〜《伯泉齋的プ ロ フ ィ ー ル》〜

My(Hakusensai) Profile


中 林 史 朗 (NAKABAYASHI SHIROU)

室 號・・黄虎洞、雅 號・・伯泉齋

生誕年・・歳星在庚寅

家廟地・・島根県避塵地・・蜂大珈琲

座右銘・・律己由我、處己由人・接人以春風、律己以秋霜


【専門分野】
漢文訓讀技術(本音・・讀み屋の現役職人でありたい、十代の手習い)
中國古代中世史・四川地方史(建前・・學者の末席を汚す關係上、二十代の手習い)
中國書誌學・版本史(趣味・・禄を食む立場上、三十代の手習い)
日本漢文學史(趣味・・禄を食む立場上三十代の手習い)
中國文化史陶磁器青銅器玉器(趣味・・禄を食む立場上、四十代の手習い)
中國武侠小説・映畫史(趣味・・禄を食む立場上、四十代の手習い)

【代表的業績】
隋書 現代語譯 中國史書入門』(2017、共監修、勉誠出版)
中國中世四川地方史論集』(2015、單著、勉誠出版)
中國博物館〜100館の収蔵物に見る文化とその歴史〜DVD26枚、全102話・解説集一冊2008監修ポニーキャニオン
近出殷周秦漢金文収録第一録』(2006、共編著、人文科學研究所)
後漢紀』(1999、共著、明徳出版社)
高麗史、暦志の研究』(1998、共著、東洋研究所)
注定付之事の研究』(1997、共著、東洋研究所)
三國志研究要覽』(1996、共著、新人物往来社)
華陽國志』(1995、單著、明徳出版社)
商卜文集聯』(1990、共著、省心書房)
藝文類聚訓讀付索引卷1〜16・45〜・80〜89』27冊(1990〜、共著、東洋研究所)
諸葛孔明語録』(1986、單著、明徳出版社)
など(詳細は「
拙書・拙文一覧」を)


履(從小學校至現在)歴

京都石清水八幡宮の別宮として、平安時代に出雲郷安田莊の鎮守たるべく設置された、出雲八舎二位安田八幡宮の神官の家に、三十五代目として生を受け、家學として六歳より漢文の訓讀や日本の古典を教わったが、嘗て先大父が中國で満鉄の仕事をし、先考が臺湾で教鞭を執っていた關係上、所謂中國的世界には、何ら抵抗無く入っていった。大學入學後は漢文訓讀の大家故原田種成博士より二十年以上に亘って直接訓導を受け、現在に至っている。

大學に在っては、漢文訓讀の故原田種成博士は言うに及ばず、中國禮學を故影山誠一博士、中國古代宗教學を故池田末利博士、中國哲學を故栗原圭介博士、金文學を進藤英幸教授、先秦諸子學を原孝治・岡田脩の両教授、四書を倉田信靖・萩庭勇の両教授、先秦文學を故小嶋政雄教授、古典文學を故竹田復教授、文言小説を内山知也博士、中國戯曲を故八木澤元博士、漢詩作法を故石川梅次郎先生、中國音韻學を故河野六郎博士、中國文字學を故中沢希男先生、中國現代文學を故飯田吉郎先生、中國史を故中嶋敏教授、中國文物美術史を故杉村勇造教授、中國語を故井上隆一教授、日本漢學を故猪口篤志教授、日本文化史を故高橋梵仙博士、日中比較文學を故藤野岩友博士、日本中古文學を須田哲夫教授、日本近世文學を萩原恭男教授、國語學を故佐伯梅友博士、日本言語學を鈴木康之教授、文章表現法を市井外喜子教授等各々斯界を代表する先生方より懇切丁寧に御教授賜わり、色々學べども何一つ物に成らず、誠に役立たずの不肖の學徒である。將に「雖師賢也而弟子不必賢也」の具體的見本以外の何者でもない。

以來、畏友大橋修一氏(元、埼玉大教授)・鈴木晴彦氏(日大教授)・澤田雅弘氏(大東大教授)らに引っ張られ、興味の赴くままあれやこれやと首を突っ込み、「知一則飽二」と言う氣ままな放蕩三昧の遊學を繰り返し、「書」は書かざれども「書」を語ると言う、身の程を辨えぬ愚かさもなんのその、ひたすら輕薄雜多な知識といかがわしい古玩とを賣り物にして、口糊をしのぐえせ文人學徒に成り果て、世の白眼視を浴びつつも今や居直りと矜持だけを頼りに、こそこそと世渡りする昨今である。知識は有れども學才は無く、古書・古物は有れども鑑識眼は無く、「無學而有識且無眼而有物」をモットーに學者の末席を汚しながら、辛うじて何とか大學なる館に生息している。

しかし、最近は己の輕薄さ(平成9年10月日本テレビ放映「明石家さんまの世にも不思議な名前物語パート3・曹操の項」に、劉 備及び司 馬 師の二役で出演や、平成16年6月フジテレビ放映「トレビアの泉」・平成21年3月朝日テレビ放映「就活のムスメ(学内通行人役)」)が學生諸君に見抜かれたらしく、冷たい視線(バカ・みっともない・大學の恥さらし・テレビに出るより勉強しろ等)を浴びる日々で、肩身の狭い辛い昨今である。だが何如にいい加減であっても、筋目の通らぬ事は大嫌いである。


新世紀(21C)に入り、半生を前世紀(20C)に過ごした男の餘生は、哀しく且つ辛い。社會の激變に附いて行けず、唯唯のたうち回るだけである。「人生五十年、下天のうちを・・」と言えば、殘年は將に夢幻の泡沫に過ぎず。後は何時・如何に散るかが問われているだけである。然らば縱令へ白眼を受くと雖も、己が信ずる道を棺桶担いで突き進むだけであろう。

心は人に繇らず

身は己に繇らず

例え如何に無粋・野暮・武骨・浮浪・阿惚であっても、物事の筋目だけは、何時でも何處までも、通し續けて行こうと思っている。

仁孝もて愆を蓋ふ

トップへ


(嗚呼宜乎、人是不能不變者也、嗟乎悲哉)

以下悲哀的寫真館

《六十代前半、老殘を晒し續けて、體重74kg時代。某學界に於て》

耳目も體躯も頭脳も全て老いた。最近やたらに過去(十代の終わり頃)の夢を見る。昔の若いダチが夢の中で囁く、「中ちゃん、もうええやろが、好きにしろよ」、學生時代のレコが言う「昔の中ちゃんなら、もっと粋に裁いていたわよ」等と・・・、思わず布團の中で涙が出る、でも老殘を晒し續けている。


《五十路後半、壺に嵌った悪徳骨董商、體重79kg時代。新研究室に於て》

「色に出にけり」とは、この事であろうか、良からぬ事を考えている嫌らしさが、垂れ下がった目尻に漂っている。ムフフフフ・・・


《五十路前半、雨滴櫻蘂春將逝、體重80kg時代。東松山校舎に於て》

黒のスーツに赤ネクタイ、銜え煙草にビニール傘、氣分だけは十代の終わり、痩せていれば様になる、デブではただの阿惚である。目指せ體重75Kg。


《五十路前、己が人生エトセトラ、體重80kg強時代。ジョナサンに於て》

20世紀の終わりと共に五十路、若い頃はやんちゃも悪さもした、修羅場も潜った、でもちょっと黄昏て疲れ果てた。結局人生は夢現の五十年、後は「所詮前世紀の男よ」と好き勝手に己が道を生きるまで。


《四十代中間、中年實感、體重76kg時代。漢學會大會に於て》

既にズボンのホックもジャケットのボタンも止められず、上に中國服をはおり何とかごまかしている。研究者らしく振る舞おうと、無理に己を納得させていた。


《三十代後半、再び學生氣分、體重68kg時代。京都の某寺に於て》

まだジーパンがはけた、學生と混ざっていても見分けは付けにくい、と本人だけが勝手に思い、一應真面目な教員を目指していた。


《三十代中間、夜の世界も亦楽し、體重65kg時代。赤坂の某夜會場に於て》

嘗てはこんな時代(黒服が似合う)も有り、赤坂・六本木と徘徊し昼と夜とを股にかけていたが、既に遠い遠い夢物語と成り果て、タキシードには黴が生えている。懐かしくもあり、哀しくもあり。


《三十代前半、一片侠骨未捨、體重63kg時代。短大に於て》

昔から軟弱(事勿れ主義)であった譯では決してない、若い時は一應それなりに侠(男)氣をもって對應(実際行動)していた時代も有ったのだが・・・。


《二十代後半、人生は波頭を越えて、體重60kg時代。臺灣の某所に於て》

先が何も見えない頃であったが、所詮人生は成るようにしか成らないと、なぜか青春を謳歌して遊びまくり、不思議と樂天的生活に浸っていた。髪の長さとワイドカラーの衿が時代を感じさせる。


《二十代中間、自堕落三昧、體重57kg時代。下宿の四畳半部屋に於て》

都會慣れした自堕落な生活から這い上がろうと過去を封印し、ただ勉彊こそが一番と愚かにも思いこんでいた。でも派手な生活が忘れられず、生意氣にもワインなんぞを飲みながら版本を讀んでいる。


《十代後半、初出し、體重55kg時代。東京の寫真館に於て》

雲州の果てから野望に燃えて上京、何事も疑ってかかり、「男は錢を稼いでなんぼよ」と信じ、肩で風切り躯を張った無頼の生活に、ひたすら突っ走っていたが・・・。


トップへ


[戻る]