(1699〜1784)

 名を順利と言い、京都の人です。三宅尚斎に師事してその娘婿となり、闇斎の学を信崇して京で講学に従事した人です。その書に、『西銘講義』一巻・『名義説』一巻・『学思録鈔』二巻・『訂斎夜話』一巻等が有ります。

迂斎門下の人々

稲葉黙斎(1732〜1799)

 名を正信と言い、江戸の人です。彼は、稲葉迂斎の次子で、初め家学を受けた後、野田剛斎に師事し、崎門学派の朱子学を信奉し、唐津藩の儒臣となりますが、古河移封に伴い古河藩藩校で講説に従事した人です。その書に、『孔松全稿』四十巻・『清谷全話』百五十巻・『為学筆記』二巻・『鬼神集説講義』一巻・『黙斎遺草』二巻等が有ります。

強斎門下の人々

西依成斎(1702〜1797)

 名を周行と言い、肥後の人です。強斎の望南書院に入って朱子学を受け、強斎没後は望南書院で二十年近く教授に従事しています。その後小浜藩の儒臣となっていますが、山崎闇斎の垂加学派が京に命脈を保ち得たのは、一に彼の力に因ると言われています。その書には、『論語講義』十巻・『南遊示蒙』一巻等が有ります。

訂斎門下の人々

服部栗斎(1736〜1800)・・詩文系

 名を保命と言い、摂津の人です。彼は、飯野藩の儒員であった服部梅圃の子で、家学を受けた後に大阪で五井蘭洲に学び、次いで稲葉迂齋らと交わり久米訂齋に学びます。その後飯野藩の儒員となりますが、松平定信から江戸の麹町に土地を賜り、麹溪書院を起こして闇斎学の講説に従事します。その書に、『隠居放言』六卷が有ります。

栗斎門下の人々

櫻田虎門(1774〜1839)・・詩文系

 名を質と言い、仙台の人です。彼は、初め仙台で志村五城に学びますが、江戸に出て服部栗齋に従学して闇斎学の道統を受け継ぎ、仙台の養賢堂指南役となりますが、学制改革の意見対立から致仕し、家塾での教育に専念します。その書に、『四書摘疏』四十卷・『論語章旨』二巻・『近思録摘説』十四巻・『白鹿洞書院掲示講義』一巻等が有り、詩文集に、『鼓缶子文章』四巻・『虎門詩稿』一巻等が有ります。

 水戸学派の人々

 水戸学とは、基本的には朱子学を根底としていますが、それに神道の見解や尊皇思想が加味されており、日本的様相の朱子学と言えます。この学を開いたのは水戸光圀ですが、彼は、明の亡命学者朱舜水を師としていますので、実質的水戸学の開祖は朱舜水であると言えます。朱舜水自身が特別な学派に属さず、実用の学を重んじた人であったため、一派に属して固陋に学を守ると言うようなことはありません。特に光圀の儒者を集めた目的が、『大日本史』編纂事業のためであったため、緒派に渉って多方面から儒者が参集しています。例えば、佐々十竹・栗山潜鋒・安積澹泊・三宅観瀾らです。つまり、本来は朱子学を基本にした実務の学ですが、幕末に至ると、藤田東湖・会沢正志斎らに因って、尊皇の思想が色濃く出されます。

徳川光圀(1628〜1700)

 名を光圀と言い、水戸の人です。彼は、兄頼重を越えて水戸藩の家督を継ぎますが、十八歳で『史記』の伯夷伝を読んで感ずる所が有り、三十一歳の時に『大日本史』の編集に着手し、兄の子綱条に家督を譲り、朱舜水に弟子の礼を執っています。光圀が集めた儒者は概ね史学に堪能ですが、その中には、朱舜水に学んだ安積澹泊もいます。光圀には『常山文集』二十二巻が有りますが、朱舜水にも『朱舜水文集』二十八巻が有ります。

光圀招聘の人々

中村篁溪(1647〜1712)

 名を顧言と言い、京都の人です。彼は、江戸に出て林鵞峰に師事して史学を極め、同時に詩も善くし、徳川光圀に招聘されて彰考館に入り、『大日本史』の編集に参与して彰考館総裁となります。その書に『篁溪文集』・『義公遺事』等が有ります。

安積澹泊(1656〜1737)

 名を覚と言い、水戸の人です。彼は、十歳の時に朱舜水の門人となります。二十八歳の時に水戸の彰考館に入って『大日本史』の編集に参与して史館総裁となり、光圀の左右に近侍して経史の学や道義を講じています。その史に関わる書に『湖亭渉筆』四巻が有り、文集に『澹泊斎文稿』八巻が有ります。

栗山潜鋒(1671〜1706)

 名を愿と言い、大阪の人です。彼は、初め山崎闇斎の門人桑名松雲に学び、八条宮尚仁親王に仕えていますが、親王没後に江戸に下り講説を生業としている時、光圀に招かれて史館総裁となり、『大日本史』の編集に参与します。その書に『弊帚文集』六巻が有ります。

三宅観瀾(1674〜1718)

 名を緝明と言い、京都の人です。彼は、大阪懐徳堂の初代校主となった三宅石庵の弟です。最初は崎門派の浅見絅斎に学び、次いで木門の人々とも交わり文名を揚げています。二十六歳の時に水戸に仕え『大日本史』の編集に参与して史館総裁となりますが、その後幕府の儒官に転じています。その書に『助字雅』一巻・『観瀾集』七巻等が有ります。

篁溪門下の人々

小池桃洞(1668〜1739)

 名を友賢と言い、常陸の人です。彼は、中村篁溪に師事して儒学を学び、更に建部賢弘に就いて算術を、渋川春海に従って天文や暦学を修め、彰考館に入ってその総裁となります。その書に『天文発蒙合同』一巻・『桃洞随筆』二巻等が有ります。

桃洞門下の人々

大場南湖(1719〜1785)

 名を景明と言い、常陸の人です。彼は、小池桃洞に師事して経史や暦学を学び、彰考館に入ってその総裁となります。その書に『農政纂要』一巻・『南湖詩草』一巻等が有ります。

 古文辞(ケン園)学派の人々

 古文辞学とは、本来明の李夢陽・何景明・李攀竜・王世貞らが提唱した復古的な学風で、文は秦・漢に、詩は唐に返るべしとする、文学上に於ける一種の復古運動ですが、この李・王の学を良しとして、荻生徂徠が、その方法を経書解釈に応用して祖述提唱した学派です。孔子の学問や思想を研究して天下を治める聖人の道を知るべきである(朱子学を否定して、原典から直接聖人の言葉を理解すると言う点では、伊藤仁斎の古義学に近いですが、仁斎が仁を主とした倫理方面から道徳修養を説くのと異なり、徂徠の方は、政治的色合いの濃い経世斉民の学です)と述べ、そのためには、古書に通じ古文辞を理解しなければならない、と説く学派です。

 本来は、詩文制作上の古文辞研究であった考えを、経書解釈の方法として応用したため、結果として、古文辞に因る文章制作や唐語研究を奨励し、儒者の活動範囲を、大きく広げることになります。

 この徂徠の考えが提唱されるや、それまでの求道的な儒学は一変し、将に古文辞学派が一世を風靡しますが、問題は、これ以後儒者の性格が大きく変わり、学問と詩文とが明白に分かれ出すことです。徂徠の門下からは多数の人材が輩出されますが、その経学的方面を受け継ぐのが、太宰春台・山井崑崙・根本武夷らで、詩文方面を受け継ぐのが、服部南郭・山県周南・大内熊耳・平野金華・高野蘭亭・安藤東野・宇佐美シン水・釈万庵・釈大潮らです。

荻生徂徠(1666〜1728)

 名を雙松と言い、江戸の人です。彼は、特定の師を持たず独学で一家をなした人です。十代の後半に、独りで『大学諺解』を反復熟読し、字法句法を悟って群書に通じたと言いますが、二十五歳で学を講じ出した時は、主に宋学を述べています。その後、時の権勢者柳沢吉保に仕えて頭角を現し、服部南郭や安藤東野らの門人を抱えて名声を高めます。

 彼が古文辞学を声高に提唱し出すのは、吉保の失脚後に江戸に門戸を張ってからです。彼は、江戸時代を代表する思想家で、学問研究に於ける自由さの重要性を認め、儒者の有り様を一変させた人物で、それまでの経書解釈中心から、史の分野・諸子の分野・文字の分野、更には詩文の分野にまで、研究の範囲を広げています。

 彼の学派が一世を風靡したのは、この学問の許容範囲の広さと自由さのためですが、その結果、徂徠自身が持っていた学問の総合性とは裏腹に、門弟が経術と詩文とに二分し、更に品行に欠ける様な人が現れだしたのは、自由さの負の側面で故無しとは致しません。彼の著作には、『論語徴』(この書は中国に伝わり、劉宝楠が『論語正義』を著すに当たり、採取されています)『大学解』『中庸解』『読荀子』『読韓非子』『読呂氏春秋』『孫子国字解』『呉子国字解』『弁道』『弁名』『経子史要覧』『明律国字解』『文淵詩源』『絶句解』『五言絶句百首解』『徂徠文集』『徂徠集』等々、多数有ります。

徂徠門下の人々

釈万庵(1666〜1739)・・詩文系

 名を原資と言い、江戸の人です。彼は、芝の東禅寺の僧です。幼少から学問を好み詩才が有り、徂徠の門に遊んだ人です。作詩態度は盛唐を範として、閑と興さえ有れば詩を作っていた、と伝えています。その書に、『万庵集』十一巻が有ります。

釈大潮(1676〜1768)・・詩文系

 名を元皓と言い、肥前の人です。彼は、筑後の竜津寺の化霖道竜に師事し、二十一歳で黄檗山に入り独湛に師事します。その後、諸国の遊歴に出て江戸で八年逗留しますが、その時に徂徠や南郭らと親交を結びます。その書に『松浦詩集』三巻・『魯寮詩偈』一巻等が有ります。

山井崑崙(1680〜1728)

 名を鼎と言い、紀州の人です。彼は、紀州で伊藤仁斎の高弟蔭山東門に学びます。その後、京に上って古義堂の伊藤東涯に学びますが、徂徠の『訳文詮蹄』を見て感ずる所が有り、江戸に下って徂徠の門に入ります。二十九歳の時に伊予西条藩に仕え、その後は同門の親友根本武夷と共に足利学校に赴き、経書の校勘事業に従事します。その書に、『七経孟子考文補遺』が有りますが、崑崙はその完成に一生を捧げています。この書は、中国に伝わり四庫全書に採取され、また阮元の十三経注疏の校勘にも使われています。

太宰春台(1680〜1747)

 名を純と言い、信州の人です。彼は、徂徠が古文辞学を唱えるのを聞き、安藤東野の紹介で入門していますが、必ずしも徂徠の考えに心服を寄せている訳ではなく、古書を理解するために古文辞を学ぶのは良しとしますが、古文辞を作ることは良しとしていません。師の徂徠が物事に寛容であったのとは逆に、彼は、諸侯の招聘を固辞して清貧に甘んじ、礼節を重んじて経学文章の研鑽に専念しています。その書に、『論語古訓』『六経略説』『増注孔子家語』『聖学問答』『弁道書』『紫芝園漫筆』『春台文集』等が有ります。

安藤東野(1683〜1719)・・詩文系

 名を煥図と言い、下野の人です。彼は、初めは関宿藩の儒者で朱子学者であった中野ヒ謙に学びます。その後に徂徠の門に入り、甲府の柳沢家に仕えますが、二十九歳で致仕して家居します。その書に、『東野遺稿』三巻が有ります。

服部南郭(1683〜1759)・・詩文系

 名を元喬と言い、京都の人です。十六歳で柳沢吉保に仕え、徂徠の門下で詩才を以て聞こえ、三十四歳で致仕した後は、門を開いて詩文の教授を行っています。また、同門の春台・東野・周南・金華らの墓誌銘を書いています。その書に、『唐詩選国字解』七巻・『絶句詩集』一巻・『南郭尺牘標注』二巻・『南郭先生文集』四十巻等が有ります。

山県周南(1687〜1752)・・詩文系

 名を孝孺と言い、周防の人です。彼は、十九歳で江戸に上り徂徠の門に入ります。三十一歳で長州藩毛利侯の侍講となり、藩校明倫館が出来るに及び三十三歳で儒官となります。以後は明倫館の祭酒として、儒教古典の研究と詩文を作ることを以て、藩士の教育に従事しています。その書に、『為学初問』二巻・『周南文集』十巻等が有ります。

平野金華(1688〜1732)・・詩文系

 名を玄中と言い、磐城の人です。彼は元々医術を生業としていましたが、儒者として立つことを志し、初めは関宿藩の儒者で朱子学者であった中野ヒ謙に学びますが、後に徂徠の門に入ります。その後、守山藩の松平家に仕え記室となります。酒好きで豪放磊落、惡を憎み善を愛する義侠心の強い人であった、と伝えています。その書に『金華稿刪』六巻等が有ります。尚、彼の弟子には、『唐詩選箋註』八巻を著す戸崎淡園がいます。

本多猗蘭(1691〜1757)・・詩文系

 名を忠統と言い、近江の人です。彼は、伊勢神戸藩(膳所藩主本多氏の支藩)の藩主ですが、学芸を好んで荻生徂徠に従学し、儒学に通じて詩文と書画を善くした人です。その書に、『猗蘭子』三巻・『古言録』二巻等が有ります。

根本武夷(1699〜1764)

 名を遜志と言い、鎌倉の人です。彼は、最初武芸を学びますが、二十六歳の時に徂徠の門に入ります。親友山井崑崙と足利学校に赴き、七経(詩経・書経・易経・春秋・礼記・論語・孝経)を校勘し、更に皇侃の『論語義疏』十巻を校定します。この書は中国に伝わり、翻刻されています。

 江戸期に於ける校勘学の第一人者は崑崙と武夷ですが、師徂徠の『論語徴』にしろ、崑崙の『七経孟子考文補遺』にしろ、武夷の『論語義疏』にしろ、当時の中国に伝わり高い評価を得ており、共に江戸時代に於ける日本の漢学者のレベルの高さを、本場に喧伝する著作であったと言えます。

大内熊耳(1699〜1776)・・詩文系

 名を承祐と言い、陸奥の人です。彼は、十七歳で江戸に出て秋元澹園に学び、次いで徂徠に師事し、京・長崎に遊び江戸に帰って門弟に教授していますが、その後肥前の唐津藩に仕えて儒臣と成っています。その書に、『熊耳先生文集』十六巻等が有ります。

高野蘭亭(1704〜1757)・・詩文系

 名を惟馨と言い、江戸の人です。徂徠門下で南郭に次ぐ詩名を揚げたのは蘭亭です。彼は、六歳の時に佐橋玄竜に就いて書を学び、その後徂徠の門に入ります。徂徠は彼の才を奇として愛でますが、十七歳で失明し、以後徂徠の教えに従いひたすら作詩に耽ります。妻を娶ること六回に及びますが、遂に後嗣を得ず、晩年は鎌倉円覚寺の傍らに居を構えます。その書に、『蘭亭遺稿』十巻が有ります。

春台門下の人々

松崎観海(1725〜1776)・・詩文系

 名を惟時と言い、江戸の人です。彼は、十三歳の時に太宰春台に師事して経義を学びますが、同時に高野蘭亭から詩も学び、「蘭亭社中の五子の魁」と称されてもいます。篠山藩に仕えて、藩政に参画しています。その書に、『観海楼論語記聞』七巻・『観海集』五巻・『来庭集』一巻等が有ります。

 古注学派の人々

 古注学派とは、本来漢唐の注疏学で、伝統的に菅原家や清原家の博士家が伝えた学問ですが、江戸時代に入り朱子学が流行すると、僅かに朝廷や公家の間で細々と続けられていました。しかし、江戸も後半初期の九代将軍家重・十代将軍家治時代に入ると、再び、漢唐の注疏を根底に据え、それに古義学・古文辞学・陽明学等の注釈をも参照して、朱子学を批判的に見ようとする学派です。

 そのため、この学派の人々は、最初は朱子学や古文辞学・折衷学を学んでいて、最終的に古注学に入ったと言うような人が多く、一概に古注だけを学んでいるとは言えませんが、共に共通するのは、「漢唐の古訓」を宗としている点です。宇野明霞・武田梅竜・細井平洲・中井履軒・塚田大峰・村瀬栲亭・久保筑水・猪飼敬所・狩谷(木+夜)斎・市野迷庵・山梨稲川・貫名海屋・岡本況斎・鷲津毅堂・大槻磐渓らが、代表的な古注学者と言えます。

沢村琴所(1686〜1739)

 名を維顕と言い、近江の人です。彼は、最初伊藤東涯に就いて古義学を学び、更に徂徠の古文辞学も研修しますが、最後は漢魏の伝注に依拠した古注学を善しとして、家塾松雨亭を開き古注学を講じた人です。その書に、『琴所稿刪』二巻・『閑窓集』一巻・『斉桓問答』一巻等が有ります。

宇野明霞(1698〜1745)

 名を鼎と言い、近江の人です。彼は、最初徂徠の古文辞学に傾倒し、京で最初に古文辞学を唱えた人ですが、後に徂徠の説に異見を生じ、論を立てて徂徠の誤りや説を攻撃し、古注の研究に没頭した人です。その書に、『論語考』六巻・『左伝考』三巻・『明霞先生遺稿』八巻等が有ります。

武田梅竜(1716〜1766)・・詩文系

 名を維岳と言い、美濃の人です。彼は、初め伊藤東涯に学びますが、東涯没後宇野明霞に師事して古注学を学びます。その後、妙法院親王の侍読となっています。その書に、『明文選』四巻・『梅竜先生遺稿』三巻・『滄溟尺牘解』一巻等が有ります。

野村東皐(1717〜1784)

 名を公台と言い、近江の人です。彼は、沢村琴所に師事して古注学を修め、彦根藩に仕えて儒臣となった人です。その書に、『国語考』六巻・『世説筆解』四巻・『金亀詩纂』七巻・『講余筆録』纂巻等が有ります。

釈大典(1719〜1801)・・詩文系

 名を顕常と言い、近江の人です。彼は、京都相国寺に入り、その後南禅寺に移った禅僧ですが、儒学を宇野明霞に師事して古注学を学び、詩文を釈大潮に就いて修めた人です。その書に、『文語解』・『詩語解』・『北禅文草』・『北禅詩草』等が有ります。

赤松滄洲(1721〜1801)

 名を鴻と言い、播磨の人です。彼は、赤穂の医師大川耕斎に養われ、医業の時は大川を名乗り、詩文の時は赤松を名乗ります。京で経義を宇野明霞に学び、医業を香川修庵に学びます。赤穂藩の儒臣となり、藩政に参画して家老にまでなった人です。その書に、『論語省解』二巻・『周易象義』十巻・『静思亭文集』十巻等が有ります。

細井平洲(1728〜1801)

 名を徳民と言い、尾張の人です。彼は、最初折衷学者の中西淡渕に師事していますが、後に江戸に出て漢唐の古注を尊重するようになります。尾張藩の儒官となって明倫堂で教授し、その後上杉藩の鷹山公の尊信を得て、藩校興譲館の振興に尽力します。その書に、『詩経古伝』十巻・『詩経毛鄭異同考』三巻・『嚶鳴館詩集』三巻・『嚶鳴館遺稿』十巻等が有ります。

中井履軒(1732〜1817)

 名を積徳と言い、大阪の人です。彼は、大阪懐徳堂の祭酒中井甃庵の第二子で、懐徳堂で生まれて懐徳堂で育ち、二歳年上の兄が中井竹山です。学を父甃庵や懐徳堂助教の五井蘭洲に受けますが、三十六歳の時に私塾水哉館を開き、門弟に教授する生活を送り、実際懐徳堂学主となるのは、兄竹山が没した後の最晩年の七十三歳からです。大阪の学問発展に寄与した点から言えば、竹山・履軒の中井兄弟は、江戸後期に於いて浪花を代表する儒学者である、と言えます。その書は多数ありますが大半が抄本・稿本で、実際刊行された書には、『書経(水哉館読法書経)』一巻・『七経雕題略』六巻・『論語逢原』四巻・『中庸逢原』一巻等が有ります。

塚田大峰(1745〜1832)

 名を虎と言い、美濃の人です。彼は、父旭嶺から家学(朱子学)を学んでいますが、広く古今の書を考究し、三十歳頃から古註を奉じ「経によりて経を解す」と唱えて一家を成した人です。晩年尾張藩に仕えて明倫堂の督学となり、藩の学風を改革しています。その書に、『塚注周易』八巻・『塚注詩経』五巻・『塚注老子』二巻・『塚注孔子家語』十巻・『塚注孔叢子』十巻・『大峰文集』六巻・『大峰詩集』四巻等が有ります。

村瀬栲亭(1746〜1818)

 名を之煕と言い、京都の人です。彼は、武田梅竜に従って古注を学び、博学で古今の書に通じ、詩文・書画にも長じた人です。秋田藩に仕えて藩校明道館の設立に尽力し、晩年は京で講説に従事しています。その書に、『毛詩述義』十四巻・『論語集註箋』十巻・『学庸集義』三巻・『管子補註』二巻・『栲亭全稿』六巻等が有ります。

久保筑水(1759〜1835)

 名を愛と言い、信濃の人です。彼は、折衷学派の片山兼山に師事して古注学を研究し、業成り門弟に教授していますが、後に一橋公に仕えて儒臣となっています。その書に、『論語集義』十巻・『学庸精義』三巻・『荀子増註』十一巻・『淮南子注考』十二巻等が有ります。

秦滄浪(1761〜1831)

 名を鼎と言い、美濃の人です。彼は、服部南郭門下で徂徠学を奉じて刈谷藩主土井利徳に仕えた秦峨眉の子で、最初父より家学を承けて徂徠学を奉じますが、後に細井平洲に学んで尾張藩校明倫堂の教授となり、特に古書の校勘を好み、校勘本や校訂本の公刊に尽力した儒者で、彼の手になる『春秋左氏伝校本』や『国語定本』等は、広く世に行われています。またその他の書に、『古詩紀(校)』八巻・『李善註文選(校)』三十巻・『今世説(校)』八巻・『楚辞灯(校)』四巻・『韓文起(校)』二十巻等が有ります。

猪飼敬所(1761〜1845)

 名を彦博と言い、近江の人です。彼は、最初石田梅巌の心学に没頭しますが、二十三歳の時に儒学を志し、古注学の巌垣竜渓の門に入ります。その後門弟に教授したり諸侯の招きに応じたりしていますが、晩年は津藩の賓師となっています。その書に、『論孟考文』二巻・『論語一貫章講義』一巻・『管子補正』二巻・『荀子補遺』一巻・『晏子補正』二巻・『淮南子校正』一巻等が有ります。

市野迷庵(1765〜1826)

 名を光彦と言い、江戸の人です。彼は、最初は黒沢雉岡に師事して朱子学を学んでいますが、松崎慊堂らと親交を結び、漢唐の訓詁を宗とするようになります。その書に、『正平本論語集解趙翼箚記』十巻・『好古日録』二十巻・『迷庵文稿』二巻・『迷庵遺稿』二巻等が有ります。

山梨稲川(1771〜1826)

 名を治憲と言い、駿河の人です。彼は、狭山侯の儒臣である陰山豊洲に就いて学び、特に音韻学に精通した人ですが、同時に詩文や書も巧みです。その書に、『文緯』三十巻・『字緯』十二巻・『稲川文草』五巻・『稲川詩草』七巻等が有ります。

狩谷(木+夜)斎(1775〜1835)

 名を望之と言い、江戸の人です。彼は、若い頃から律令の研究に志し、『通典』『太平御覽』等を読破し、六経を修めて松崎慊堂らと親交を結びます。その学は、漢唐の訓詁の古注学を主とし、校勘・金石・小学等を研究し、特に説文学に長じています。その書に、『転注説』一巻・『説文新附字考』一巻・『古京遺文』二巻・『和名類聚抄箋注』十巻等が有ります。

貫名海屋(1778〜1863)

 名を苞と言い、阿波の人です。彼は、学を中井竹山に受け、詩文を矢上快雨に学んでいます。大阪の懐徳堂塾頭となりますが、後に京で私塾須静堂を開き、門弟に教授しています。その書に、『左繍』三十巻・『廿二史箚記(校定)』三十六巻・『須静堂詩集』一巻等が有ります。

摩島松南(1791〜1839)・・詩文系

 名を長弘と言い、京都の人です。彼は、猪飼敬所や中野龍田に漢学を学んで儒者を志し、家塾を開いて門弟に教授し、講説を業として書を善くし、仁科白谷や貫名海屋・梅辻春樵らと親交を結び、至孝と温和な人柄で人望を得て門弟も多く、諸侯の招聘にも阿順を嫌って応ぜず、文名を以て鳴らした人です。その書に、『論語説』四巻・『尚書説』四巻・『晩翠堂遺稿』四巻・『興起詩集』二巻等が有ります。

岡本況斎(1797〜1878)

 名を保孝と言い、江戸の人です。彼は、漢学を折衷学派の日尾荊山、次いで古注学派の狩谷(木+夜)斎にに学び、国学を清水浜臣に学びます。そのため和漢の学を兼備して考証に長じた人です。その書は多数に上り、大概は『況斎叢書』八十冊に収められていますが、それ以外にも『論語注疏考』一巻・『尚書注疏考』一巻・『呂氏春秋考』三巻・『三国志攷文』一巻等が有ります。

大槻磐渓(1801〜1879)

 名を清崇と言い、仙台の人です。彼は、仙台藩の藩医で蘭学者であった大槻玄沢の第二子で、『大言海』を著した大槻文彦の父です。十六歳の時に昌平黌に入って朱子学を学び、藩の侍講となり、藩校養賢堂の学頭となりますが、松崎慊堂と交わって文を学び、古注学に親しみます。その書に、『論語約解』四巻・『孟子約解』三巻・『孝経文視』二巻・『磐渓文鈔』三巻・『磐渓詩鈔』二巻等が有ります。

鷲津毅堂(1825〜1882)・・詩文系

 名を宣光と言い、丹波の人です。彼は、最初に猪飼敬所に師事して古注学を宗としていますが、後に江戸に出て昌平黌に学びます。晩年尾張藩の侍講となって学制を監督し、明治に入って司法権大書記官となります。その学は『礼記』『周禮』『儀禮』の三礼に通じていたと言われていますが、特に詩文が優れています。その書に、『毅堂集』五巻・『親灯余影』四巻等が有ります。

 折衷(考証)学派の人々

 折衷(考証)学派とは、各学派が並立して門戸の見を争ったことへの反動として起こった学派で、木下順庵門下の榊原篁洲が、古注と新注とを兼修し各自の批判を加えながらも、一方に拘束されず諸派の良い点を調和しながら諸説の公平を期した教授態度に、共鳴した人々の集まりで、井上蘭台・片山兼山・井上金峨・皆川淇園らがいます。この派は意識的に門派を立て一家の見を張るようなことは有りませんが、蘭台の門下に、井上四明が現れ、兼山の門下に藍沢南城が現れ、金峨の門下に、吉田篁トン・山本北山・亀田鵬斎らが現れ、淇園の門下に岩垣竜渓・東条一堂が現れ、四明の門下に、蒲坂青荘が現れ、北山の門下に、朝川善庵・原念斎・大田錦城・梁川星巌・近藤正斎らが現れ、鵬斎の門下に、日尾荊山・亀田綾瀬・館柳湾らが現れ、更に、諸子百家に通じ古注・新注から清朝考証学まで、必要なものは何でも学んで考証折衷した大田錦城の門下に、海保漁村・東条琴台らが現れ、星巌の門下に遠山雲如・小野湖山が現れると言う具合に、江戸後期を代表する錚々たる学者の多くが、折衷(考証)学派の人々です。

井上蘭台(1705〜1761)

 名を通煕と言い、甲府の人です。彼は、二十二歳の時に江戸に出て、昌平黌に入り林鳳岡に学びます。門下の逸材と称され、岡山藩に仕えて侍講となります。その学問は、朱子学を墨守すること無く古注にも従って折衷学を唱え、その門下から井上金峨が現れます。その書には、『七才子詩集解』三巻・『図南詩文集』十二巻・『蘭台先生遺稿』三巻等が有りますが、特筆すべきは、玩世教主(筆名)の名で出した『唐詩笑』と言う本で、これは、『唐詩選』を洒落た戯作本ですが、当時の漢学者の洒脱さと粋さを、垣間見せる本です。

中西淡淵(1709〜1752)

 名を維寧と言い、三河の人です。彼は、学を木下蘭皐に受け、経・史・諸子から陰陽・小説更に日本の典故にまで通じた人で、必要に応じて漢唐の注疏や宋明の注解を適宜用い、折衷の学を樹立した人です。最初名古屋で教授していましたが後に江戸に出て講説し、門弟数百人に及び細井平洲・南宮大湫らも学んでいます。その書に、『淡淵文集』十卷が有ります。

片山兼山(1730〜1782)

 名を世?と言い、上野の人です。彼は、初め徂徠の門弟服部南郭に師事し、宇佐美シン水の養子となって古文辞学を学びますが、やがて師の説に疑問を生じて排斥したため?水に放逐され、以後漢唐の注疏を主として諸説を折衷した折衷学を唱えます。彼の学を山子学と言い、彼が訓点を施して刊行した論語や孟子・文選等は、山子点本と呼ばれています。その書に、『論語一貫』十巻・『大学古義』一巻・『中庸古義』一巻・『兼山詩集』一巻・『論語正文』二巻・『孟子正文』七巻・『礼記正文』五巻・『文選正文』十二巻等が有ります。

井上金峨(1732〜1784)

 名を立元と言い、江戸の人です。彼は、初め川口熊峯に就いて古義学を学びますが、その後井上蘭台に師事して折衷学を学びます。彼は、訓詁は漢唐の注疏から取り、義理は宋明の諸家から採取し、穏当な考えの中に先賢の遺旨を探ろうと努力した人で、門弟への教授を生業としています。その書に、『易学折衷』一巻・『経義折衷』一巻・『金峨文集』七巻等が有ります。

皆川淇園(1734〜1807)

 名を愿と言い、京都の人です。彼は、特に誰に師事したと言うことは無く、文章を作るには字義を知る必要が有るとして辞書の研究を行い、遂に名物の本義は声音に因ると考え、それで経書を解釈して一家の学を立て、学堂弘道館を建てて教授に努め、経学文章を以て名声海内に振るい、門弟三千人と称された人です。その書に、『実字解』六巻・『虚字解』二巻・『助字詳解』三巻・『周易繹解』十六巻・『書経繹解』四巻・『詩経繹解』十五巻・『学大繹解』一巻・『論語繹解』十巻・『孟子繹解』十四巻・『老子繹解』二巻・『唐詩通解』三巻・『淇園文集』六巻・『淇園詩集』三巻等が有ります。

樺島石梁(1754〜1827)・・詩文系

 名を公礼と言い、筑前の人です。彼は、江戸に出て実用を重んじた古注学派の細井平洲の門に入って学びますが、彼自身は折衷の学を旨としています。藩校明善堂の教授となって藩学の振興に尽力し、特に詩文に優れています。その書に、『石梁文集』五巻・『石梁文集後集』五巻・『石梁遊草』二巻等が有ります。

西島蘭渓(1780〜1852)

 名を長孫と言い、江戸の人です。彼は、初め林述斎の門人である西島柳谷に学び、柳谷の養子となって特に詩学に長じます。柳谷没後は、講説と作詩三昧の悠々自適の生活です。その学は、一応朱子学を奉じてはいますが、上は漢唐の注疏から下は明清の考証(皇清経解を読んだと言われています)まで、広く目を通して己の見識で折衷すると言う折衷学です。その書に、『孔子家語』一巻・『晏子春秋考』一巻・『読孟叢鈔』十四巻・『歴代画題詩類抄』四巻・『坤斎詩存』三巻・『孜孜斎詩話』一巻等が有ります。

蘭台門下の人々

井上四明(1730〜1819)

 名を潜と言い、江戸の人です。彼は、本姓は戸口氏ですが、井上蘭台に師事して彼の嗣子となっています。家学を受けて詩文に長じ、岡山藩の儒臣となり世子の侍読となっています。その書に、『易解』六巻・『論語鈔説』十巻・『孝経衍義』十二巻・『四明山人小稿』七巻・『佩弦園文集』二十巻等が有ります。

兼山門下の人々

藍沢南城(1792〜1860)

 名を祇と言い、越後の人です。彼は、片山兼山に師事して学び、越後で講説を生業としています。その書は多く、『五経一得鈔説』五巻・『古文尚書略解』二十八巻・『周易索隱』十一巻・『春秋講義』七巻・『礼記講義』八巻・『論語集解補証』十巻・『孟子趙註補証』七巻・『孝経考』二巻・『唐宋絶句抄』一巻・『中晩唐七絶抄略解』二巻・『南城集』一巻・『三余集』十六巻等が有ります。

金峨門下の人々

岡田寒泉(1740〜1816)

 名を恕と言い、江戸の人です。彼は、初め兵学を学び、次いで山崎闇斎の学を学びますが、最後に井上金峨の門に入ります。五十歳の時に昌平黌の儒官に抜擢され、寛政の改革に携わり、その後代官職に転じて治績を挙げます。その書に『幼学指要』一巻・『読論孟法』一巻・『三礼図考』一巻・『寒泉精舎遺稿』八巻等が有ります。

吉田篁トン(1745〜1798)

 名を漢宦と言い、水戸の人です。彼は、元来水戸の藩医ですが、江戸に出て金峨に師事し折衷学を学んだ人で、古注を尊崇して考証学を唱えています。その書に、『論語集解考異』十巻・『真本墨子考』十五巻・『真本古文孝経孔伝』一巻『活版経籍考』一巻等が有ります。

山本北山(1752〜1812)・・詩文系

 名を信有と言い、江戸の人です。彼は、最初山崎桃渓に学びますが、後に金峨の門に入りますが、元来豪気な性格で人に従うを欲せず、自ら一格を構え、経学は『孝経』を根拠とし、文章は韓柳を好み、詩は宋を宗とするを唱えます。終生仕官はしていませんが、秋田の佐竹侯や高田の神原侯の諮問には応じて藩政を助け、その死に当たり神原侯から弔問の礼物を賜っています。その書に、『孝経集覧』二巻・『校定孝経』一巻・『作文志轂』一巻・『作詩志轂』一巻・『文藻行潦』三巻・『詩藻行潦』四巻・『孝経楼文集』五十巻・『孝経楼詩話』二巻等が有ります。

亀田鵬斎(1752〜1826)・・詩文系

 名を長興と言い、上野の人です。彼は、最初細井広沢の門人三井親和に学び、後に金峨の門に入り、二十八歳頃私塾を開き講説を生業とします。四十八歳の時に上方に遊び、五十三歳で江ノ島に遊び、五十八歳で北陸東北道を遊ぶ、と言う具合に旅をし、各地で詩文を遺しています。その書に、『大学私衡』一巻・『旧註蒙求』三巻・『鵬斎先生詩鈔』二巻・『鵬斎先生文鈔』二巻・『善身堂詩鈔』二巻等が有ります。

淇園門下の人々

岩垣竜渓(1741〜1808)

 名を彦明と言い、京都の人です。彼は、初め宮崎イン圃に学びますが、その後淇園の門に入ります。極めて篤実な人柄で、学は古注学を奉じています。その書に、『論語集解標記』十巻・『論語筆記』二巻・『松蘿館詩鈔』一巻・『松蘿館文集』一巻・『孟子筆記』・『十八史略読本』等が有ります。

沢辺北溟(1764〜1852)

 名を知タンと言い、丹後の人です。彼は、皆川淇園に師事して経史を修め、太田錦城らと親交を結んでいます。後に宮津藩に仕えて藩校礼譲館の建設に尽力した人です。その書に、『論語鈞纂』・『坤義録』・『北溟詩文集』等が有ります。

帆足万里(1778〜1852)

 名を万里と言い、豊後の人です。彼は、十四歳で脇屋蘭室に師事し、二十一歳で大阪に出て中井竹山に学び、福岡の亀井南冥にも学び、次いで皆川淇園に学びます。和漢古今の書を極め、天文・医術・蘭学などにも通じ、漢唐諸儒の説や日本の儒者の説などを折衷して、独自の見解を提示しています。その書に、『論語標註』十巻・『孟子標註』七巻・『中庸標註』一巻・『書経標註』六巻・『荀子標註』十巻等が有ります。

東条一堂(1778〜1857)

 名を弘と言い、上総の人です。彼は、京に上って淇園に師事し、江戸に帰って門弟に教授しています。尾藤二洲・佐藤一斎らと親交を結び、朱子学を斥け古註を宗とした折衷学を唱えます。その後弘前藩の藩校稽古館の督学となりますが、再び江戸に帰り教授に従事しています。その書に、『論語知言』十巻・『孟子知言』七巻・『中庸知言』一巻・『荀子箋注』一巻・『国語標註』一巻等が有ります。

四明門下の人々

蒲坂青荘(1775〜1834)

 名を円と言い、江戸の人です。彼は、西条藩士ですが幕府の賄い方となっています。学問は、井上四明に学んで宋学を修めていますが、著述を専らとしています。その書に、『定本韓非子纂聞』十一巻・『修文斎十書』十巻等が有ります。

北山門下の人々

大田錦城(1765〜1825)

 名を元貞と言い、加賀の人です。彼は、儒医である父玄覚の教育を受け幼にして四書を読破し、十七歳で京の皆川淇園に就こうとしますが果たせず、二十二歳の時に江戸に出て北山に師事します。しかし、北山の人格に疑いを持って離れ、以後百家の書を読み、漢唐宋明清の諸家は言うに及ばず、日本の諸儒の説をも参照して中庸を求め、遂に折衷考証学とでも言うべき一家の学を立てます。その後、三河の吉田侯や加賀の前田侯等に仕えて講説しています。その書に、『九経談』十巻・『大学原解』三巻・『中庸原解』三巻・『疑問録』二巻・『錦城文録』二巻・『錦城詩稿』三巻・『鳳鳴集』三巻等が有ります。

館天籟(17??〜1827)・・詩文系

 名を豹と言い、大館の人です。彼は、山本北山に師事して北山の娘を娶り、その詩名の高さで名を知られ、大田錦城・朝川善庵と共に「北山門下の三才」と称され、秋田藩の藩校明徳館の教授となっています。しかし、彼が公刊した書は、残念ながら有りません。

近藤正斎(1771〜1829)

 名を重と言い、江戸の人です。彼は、山本北山に師事し、幕府に仕えて長崎奉行出役・紅葉山文庫書物奉行・大阪勤番弓矢奉行等を歴任しています。その書に、『論語考』一巻・『管子考』三巻・『正斎書籍考』四巻・『足利学校考』一巻等が有ります。

原念斎(1774〜1820)

 名を善胤と言い、下総の人です。彼は、家学を修めた後に江戸に出て北山に師事します。後に古河藩に仕え儒臣となり、更に林述斎の推挙に因り幕府の史事に参与します。その書には、当時の儒者の言行・逸話を集めた著名な『先哲叢談』八巻が有りますが、それ以外にも『原念斎遺稿』五巻等が有ります。

朝川善庵(1781〜1849)

 名を鼎と言い、上野の人です。彼は、片山兼山の子ですが、医家朝川黙斎の養子となり、北山の門に入っています。その後黙斎に伴われて京阪・長崎・薩摩と遊び、学業大いに進み江戸に帰って門弟に教授し、後に松浦侯の儒臣となっています。その書に、『論語集説』八巻・『左伝諸注補考』八巻・『荀子箋釈』八巻・『善庵文鈔』八巻・『善庵詩鈔』二巻等が有ります。

梁川星巌(1789〜1858)・・詩文系

 名を卯と言い、美濃の人です。彼は、十八歳の時に江戸に出て昌平黌に入ろうとしますが果たせず、北山の門に入って学び、特に清詩を好みます。江戸に止まること三年、京に上り再び江戸に帰り、各地を遊歴した後に、江戸で詩社玉池吟社を設立して盛大を極めます。しかし、詩社を閉じて再び遊歴に出、晩年は京に居を構えます。その書に、『星巌集』二十六巻・『星巌遺稿』十四巻・『西征集』四巻等が有ります。

鵬斎門下の人々

館柳湾(1762〜1844)・・詩文系

 名を機と言い、越後の人です。彼は、十三歳で江戸に出て鵬斎の門に入りますが、後に林述斎に学び幕府に仕え飛騨に赴任し、三十一歳で江戸に帰り以後諸代官の下役などを務めていますが、詩名を以て鳴らした人です。その書に、『中唐十家絶句』二巻・『晩唐百家絶句』五巻・『柳湾漁唱』三巻・『柳湾詩鈔』二巻等が有ります。

亀田綾瀬(1778〜1853)・・詩文系

 名を長梓と言い、江戸の人です。彼は、幼少より父亀田鵬齋の家学を受け、関宿藩の儒臣となります。人柄が温厚で、その学も純粋中正を旨とした、と言われています。その書に、『学易漫録』二巻・『綾瀬文鈔』一巻・『綾瀬遺文』二巻等が有ります。

日尾荊山(1789〜1859)

 名を瑜と言い、武蔵の人です。彼は、幼少の時より書を読み文を作り、江戸に出て鵬斎の門に入ります。経学は折衷を宗としますが、心学も修め国書の兼修を唱えた人です。その書に、『四書折衷弁断』三十九巻・『左伝折衷弁断』八巻・『日尾子』一巻・『至誠堂百詠』一巻等が有ります。

仁科白谷(1791〜1845)・・詩文系

 名を幹と言い、備前の人です。彼は、亀田鵬齋に師事して詩文を善くし、江戸で講説を生業とした人です。その書に、『老子解』一巻・『荘子解』六巻等が有り、詩文集に、『白谷文集』六巻・『白谷詩集』二巻等が有ります。

錦城門下の人々

東条琴台(1795〜1878)

 名を信耕と言い、江戸の人です。彼は、初め医者である父から四書五経を教わっていますが、次いで、山本北山・亀田鵬斎らに師事して錦城の門に入ります。その後高田藩の儒臣となり、藩校修道館の設立に伴いその教官となっています。その書に、『先哲叢談後編』八巻・『先哲叢談続編』十二巻・『宋名臣言行録集解』十四巻・『棠陰比事集解』三巻・『清千家絶句選』十巻等が有ります。

海保漁村(1798〜1866)

 名を元備と言い、上総の人です。彼は、初め古注学者で儒医であった父恭斎から句読を学び、二十四歳の時に江戸に出て錦城の門に入り折衷学を学びますが、その学は考証学を主としています。私塾で子弟を教育すると同時に、幕府の医学館の儒学教授にもなっています。彼の門から、明治の島田篁村・渋沢栄一らが現れます。その書に、『論語通解』十巻・『左伝補証』四巻・『毛詩輯聞』二十巻・『文章規範補注』五巻等が有ります。

星巌門下の人々

遠山雲如(1810〜1863)・・詩文系

 名を澹と言い、江戸の人です。彼は、梁川星巌に師事して詩名が高かった人です。その書に、『雲如山人詩集』四巻・『雲如先生遺稿』一巻・『玉池吟社詩』六巻等が有ります。

小野湖山(1814〜1910)・・詩文系

 名を長愿と言い、近江の人です。彼は、初め藤森弘庵や尾藤水竹に師事しますが、その後梁川星巌の門に入ります。吉田藩の儒臣となり水戸の藤田東湖らと親交を結び、安政の大獄で八年に及ぶ幽閉生活を送り、維新後は星巌の衣鉢を継いで大阪に優遊吟社を結成し、詩名を鳴らします。その書に、『賜硯楼詩』五巻・『湖山楼百律』一巻・『新選三体詩』三巻等が有ります。

 門派以外の儒者・漢詩人

 当時、どの学派にも属することなく、講説や著述に専念し、また漢詩を作りその詩名を鳴らした人々がいます。例えば、儒者では、毛利貞斎・五井蘭洲・太田全斎ら、詩人では、桂山彩巌・梁田蛻巌・秋山玉山らが、代表的な人々です。

毛利貞斎(?〜?)・・講学系

 名を瑚珀と言い、大阪の人です。彼は、元禄(1688〜1704)頃の人ですが、生卒年代は不詳です。また具体的に如何様に学問したのかも不明です。但し、京で講説と著述を生業としていたことが分かっており、その著述の多さが、彼の名を知らしめています。その書に、『易学啓蒙合解評林』八巻・『孝経詳註大全』四巻・『四書集註俚諺抄』五十巻・『荘子俚諺抄』三巻・『蒙求俚諺抄』二十巻・『古文真宝後集合解評林』十九巻・『助語辞諺解大成』五巻・『増続大広益玉篇大全』十一巻・『通俗五代史軍談』二十五巻等が有ります。

鳥山芝軒(1655〜1715)・・詩文系

 名を輔寛と言い、伏見の人です。彼は、誰に漢学を学んだか詳細は不明ですが、詩文と書評を善くし、終身誰にも仕えず、唐詩を子弟に教授することで一生を終えた、市井の漢詩人です。その書に、『芝軒吟稿』七巻・『鳥山氏詩集』一巻・『和山居詩』一巻等が有ります。

土肥黙翁(1660〜1726)・・講学系

 名を政平と言い、越後の人です。彼は、江戸に出て坂井漸齋に学び下谷で家塾を開き、子弟の教育に従事した人です。亦、書も善くしています。その書に、『須留毛余志』一巻・『狎草』三巻等が有ります。

石田梅岩(1685〜1744)・・講学系

 名を興長と言い、丹波の人です。彼は、幼時から神道・仏教を尊信し、京に出て朱子学を学ぶと同時に禅学も修め、神・儒・仏の三教の所説を取り込み、平易な実践道徳の心学を説きます。その書に、『都鄙問答』四巻・『斉家論』二巻・『要訓』一巻等が有ります。

五井蘭洲(1697〜1762)・・講学系

 名を純禎と言い、大阪の人です。彼は、家学を受け継いで朱子学を提唱し、懐徳堂の助教となって講説に従事し、津軽藩の儒員に登用されますが大阪に帰り、再び懐徳堂の教授として門弟に教授し、詩文を善くした人です。その書に、『中庸首章解』一巻・『左伝蓄疑』十二巻・『蘭洲遺稿』十巻等が有ります。

手島堵庵(1718〜1786)・・講学系

 名を信と言い、京の人です。彼は、商家の出ですが、十八歳の時に石田梅岩の門に入って心学を志し、梅岩没後は『中庸』や『徒然草』を講じて民衆の教化に努め、心学の中心的存在として石田心学の大成に尽力した人です。その書に、『学庸解』一巻・『論孟解』一巻・『太極図説解』一巻等が有ります。

三浦梅園(1723〜1789)・・講学系

 名を晉と言い、豊後の人です。彼は、初め藩儒の綾部絅齋に学びますが、長崎に遊学して天地造化の理に関心を持ち、天地に条理の有ることを説く条理学を唱えます。彼は、天文・物理から経済・医学にまで通じた大変な博識家です。その書に、『玄語』八巻・『贅語』十四巻・『敢語』一巻・『通語』一巻等が有ります。

中井竹山(1730〜1804)・・講学系

 名を積善と言い、大阪の人です。彼は、五井蘭洲に師事して宋学を奉じ、懐徳堂の学主となって講説に従事した人です。その書に、『大学定本』一巻・『中庸定本』一巻・『竹山文集』等が有ります。

太田全斎(1759〜1829)・・講学系

 名を方と言い、福山の人です。彼は、二十七歳で福山藩士であった父の家督を継ぎ、藩の家中学問世話になり、五十九歳で御年寄格となります。非常に漢学に精通した人で、誰に学んだのか明白ではありませんが、特に音韻と考証に長じた人です。その書に、『韓非子翼毳』二十巻・『墨子考要』四巻・『呂氏春秋折諸』十巻・『漢呉音図』一巻・『漢呉音図説』一巻・『全斎走筆』八巻等が有ります。

中井仙坡(1767〜1803)・・講学系

 名を曾弘と言い、大阪の人です。彼は、中井竹山の第四子で家学を受け継ぎ、懐徳堂の学主となって講説に従事し、詩文に長じた人です。その書に、『春秋伝考索』一巻・『蕉園文集』一巻・『仙坡遺稿』二巻等が有ります。

鈴木文台(1796〜1870)・・講学系

 名を弘と言い、越後の人です。彼は、後藤託玩に学び群書百籍に通暁し、江戸に出て講説を生業としています。尚、彼の門下から、明治の漢学者桂湖村・小柳司気太・鈴木虎雄らが現れます。その書に、『春秋穀梁伝註疏箋』一巻・『春秋繁露箋』一巻・『詩経補義考増』二巻・『孟子考』二巻・『国語考』一巻・『淮南子考』一巻・『管子考』一巻・『呂氏春秋考』一巻・『文台詩草』一巻等が有ります。

梁田蛻巌(1672〜1757)・・詩文系

 名を邦美と言い、江戸の人です。彼は、新井白石の門に学び、神道を信じ、仏典も学び、更に剣術にも励み、烈士の風が有ったため、世間は覇儒と呼んでいます。紀州侯の三百石での招聘を拒み、明石侯の求めに応じて二十口俸の藩儒になった行為などは、義侠心の強さが現れています。その書に、『蛻巌集』十六巻等が有ります。

桂山彩巌(1679〜1749)・・詩文系

 名を義樹と言い、江戸の人です。彼は、学を林鳳岡に受けて朱子学を研究し、幕府の儒官となり、書物奉行となった人です。緒芸を博綜して書にも巧みですが、一家を張って学を講ずることも無く、ただ詩名のみ伝わっています。彼の詩は。写本のみで伝わり刊本は有りません。

秋山玉山(1702〜1763)・・詩文系

 名を定政と言い、肥後の人です。彼は、十九歳の時に肥後藩の儒臣となり、藩命に因り昌平黌に至って林鳳岡に学を受けています。帰国すると侍講となり、藩校時習館の創立と共に督学となり、門戸の見に捉われない該博を旨とした学問で、藩士の教育に従事しています。その書に、『玉山詩集』六巻が有ります。

 唐話学者

 唐話とは、当時の中国語のことですが、五代将軍綱吉時代になると、中国語つまり唐話の重要性が言われ出すようになります。この唐話を論じるのが唐話学で、それに通暁した人物を唐話学者と言います。学問研究の上での唐話の重要性を声高に唱え出すのは、古文辞学派の開祖荻生徂徠ですが、その徂徠の求めに応じて江戸で唐話を教えたのが、岡島冠山です。彼の功績は、中国の小説類を日本に紹介したことですが、逆に日本の『太平記』の白話訳を行い、日本に於ける白話体小説の開祖となっています。冠山の後を受けるのが、岡田白駒で、明代白話小説の翻訳などを行っています。彼等の翻訳行為が、上方の短編読本である都賀庭鐘の『英草紙』『繁野話』や上田秋成の『雨月物語』、更には江戸の長編読本である滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』等に、影響を与えて行きます。

岡島冠山(1674〜1728)

 名を明敬と言い、長崎の人です。彼は、唐話を上野玄貞と清朝人の王庶常から学び、萩藩に中国語の通訳として仕えますが、長崎に帰り宋学を修めます。その後江戸に出て林鳳岡に学び、この時に徂徠を交わり、徂徠一派のために唐話を教えています。晩年は江戸・大坂・京などで唐話の教授に努めています。その書に、『唐話纂要』六巻・『唐音雅俗語類』五巻・『唐音学庸』二巻・『華音唐詩選』七巻・『通俗忠義水滸伝』二十巻・『通俗皇明英列伝』二十巻・『通俗元明軍談』二十巻・『太平記演義』五巻等が有ります。

岡田白駒(1692〜1767)

 名を白駒と言い、播磨の人です。彼は、最初医を生業としていましたが、儒者を志して注疏の学を学びますが、それよりも唐話に長じて、京で白話小説を講じています。晩年は、肥前の蓮池侯の儒官となっています。その書に、『詩経毛伝補義』十二巻・『孟子解』十四巻・『孔子家語補註』十巻・『箋註蒙求』三卷・『唐話纂要』六巻・『助字訳通』三巻・『小説奇言』五巻・『小説粋言』五巻・『小説精言』五巻等が有ります。

 

《閑話休題・4》

 江戸時代は、中国の白話小説が多く翻案された時代です。例えば、『剪燈新話』を翻案したのが浅井了意の仮名草子『伽婢子』(怪談小説集)ですし、『棠陰比事』を翻案したのが仮名草子『棠陰比事物語』(裁判小説集)ですし、『蒙求』を翻案したのが仮名草子『可笑記』です。

 この他には、演義小説の翻案である「通俗軍談」と称するものが有ります。例えば、『通俗三国志』・『漢楚軍談』・『両漢演義』・『呉越軍談』・『通俗戦国策』・『元明軍談』・『南北朝軍談』等です。また明末馮夢竜の短編小説集『三言』の翻案が、『小説奇言』『小説粋言』『小説精言』です。

 これらは、上方の短編読本である都賀庭鐘の『繁野話』『英草子』や上田秋成の『雨月物語』、更には江戸の長編読本である滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』等に影響を与えて行きます。

 また江戸初期の書は、和様の御家流が公用書体として隆盛を示し、水戸藩に仕えた真幸正心(三国筆海)、寛永の三筆と称された近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乘や、烏丸光広・近衛家煕・森尹祥・釈元政ら、大師流の北向雲竹、藤本流の創始者藤本正心斎、京の佐々木松竹堂、加賀の井出松翠らが活躍しますが、同時に幕府に因る儒学奨励の文教政策の影響や、江戸初期に来日して帰化した宇治黄檗宗の禅僧達で、黄檗の三筆と称された隠元木庵即非や独立らから刺激を受けて、中国風漢字書である唐様書に目を向ける人々が現れだし、独立門下の逸材高玄岱高玄融父子、隷書を得意とした石川丈山佐々木玄龍佐々木文山の兄弟、唐様書道の基礎を開いたと言われる北島雪山寺井養拙細井広沢土肥黙翁赤井得水亀田窮樂桑原空洞平林静斎関思恭松下烏石田中玉峰山下池亭ら、更には甲斐の能書家座光寺南屏、伊予の伊藤子禮、大阪で活躍した書家福岡撫山、長門の草場居敬・仲山父子、長崎の通事林道榮、肥後の雅望中瀬柯庭らがその代表的な人として挙げられます。また篆刻では、江戸に於ける篆刻の隆盛を開いたと言われる池永一峰が現れます。

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