本ページは、大東文化大學『漢學會誌』第52號、(平成25年3月)からの轉載である。 |
問題提起 1、中國文化を代表する文物 ・ 2、日本への傳播乃至は影響 3、日本に於ける研究乃至は學會 ・ 4、日本に於ける代表的収蔵機關 5、玉の代表的産地 ・ 6、「玉」とは何ぞや(文字的解釋に於て) 7、玉を對象とする古文獻 ・ 8、玉に關する代表的記述(一部分) 9、玉器の歴史的變遷と其の傾向の概略(圖録と出土品に基づく) ・ 10、玉に關する參考文獻等 11、再び敢て問う「玉」とは何ぞや
問題提起 「玉」とは、鑛物学的に言えば、大概硬度5〜7程度の「石」に過ぎない。無論所謂「寶石」ではないが、だからと言って單なる「石」でもない。では何かと言えば「玉」なのである。 中國に於てこの「玉」と稱される一群の石の加工は、新石器時代の單なる管レベルから始まり、技巧を凝らした現在の美術工藝品に至るまで、連綿として作られ續け、北京や香港の街角には玉商店が店を連ね、臺北の毎週行われる玉市には老若男女が押し掛ける、と言う現状が示されている。更に言えば、北京オリンピックのメダルの一部(金は白玉、銀・銅は青玉)にも使用されたが、それは彼ら中華民族が、尤も崇玩すべき文物は「玉」であり、最も中國を代表する文物は「玉」である、と自ら認識しているが爲に他ならない。 では、何故「玉」なのか、彼ら中華民族は何故そこまで「玉」に執着するのか、彼らにとって「玉」とは何なのか、彼らの「玉」に對する思考は何に起因するのか、將亦「玉」とは一体何なのか、中國の知識人と論議しても、「それは玉ですから」と言う、答えのようであって答えではない答えに終始する、と言う具合である。 確かに、考古學的成果に基づく「玉」の發掘報告書や、「玉」の圖録・鑑賞書等は多く出版され、鑑定方法や基準・形態の變遷等は縷々述べられているが、では「玉」とは何ぞやと言う本質的疑問に對する本格的研究は、皆無に等しいと言えるであろう。 因って、本發表は、「玉」文化の歴史的變遷の概略と「玉」の現物紹介とを通じて、人文學の分野で文物としての「玉」自體の研究は可能か否か、また如何なるスタンスで如何なるアプローチを試みれば、研究の對象となりうるのか、等々問題提起をして叡智の拝聴を試みるものである。 一口に中國の文物と言っても、その内容は多種多様であり、それらが渾然一體となって中國文化を構成しているが、單に文物のみならず料理・服飾・音樂・藝能・建築・庭園・宗教・思想・文藝等々も、中國文化を構成する重要パーツである事は、多言を要しないであろう。 玉・・無し。(曲玉は日本独自) 玉・・本格的な研究機關は無く、研究者も二〜三人。(但し、玉をメインとはせず實質は無きに等しい) *但し、中國に於いては考古學分野で多數の發掘報告書が呈示され、分類作業や形態分析が活發に行われ、代表的な玉研究者として郭寶鈞・夏ダイ・麦英豪・楊伯達・楊建芳・蔡淙霖等がいる。 玉・・無し。(但し、玉をメインとはしないが、國立東京博物館や出光美術館・白鶴美術館・藤井有隣館・天理大學參考館・京都大學人文科學研究所等が、各々少量所蔵。亦、本研究室は四百四十點程を所蔵)
1、陝西藍田玉(秦嶺山脈地帯、鑛物的には白色方解石化或いは透閃石化した大理岩系統で、硬度5〜7) *透閃石・・(とうせんせき)、トレモライト、ケイ酸鹽鑛物の一種で、化學組成は
Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2 (Mg/(Mg+Fe)=1.0-0.9)
で、變成岩を構成する造岩鑛物であり、所謂白玉。 *出土玉とされる品々の中には、透閃石に屬さない美石を多數含むが、現在の中國考古學會では、廣義の意味で「玉」と認定している。 『爾雅』の卷中釈地第九に 後漢の許慎の『説文解字』卷一には、 しかし、「玉」字は本来の「玉」の意味以外に、古くより物事を褒めたり貴んだりする時の美稱として多く使われ出し、玉食・・美食、玉音・・天子の言辭、玉影・・月、玉人・・美人、玉膚・・美肌、玉友・・酒、玉體・・王者の身體、等々である。 *單なる美石であった「玉」に、東周時代に至り「徳」が付與され、更に漢代には「避邪」の要素が、次いで壽命を延ばす「仙薬」の要素まで、「玉」に與えられるようになる。 『考古圖』十卷(北宋、呂大臨)。210件の青銅器圖が中心であるが、一応14件の玉器圖を含む。 清の『四庫提要』は譜録類の存目に『古玉圖譜』百卷(宋、龍大淵等奉勅撰)を記載するが、12點の疑義を提示して後世の假託僞書と斷定している。しかし、假に僞書であっても古玉の圖を付した百卷もの大著が存在していた事は、事實である。 また圖譜類の存在は認められるが、「玉」自體を分析研究した文獻は、寡聞にして未見である。 以下に、唐以前の經書・史書・諸子・詩文等の中から、「玉」に關する代表的記述(但し、璧・圭等玉製品を記した文章は對象外)の一部分を、抜粹列擧する。 『書經』・・卷一舜典、卷四湯誓 『詩經』・・卷五魏風・汾沮洳、卷六秦風・小戎 『周禮』・・卷五春官大宗伯、卷十二冬官考工記下玉人 『儀禮』・・卷八聘禮、卷十覲禮 『禮記』・・卷九玉藻、卷二十聘義 『春秋左氏傳』・・卷三荘公二十二年、卷十二成公三年 『大戴禮記』・・卷七勸学 『論語』・・卷五子罕篇 『孟子』・・卷十四盡心下 『老子』・・卷上第九章運夷 『莊子』・・卷四馬蹄 『荀子』・・卷一勸學篇 『韓非子』・・卷四和氏第十三篇 『管子』・・卷一形勢第二 『國語』・・卷十八楚語下 『戰國策』・・卷二十九燕一 『史記』・・卷七項羽本紀 『漢書』・・卷九十三佞幸傳 『後漢書』・・卷十九耿秉傳 『三國志』・・魏書卷八張魯傳 『説苑』・・卷十七雜言 『春秋繁露』・・卷十六執生贄 『淮南子』・・卷十七説林訓 『論衡』・・卷八儒増第二十六 「今死し其の口を虚くするを欲せず、故に唅す。珠寶物を用ふるは何ぞや、死者の形體に益有ればなり。故に天子は飯するに玉を以てす。」(今死不欲虚其口、故唅。用珠寶物何也、有益死者形體。故天子飯以玉。) 『山海經』・・卷二西山經 『抱朴子』・・内篇卷四金丹 『本草經』・・卷三 傅咸・・『全上古三代秦漢三國六朝文』卷五十一、玉賦 郭璞・・『全上古三代秦漢三國六朝文』卷百二十二、瑾瑜玉賛 庾粛之・・『全上古三代秦漢三國六朝文』卷三十八、玉賛 司馬彪・・『先秦南北朝詩』卷七、玉詩 李白・・『李太白詩文』卷二十二、客中行 杜甫・・『杜工部詩』卷十五、諸将詩 王維・・『王右丞集』卷六、春日直門下省早朝詩 王勃・・『王子安集』卷三、尋道觀詩 王績・・『東皐子集』卷中、遊仙詩 王昌齡・・『王昌齡集』卷五、芙蓉樓送辛漸詩 白居易・・『白氏長慶集』卷十二、琵琶行 劉禹錫・・『劉夢得文集』卷一、遊桃源一百韻詩 韓愈・・『昌黎先生集』卷七、示兒詩 *以上、唐代以前の經・史・子・集の中から、「玉」に關わる代表的文章の一部を列擧したが、これらは全て、美しく徳が有りすばらしい石、則ち當然かくあるべき「玉」を前提とした表現であり、何故玉か、玉とは何ぞやと言う「玉」自體に關する記述ではない。 9、玉器の歴史的變遷と其の傾向の概略(圖録と出土品に基づく) 玉器の形態變化や流行品の變遷を見る限り、玉製品の増加と使用者乃至帯玉者の擴大、及び中國人の玉に對する意識變化等は、中國の社會構造の變遷や經濟・文化藝術等の發展と、密接な關係が有った事が窺える。 新石器時代 古代に於ける石器と玉器との相違は、單なる鑛物學的相違だけではなく、石器は人々の實質的な物質生活の範圍内に位置付けられ、玉器は人々の意識形態に屬する精神生活の範圍内に位置付けられよう。 玉器は中國各地の文化遺跡から出土しているが、その最大規模を誇るのが、北方の紅山文化と南方の良渚文化とである。 以下に各文化の出土文物的特徴を列擧すると、 1、興隆ワ文化(BC8000〜6500)・・内蒙古地区、「管」「玦」等を中心とした素朴な品々で、器表面は無装飾。 2、仰韶文化(BC67000〜4300)・・河南省、「環」「笄」等、概して出土品は少ない。 3、紅山文化(BC6500〜5000)・・内蒙古自治区 4、大ブン口文化(BC6300〜4400)・・山東省、「鐲」「環」「笄」「管」等、佩帯する品々で、わりと良渚の玉器に近い形状である。 5、龍山文化(BC4000〜3500)・・山東省、「斧」「鉞」「戈」「圭」「璋」等、武器や禮器。 6,齊家文化(BC4000〜3500)・・甘肅省、「j」「璧」の祭器を中心に「斧」等。 7、石峡文化(BC5700〜4000)・・広東省、「j」「璧」の祭器を中心に「環」「瑗」「墜」等。 8、河姆渡文化(BC6900〜4500)・・浙江省、「環」「玦」「管」「墜」等の小型佩飾。 9、ッ澤文化(BC6900〜4500)・・江蘇省、「環」「玦」「鐲」「琀」等。 10、良渚文化(BC5300〜4000)・・浙江省 *多種多様な出土玉器の中で、量的に中心をなすのが、宗教的道具であると見なされる神器や祭器であり、それらの中でも、特に神權を象徴すると見なされる「j」「玦」「神像」「龍」、財富を象徴すると見なされる「璧」、軍權を象徴すると見なされる「鉞」「斧」等が多量に含まれている点から、社會階層として貴顯の立場に位置する人々の階層が、出現していた事が窺える。 夏商時代 考古學的に夏の時代であろうと措定されているのが、山西省の陶寺文化であるが、そこからは「禮器」「儀仗器」「装飾器」等が出土している。 夏と商代早期・中期には出土玉は比較的少ないが、晩期特に殷時代に至ると、可成り多量の出土玉が見られ、晩期に倣青銅玉器(簋等)の出土も見れば、當時の青銅器盛行の影響が窺える。 二里頭・二里岡・殷墟等からの出土品を見るに、器形の多様化(倣青銅器玉品と多量の肖生類玉品)と、彫玉技術の進歩(單なる線條紋様ではなく、線條紋であっても勾雲・卷雲等の複雜な紋様と、刻字の品の出土)が見られる。 殷墟の婦好墓出土玉(229件)は、全て透閃石で殆どが新疆玉であれば、既に殷代には新疆の和田玉が河南地方にもたらされていた事が分かる。 殷墟出土玉の中で特徴的なのは人像玉で、その形態から當時の髪型・服装等を窺う事が出來る。また肖生玉の目の形が、甲骨文字の目字形から丸形へと移って行く。 甲骨文字中に見られる「玉」字の記載には、 祭禮器・・「j」「瑗」「璧」等は概して少ないが、「圭」「璋」「牙璋」等は多い。 周時代 西周時代に入ると、玉色(白玉・青玉・碧玉・墨玉・黄玉等)と材質(玉・瑪瑙・水晶・緑松石等)の多様化が見られ、比較的装飾品が多く出土し、東周時代に至ると、装飾品は當然の事として、武器の飾り等も出土し、更に斂葬に關わる品々が出土することは、當時の厚葬流行と無關係ではないであろう。 紋様は、線条紋様から立体的浮彫紋様(卷雲・穀粒)に發展し、佩飾の形態は、龍と虎とが中心的になる。また、複數の玉飾を組み合わせて身につける組玉佩が見られるようになる。 西周時代は、それ以前の鳥形・龍形であった板飾が紋様として進化し、鳥紋・龍紋・虎紋等を刻した「璜」「佩」「飾」等が見られる。 東周時代に至ると出土玉は數千件に登るが、形態的には璧の左右や璜の上部を雙鳥・雙龍・雙虎等の形で飾った、雙鳥形飾璧や雙龍形飾璜等の飾璧や飾璜が作られ出す。 また儒家の登場に伴い、禮制としての玉が確定し、更に徳と言う特殊な効能が玉に與へられ、玉の疑似人格化が始まる。 祭禮器・・「j」「瑗」「璧」「圭」「璋」「琥」「璜」等。 秦漢〜六朝時代 秦の玉器は、「瑗」「璧」「璋」「杯」「帯鉤」「劍飾」等が見られるが、秦の皇室墓からの出土は未だ見られず、何が特徴であったのかは、今後の發掘を待たねばならない。 漢代は、玉材料(和田玉と藍田玉)の確保と流入が可成り良行になった事が、當時の文獻記載から窺える。 「于闐國、玉石多し。」(于闐國、多玉石。)・・『漢書』卷九十六上西域傳上 前漢時代の装飾玉器で特徴的な事は、「劍首」「劍格」「劍衛」等の劍飾りが多量に出土し、大概龍紋様が刻されているが、この紋様は當時の青銅鏡等にも見られるものである。 後漢時代は、前漢時代よりも出土數が少なく、器形もほぼ前漢時代を踏襲しているが、紋様等は全體的に簡素化する。しかしこの時期には、玉に與えられた徳を重視するだけではなく、玉の色調(符)所謂玉符も重視する傾向が見られ出す。 また、漢代頃から、貴顯の人々の間で、單なる装飾としての佩玉・制度としての佩玉のみに止まらず、權威の象徴として玉を佩する佩玉の風習が現れ出すが、後漢末の混乱で秦以來の佩玉制度が混亂し、新たに制度を再構築するのに關與したのが、魏の王粲である。 兩漢を通じて窺えるのは、形式の多様化と種類の豊富さとであり、技工を凝らした禮儀類や、藝術的意識が見られる肖生類等である。また、喪葬類の増加と辟邪類の出現は、「玉」に對する魔除けの意識が、普及浸透し出した事を示している。 魏晉以後の出土品から窺えるのは、出土品の數量的減少と、喪葬玉器の簡素化(これは、恐らく曹操の厚葬禁止遺令が、影響を與えたと思われる)で、未だ玉衣の出土は無く、含玉の蝉も單なる平板な蝉形に代わっている。また装飾玉器も、漢代に盛行した劍飾は減少し、殆どが佩玉である。 禮儀器・・「j」「瑗」「璧」「圭」「璋」「琥」「璜」等。 *要するに、出土品の形態を見る限り、古代から六朝時代までは、多種多様な玉器類の中に在って、禮儀用(祭器・禮器・儀仗器)玉器と喪葬用玉器とが、傳統玉器の主體的構成部分であり、中心的存在であったが、この様な傾向は、一應漢代を以って終息し、唐以後は、装飾用玉器と鑑賞用玉器とが、玉製品の主體を構成するようになる。 隋唐〜宋元時代 隋に至ると、權威の象徴としての「佩玉」に、尊卑の等級が付けられ、以後それが踏襲される。 唐代では、文武官三品以上の官服には玉帯が使われだした爲、唐以後帯を飾る玉帯板が多く作られ出す。 また當時の長安が國際都市で、多くの西域人が往來していた事は、唐三彩の胡人傭が端的に示しているが、玉器に於いても同様で、胡人の諸形態を刻した玉帯が多く見られる。 宋代に至ると、古玉は既に珍貴な品(漢代以前の紋様や形式を模した倣古品は、主に宋代頃から多く作られ出すが、この事は、古玉が蒐集或は投機の對象となって來出した事を意味し、清朝に至ると倣古品が跋扈する様になる)となり、古玉の蒐集が行われるようになり、古玉の鑑賞家も登場し出し、呂大臨の『考古圖』は、古玉鑑定圖録の嚆矢である。また宮廷使用の玉器を製作する部署として、宗正寺の玉牒所や修内司の玉作所等が有り、更に民間でも玉の賣買が行われ出すようになり、玉の商品化が見られる。 唐宋以後は、用具(器皿)としての玉器を、朝廷を始めとして貴顯の人々が多く使い出し、更に繪畫や彫刻の影響で立體的な鏤空彫りの鑑賞用品や装飾用品が多く作られ出す。 元は宋の状況をほぼ踏襲しているが、意匠としては、鳥と魚をモチーフにしたものが目に付く。この傾向は銅鏡の紋様にも言える事である。 朝廷用器・・「帯板」「帯銙」「璽」「冊」等。 明〜清時代 明代に至ると、西域からの貢玉等に因る玉石の流通量の増加と、使臣に因る玉賣買の許可等に伴い、玉器の商品化・工藝化が加速し、美術化・装飾化した品々が多く作られるようになり、當時の碾玉地(北京・南京・杭州・蘇州・和田等)の中でも特に蘇州が名を馳せ、史上初めて彫玉の名工として陸子岡なる人物が蘇州に登場する。 明代は、用具器の「薫爐」「尊」「鼎」「觚」「瓶」「壺」等に於て、古代の青銅器を模した品が多く作られ、徐々に大型化し出して來る。 清代に入ると、碾玉・彫玉技術の進歩に伴い、様式の繁多化・紋様の複雑化を遂げ、明代に見られた商品化や装飾化は更に擴大高度化し、「大禹治水圖」等の大型商品・鏤空化、薄胎化、套鏈化等の技術を凝らした「纏枝蓮香薫爐」等の美術品が作られ、遂には家具までも玉で作られるようになり、玉器が完全に工藝産業化したした事が窺える。 清代の増大する玉需を支えたのが、新疆地区の和田(ホータン)と葉爾羌(ヤルカンド)産出の新疆玉であることは、清朝の魏源が、。 無論この最大の需用者が國家(朝廷)であり、しかも最高レベルの和田玉を求めた事は、多言を要すまでもなく、清朝とは雖も、現代の如く機械で山を掘る譯では無く、人力で河川から探し出す傳統的な採石方法が行われており、その勞苦たるや甚大である。その實體を理解していたか否かは別として、採石方法自體が最高權力者にも知られていた事は、乾隆帝自身が自作の詩の中で、 「和田采玉の人、玉を抱き水涯に出づ。」(和田采玉人、抱玉出水涯。)・・『御制詩』三集巻六十二和田采玉行 等と述べている。 また著名な碾玉地としては、明代の蘇州の他に新たに揚州が有名になるが、これは揚州の繪畫を中心とした文化的繁栄と、密接な關わり(大型圖板等が多く作られている)が認められる。 朝廷用器・・「帯板」「帯銙」「璽」「册」「翎管」等。 現代 現代の玉器に關しては、完全に商業化・産業化された工藝品が中心で、大概機械に因って彫玉され、藝術性も極めて高い美術工藝品も見られるが、不思議な事に彫玉者の名前(明代の陸氏の如き)は、あまり知られていない。 現代は、装飾品・工藝品・日用品・美術品等が中心で、それに倣古品(賣り方に因っては贋物となる)も加わり、要するに、社會のニーズに基づき、必要とされるものは可能な限り何でも作る、と言う状況である。 また玉材・玉質も、高級な和田白玉を中心に、とても玉とは言えない様な雜玉まで、それこそ千差萬別多種多様であり、品物に至っては、真古石玉から始まり、古石補彫玉・古石新彫玉・新石新彫玉・練玉(玉加工時に生じた玉粉を固めたもの)・薬品古色玉まで、更には硝子を加工した僞玉までもが跋扈している状況である。 現在中國では和田玉を「中國の至宝」と稱し、北京には和田玉を扱う玉センター(北三環路)が有り、小さな牌でさえ3000元前後、高い品であれば50000元以上、高級工藝品に至っては50万元以上と言う具合で、現代に於いても中華民族の「玉」に對する嗜好には、何か特別なものが認められる。 *以上、極めて概略的に述べた玉器の形態的變遷から言える事は、玉器の製作は、古代から現代に至るまで、増加の一途を辿っている、と言う事である。中國社会の構造的變化と社會文化の發展に伴う社會的ニーズに因り、次々と新たな品々を玉で製作して來ている。 中國(非常に多い) 日本(非常に少ない) 「玉」とは、實に不可思議な存在物である。物理的には單なる石に過ぎないが、しかし石ではなく「玉」なのである。この中國の玉文化は、到底日本人には理解し難いものが有る(中國の人々に於ても本當の意味で理解されているのか否か、甚だ疑わしい)。中國の文化を構成する一つである書畫は、實用或いは必要な所から藝術へと昇華して行った。しかし、玉は真逆である。美石であり神秘的である事に因り、極めて精神性の高い神的要素を与えられた神器或いは祭器として出發していながら、時代の變遷の中で人間の願望(人格化や魔除け・長寿等)を取り込み一般化・大衆化して現在に至っている。しかし、何如に大衆化しようとも、國際的に著名な書畫家の作品ではない限りは、玉製品の逸品は書畫作品よりも遥かに高値で取引されている。だからと言って寶石ではない。寶石はカットはしても表面加工はしないが、玉は紋様を表面加工したり、獨特な形状にカットするのが、一般的である。故に「玉」はやはり「玉」なのである。 玉の解説書乃至圖録には、必ず卷頭言で「中國人は如何に玉を好むか」「玉とは如何に美しい石か」等々が、縷々述べられてはいるが、それらは殆ど古文獻の言葉を演繹して現在の状況を述べたに過ぎず、大概大同小異の内容で新知見は提示されていない。 鑛物學的研究に就いては、中國の地質研究所や社會科學院等で分析作業が行われており、また、玉質解明の爲に、玉石の表面分子構造の解析等も行われている。一方臺彎でも、1996年に臺彎大學地質研究所が「古玉之鑛物學研究」なる學術會議を開いている。 また日本では、唯一本格的研究と言えるのが、林巳奈夫氏の手に成る『中國古玉の研究』と『中國古玉器総説』の二册で、労作の大著ではあるが、氏が考古學の専門家であるため、中國で發掘された漢代以前の古代玉を中心に、その形態と實態とを古文獻の記載を勘案しながら、分類分析することに主眼が置かれた研究で、中國の玉文化自體を對象とした研究ではない。 玉加工の技術に就いては、明の宋應星の『天行開物』巻下珠玉の項に、説明と圖が載せられているが、それは當時の方法であり古代の技術では無い。林氏は古代玉の加工道具に對し、ダイヤモンドの使用以外考えられない、との獨自の見解を提示している。確かに、寶飾レベルではないが工業レベルのダイヤモンドは中國でも産出しているし、漢代の『山海經』に注を付けた晉の郭璞は、西山經セン山の項で、 では「玉」とは何であろうか。唐以前の玉に就いては、發掘調査報告書等に基づき、出土品の分類整理を通して、該當時期の社會構造との關連を探る事は可能であろう。宋以後に就いては、繪畫や彫刻等他分野の藝術作品との關連で、社會文化の様相を考える事も出來るであろう。また詩や文章を讀解して、中華民族の玉に對する思いや嗜好を解釋する事も不可能ではないであろう。 この様に、考古學・歴史學を通じての玉へのアプローチは、實際出土する中國では多くの研究(器物研究・飾紋研究・彫玉研究・玉材研究・鑑賞辨僞研究等々)が盛んに行われており(日本では僅か數點)、亦用例が少ないとは雖も、「斯く有る可き玉」を前提とした詩文表現を分析解釋し、個々人の玉に對する意識を解明する文學的アプローチ(日中共に殆ど見かけないが)も出來なくはない。 中國の漢字出現後の人々が玉に感じた美が、「色澤と光潤」であったろうことは、『詩經』や『禮記』等に「温潤」と言う言葉で表現されている事等から、十分に窺い知る事が出來るが、その温潤さに徳を付與して人格化させのは儒家の發想であり、儒教社會の効能の一端を示したものに他ならない。 然りと雖も、「温潤」とは如何なる美なのか、玉にその様な美を感じ更に徳までも付與せしめた彼らの意識は、何に起因するのか。更に言えば、既に漢代の王充が「玉など付けても避邪にはならない」と明確に否定しているにも關わらず、玉に避邪(魔除け)の要素を與え、仙薬の要素まで與えたのは、一體如何なる意識に基づくのか。 將亦玉を美しいと感じた彼らの美意識は、玉のみに限定される美意識なのか、それとも他の分野(繪畫・書・彫刻等々)にも適用される美意識なのか。また現在の如き玉文化の擴大を招いた彼らの嗜好は、如何にして形成されたのか。等々中華民族にとって「玉とは何ぞや」、或いは中國に於ける「玉文化とは何ぞや」、と言う極めて本質的且つ哲學的な問題は、何一つ明快な答えが見つかっていない。 歴史的に玉文化の洗禮を受けていない立場から、この中國獨自の玉文化を眺めた時、そこに何が見えるのか。玉は同じ鑛物であっても他の石とは異なり、石の美なるものである。日常的に目視出來る石とは異なり、時たま出現する美石であれば、日常の石ではなく非日常の石である。その非日常性に古代人が神秘感を持ったとしても不思議ではない。その玉の神秘性を崇拝の對象として神聖化すると言う社會的屬性を、玉に與えたのではないのかと考えられる。とすると、同じ鑛物である石が、神聖な石と普通の石或いは貴なる石と賤なる石とに分別される事になる。この事は社會構造の中に於いて、この神聖で貴なる石を扱う或いは付帯する人々とそうでない人々、つまり貴なる人々と賤なる人々との構造が構成される事になる。 以下に敢えて暴言(何故暴言かと言えば、明白な物的証據や文獻記載等に依據した判斷では無く、古代から現代までの多數の玉器と、中華民族の玉に對する關わり方とを鳥瞰しての推測に過ぎないからである)を言えば、「玉」とは、他者とは異なる社會的ステータスを示す、最も象徴的な具象物ではなかったのか。以後、社會の變遷發展の中で、貴に屬する人々(儒家の人々は、決して賤ではない)の社會的効能や願望等々を取り込み、社會的ステータスを示す具象物として、玉文化は發展擴大して來たと言えよう。この様に考えた時、中國が他國とは異なる中國獨自のステータスを具現化させて呈示したのが、北京オリンピックの玉使用メダルである、と言うのは言い過ぎであろうか。 非日常であるが故に神秘性を感じるのは、人の感性として肯首出來るが、問題はもう一つの美である。中國の古代人が玉に見た美とは、一體如何なる美であろうか。古代玉の形態を分析する中國の研究者達は、祭器であるjや璧の中心の空間は、神が降臨する神降ろしの部分であると言う。であれば、古代人が玉器に感じた美とは、神聖なる者つまり神の影乃至息吹とでも言うことになるであろうか。しかし、それは器形に對する美であって、決して玉自體に對する美では無い。 一萬年近くに及ばんとする中國の玉文化が、單に玉の持つ美に因ってのみ現在の如き玉社會を生成して來たとは、到底考えられない。何故なら、古代から現在に至るまで、玉とされる石の鑛物學的構造は必ずしも一定では無く、多種多様な玉石が多々含まれており、亦器形の中心も祭禮器から装飾器へと變遷し、そこに一貫して永遠に肯定出來る美など、設定出來ようはずも無い。 玉は「美」であり「非日常」であり「貴」であるとするならば、當然その對極に「醜」であり「日常」であり「賤」であるものが存在する。「美」は一定不變ではなく、「非日常」も玉の産出量増加に伴い薄れて日常化して來る。殘るのは「貴」である。「貴」は、前二者の如き神秘的且つ感性的な基準ではなく、むしろ社會的効能の彊い現實的且つ實利的な基準である。この社會的効能を體現する「貴」と言う概念こそが、實態としての玉文化を發展擴大させた本質的な部分ではなかったのか、と推測する。 ここで再度玉器の形態的變遷を見てみたい。新石器時代に圧倒的數量を誇ったのが、神玉と稱されている神權を象徴する「j」や「璧」である。ここには神(天)に對する畏敬・崇敬の念が感じられる。しかし、次の夏商時代に入ると、神玉の制作は減少し、王玉と稱される宮廷祭祀や宮廷儀禮に使用される「圭」「璋」や「鉞」「戚」等が多く作られ出す。この事は、神(天)に對する畏敬の象徴の道具であった玉器が、人に因る人の統治の權威を象徴する道具へと、比重を移した事を意味する。宮廷儀禮の道具は、決して「神對人」の關係を表すものでは無く、端的に「人對人」の關係を表す道具に過ぎない。萬民衆生を統治する絶對的權力者は、基本的に衆生中の一人である。同じ衆生である一姓が百姓に對して絶對的統治者として臨む時に、軍事力や經濟力等と言う現實的且つ變動可能な權力では無く、その上に位置する權威の象徴として、玉器を使用し出したのである。 故にこそ、その統治權力者が位置する席を「玉座」と稱するのは、宜なるかなである。(嘗て日本では「天皇機関説」と言う言葉が有ったが、その様な意味で言えば、中國は將に「玉座機関説」であろう)皇帝は、衆生の統治者として絶対的權威を示しつつ萬民に臨むが、本質的に萬民に對して統治責任を負うことは無い。皇帝が責任を負うのは、もう一方の顔である天子としての天に對してである。天變地異の自然災害に對し、「天譴」と稱して天子が樂を止め膳を撤し謹慎恭順の意を示す行爲は、天子として天に對する謹慎の意であって、皇帝として萬民に對する謹慎の意では、決して無い。天子として天に對する行爲に使われるのが、「j」や「璧」の神器であり、皇帝として萬民に對する権威の象徴として使用されるのが、「圭」「璋」「鉞」「戚」の王器である。この權威は、統治者のみならず、その代行者や具體的實行者にまで段階的に擴大されて行く事は自明の理であり、そこに地位や權力を象徴する王器が登場し、更にそれを制度的に保証したのが、官服制度に於ける玉使用の規定と等級付けの士器である。次いで貴顯の人々が、日用器皿等を玉で制作使用するようになり、一般の人々も小型の珮玉を身につける様になり民器となるが、この一般とは決して萬民衆生を指すものでは無く、あくまでも持つ事の可能な財力や地位の有る一般であって、そこには同じ一般であっても持てる一般と持てない一般との格差が、嚴然として存在していると言えよう。 本來は精神的感性に基づく美的価値を持つ石に、社會的効能性に基づく貴的価値を加え、崇玩の對象物として崇敬したり身に付け出したりした點こそが、鑛物學的には寶石でも貴石でも無い石を、玉として單なる石とは辨別し玉たらしめている要因である、と思考するが如何であろうか。 以上の如く考えた時、「玉」とは、中華民族が自らの精神的且つ社會的優位性を呈示する具象物として、作り上げ守り通して來た物である、と思えてならない。鑛物學的には單なる石に過ぎない自然界の産物が、所謂「玉」と認定された時、それは自然的存在でもなければ藝術的・宗教的存在でもなく、中華民族が因って立つ社會的存在の一つである、則ち、ある意味で「玉」とは中華民族そのものである、と言えよう。故にこそ、日本人である小生には、「何故この様な石が良いのか」と言う疑念が常に付き纏い、未だに「玉」のすばらしさが理解出來ないのである。 では、その「美」とか「貴」とかに支えられた「玉」乃至は「玉文化」の、現象的實態ではなくその本質部分をより深く論理的に解明するには、日本に於ける研究者として、如何なるスタンスで如何なるアプローチを試みれば、研究として可能性が見い出せるのであろうか。 注記、第九節「玉器の歴史的云々」の記述に關しては、參考にした雲希正・陳志達・方國錦・買峨・盧兆蔭・楊伯達・李久芳等各氏の論考(『中國玉器全集』下に所載)に依據した内容である事を、特に付記する。 *本拙稿は、平成24年10月に大東文化大学大学院文学研究科で行われた、第3回共同研究テーマ「死角」に於いて発表した時の配付資料に、些か手を加えて書き改めたものである。 平成二十四年孟夏 識於黄虎洞 |
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