〜《伯泉齋的プ ロ フ ィ ー ル》〜

My(Hakusensai) Profile


中 林 史 朗 (NAKABAYASHI SHIROU)

室 號・・黄虎洞、雅 號・・伯泉齋

生誕年・・歳星在庚寅

家廟地・・島根県避塵地・・蜂大珈琲

座右銘・・律己在我、處己在人・律己以秋霜、接人以春風


(從小學校至現在)

【技術的職人分野】・・・從1960年至現在(60年以上)
漢文訓讀技術(本音・・訓み屋の現役職人であり續けたい、童時の手習い)・・現職(訓讀 マイスター)

【専門的研究分野】・・・從1970年至2020年3月(50年間)
中國古代中世史・四川地方史(建前・・學徒の末席を汚す關係上、二十の手習い)
中國書誌學・版本史(趣味・・禄を食む立場上、三十の手習い)
日本漢文學史(趣味・・禄を食む立場上三十の手習い)
中國文化史陶磁器青銅器玉器(趣味・・禄を食む立場上、四十の手習い)
中國武侠小説・映畫史(趣味・・禄を食む立場上、四十の手習い)

【代表的拙書】・・・從1973年至2020年3月(47年間)
隋書 現代語譯 中國史書入門(2017、共監修、勉誠出版)
中國中世四川地方史論集(2015、單著、勉誠出版)
中國博物館100館の収蔵物に見る文化とその歴史〜DVD26枚、全102話・解説集一冊(2008、共監修、ポニーキャニオン)
近出殷周秦漢金文収録
、第一録(2006、共編著、人文科學研究所)
後漢紀(1999、共著、明徳出版社)
高麗史、暦志の研究(1998、共著、東洋研究所)
注定付之事の研究(1997、共著、東洋研究所)
三國志研究要覽(1996、共著、新人物往来社)
華陽國志(1995、單著、明徳出版社)
商卜文集聯(1990、共著、省心書房)
藝文類聚訓讀付索引、卷1〜16・45〜48・80〜8930冊(1990〜、共著、東洋研究所)
諸葛孔明語録(1986、單著、明徳出版社)
等々(詳細は「拙書・拙文一覧」を)

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《萬感の想いを込めて、満腔の謝意を表す》

令和二年三月を以て、二十五歳で助手を拜命以來四十五年に及ぶ大學教員生活が終了する。ただ漢文を讀む事しか能の無い小生如きに、研究者的環境を賜り、知足の誡も何の其の、自由氣儘な好き勝手放題を謳歌させて頂いた。寔に過分で幸せな大學教員生活であったと思う。我が身の身勝手さに對し、白眼を以て眉を顰めて舌打ちされ、冷笑・侮蔑を投げ掛けられつつも、今まで何とか御海容を賜わり、生き長らえさせて頂けたのは、〔昭和終焉・平成初期(20C末)〕と言う〔時代性〕と、〔母校(大學・大學院9年間)〕と言う〔情義性〕との二點に、大きく依據しての事であろう。一度でもその事に思いを致せば、大東に對しては、唯唯頭を垂れて恐惶平伏するのみで、衷心より満腔の謝意を表しても、決して表しきれるものでは無い。

想像だにしなかった事ではあったが、青天の霹靂とでも言える二十五歳での助手拜命は、好むと好まざるとに關わらず、從前の刹那的身勝手な無頼の生き方を、結果として一變させた。斯界の言葉を借りれば、「先師學恩の明を、傷つけん事を深く恐れつつ」と格好良くも言えるが、要は本來の己が性分から言えば、ただ「受けてしまった以上、恩義有る人々にヘタは打たせられねえ」との思いだけで、己が貫目を辨え筋目を守りつつ、表向きは、一見研究者然とした衣を纏っている様に、振る舞っていたとは雖も、内實は、中國學的好奇心に身を任せ、訓讀屋として走り續けた四十五年、であったと言えよう。其れが許容されたのは、將に大東中文なればこそであったと熟々思う。故に、何が有っても大東中文に對しては、深謝の念しか持ち得ないのである。

此れでやっと、恥多き我が身に過ぎたる肩の荷の分不相應な金看板(大學教授)が下ろせる、と思った所、圖らずも引き續き東洋研究所兼任研究員を拜し、今後も漢文を讀み續ける場を賜った。此れは、「漢文訓讀の職人」としては、望外の喜びである。因って、現職の「讀み屋・訓讀屋」として一生を終える機會を賜った關係諸士には、趨參拜眉叩頭頓首の謝意を獻げさせて頂く

以下に、冷汗浹背是萬斗の極ではあるが、瑕疵と悔恨塗れの訓讀屋人生、五十數年來の所感を一言。

 

《惜 別 辭(退泮宮表謝辭)

 

我駑才駄馬、縦令喰萬里糧而不能行一里也。猥以庸薄凡劣、深汚學徒末席。

迄今五十餘年、束脩無稱、卓鑒不内朗。統御無績、風任不外舒。加之幽根未蟠結、孤株將危絶。

固知才弱不可自彊、力微難以企及。如才行過汚文質無廉何。

嗟夫、才力是匱、何コ何能之有。

 

自非器揚同輩以抽榮於岱嶽、用同先人而振潁於荊峯、何以延足於儒林、挿手乎文苑。

是以雖纔冀垂冬日之温盡秋霜之戒、而此亦遂不能果矣。然則唯有耕山釣川之志耳。

 

俚諺云、巍巍焉秀峰棲一枝蜉蝣、洋洋乎大川浮一葦螘蟻。

善哉、善哉。蜉蝣又一生、螘蟻又一生、吾生亦一生。

若逢陽春至、秋葉再吐緑。況天地四海、無何處非我屋乎。

 

不自意、今一日垂乾坤之仁輒被信璽、茲二日降雲雨之潤廼賜殊寵。

タタ惶惶、日夜來襲我、戰戰慄慄、心氣無攸綏。就中存亡日鑒、成敗月陳。

雖心有慟天哭地之恐懼、而尚身存鞭驢叱狗之答酬矣。

 

人咸知鏡其貌而莫能照其身。既軼從心、未不踰矩。顧影慙形、流汗反側。

進匪顧己身、止無悟我才、不遜莫大於是矣。

 

雖然潛氣於洞庭而標一善足以驗風流、擬心乎泰山而存小讓足以弘進止。

聞道、身與煙消、名與風興、形可以暴、志不可凌。

今以鄙陋草身、將詠狂骨孑歩。故敢言、遠愧南董、邇謝馬班。

夜カ自大之言、欲嘲嗤則嘲嗤、欲罵詈則罵詈、云爾。

 

辭曰、

眼中無人兮胸底有矜兮、脳奧無耻兮姿態有俠兮、

白首浪虎喚風嘯月、高踏獨歩横行天下。

嗚呼、大東漢學邪、琢玉成器、亦勿違於昔談。

嗟乎、大東訓讀歟、振條響樹、將無絶乎千載。

勿兮勿兮、勿違乎、當勿違焉。

無兮無兮、無絶乎、應無絶焉。

                                                                                     己亥仲夏 識於黄虎洞   

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【退任後(令和2年4月)之獨言】

黄昏(寂寞)之令和

《令和時代》

嗟呼、やっと終わった、本當に終わった。長い旅路の果てとして、研究室に所蔵していた私物(中國關係書籍二萬册彊、漢學關係雜誌三千冊彊、版本・漢學者書軸・中國陶磁器・青銅器・玉製品・工藝品・武俠映画・ビデオ等々、中國文物關係七千點彊、総數三萬點彊)を全て賣却・寄贈處理し、入室時と同じく机一つの空間と爲し、二度と足を踏み入れる事の無い研究室の鍵を靜かに掛けた。

今、退任に當り、學生時代に於ける二人の恩師の言葉が、筆者の脳裏を走馬燈の如く駆けめぐっている。「原田先生曰く、中林、漢字で書いてあるものは何でも讀め、多讀と精讀だぞ、讀んだ數だけお前の知識が増えると思へ」、「影山先生曰く、中林君、文獻に額ずき學僕になりなさい、學僕ですよ、學問の下僕たる事を心懸けなさい」。果たして己は本當に「何でも讀んで來たのであろうか」、將又「學僕たり得たのであろうか」。悔悟と自責しか持ち得ぬ現状ではあるが、この答は何れ彼岸で直接お聞きする事になるであろう。

將と振り返れば實に長い長い大東生活であった。學生→大學院生兼助手→非常勤講師→専任教員、十九歳で大東の門に入り、爾来五十一年、昨今「人生百年」と言うが、將に半世紀を大東で過ごしたと言えよう。十代の終わり頃からあれやこれやと氣紛れ的・單發的に、好奇心の赴くまま一過性の雜多なシノギを種々經験しては來たが、基本的には幼稚園以來「學窓」なる世界を、一貫して歩み續けて來た事に成る。小生の如き我が儘身勝手な男が、よくぞ無事に此所まで來たもんだと、熟々思う。これも、昭和のアカデミズムの自由さと、八百萬の神々の御加護とであろうか。後は、六文錢を握り締めて、秋風吹く黄昏の中を彼岸に向かい、肅々と、ただ肅々と肅々と。

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《狂骨もて、心を去り、孑歩するは、仁人に非ず

因って

《己を律するに秋霜、人に交はるに春風》

《心は人に繇らず、身は己に繇らず》

故に

《己を律するは我に在り、己を處するは人に在り》

例え如何に無粋・野暮・武骨・浮浪・阿惚であっても、物事の筋目だけは、何時でも何處までも、通し續けて行こうと思っている。故に、「心は人に繇らず、身は己に繇らず」の境地で過ごしたい。

《仁孝 愆を蓋ふ

古來「孝もてを蓋ふ」と言うが、生來「仁」にも「孝」にも無縁で「愆」多き半生を振り返れば、今更何が「仁」で何が「孝」なのか、将に棺の「蓋」をした後に分かるであろう。

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【退任前(令和2年3月)之閑話】

追憶(夢幻)昭和・惜別(泡沫)之平成

《昭和時代》

平安朝中期の寛コ二年(1045)に京都石清水八幡宮の別宮として、出雲郷安田莊の鎮守たるべく設置された、出雲八舎二位安田宮内八幡宮(品陀和氣命を祭神とし、帯中日子命・息長帯比売命・多記理毘売命・市杵嶋比売命・多記都比売命を合祀神とする)の神官の家に、三十五代目として生を受け、先大父より家學として六歳頃から漢文の素讀や日本の古典を教わり、中學時代に漢文の叙事的且つ簡潔的文體に何となく興味を持ち、嘗て先大父が中國で満鉄の副參事をし、先考が臺湾で教鞭を執っていた關係上、所謂中國的世界には、何ら抵抗無く入っていったが、當時は單に漢文を眺めているに過ぎなかった。しかし、大學入學後は漢文訓讀の大家原田種成博士より二十年以上に亘って、罵声と叱責が降り注ぐ中で訓讀の基礎や讀回しの技を直接叩き込まれ(一種の職人修行)、何とか現在に至っている。

大學に在っては、漢文訓讀の原田種成(先輩)博士は言うに及ばず、中國禮學を影山誠一(先輩)博士、中國古代宗教學を池田末利(先輩)博士、中國哲學を栗原圭介(先輩)博士、中國哲學概説を宇野精一博士、先秦諸子學を進藤英幸(先輩)、『十八史略』を岡田脩(先輩)教授、『四書』を倉田信靖(先輩)萩庭勇(先輩)両教授、中國文獻學を麓保孝博士、宋代易學を今井宇三郎博士、先秦文學を小嶋政雄教授、古典文學を竹田復教授、文言小説を内山知也博士、中國文藝思潮を目加田誠博士、『文心雕龍』を戸田浩暁(先輩)博士中國戯曲を八木澤元博士、中國現代文學を飯田吉郎先生、漢詩作法を石川梅次郎(先輩)笠井輝男(先輩)兩先生、中國音韻學を河野六郎博士、中國文字學を山田勝美(先輩)博士、『説文解字』を中沢希男先生、宋代史(選擧志・宋論等)を中嶋敏教授、中國文化史(陶磁史)を杉村勇造教授、東洋書畫論を毛利和美(先輩)先生、漢文法を柳町達也(先輩)先生、金石學を田邊豊教授、書學と篆刻を伏見仲敬教授、漢字教育法を石井勲(先輩)先生、中國語を井上隆一(先輩)吉村五郎(先輩)兩教授、日本儒學史を猪口篤志(先輩)教授、日本漢詩を松下忠博士、日本文化史を高橋梵仙博士、日本文學特殊講義(平安朝の漢詩文)を藤野岩友(先輩)博士、日本中古文學(伊勢物語)を須田哲夫教授、日本近世文學(好色五人女)を萩原恭男教授、國語學を佐伯梅友博士、日本言語學を鈴木康之教授、文章表現法を市井外喜子(先輩)教授等、更に學外に在っては、全く面識も無い他校の一學生に過ぎないにも關わらず、親しくお声を懸けて頂き、學問的な話をお聞かせ賜わった、吉川幸次郎博士曽我部静雄博士長澤規矩也博士波多野太郎(先輩)博士山崎道夫(先輩)先生、亦た幸いにも貴重なお話をお聞かせ賜った、二十代頃の臺彎の孔徳成老師錢穆老師蘇雪林老師、三十代頃の中國の唐長孺老師々、各々斯界を代表する先生方より懇切丁寧に御教授賜わり、色々學べども何一つ物に成らず、誠に役立たずの不肖の學徒である。將に「雖師賢也而弟子不必賢也」の具體的見本以外の何者でもない。

以來、畏友大橋修一氏(元、埼玉大教授・同輩)鈴木晴彦氏(日大教授・後輩)澤田雅弘氏(大東大教授・後輩)らに引っ張られ、「書」は書かざれども「書」を語ると言う、身の程を辨えぬ愚かさもなんのその、興味の赴くままあれやこれやと首を突っ込み、「知一則飽二」と言う氣ままな放蕩三昧の遊學を繰り返しひたすら輕薄雜多な知識といかがわしい古玩とを賣り物にして、口糊をしのぐ似非文人學徒に成り果て、世の白眼視を浴びつつも今や居直りと矜持だけを頼りに、こそこそと世渡りする昨今である。知識は有れども學才は無く、《古書》・《古物》は有れども鑑識眼は無く、「無學而有識且無眼而有物」をモットーに學徒の末席を汚しながら、辛うじて何とか大學なる館に生息している。

《平成時代》

しかし、最近は己の輕薄さ(平成9年10月日本テレビ放映「明石家さんまの世にも不思議な名前物語パート3・曹操の項」に、《劉 備》及び《司 馬 師》の二役で出演や平成16年6月フジテレビ放映「トレビアの泉」・平成21年3月朝日テレビ放映「就活のムスメ(學内通行人役)」)が學生諸君に見抜かれたらしく冷たい視線(バカ・みっともない・大學の恥さらし・テレビに出るより勉強しろ等々)を浴びる日々で、肩身の狭い辛い昨今である。だが何如にいい加減であっても、筋目の通らぬ事は大嫌いである。

新たな世紀(21C)に入った平成の中頃から、社會・教育現場を問わずコンプライアンスの遵守が聲高に叫ばれる様になったが、其の聲とは裏腹に、善悪に關わらず個人情報保護法とも相俟って、敢て指摘され無い限りは黙って見過ごすと言う、何か或る種の無關心的姑息な隠蔽的風潮が徐々に浸潤して來た様で、黙して語らざる事が、賢明と言うか小利口と言うか、將に「沈黙は金」の社會相になった氣がする。しかし、表の社會では個人情報保護を掲げるものの、ネット社會では逆に、匿名性を逆手に取って、何か有れば個人情報を暴き晒す傾向が見られ、恰も混沌の海を彷徨っているが如き時代に感じられる。

平成最後の日曜日に、湯島の聖堂で行われた孔子祭(斯文會)の後、尚歯會より古稀(數え年で七十歳)と言う事で、慶祝の宴に招待を受けた。唐の杜甫は「古來稀なり」と言っているが、今や「稀」どころか逆に「うじゃうじゃ」である。昨今人生百年と言うが、參加者を見回すと、百二歳を筆頭に矍鑠たる九十歳代・八十歳代が多く、七十歳など將に小僧でしかない。斯界では「五十・六十まだヒヨコ」と喧傳されていれば、七十で小僧、八十で壮年、九十で中年、百で老年と言う事であろうか。誠に空恐ろしい事ではあるが、何か日本の超高齢化社會の一端を見せつけられた様で、一瞬己が將來の經濟的不安と體力的悲哀とが交錯した。

然りと雖も、尚歯會に在っては「小僧」にしか過ぎなくても、世間一般の現實社會に在っては所詮「老人」である。頭脳も體力(特に反射神經)も確實に衰退に向かっている。今後は「俺もまだ若い」と言う願望的意識と、「脳や體が動かん」と言う現實的實態との、ギャップの狭間で右往左往の日々を過ごす事になるのであろう。時代も、具體的變化や一體何が慶祝なのか判然とせぬまま、即位改元と言う一種の國民的総祭りの喧騒の中で進み、二日後には確實に「平成」から「令和」となる。

因みに、餘談ではあるが、戰後の日本國憲法の下に在っては、法的根據に基づく元號は「平成」と次の「令和」とだけである。我々が當然の如く使用して來ていた「昭和」は、戰前はともかく戰後は、法的根據を失った元號なのである。


新世紀(21C)に入り、何か有形有言の諸規制を彊める學問的研究環境の中で、前世紀(20C)の無形無言の自由闊達な研究環境の下で半生(五十年)を過ごした男の餘生は、哀しく且つ辛い。放談高言の野武士的學者集團社會で在った大學が、ふと見回すと静黙愼言の研究者的教員集團社會に變貌して來た様に感じられ、初手から自己規制や忖度とは無縁な身に於いては、社會の激變に附いて行けず、唯々のたうち回るだけである。

「人生五十年、下天のうちを・・・」と言えば、殘年は將に夢幻の泡沫に過ぎず。後は何時・如何に散るかが問われているだけである。然らば縱令へ白眼・冷笑を受くと雖も、己が信ずる道を棺桶担いで愚直に突き進むだけである。それが、昭和・平成・令和と三代の世渡りを經たと雖も、所詮昭和の殘穢たるに過ぎない我が身の置き所、と言うものであろう。

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《嗚呼宜乎、人是不能不變者也、嗟乎悲哉》

【以下悲哀的寫真館】

《七十直前(平成30年頃)、未だ悟らずやんちゃ心が疼き、體重75kg時代。於都内某所》

思えば長い旅路であった。將と振り返れば餘人には語れぬ恥多き所業・悪行が、一瞬走馬燈の如く脳裏を驅け巡る。殘餘二年、大過なく肅々と去り行く可しと切望してはいるが、將に人生とは「天の配剤」、偶々米軍關係者が払い下げ品を送って來た爲、何故か心の奥底で十代のやんちゃ心がムズムズと蠢いて・・・。


《六十半ば(平成28年頃)、俗氣に塗れ唯衰窮を待つのみ、體重76kg時代。於板橋校舎》

心が折れた老殘の駄馬には、多事多難の昨今ではあるが、筋目だけは通し續けて己の立ち位置だけは守らねば、昔のダチに彼岸で會わせる顔が無い、等と十代の氣性は七十前になっても變らず、成長も悟りも無く些か情けなくなる。本當は枯淡の境地になりたいと、つくづく思っているのだが・・・。


《六十代前半(平成25年頃)、老殘を晒し續けて、體重74kg時代。於某學界》

耳目も體躯も頭脳も全て老いた。最近やたらに過去(十代の終わり頃)の夢を見る。昔の若いダチが夢の中で囁く、「中ちゃん、もうええやろが、好きにしろよ」、學生時代のレコが言う「昔の中ちゃんなら、もっと粋に裁いていたわよ」等と・・・、思わず布團の中で涙が出る、でも老殘を晒し續けている。


《五十路後半(平成20年頃)、壺に嵌った悪徳骨董商、體重79kg時代。於新研究室》

「色に出にけり」とは、この事であろうか、良からぬ事を考えている嫌らしさが、垂れ下がった目尻に漂っている。ムフフフフ・・・


《五十路前半(平成15年頃)、雨滴櫻蘂春將逝、體重80kg時代。於東松山校舎》

黒のスーツに赤ネクタイ、銜え煙草にビニール傘、氣分だけは十代の終わり、痩せていれば様になる、デブではただの阿惚である。目指せ體重75kg。


《五十路前(平成10年頃)、己が人生エトセトラ、體重80kg彊時代。於ジョナサン》

20世紀の終わりと共に五十路、若い頃はやんちゃも悪さもした、修羅場も潜った、でもちょっと黄昏て疲れ果てた。結局人生は夢現の五十年、後は「所詮前世紀の男よ」と好き勝手に己が道を生きるまで。


《四十代中間(平成7年頃)、中年實感、體重76kg時代。於漢學會大會》

既にズボンのホックもジャケットのボタンも止められず、上に中國服をはおり何とかごまかしている。研究者らしく振る舞おうと、無理に己を納得させていた。

《以後、平成時代》


《以前、昭和時代》

《三十代後半(昭和63年頃)、再び學生氣分、體重68kg時代。於京都某寺》

まだジーパンがはけた、學生と混ざっていても見分けは付けにくい、と本人だけが勝手に思い、一應真面目な教員を目指していた。


《三十代中間(昭和60年頃)、夜の世界も亦楽し、體重65kg時代。於赤坂某夜會場》

嘗てはこんな時代(黒服が似合う)も有り、赤坂・六本木と徘徊し昼と夜とを股にかけていたが、既に遠い遠い夢物語と成り果て、タキシードには黴が生えている。懐かしくもあり、哀しくもあり。


《三十代前半(昭和57年頃)、一片侠骨未捨、體重63kg時代。於短大》

昔から軟弱(事勿れ主義)であった譯では決してない、若い時は一應それなりに侠(男)氣をもって對應(實際行動)していた時代も有ったのだが・・・。


《二十代後半(昭和53年頃)、人生は波頭を越えて、體重60kg時代。於臺灣某所》

先が何も見えない頃であったが、所詮人生は成るようにしか成らないと、なぜか青春を謳歌して遊びまくり、不思議と樂天的生活に浸っていた。髪の長さとワイドカラーの衿が時代を感じさせる。


《二十代中間(昭和49年頃)、自堕落三昧、體重57kg時代。於下宿部屋》

都會慣れした自堕落な生活から這い上がろうと過去を封印し、ただ勉彊こそが一番と愚かにも思いこんでいた。でも派手な生活が忘れられず、生意氣にもワインなんぞを飲みながら版本を讀んでいる。


《十代後半(昭和44年頃)、初出し、體重55kg時代。於東京某寫真館》

雲州の果てから野望に燃えて上京、何事も疑ってかかり、「男は錢を稼いでなんぼよ」と信じ、肩で風切り躯を張った無頼の生活に、ひたすら突っ走っていたが・・・。

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